顔真っ赤なネイチャさんに「お、お馴染み1着ぅ……」と言わせるまで 作:東京競馬場
「それじゃあ、ナイスネイチャの初勝利を祝ってぇ!!!」
旅館のお座敷のような広間の中央で、盃を掲げ叫ぶイイ笑顔の青年に続いて歓声が弾けた。
『カンパアアアアアアアアアアアイ!!!!』
設置された長いテーブルは四本。そのどれもに人人人。
見渡すほどの広さの大広間は今や、どこもかしこもを人で埋め尽くす大宴会場と化していた。
どのテーブルにも焼き鳥だの惣菜だのが立ち並び、皆が皆ニッコニコでビールの瓶をぶち開ける。
開始の大号令を放った青年はといえば、あっという間にそれぞれのテーブルを回ってビールの酌に大忙し。
時たま何やら言葉を交わしては、ジョッキを打ち合わせて酌の相手と高笑い。
「やー-めでたい!! んっとにめでたい!!! 良い席作ってくれたなあんちゃん!」
「ふははははは!! そらもう俺の功績じゃねーよ旦那!!」
「違いねぇ!! ネイちゃんの力だ!! だっはっは!!」
「ま、ワシらは信じとったからな。ネイちゃんが負けるはずなかろうて」
「おいおいおいおい、良いのかそんなこと言って。あんた昨日眠れなかったんだろ? 奥さん言ってたぜ?」
「――千代子!! 千代子貴様!! 神谷に何を吹き込んだ!!」
「あら本当のことじゃないうふふ」
「あの子はなあ、あの子は本当に一生懸命だったんだ。報われる日が来て、本当に、本当に良かった……うう……ぐすっ……」
「あーもう泣くな泣くな、んなことしてたらここから数年水分もたねえぞ?」
「くすんっ……トレーナーさん、そいつぁどういう……」
「んなもん、あいつの栄光はこっからだって話に決まってんだろ」
「っ……お、うあああああん!! 良か゛った゛ね゛ぇ゛ネ゛イ゛ち゛ゃ゛ん゛!!」
主賓の少女はようやく我に返って叫んだ。
「なんじゃこりゃああああああああああああああ!!!」
お誕生日席に座らされ、呆然としていた彼女の復帰。
さっと気付く辺りはプロ意識か、神谷はゆるりと振り向いてやってきた。
「あ、お前はお酒ダメだからな」
「そこじゃないそこじゃないそこじゃないそこじゃない」
宴の席だというのに、赤ら顔だらけの中で一人だけ青ざめたネイちゃんもといナイスネイチャ。
勝手に手元の紙コップに注がれていくオレンジジュースに、サイコホラー映画でも見ているような狼狽ぶりを見せる彼女は、震える口で自らの担当たる神谷を見上げた。
髭眼鏡にパーティ帽子。せっかくの悪くない顔が台無しであった。
「どうした?」
「誰よりもはしゃいでるし!!!」
「そりゃまあ」
オレンジジュースを注ぎ終わった彼は、ぽりぽりと頭を掻いて言った。
「実はこの度、俺の担当してる子がメイクデビューで勝利を飾りましてね」
「………………聞くだけ聞きましょうか???」
それに該当するウマ娘に、流石の彼女も心当たりは一人しかない。てか自分だ。それ以外であっていいはずがない。もし万が一、億が一にも違ったら自分はどんな暴挙に出るか分からない。
「もともと勝利自体は分かり切ってたんで、祝勝会については当然予定してたんだが、まあ大差ってのは俺としても舞い上がるに値するもんでな、これが」
「……もう少し聞いてやろうじゃないか」
腕組みをするナイスネイチャ。ちょっとだけ混乱の中で機嫌だけが元気を取り戻す。
「んでまあ、皆さんの協力のもとこうして祝いの席が出来上がったとそういうことで」
「はいストップ」
流石におかしかった。
「ああ、止まるが。どうした?」
「……つかぬことをお聞きしますが」
半眼、ジト目。
正面のバカはしゃぎするトレーナーから、ぐるりと宴会場を見渡すナイスネイチャ。
もう、誰も彼も知っている顔である。順番に八百屋さん酒屋さん肉屋さん焼き鳥屋さん金物屋さん……エトセトラエトセトラエトセトラ。
「――どうしてこんなことに???」
自分の記憶が正しければ、まだ商店街のみんなとトレーナーを引き合わせてはいないはずだ。
今までナイスネイチャは、勝ちたい理由その気持ちに向き合うことは出来ず――ただ勝つためのトレーニングを積んでいた。
神谷を信じる他がなかった。今の自分では、みんなに合わせる顔がないとそう思っていたから。
商店街の人たちと彼に繋がりがあるということは知っていた。豆腐屋の車借りてたし。
でもそれは単なる神谷であり、彼がトレーナーであることも、ましてや自分のトレーナーであることも打ち明けたりはしていなかった。
「え、だってナイスネイチャが今日走ること、昨日のうちにみんなにぶっちゃけてたし」
「なんですと???」
「うちの担当が走るんですよーっつったら、ネイちゃんじゃねえか! とまあとんとん拍子でな。言われてみりゃお前、商店街で姉ちゃん姉ちゃん言われてたもんな。っつかアレ、ネイちゃんってあだ名だったんだな」
「…………なる、ほどぉ」
要は単純に、自分の担当が商店街と仲良しなのを知っていたと。
そして、シンプルに応援に呼んだ、と。
「ちなみにお前に言わなかったのは、要らんプレッシャーになるからだな」
「……それは、そうだけど」
唇を尖らせるナイスネイチャ。
嬉しい気持ちはある。祝ってくれることそのものが幸せなのは確かだ。
でも、それはそれとして仲間外れにされているような寂しさは隠しようもない。
「――神谷ァ!!」
と、そこで豆腐屋さんのデカい声が響き渡る。
「なんじゃいデカい声出してからにー」
ナイスネイチャの隣にしゃがんでいた神谷が立ち上がれば、酒瓶を片手に出来上がった豆腐屋さんが叫ぶ。
「酌ばっかしてんと、お前も飲まんかい!!」
「まーたアルハラかい。あんたもいい加減にしねえと肝臓ぶっ壊れんぞ?」
すたすたと、そちらへ歩いていく神谷。
「余計なお世話じゃ、なあ!!」
「ああ全くだ!! 神谷お前、もっとはしゃげ! もっと楽しめ!! 俺たちばっかり浮かれてんじゃあ、バカみたいじゃねえか!!」
がははは、と笑う二人組の酔っ払いに、神谷は口角を上げて。
「あんたら目ぇついてねえのか、俺のこのふざけた格好以上のはしゃぎがあるかってんだよ」
「恰好だけなら誰だって出来らぁな!!」
「ちっ、年寄りは目だけは肥えてて面倒だぜ」
「聞こえてんぞ神谷ァ!!!!」
げらげらと笑いの絶えない中、神谷は軽く息を吐くと、ちらりと後ろを振り返った。なんともまあ、祝い席の主役らしからぬ曖昧な表情の担当がちょこんと座っている。
「ってか盛り上がるならお姫様あってのことだ。なんとネイちゃん、まだ勝った実感がねえらしいぜ」
「ああん!? そりゃテメエの怠慢だろうが!! ちくしょう、酒飲んでる場合じゃねえ!!」
豆腐屋と、連れの魚屋が立ち上がり、どたどたとナイスネイチャの方へ向かっていく。
「ネイちゃんおめでとおおおお!!」
「ああ、これまで頑張った甲斐があったなァ!!」
「うわなに!? ちょ、早くもお酒くさい!!」
テンパる彼女の悲鳴に、広間の大勢が振り返る。
「お、なんだよ席立っていいのかよ」
「主役に挨拶も無しってわけにゃいかねえ」
「あらあら大人気ねえ」
あっという間の出来事だ。
「わ、ちょ、ほんと、待って!」
ナイスネイチャは多くの酒臭い大人に取り囲まれて、やんややんやと祝福の言葉で殴られ続ける。
「あの、もう、と、トレーナーさん!!」
おめでとう。信じてた。ありがとう。頑張ったね。
もがき、助けを求めるように首を振っても、どこにも"トレーナーさん"の姿はなく、代わりにあるのはみんなの笑顔。
「――ネイちゃん、本当に良かったね!!」
「ぁ……」
言えなかった。
頑張ってきたことを。実を結ばない努力の話を。心が折れかけた経験を。
今まで打ち明けることが出来なかった。
たくさんの悔しさと己への失望と、無力感。
きっといつか、胸を張って報告出来る日を夢見ていて。その日になったらようやく自分を許せるって、みんなとのレースの話を避けるようになって。
そうしていつしか、遠ざけていたみんなとレースの繋がり。
それが今ようやく、胸の中に熱く脈打つ。
「……ああ、うん」
許して、貰えた。許されて、いいんだ。
アタシは――。
「――みんな、聞いてください」
ぽつりと呟いた言葉は、決して大きな声ではなく。
もみくちゃの、寄ってたかった祝福の嵐の中でほんのささやかな船乗りの一声だったけれど。
それでも凪のように静まった喧騒に、ナイスネイチャはみんなの優しさを感じて目元を拭って、それから言った。
「アタシ、トゥインクルシリーズ頑張るから」
だから。
「応援、宜しくね!」
一瞬の静寂。
「なんかまずったかな」と焦る彼女の気持ちを、圧し潰すように。
爆発するような歓声が、大広間に響き渡った。
されるがままに撫でられ背を叩かれ揺さぶられる中で、彼女の目にようやく見えた、自分だけのトレーナーさんは。
小さく口角を上げて、大広間から去っていく。
髭眼鏡越しのウィンクは、実にかっこ悪かった。
今頃、ナイスネイチャはようやく心を現実に追いつかせているだろう。
そう思いながら、宴会場の庭先で静かに星空を見上げていた。
髭メガネとパーティ帽子といったパーティグッズは、軒先に置き去り。
社交的なふるまいや、盛り上げ役としての仮面と一緒に捨て去って。
神谷は一人ポケットに手を突っ込んで、背に賑やかな人々の営みを感じながら、十二月の寒空に、透き通るような美しさを感じてただ呆けていた。
「……なんとか、なったな」
零れたのは、誰にも告げることの出来ない己の中の不安だった。
『メイクデビューしくじったことねーんだよな』
フランスの話だ。
『自分のウマ娘を信じている』
フランスの話だ。
『一着を取らせるのは、トレーナーの仕事だ』
フランスの、話だ。
自分の成功体験は――否、ウマ娘に関わるトレーナーとしての経験は、その全てがフランスでの話だ。
日本の芝でのやり方も、レース場の戦略も、きっと自分は他のトレーナーより遅れている。
無論勉強は積み重ねてきた。研究もしてきた。先駆者たちの考察も全て、今も学びの中のことだ。だがそれは、他のトレーナーより長じているわけではない。
チームを組むことができないと言ったのは、謙遜でもなんでもない。
己が、育てるべき相手と向き合って突き詰める限界を、彼なりに見定めていたというだけの話だ。
だから、メイクデビューで懸っていたプレッシャーは、走る本人に比肩していたと言っても何ら過言ではなかった。
虚勢とまでは言わない。信じているのは本当だ。
だが、人の目から見えているほど自信に満ち溢れていたわけではない。
もしも自分の力が及ばなければ。彼女の走りに、陰りがあれば。
それは己の責任である――などと、簡単に口にすることさえ許されない。
なぜならば。人から見える自分は自信に満ちていて、負けるはずがないと心の底から信じていて。そして何より、実績がある。
それが担当のウマ娘を後押ししてくれるならいい。
だが、もしも万が一失敗すれば、それらはとたんに自分の担当する彼女に牙を剥く。
期待に応えられなかったのは己の方だと責めるだろう。そうなれば、トレーナーのせいで走れなくなる、最悪のケースの出来上がりだ。
それだけは絶対に避けねばならないが、かといって彼女に最高の走りをさせるためにはトレーナーは"絶対"でなければならない。
メイクデビュー前の子には、信じる指標がトレーナー以外にないからだ。
信じる者に、絶対大丈夫だ、と言われる以上の安心がこの世にあるだろうか。
天気予報のはずれに怒るのは、昨今の天気予報の精度を人が信じているからだ。
天気予報よりも絶対でなければならない己の立場は、決して簡単なものではないのだ。
だからきっと。
今日の結果に誰よりも安堵しているのは神谷自身。
煽られても頑なに酒を入れようとせず、はしゃいだそぶりだけを見せていたのはひとえに、酒を入れたら何を口走るか分からない己を恐れていたからだ。
「勝負に絶対は無い。信じるべき材料をこれでもかと揃えても、百パーセントにはならない。おっかねえもんだぜ、レースってのはよ」
だからこそ、ウマ娘一人に背負わせることが出来ない。トレーナーという存在がそばに居る。それが、この世界でのレースの価値。
彼らが高給取りで、レースに大きな賞金がかかる理由そのもの。
中でもこの男が、大きく中央から期待を寄せられ、理事長からの後押しを受けるに値する理由であった。
「楽しい。楽しいが……一歩踏み外せば奈落行き。んっとに……しんどい話だ」
――不安はある。心配もする。人間である以上、自信というものに上限はある。
「……はぁ。ったく。俺が揺らいでどーすんだ。素面の癖に」
こんな情けないツラを、担当に見せるわけにはいかない。
そう、思ったその時だった。
「……揺らいだ、って、なに?」
息を飲んだ。
振り返った。
そこに、彼女が立っていた。
さっと血の気が引き、瞬時に頭を回す。
「……おいおい、主賓が抜けてきて良いのか?」
肩をすくめてみれば、上からケープを羽織ったナイスネイチャは手を皿のようにして気の抜けた表情。
「やー、みんなグデグデでねー」
「あーらら、そうかよ。意外だな、結構賑わってっから気付かなかったわ」
彼女越しに見える障子の向こう。明かりが灯された温かな宴会場では、主賓の居ぬ間もどんちゃん騒ぎ。酒がある程度入れば、確かに宴会の名目なんざただの口実かと一人神谷は納得した。
納得して、後悔した。
みんなあんなにナイスネイチャのことが好きならば、この席で彼女を放っておくはずがなかろうと。そんな読みが外れたことと。
どのみち彼女の居る場で、気を抜くのではなかったと。
「……あー、冷えるぜ? 一応ちゃんと、暖かい恰好はしてるみてえだけど」
「分かってるよ。それを言うなら、トレーナーさんも。風邪ひかれたら困るんだからね?」
「はは、そりゃそうか」
肩に羽織る可愛らしいケープに、少し神谷は目を細めた。ナイスネイチャは今日、レース場から自分とともにそのままここに来た。
こんなもの持ってたっけ、と。
ただ、そんな疑問を口にしてだらだらと会話を続けることは出来なかった。
「それより、さ」
ざ、と外履きで砂利の庭へ足を踏み入れた彼女は、神谷の隣に並び立って空を見上げた。
「さっきの……聞いても良い?」
「妙に掘り下げてくるじゃねえか。俺の将来設計の話だよ。お前が気にすることじゃねえさ」
「……」
優しく、お世話焼きな子ではある。
でも、こういう風に言えば踏み込んでこられない、そういう形の優しさもある子だと分かっていた。だからそう言って、多少からかって笑い合えば終わりだと。
そんな風に計算して告げた言葉にしかし、返事はない。
「ね、トレーナーさん」
その声のトーンに幾分か真面目なものが混ざっていて、神谷は少し目を細めて顔を向けた。
ナイスネイチャは星々を眺めたまま、白い息を天に上らせて。
「トレーナーさんが優しいことくらい、分かってるよ。アタシのやる気のために、凄く気を遣ってくれてることもさ」
「……」
「正直、ちょっと恥ずかしいくらい。やめてほしくは……無いんだけど。でも、アタシってほら、そこそこ系ウマ娘なわけでして。トレーナーさんのほめてくれる言葉を、全部鵜呑みに出来るほど、自信無い」
だからね、と視線を神谷に向けて。
「アタシのことで悩んでるなら、しょーがないかなって」
そう、困ったように笑う彼女に、神谷は今度こそ過去の己を呪った。
首を振り、殊更さらりと答える。
「だから違うっての。お前のことで俺が悩むようなことなんざ一つも無いさ。どんな思いでお前のこと口説いたと思ってんだ? 俺はお前ならすげえことが出来るって思ってたから――」
「分かってる、分かってるってば」
わたわたと手を振る彼女の照れも、どうにも控えめで。いつもなら切り上げて別の話にするか、逃げ帰るかの二択だというのにどちらも無く。
普段と何かが決定的に違うことに、神谷は僅かな苦さを感じた。
「ありがとね、トレーナーさん。アタシが、みんなにまたこうして胸張って会えたのは、貴方のおかげだから」
「そりゃお前の頑張りあってのことだ」
「トレーナーさんは、そう言うって分かってたけどさ」
にこにこと、笑み。ただ、この彼女の表情を、神谷は見たことがなかった。
いつになく強気で、頑なで、何かを譲るまいと。そんな意志さえ籠った目。
なんだ。何が彼女をそこまでさせたのかと、神谷が悩むよりも先にその答えは、ほかならぬ彼女の口から零れ出た。
「
その言葉に、神谷は目を見開いた。
先ほどの宴会場でのやり取りが甦る。
酒を飲めと、面倒な絡み方をしてきたあのおやじ。
しかし確かに言っていた。もっとはしゃげ、もっと楽しめと。
「ちっ、年ばっか食いやがってあの爺……」
余計なことを、と神谷は思う。
なまじ年食って人の心の内を見透かす力があるだけたちが悪い。
それでうちの担当の心に傷でもつけたらどうするんだと、トレーナーとしての経験が訴える。これだから素人はと、すぐにでも宴会場に戻ってどなりつけてやりたい気持ちをぐっと堪えて。
「あれだろ。爺は俺みてえな若造に説教の一つでもして、偉ぶった気になりてえだけだろ。んなもんいちいち気に病んだって仕方ねえさ」
「……トレーナーさん」
少しだけ眉を下げる彼女に、これ以上調子を下げるようなことはしたくない。
神谷は努めて笑って言った。
「ま、気持ちは嬉しく思っとくよ」
そうして、円満なしめくくりを。
だが、そんな願いはほかならぬ目の前の少女によって、静かに断ち切られた。
「教えてよ」
踵を返そうとした、その一歩を踏みとどまって神谷は振り返る。
「……何をだ? 俺の将来設計か?」
「っ」
小さく唇を噛んで俯きかけたナイスネイチャは、しかし毅然と神谷を見上げて。
「じゃあ、それも聞かせてよ。アタシも、知っておきたいし」
「……へえ。まあいいぜ、そしたら――」
「でもそれは、後でいいかな」
ほんの僅かに、神谷の眉が動いた。
「アタシが聞きたいのは、さっきのことだよ」
「……」
「揺らいだっていうのは、アタシのことでしょ?」
詰め寄るような視線に、神谷は一度目を閉じた。
さてどうしたものかと思考を巡らせる。
けれど。
「――俺が揺らいでどうする、とは言わないよ。自分の将来設計に」
「……そうかもな」
ナイスネイチャは、少しだけ寂しそうに眼を逸らす。
嘘を吐かれていたことは分かった。分かったけれど、それは多分神谷なりに自分を守ろうとした結果だと、これまでの経験が物語る。
でも、さっきも言った通りだ。
ここまで来られた。商店街のみんなと、また笑い合うことが出来た。
それは全部、今まで頑張ってくれた、隣に立っていてくれた人のおかげ。
「……言えないのは、アタシのためだよね」
「いや? 俺が恥ずかしいからだ」
「頑固者めぇ……」
ぐぬぬ、とナイスネイチャは歯を噛んだ。
どうしようかと目を伏せて、それからもう一度彼を見上げれば。神谷は神谷で、いつも通りの優しい瞳でナイスネイチャを見やっている。ただきっと、その裏で多く何かを考えていることは――不思議と分かった。
それはきっと、これまで会ってきた、積み上げてきた絆のおかげで。
「じゃあ、もういいよ。勝手に話すからさ」
「……」
「――アタシはトレーナーさんが居なかったら、ここまで来られなかったんだよ。ほんとに、感謝してるんだ。正直まだ、夢みたい」
思い返すのはかつてのこと。
出会うまでの思い出は、今もまだ笑い話に出来るほど消化しきれていない報われない苦しみに藻掻いた記憶。
出会ってからはまた、あまりの幸運に己の人生の総運量なんかを疑った。そして、専属に誘われた夜のことは、今も昨日のことのように思い出せる。
なんなら、忘れないように日記に記した。墓まで誰にも見せずに持っていく所存である。メジロドーベルに見つかって漫画化されるのはまた別の話だ。
「だから、だからさ」
「……だから?」
あまり続きを聞きたくなさそうに。
それでも、ここで会話を切る選択肢がなく、神谷は少し諦めたように問いかけた。
何が飛び出すのかと、僅かに恐れるような仕草は正直心に来る。
担当ウマ娘とその専属トレーナー。
であればこそ仕方のないことで、そうであるからこそ上手く回っていたはずの歯車に、手を付けるのは怖いことだ。でも、その歯車が、随分と錆びついてしまっているのを見て見ぬふりも出来なくて。
壊れないことを祈り、信じて。
単なる担当ウマ娘では踏み込むべきでない領域に、彼女はきゅっと口元を引き結んで踏み出した。
「アタシばっかり貰ってるのは、もう嫌なんだ」
少しだけ、神谷の目が見開かれる。
「アタシ、本当の本当にダメだったんだよ。ダメになってた。トレーナーさんが居なかったら今でも誰も担当なんかついてないし、運よくどこかのチームに入れても、メイクデビューでこんな成績残せなかった」
なにより。
「キラキラしたい。テイオーに勝ちたい。そんな大それた目標を、口にすることさえ資格がないって、そう思ってたんだ。それが今、なんですかこれは」
ずい、と拳をマイクのように突き出して、神谷に向ける。
「――なんですか、ってなんだよ」
「え、あ、それは」
少し勢い余ったらしい。照れに表情を染め上げる彼女は、目を逸らしてでも最後まで何とか言い切った。
「い、いまあなたのめのまえにいる、このむすめのせんせきはどーですかね」
「……そォだな。メイクデビュー大差勝ち。次戦を幾つものレースやマスメディアに求められてる、最高のウマ娘だ」
「後半今知って動揺が隠せないネイチャさんですけれども!!!」
神谷が無表情でスマホを見せれば、タイトルにナイスネイチャの名前が踊る記者関連の通知がずらり。どれも取材や質問状、会見依頼で溢れている。
あ、ぐ、と勢いに押されそうになった顔真っ赤なネイチャさんは、それでも踏みとどまって。
「でも、でも! そんな風にしてくれたのはトレーナーさんだ!」
「……」
「もう……もう、ちょっとトレーナーさんが悩んでるくらいでアタシは怯えたりしない。変に、動揺したりしない」
「それは、だとしても無い方が良いに決まってる」
「そんなの、誰にだって言える話じゃん!」
っ、と小さく気圧された神谷に、ナイスネイチャは首を振る。
「アタシ、不安さんとか心配さんとか、大変長い付き合いなんですよ! ずっとずっと、アタシに引っ付いて離れない。これを全部無くすなんて、出来ることじゃない。昔のアタシなら、それはアタシが弱いからだって思ってたけど」
でも、と強気に笑って彼女は言う。
「こんなアタシでも、トレーナーさんが居ればこんなことが出来た。今なら分かるよ。誰にだって、あって当たり前なんだって」
「……」
「それを、トレーナーさんだけは無いなんて。そんなのは無理だよ」
神谷は、僅かにナイスネイチャから目を逸らした。
先ほど、自分で思ったばかりのことだ。
――不安はある。心配もする。人間である以上、自信というものに上限はある。
どんな風に虚勢を張ったところで、己の心にまで嘘を吐くことは出来ない。
だが、それがどうした。
担当のためなら、どれだけでも己を使い潰すのがトレーナーの仕事だ。
そう思えばこそ、神谷は口を開きかけて。
「もしもトレーナーさんが、アタシを不安に思ったことがあったとしてもさ。アタシはそれをしょーがないと思うし、多分アタシがレースに勝つ以外に、それをどうにかすることは出来ない……分かってる」
「だからレースに支障が出るって話で」
「ううん」
首を振る。
ナイスネイチャは、思い出した。
大差でゴールした今日のレースで、神谷の記録を守れたことへの安堵があったこと。振り向いた先で目が合った彼が、本当に心から喜んでいたこと。
思えばあれは、当然の勝利に対する頷きなどではなく、ナイスネイチャの走りを見守って勝利を祈っていればこそ。
――レースに百パーセントは無い。
「トレーナーさん。聞いて」
笑いかけるその優しい表情は、卑屈さも弱気もどこかへ消えて。
代わりにあるのはきっと、目の前のトレーナーへの信頼と……貴方のために、という新たに生まれた望み。
「不安と、心配があったとしてもさ」
一瞬躊躇うのは、反射だろう。こんなこと、言ったこともなければ、言いたいと思ったこともない。ましてや、言う資格があったことも、言うタイミングも無かったから。
それでも、これまでを支えてくれた人に向けて、彼女は心の底を絞り出した。
「――それでもトレーナーさんの信じたアタシが、勝てたよ?」
静かに。しかし、息を飲んだ音が、微かに聞こえた。
一瞬の静寂に、彼女は耐えかねて。
「な……なんちゃって」
そう、小さく頬を掻く。
翻って。言われた方は、たまったものではなかった。
どうして、勇気を振り絞る先が己のトレーナーなのか。どうして、そんなことをさせてしまったのか。悔いる想いも、確かにある。
けれど、それ以上に。
ここまで、思いやってくれる担当が居ただろうか。ここまで、その想いをレースに向けてくれる担当が居ただろうか。自分の走りに、誰かへの想いを載せるような子が居ただろうか。
随分と、恵まれた話があったものだ。
「ナイスネイチャ」
「……は、はい! なんでしょうか!」
「――駆け抜けるぞ、トゥインクルシリーズ」
メイクデビュー如きで、この子を幸せの絶頂において良いはずがない。
担当を活かし、勝たせるのが己の仕事と割り切って久しい神谷の心に確かに刻まれたのは、絶対に彼女を頂点へ持って行くという覚悟。
これまでの人生に無い、強い意志。
「――悩んでたことがあるんだ」
零れ出た言葉。それは決して、担当するウマ娘にとっては喜ばしいことでないはずなのに。
どうしてか、目の前の彼女は心の底から嬉しそうに「ぁ」と小さく声を零して。
「聞く! 聞きますとも!」
「そうか。……分かった。でも、良い。今決めたから」
「え?」
もう、きっと彼女が折れることは無い。
たとえどんなことがあったとしても。
なら、悩みは晴れた。堅実に勝てるレースは最早必要無い。
彼女のキラキラに、最も早く、最もまっすぐなものだけを。
神谷はそう決意して、口を開いた。
「次走は、若駒ステークス。相手は――トウカイテイオーだ」
大変お待たせいたしました。
次回から第二章。
『テイオー伝説ー激闘編1ー 両雄邂逅の若駒ステークス』