顔真っ赤なネイチャさんに「お、お馴染み1着ぅ……」と言わせるまで 作:東京競馬場
荒い呼吸を整えて、膝に付いていた手を気合と共に持ち上げる。
反動を利用して仰いだ空は夕に暮れて、なんだか己の心と同じ哀愁を思って嫌になった。
けれどダメだ。それで心の底からの悔しさをそのまま吐き出す訳にはいかない。
胸の奥からこみ上げる熱い激流を無理くりに飲み下して、「はっ」と自嘲と共に頭を掻く。
「やー、速いですねーご両人」
認めたくない感情を押さえつけ、スタートからついぞ背中しか見せてくれなかった面々の足を称賛する。
自分は今、ちゃんと笑えているだろうか。
「いえーいマヤちん大勝利ー!」
「称賛は素直に受け取っておこう。ただ、やはり踏み込みの角度を誤ればそのまま追いつかれることが分かった。2000メートル右回りの最終コーナーは歩幅から見直すべきかもしれないな」
マヤノトップガンとビワハヤヒデ。
ようやくこちらを振り向いてくれた二人を目にして、やれやれと少女は首を振る。
こっちは全部が全部全身全霊込めて走っているというのに、片方はまだまだ元気そうにぴょんぴょん跳ねているわ、片方はあくまで試走は試走と割り切って次に活かそうとしているやら。
悔しいという思いすら、おこがましいのかもしれないとさえ考えて。
中距離芝2000メートル。
自主練最後の一走に付き合ってくれたお礼を告げて、少女は疲労に震える足を引きずるように、その練習場をあとにした。
「……」
緊急時には貯水池にもなるこの練習場は、ぐるりと四方をなだらかな坂に囲まれている。
その一方から伸びる石の階段を踏みしめる度、重たい太ももが悲鳴を上げた。
情けない話だと眉を下げる。
今日はこれ以上走れないってくらい、いつもいつも走り込んで練習して。
それでも届かない、届く気配すら見えない"キラキラ"。
練習場を振り返れば、今も彼女らは楽しく眩しく輝いているように見えて、1人自分の立ち位置に納得する。
"キラキラ"を反射する夕焼けに、舞台袖がお似合いだと突きつけられている気がした。
「ふぅ……疲れたまってきたし……アタシなりに今日もやったし? 元気に帰りますか」
いっちょ前に凹めるほど、自分は頑張れていない。
なのに届きたくても届かないものに蓋が出来るほど、大人にもなれない。
締め付ける胸の痛みを、体力が無い故の呼吸困難だと言い張って、中途半端な自分を笑うことで誤魔化して、彼女は1人帰路を歩んだ。
そんな卑屈で熱意があって、強くないのに弱くもなれない少女の名を、ナイスネイチャといった。
「……! ……!」
ふと、顔を上げたのはトレセン学園の門を潜ろうかという時。
下校途中に耳に入ってきたのは、複数人の話し声だった。話し声というには少々盛り上がりを見せていて、楽しそうな黄色い声に思わず視線を向けてしまう。
その先は、校門から学園へと続く通りの傍――芝生に設けられたベンチだった。
ベンチを囲む少女たちの尻尾は楽し気に揺れていて、よくよく見ればその中心たるベンチそのものには1人の男が腰かけていた。
「では良いですか? 次のレースでは――」
その男の胸にはトレーナーバッジが輝いて、彼を囲む赤いジャージの少女たちに熱心に語りかけている。
なんてことはない、チームを率いるトレーナーと、その所属するウマ娘たちの会議だった。
「――うん?」
「あ、やば」
ふと目が合ってしまって、慌てて視線を逸らし足早に校門を潜り抜ける。
別に逃げる必要はないのだが、他チームのスパイだなんだと疑われても嫌だったし――とそこまで考えて首を振った。
違う。もっと単純な感情だ。
なんとなく居た堪れなくなったのだ。
彼女はまだ、トレーナーを付けなくても良い時期のウマ娘だ。
トゥインクルシリーズを走り始めるまで、トレーナーは必要無い。
だが、たとえば同期のトウカイテイオーなどは複数のトレーナーから既に声を掛けられているし、先ほどトレーニングをともにしたビワハヤヒデやマヤノトップガンは既に専属のトレーナーと共に在る。
トウカイテイオーの場合は自分に合うトレーナーを自ら探すべく、彼女に声をかけた面々を品定めしているようだが、その他のウマ娘からすればずいぶんと贅沢な話だ。
そしてそれは、ナイスネイチャにとっても同様だった。
何度か開かれた模擬レースで、ナイスネイチャは殆ど実績を残せていない。
否、正確には全てが3着だ。
これが本番であれば掲示板に入ることが出来る入着である――などと自分を誇ることなど彼女には出来なかった。
それはそうだろう。模擬レースなど半分以上は試走の域を出ず、トウカイテイオーのように全勝を遂げている者ですらどうなるかわからないのがトゥインクルシリーズだ。
模擬レース如きですら1着を取れないのが今の自分であり、その状況が変わる未来すら霧中にぼやけているのがナイスネイチャの正直な心境だった。
つまるところ、現状彼女に声をかけたトレーナーは1人も居ないという話に帰結する。
「……あー、やめやめ!」
両手で頭を掻いて、雑念を振り払うように天を見上げる。
こんなことで気落ちできるほど、自分は努力を重ねただろうか。
あがいてあがいてあがいてそれでもダメで――何かのきっかけを掴み立ち上がる『主人公』ならいざ知らず。
己のようなモブにとっては、これも贅沢な悩みでしかないと言い聞かせる。
凡人ならば1つ1つを積み重ねるしかないのだと。明日も明日で、皆に追いつくために努力を重ねるしかないのだと。
隙を見せればすぐに鎌首をもたげるこうした"雑念"に、いつの間にかナイスネイチャ自身が得た対処法がこれだった。
「アタシがちゃんと結果を出せればいいだけの話。そうでしかない。劇的に何かが変わったりはしない。そーゆーのは諦めろっての。主人公じゃないんだから」
そうして続けて、どれくらいの時間が経っただろう。
周囲がどんどん前へ前へと進む背中を、見続けてどれくらいの時間が経っただろう。
次第に焦りへと変わる熱意の感情に、見て見ぬふりをして。
変わらない明日にまた望みを託す毎日――それが、彼女の日常だった。
「しまった、ここはどこだ」
体から力が抜けたナイスネイチャを、責める者は居ないだろう。
栗東寮を目の前にして、思わず彼女は足を止めた。
今までの、自分なりに辛い現状と格闘していた鬱屈とした想いはどこへやら。
物凄い虚脱感と共に、見覚えのある背中に声をかけた。
「あの……ここ、トレセン学園の生徒の寮ですヨ?」
「生徒の寮……!? 沖野サンめ、トレセン学園の地図にそんなもの無いじゃねーか……!」
「や、ここもう学園の外ですし」
「外!? 学園って普通壁で内外を隔ててるもんじゃ――ってあれ。嬢ちゃん昨日の」
もちろん学園は内外を壁で隔てているし、門を通らなければ外に出ることは出来ない。
なのにどうして気づかぬうちに学園の外に出ているのか、それは誰にも分からない。
しかし目の前のこの意味不明な男は、ウマ娘の寮の前をうろちょろする不審者である以上に、昨日顔を合わせた迷子であった。
ナイスネイチャは仕方なく、溜め息交じりに事情を聴く。
心身ともに疲労を訴える中でもこうして手を差し伸べてしまうのは、ひとえに彼女の生来の優しさだった。
「はいはいそーですよー。昨日も会いましたね迷子の人」
「ぐっ……いや、まだ迷子と決まったわけじゃ」
「じゃあ女の子しかいない寮の前に何か用事がある人ですか?」
そう問えば、彼は苦渋の表情を浮かべることしばし。
「…………俺、これどう答えればまともな人間でいられる?」
「手遅れじゃないかなぁ……」
ぼやかずにはいられないナイスネイチャだった。
「……でも、そうか。やっぱ生徒だったんだな」
「へ? ああ、今日は制服ですからね」
まじまじと自分を見つめる視線に、スカートの裾をつまんで答える彼女。
スクールバッグを肩から提げて、紫を基調とするその制服に身を包んだ彼女はまごうことなきトレセン学園中等部の生徒である。
思えば、昨日の道案内は私服であった。
「昨日はマジ助かったわ。おかげで遅刻で済んだし、屋根のあるところで寝ることも出来た」
「それはなんともまた、切実な感謝で……」
「切実も切実よ。野宿なんてやりたくてやるものじゃねーからな」
「経験者の言い方ですよねそれ」
「でも日本は治安良いから良いよな、うん」
「会話になってない……」
なんの納得だろうか。
頭をおさえて首を振るナイスネイチャに、しかし青年はあっけらかんとしたものだ。
思いついたように「そうだ」と口にして、彼は続ける。
「トレセン学園の生徒ってんなら、どこかでちゃんと礼が出来そうだ。なんか困ったことあったら言ってくれよな」
「それは……まあ、困ったことがあれば」
困ったこと。果たして何かあっただろうかと思い浮かべて、パーソナルな事情ばかりが顔を出すナイスネイチャの脳内。
どれもこれも、ただの道案内の対価には出来そうもないし、しようとも思わないものばかりで、小さく首を振った。
お気に入りの、クリスマスカラーのイヤーカバーがほつれたりしたら、その時くらいに頼ってみよう。
「うし、んじゃまあ今日はもう諦めて飯にでもするかな」
「学園の中に用事があったんじゃないんですか?」
「時間的にもう間に合わないんだな、これが」
「あ、あはは……」
「ってことで、昨日の商店街でなんかおいしいものでも物色するとするよ。ああいう雰囲気は久々で、ちとテンション上がったんだ昨日」
確かに、トレセン学園の付近にあるあの商店街は今時珍しい代物だ。
デパートなどに取って代わられることの多い、時代の名残とでも呼ぶべきか。
それでもあそこは今も活気にあふれ、賑わっている。
自分のことではないけれど、誇らしい気持ちになるナイスネイチャであった。
「そですか」
「ああ。そいじゃまたな」
ニカ、と口角を上げれば、悪くない顔立ちだ。
挙動のおかしい迷子という認識でしかなかったが、トレセン学園で何かしらに従事する人間ならいつしか噂になりそうだ。
と、そこまで考えてナイスネイチャは声を上げた。
「あの!」
「ん?」
振り向くその青年に、彼女は大きくため息を吐いた。
「……商店街は
ナイスネイチャのやる気が下がった。