顔真っ赤なネイチャさんに「お、お馴染み1着ぅ……」と言わせるまで 作:東京競馬場
「ついてきてくれなくても良かったんだぜ?」
夕暮れ時は遥か、すっかり日の沈んで街灯たちがちらほらと出勤し始めた頃。
なんのロゴも入っていないビニールの提げ袋を片手に、神谷が後ろを振り向いた。
するとそこには、呆れたような半眼の眼差し。
「……まぁ、確かに? アタシがついてくる理由はありませんでしたけれども」
嘆息と共に頭を掻くと、髪質がそうさせるのか、その柔らかそうな二房がふわふわと揺れる。
暗がりで、昼ほど鮮やかに表情をくみ取れるわけではないけれど、この感情豊かな声色の少女が何を思っているのかは神谷にもおおよそ想像がついた。
「んな心配しなくとも二回も同じ場所で迷子にゃならねーよ。こう見えてお前さんより十近く年上なんだぜ?」
「はいはい。年上の方にあらせられては、なるべく大通りを選んで通っていただければと存じますー」
「あ、バ鹿にしてるな??」
生まれも育ちも商店街という名の大家族とあって、年上の面倒臭い絡み方にも慣れたもの。そういわんばかりのナイスネイチャの所作に、神谷は不敵な笑みさえ見せる。それが不敵というより不適であることには、ついぞ気づかない男ではあるが。
「この場合年上ってのは文字通り人生経験が豊富って意味じゃあない。んな説教くせえことするのはおっさんだからな」
「はいはいそうですねー」
自らをおっさんと認めるか否か、危うい年齢に差し掛かる神谷は熱弁する。
「いいか嬢ちゃん。この場合の俺の年上発言の意図、それはだな」
割とどうでもいいと思いつつ、ナイスネイチャは隣に並び歩いて顔を上げた。
そこそこの身長差がある神谷は、いっそ朗らかなまでに開き直って、自慢にもならない自慢を言い放つ。
「この年まで生きてこられたってことだ!! たとえ嬢ちゃんの道案内がなくとも!!」
「……はぁ。蹴りたいなあ」
「はっはっは、これが正しく論破と――マテマテマテマテ後ろを向くな!! 地面を掻くな!!」
機嫌の悪いウマ娘の後ろには立つなと、そんなものはトレーナーでなくとも知る常識である。
ましてや機嫌の悪いウマ娘に後ろを向かれるなど、ただの自殺行為だ。
あの強烈な後ろ蹴りを受けて鼻血で済むような人間を、神谷は1人しか知らない。
慌てた神谷の挙動に少し溜飲が下がったか、ナイスネイチャは肩を落として告げた。
「迷子になったくらいで死にはしませんよそりゃ」
もし本当に迷子になったくらいで死ぬような環境があるとすれば、それはそんな場所で1人で行動する方が間違っているわけで。
ただ、そう。
いくらお人よしの少女とて、初対面にほど近い相手にここまで世話を焼く理由は本来無かった。
この男が、結局ナイスネイチャの道案内なしではまともに商店街に辿り着けなかったであろうということを加味してもだ。
さんざん迷い掛けた挙句、こうしてあっけらかんと申し訳なさの欠片も見せない相手に、それでもこんこんと説教をかましてしまうのは、きっと。
「でも道に迷って、さ」
そう零した言葉に、その言葉の表面以上の感情がこもっていることを、気づかない神谷ではない。少しばかり先ほどまでのふざけた表情をかき消して、彼女の顔を窺えば。
街灯に上から照らされる、影のある表情。
「焦ったり心細くなったりすることはあるでしょ。どこに行けばいいんだろうってわからないまま……このままだったらどうしようって、なってさ。そういうのって、すり減るものじゃん。ただの迷子だって、ようやく目的地に辿り着けたからさっきまでのくじけそうな心も全回復ー! ……とはならないでしょ」
「……まー、どーだろな」
それは無意識にまろび出たものなのだろう。
彼女の言うことは至極尤もで、神谷とて彼女の語った感情に心当たりがないわけではない。道に迷う度、取るべき手段を失う度、どうしていいか分からなくなる。心細くて、明日の無事を祈るほどに寂しくもなる。
でもきっと、彼女がこの言葉を吐いた"本当"はそこに無い。
ただの迷子の話などでは、きっと無い。
気づけばそれなりに気を使っていたはずの敬語さえ抜け落ちるほどに、ありのままの彼女がそこに居た。
「どーだろな、なの?」
「案外、道に迷ったからこそ嬢ちゃんとも会えたし――なんて嘘嘘、そんな面倒臭そうな顔すんなって!」
ははは、とこの空気を打ち消すように神谷は笑って。
「いや、悪かった!」
参拝でもするかのように手を合わせ、頭を下げる。
何を急に、とわずかに身構えてしまうナイスネイチャを前に、神谷は言った。
「そーだな。俺がどうあれ、だ。迷子になってそんな想いをするかもしれねえっていう、そういう純粋な優しさを無碍にしたのは俺の落ち度だ」
「や、別にそこまでじゃ」
「ほぼ赤の他人みてーな俺を、マジに心配してくれたのは事実だろ? いい奴だなーお前」
「やめっ、やめてちょっと。なんか、なんかむかつくしハズい!」
「そう言うなって。マジこの街来て初めて会ったのがお前で良かったわー」
「だからやめてってば!! ……~~っ! じゃ、じゃあもうアタシはこれで!!」
ざっと踵を返し、居た堪れなくなったこの場所を立ち去ろうとする彼女。
年頃の少女らしいその照れ隠しに緩く口元に弧を描いた神谷は、その背に声をかける。
「よう、どこ行くんだ?」
「自主トレ!!」
「あー、そうか。ウマ娘だもんな」
「ウマ娘ですから!」
今日の疲労が残る足ではある。
だが口を突いて出てしまった言葉は、やはり日頃の焦りを表してしまっていて。
自主トレと、その言葉を聞いて改めて目にした彼女の脚に神谷はふと思いついた。
逸材ばかりだと言っていたシンボリルドルフの言に偽りは無い。
彼女もまた凄まじい才を持つウマ娘だと察した神谷は、笑う。
「じゃあせっかくだから今日のお礼っつか、悪いことした詫びに少しその自主トレ見ててやるよ」
「……はい?」
よいではないか、よいではないか。
あれよあれよという間に、自主トレを行う公園に辿り着いてしまったナイスネイチャ。
寮に一度寄って、ジャージに着替えて。門限までの時間を確認して。
あまり長くは出来ないから、実戦形式の練習は難しいと判断した。
それでも、珍事に巻き込まれたおかげで少し脚は休まっている。
いつもと変わらない自主トレ。一つだけ違うことがあるとすれば、それは広いトラックのある公園を物珍し気に眺める青年が居ることだけ。
「……あの、見てるだけ?」
「トレーナーじゃねえしな。メニューに口出しするのは違ぇだろ。まあ、邪魔にはならないからその辺にそっと置いといてくれ」
「まあ、いいですケド」
よく、分からない。彼曰く、これは今日付き合わせたお礼のようだが。
お礼がただ自主トレを見ているだけというのも理解がし難い。別に、人が見ている方が集中や熱意が増すタイプというわけでもないのだし。
とはいえ、やることはいつもと変わらないのだ。
少しばかり切り替えに時間を要したが、ナイスネイチャは先端に時計のついたポールにトレーニング用のゴムを括り付け、タイヤ引きの要領でぐっと足を逆ベクトルに踏み込んだ。
一歩、また一歩と踏みしめる。蹄鉄が地面を駆る感覚と共に、加速力を鍛えるトレーニングだ。
差しを得意とするウマ娘に必要なこと。
トレーナーでなくとも、ウマ娘は日頃の授業で学んでいる。
要求されるパワーの鍛え方として適切なその教科書通りのやり方は、決して間違ってはいない。むしろ、教科書に載っているやり方よりも優れた練習方法などほぼ存在しない。存在してしまったらそれはむしろ、教科書の存在意義が問われるからだ。
だからあとは、自らの体に適しているかどうかの話。
それは或いはそれぞれの得意不得意であったり、段階であったり。
歯を食いしばりがむしゃらに歩むその足は、その練習を可能とするほどの境地に達しているのか、どうか。
――そんなこと、分からない。トレーナーのいないウマ娘が自分で分析をして、正しいトレーニングのロードマップを組むなんて、20にも満たない少女にできうるはずもない。
数少ない例外が生徒会室に居るけれど、例外は例外だ。
「お、やるじゃんすげえなここまで出来んのか」
「な、に……?」
ただ、それを指摘するつもりは神谷には無かった。
彼女のトレーナーではない。ただ、自主トレーニングを手助けするだけ。
それが今日の、神谷という男の存在意義。
必死にトレーニングを続けるナイスネイチャは、ひょっこりと横から顔を覗かせた神谷の相手をする余裕はなかった。
置物扱いしておけと、そう告げられて。それからしばらく、汗をしっかりかくほどの時間が経過して。ようやく動いた彼の言葉は、なんてことのないただの賞賛だった。
ぐ、と体が背に持っていかれそうになる。ゴムの反動が無理やり体を引き戻す。
それを必死に耐えて――さすがにもう無理だと思ったから一度戻ろうとした、ちょうどその時だ。
「これだけ根性ある奴はそうそう見ねえな。俺も結構ウマ娘見てきたが。同年代でお前と同じくらいやれるのは、5人くれえかなー……」
「…………」
指折り、過去を思い出すようにそう告げる彼の言いぐさに。
ほんの少し対抗心が出たのは、仕方のないことだろう。
歯がみして、無言でもう一歩。
「え、マジ?」
その心底驚いたような顔が、気分がよくて。
「これ一番メジャーな
「共通の、やつ……!」
「いや、うん。分かってんよ俺だって。ちょっと目の前の現実についていけなかっただけだ。しかし、マジか。すげえ奴だったんだなお前……って、この状態で止まってられんの?」
言われてみればその通りだ。限界の限界まで踏み込んだこの状態は、維持するだけでも一苦労だ。けれど、維持することにはあまり意味がない。
このトレーニングの肝は、一歩踏み込んだ時の力強さを鍛えること。
だから、もう。
「……なあ」
一度切り上げようとした、その時。彼は顎に手を当て、真剣な表情で。
彼女の前を少し、10㎝くらい開けて立った。
「お前、ここまで来られるか?」
何を無茶苦茶なことを。
「無、理……!」
「いや言うてあとちょっとだぜ? 一歩の間隔は確かに短い。このままじゃ踏み込みづらいかもしれねえ。だから半歩下がって、もう一歩だ。どうだ、無理か?」
「……」
そう言われると、確かに分からなかった。
半歩下がることが許されるなら、10㎝深く踏み込むくらいは、どうだろう。
「俺の知ってる、無茶苦茶根性ある奴の記録がここだったんだ。あと10㎝ってとこまで来られるとよ。つい頑張れねえかって思うのは人情じゃねえか」
「下がっては……みる……から……!!」
「よっしゃ!! 頼む!! 来い!!」
嬉しそうに言うものだから、息を吐いてゆっくりと左足を外すようにひっこめる。一歩であの位置まで踏み込まなければならないのだ。ならそれ相応のところまで。
案外と足を戻す動作は簡単で、ナイスネイチャは歯を食いしばって神谷の待つ10㎝のところまで右足を無理くり進ませた。
そして、その足で地面に杭を打つように、ぐんとゴムに引っ張られた上体を負けじと引き戻す。
「……おぉ……りゃぁ……!!」
「おっしゃ!! 本当にやれっと思わなかったわ!! すげえ!!」
「へ、へへ……どう、だ……!」
「完璧な記録だな……よし、いったん戻った方がいい。耐えるだけってのは足壊す」
ナイスネイチャの手を取って、一歩一歩ゆっくりと足を戻すサポートを行う神谷。
ポールのところまで戻ってみて、改めて屈伸してもう一度と意気込む。
と、そこで難しい顔をした神谷が「ちょっといいか」と呟く。
「はあ、はあ……なに?」
「実はな……高等部の合格ラインってのが、ちょうどここらしいんだ」
「……えっ」
そうして示したのは、自分が踏み込んだ場所よりも少し浅いところ。
知らないうちに、合格ラインとやらを越えていたらしい。
「で、ここが高等部の授業で10貰えるライン」
「……!」
それは、先ほどナイスネイチャが踏み込んだ――その5㎝ほど先。
「いやこれ……その、さ」
「分かった分かった分かりました! やってみるから!!」
「合格ライン越えてる時点ですげえんだぜ? 俺から要求することなんざ出来ねえって」
「あと5㎝でしょ! 踏み込む間隔さえ変えれば、なんとか行けるかも」
「おいおい本気かマイシスター」
「誰があんたの妹か」
乗せられているような気は、していた。
「ぐ、……うう」
踏み込みは、やっぱりきつい。
だってそうだ、さっきはその遥か手前でもう十分だって引き上げていた。
なのに。
「間隔ばっちり、天才かよ……おい、あと一歩。あと一歩だ。行くのか? いっちまうのか……!?」
「い、っちまう……から……!!」
見てろ、とばかりに食いしばった歯を、その口角を吊り上げて。
自分があとほんの5㎝頑張るだけで、"凄い"なら。
踏みしめる足が悲鳴を上げる。一歩踏み込み、もう一歩と続けてきた。もう無理だと、全身が押さえつけられるけれど。
それでも踏みしめ、踏み込んだ。
5㎝。そのほんの少し先まで。
「い……いったああああ!! すげえなお前!!」
「へ、へへ、っととと!?」
「おっととと下がるのは一歩ずつな、一歩ずつ!! ここまで来れる奴見たのひっさびさだわ!! ちょっと俺の中でウマ娘の歴史が動いちまったよ、は、なんだお前加速の天才か!?」
「ちょ、ちょっとちょっと!! もう暗いから! 声大きいって!!」
「知るかバ鹿野郎! 俺が一番嫌いな日本の言葉は『勝って兜の緒を締めよ』だ!! すげえこと成し遂げたんだ喜んで何が悪い!! お前最強!!」
「ちょ、ほ、ほんとやめてって……!」
また一度、ゆっくりポールの下まで戻ってきて。
「はーー、お前のトレーニング見てんの超楽しいな。普通こんなん出来る? 全国のウマ娘がしくじるわ」
「そ、そこまでじゃ、ないでしょさすがに……」
当人よりもテンションを上げられたら、もう笑うしかない。
でも、と改めて踏みしめた蹄跡を見据えれば――きっちりと神谷によって引かれたラインが目に入る。
あと10㎝と、そう言われて。それからさらに5㎝と言われて、力を振り絞ってつま先分くらいそのラインを踏み越えた。
知らない間に、ナイスネイチャの届いた全力の全力、そのつま先分の達成したラインも神谷は綺麗に線を引いていた。
20㎝弱。今日一日の、目に見えるステップアップ。
「もう、ちょっとやってみようかな」
「それは確かに。俺もテンション上がって吹っ飛んじまったけど、さっきのはひょっとしてまぐれの可能性も……」
「言ったな?」
一度できたんだ。
もう一度頑張ろう。確かめよう、今の自分の実力を。
向き合うことさえ嫌だった、そんな普段の心を今だけは忘れて。
乗せられた感情そのまま、上がりに上がったやる気を叩きつけるように。
「まぐれなんかじゃねえ……モノホンだ……!!」
「み、さらせ……へへ……!」
そのあと、5度。
同じことを繰り返し、繰り返すことが出来た達成感と共に。
ふわふわした気持ちのまま、ナイスネイチャはその日の自主トレに幕を閉じた。
もうちょっと、と気張ろうとするナイスネイチャを制したのは、見ているだけと言っていたはずのあの青年だった。
『ばっかお前、苦しんだらその分凄い奴になれんのか? 努力の分だけ実りがあるのか? 現実はそんな甘くねーよ。追い込みすぎたらケガするし、力込めすぎたら壊れちまう。それよか』
『こうして気持ち良いくらいの疲労を感じて、しっかりケアして充実させる方が良いのさ』
『帰ったらしっかり手入れしとけよ。なんて言うまでもねえことだとは思うが。それとも寝る前に歯は磨かないタイプ?』
あんなことまで言われたら、妙な怒りと共に入念にケアをするしかない。
気づいたら、お風呂を上がって、マッサージをして、体を伸ばしていて。
「……なんか」
ふわふわした良い心地。それを充実感と呼ぶのだと、その時の彼女は知らなかったけれど。
「ネイチャ、おかえりなさい! 自主トレお疲れ様ー★」
ベッドでストレッチをしていたら、ちょうど入ってきたのが同室の楽しそうな少女だった。
「ありゃ、マーベラスも帰ってきてたんだ。うん、おつかれー」
「そーそー、今日もとってもマーベ……あれ?」
こてん、と首を傾げる彼女は、上から下までナイスネイチャを見やってから。
「なんだかとってもマーベラス!! ネイチャもマーベラスな一日だったのね★」
「うぇ? ……いや、どーかな」
マーベラスな一日というには、いつも通り口の中はずっと苦くて、どこに行けばいいのか、何をすればいいのかも定まらない霧の中に居た気がする。
でも、確かにマーベラスサンデーの言う通りのことが一つあるとすれば。
今日という日を思い出す時に真っ先に飛び込んでくる光景は、自分が踏みしめたはっきりとした記録。たまたま"見ていただけ"の青年が、地面をなぞって描いたライン。
「楽しかった」
知れず、言葉が零れていて。
まじまじと自分を見つめる、いつもの輝かしい瞳に気づく。
「……?」
「え、あ、あれ?」
慌てて口を押えて、ナイスネイチャは。
「アタシ今なんて言った?」
「マーベラス!」
「いやいやそれはない」
ないけれど。
もし今、心に宿る感情をそのまま口にしていたなら。
そんなトレーニングはいつぶりだったろうと、焦がす想いが未だに熱を持って胸の内を温めていた。
[rêvons ensemble]神谷サラ (SSRトレーナーカード)
【発生イベント】
すげーなお前(追加の自主トレ時)
・やる気アップ
・ランダムでスキルP+3