顔真っ赤なネイチャさんに「お、お馴染み1着ぅ……」と言わせるまで 作:東京競馬場
「どうだ、そろそろ慣れてきたか?」
聞き慣れた声が響いたのは、朝の学園練習場の1つ。
振り返ればそこには案の定というべきか棒キャンディーを咥えた男が立っていて、神谷は軽く手を挙げて応じた。
「慣れたってのが芝の状態とかコースの狭さとかって話なら、だいぶ慣れたな」
この中央トレセン学園に着任して早数日。
きちんと目にした日本の録画レースの数もフランスに居た頃の比ではないし、改めておさらいした日本でのレースの定石や、それを利用したレースもある程度の数をいった。
とはいえ、いまだに担当ウマ娘も決まらないし決まる道程も見えないのは変わらない。
そういう意味では、慣れたというのは過言だろうと考えて神谷はそう嘯いた。
しかし、どうもその答えは目の前の男のお気には召さなかったらしく。
緩くその申し訳程度のポニーテールを振りながら、彼は言った。
「いや、地理的な問題の話なんだが」
「それなら最初からしっかり把握してる」
「見え透いた嘘をつくなよ……」
大きなため息とともに額に手を当てる彼に、神谷は軽く鼻を鳴らして。
それから、男の隣にたたずむ少女に目をやった。
「よ。沖野サンの担当かい?」
「は、はい!」
目を惹くのは、赤いジャージ姿に不釣り合いなほど煌びやかな青のティアラ。
そして大きく結った二つの髪房と――不躾と分かっていながら目線が行きそうになる豊満なプロポーション。
とはいえそこはトレーナーたるもの、そうした部分についてのトレーニングはこなしている。
努めて穏やかに笑ってみせれば、男――沖野とのやり取りに少々呆けていた彼女は社交的な笑みとともに頷いた。
「ダイワスカーレットと言います。トレーナーさんのもと、チームスピカで活動させていただくことになりました!」
「そうか。俺は神谷ってもんで、沖野サンの後輩にあたる。沖野サンはちゃらんぽらんで説明不足なとこもあるが、努力家っぷりと夢にかける情熱はモノホンだ。どうか見捨てないでやってくれ」
「そうですね……本当に……」
微妙な表情は、神谷が説明した沖野の人物像に思い当たる節があったからか。
呆れたような、それでいてうっすらと信頼が垣間見える瞳を向けられて、沖野はばつが悪そうに頬を掻いた。
「なんだこの空気は……。いやまあ、そうだな。ちょうどお前が見えたから、一応報告にな。俺の方は、それなりに今年頑張れそうだってな」
「そりゃ良かった。いい担当に恵まれたな」
それは心からの安堵だった。
神谷自身の問題は決して片付いてはいないが、沖野の現状もまた神谷の心配事の1つであったからこそ。
自分のせいで沖野の立場が危ういのは先刻承知。何か出来ることはと考えても、結局それは神谷が神谷自身の問題である担当ウマ娘を見つけるのが最優先。
となればろくに沖野のチーム再建を手伝うことも出来ず、歯がゆい思いがあったことは否定できない。
沖野のチーム事情が改善されそうだという話は、もろ手を挙げて歓迎する吉報だった。
「ああ。うちのゴル……ゴールドシップのおかげでな」
「ゴールドシップ……」
少し考えて、ああ、と納得する。
「知ってるのか?」
「知って……るんですか?」
きょとんとした沖野の隣で、恐る恐るといった様子のダイワスカーレット。
二人に頷き、神谷は言った。
「俺が昨日、河原で腹減ったなあと思ってたら明石焼きの屋台が通りかかってよ。その店主がゴールドシップだったんだ」
「えぇ……あ、あの、なんか変なことされませんでしたか……?」
「いや? ああでも明石焼き食ってたら磯辺焼きが醤油と海苔で焼くだけで海っぽさが全然ねえって話で盛り上がってそのまま海まで行って、手分けして魚醤と海塩集めて、餅がねえってことが発覚した時は二人して絶望したな……」
「は、はあ」
「でも気づいたんだよ、磯辺焼きって別に餅って名前ついてねえし、餅じゃなくてよくねって」
「……」
「したらゴルシが『それだァ!』ってめちゃめちゃ俊敏な動きでつみれ用意してくれてな。春前の海はクッソ寒かったが、ちゃんと磯辺で食った磯辺焼きは最高だったな……気づいたら居たジャスタウェイと3人で、もうこれ以外磯辺焼きって認めねえっていう磯辺焼き園の誓いを結んで帰ってきた」
「…………」
「どした?」
当たり前のようにゴルシって呼んでるとか。
頭のおかしいエピソードをさも温かい思い出話のように語っているところとか。
色々言いたいことはあるが、ダイワスカーレットが察したのは1つの事実であった。
「そうか。ゴルシはめちゃめちゃなとこもあるが、良い奴なんだよほんとに」
「ん-まあ、俺とは相性よくねえかもなとは思った。ブレーキが居ねえ」
ここに誰も、あの奇行種を咎める人間が居ないということだ。
無類の信頼を向ける沖野も、当たり前のようにトレーナーの観点で話をしている神谷もだ。
「――え、ええっと。トレーナーさん、アタシ朝トレがしたいのだけれど……」
「あ、ああすまん。そうだったな。神谷は何してんだ?」
「俺か? 俺は今ちょうどあの子たちを見てるとこだ」
思えば、1人で練習場にただ突っ立っているだけというのもおかしな話だ。
神谷があの子たち、と指を差した方向には2人の少女。
「マヤノトップガンさんと、マーベラスサンデーさん」
「そうそう。なんか、見ててって言われたから見てる。ほんと才能の塊みてえな子たちだわ。ダイワスカーレットも混ざってくると良い。キミの脚もすげえっぽいが、あの子たちと競ったらタレるかもだぜ?」
「っ……! おほん。トレーナーさん、ちょっと行ってきますね?」
その優雅な語り口とは裏腹に、ずんずんと突き進んでいく彼女の後ろ姿を眺めて。
「おうおう、煽る煽る。ああいう性質の子だって見抜いたのか?」
「そんな特殊能力みてえな言い方すんな。沖野サンを慕ってる子があんな聞き分けの良いただの優等生なはずがねえだろ」
「優等生なのは本当だ。あいつは、意地だけで走れるウマ娘だ」
「そいつぁ……」
「悪いが、先に俺がスカウトさせてもらった」
うらやましいことだ、と言おうとしたのがそれこそ見抜かれて。
強気というより誇らしげな笑みはきっと、ダイワスカーレットを信頼していればこそ。
意地だけで。
それは目標や目的に囚われず、ただ"負けたくない"から走れるという資質。
心が折れない限り決してその脚を休めることがない、求道者ともいえるその素質は、どんな"理由"を抱えた相手と並んでも絶対に負けない不屈の心を併せ持つ。
担当ウマ娘のコンディションを保つことに長けた神谷にとっては、相性の良い少女だ。
「ま、他の子の遠征の時とかは面倒見るよ。それ目的で俺に会わせたんだろ?」
「ああ。ダイワスカーレットを預ける時は、お前が良い」
担当ウマ娘を複数持つトレーナーにとって、レースでトレセン学園を離れることは珍しい話ではない。それがGIなどの大一番ならいざ知らず、オープン戦などにまで他の担当全員を連れていくのも非効率だ。
「スピカにサブトレでもいりゃあ話は別なんだろうが」
「そんな贅沢を出来る状況に無いからな……。それに、トレーナー相手こそ信頼が必要だ」
「まあ、そうな」
それが例えば、ここまで信を置く神谷にも"ダイワスカーレットだから"預けると告げたことからも明白だ。
沖野はきっと他のやむを得ない理由がなければ、たとえばゴールドシップを神谷に預けることはないだろう。
育成するウマ娘が違えば、その子に必要な
それだけの話だった。
マヤノトップガンたちと話が纏まったのか、走り始める彼女を眺めながら沖野は呟く。
「それで、めぼしい子は居たか?」
問われた神谷が力なく首を振ったのを見て、沖野の表情が渋くなる。
「それはさすがにハードル高すぎないか?」
中央トレセン学園に数日詰めて、スカウトしたい子が皆無というのもまた選り好みな話だ。それがたとえ、有望な子はすぐにトレーナーがつく傾向にあるといってもだ。
早くも頭角を現し始めた子や、突き抜けた1個の特技を持つ子は、確かに有望だと皆に噂される。だが、そうでない子が決して無能だというわけではない。
中央トレセン学園は、そこまで甘い場所ではない。
だが、神谷は一瞬呆けたあと、沖野の言葉の意図を察して首を振った。
「ああ、逆逆。どいつもこいつも磨けば光る奴ばっかりだ。シンボリルドルフが言ってた通り、逸材だらけってのはマジらしい」
「――そうか」
「なんでアンタが嬉しそうだよ。……いや、気持ちは分かるけどな」
ふう、と息を吐く。
神谷はこの数日、幾人ものウマ娘と引き合わされた。
その裏には理事長のごり押しの他にも、シンボリルドルフの後ろ盾があったりもして、少なくとも学園サイドからは神谷というトレーナーに相当な期待をしているというポーズが出来上がっている。
各トレーナーたちがそれをどう思うかは別にして、着任当初よりもウマ娘たちからの風当たりが弱まったのは事実だった。
そしてその流れの中で出来上がったのが、まだ担当トレーナーのいないウマ娘たちのトレーニングを神谷が見守るという流れ。
チームの入団テストほどガチガチではない、ある種の体験コース。
担当トレーナーが居る生活を実感してみよう! という程度の軽いノリで触れ回ったそのキャンペーンは、やはりというべきか評判は良かった。
神谷のトレーナーとしての腕がどうこう以前に、やはりトレーナーの有無でどうトレーニングが変わるのかを肌で実感するのはこれからのウマ娘たちにとっても必要なこと。
理事長とシンボリルドルフが神谷という特例を得て協賛したからこそ出来上がった事例ではあったが、シンボリルドルフ自身はこれから先も何人かのトレーナーを使ってこの体験講座は続けていく腹積もりのようだ。
ともあれ神谷にとってもこの一連の流れは都合がよく、あわよくばスカウトを申し出ようと考えていたのだ。
だが出来なかった。それは決して沖野のいうように見るべきウマ娘が居なかったからではなく、皆が皆才能に溢れていたからである。
「そんなかでもこれは! って子は居ないのか?」
「難しいな。沖野サン以外が不親切すぎて、どの子がもう担当居て、どの子がまだフリーなのかも分からねえ。それに、変に声かけておいて「やっぱ別の子にするわ」ってなるのもあまりにな……」
「やっぱりチーム組む方が早いんじゃないか? フランスでのお前の実績は――」
「言いっこなしだぜ沖野サン。俺は日本競バを舐めちゃいない。本当にちゃんと1人のトレーナーとしての役割をこなすにゃ、まだ複数の担当持つのは無理だ」
「そうか……」
「それに」
「ん?」
「……あーいや、やっぱなし」
「えぇ……」
どれだけ日本競バに期待しているか、と聞かれれば、まだそこまでだ。
というのは決して、彼女らの実力を疑っているわけではない。
誤解されがちだが日本競バは世界でもトップクラス。
であればこそ、自らの腕を振るうに決して不足しないし、全力を尽くしてなお厳しい世界であることはよくわかっている。
だから、口を突いて出ようとしたのはそうした話ではなかった。
数日前シンボリルドルフに、話の流れで吐いてしまった己の心のうち。
もし今、フランス競バと同じくらいちゃんとトレーナーとしての職務を全う出来たとして。きっと出来ることは、ウマ娘たちの切実な悲願を叶えさせること。
ただ、状況はフランスとは異なる。
自分のノウハウの半分以上は死んでいて、だからこそ担当を持てるとしたら1人だけ。
だが実績を残さねばならない。そうならなかった時に飛ぶのは己の首1つではなく、沖野にまで累が及ぶだろう。
そう、できれば。
『こいつとなら一緒にすげえことが出来る』と心の底から思える、それこそシンボリルドルフがいうところの"良い素質"を超えた、素晴らしい素質の持ち主が欲しかった。
選り好みという勿かれ。
だってこんなにもこの中央トレセン学園は、才能に溢れたウマ娘たちに満たされている。
ならそのうちの1人、自分の求める条件に合う子が居たっていい。
否、いてほしいと願うのは普遍の人情だった。
とは言いつつも。
「理事長から話は聞いたか?」
「ああ。……俺と沖野サンの胃を焼き焦がしたいのかあの人は」
「そう言ってやるな。ウマ娘のためになることなら多少のリスクお構いなしって心情は、俺もお前も同じことだ」
「尊い犠牲だな俺たちは……」
遠い目をしてぼやく神谷の視線の先に、ダイワスカーレットと並んで楽しそうに走るマーベラスサンデー、そしてその前をゆうゆうと逃げていくマヤノトップガンの姿。
先行二人に逃げるマヤノトップガンの姿を見て、そういえば彼女らと一緒によく遊んでいるもう1人の子が先行バだったと思い出す神谷。
「模擬レース、今週末だって?」
「ああ。表向きはいつも通り、トレーナーに魅せる普通のトライアルレースだ。チームを持たないトレーナーとウマ娘の出会いの場、だな」
チームを持つトレーナーは、自分のチームを宣伝して丁寧に入団テストを行うところも多いが、そうでないトレーナーにとってはこの模擬レースこそがウマ娘を見定める場となり得る。
決して不思議な話ではない模擬レースの開催はしかし、この急遽決定したこととこれまでの神谷の扱いから、明確な"圧"、もしくは作為的なものを感じてしまう。
「そろそろ担当を決めろということだろ。他のトレーナーたちも焦れてきたのかもな。誰をお前が選ぶのか、相当注目されていると見た」
「うーん……」
「妨害されることも考えておけよ。レースでお前の担当ウマ娘に勝つでも、お前より自分を選ばせるでも、要はお前というトレーナーを否定出来ればいいって考える奴は居る」
大多数のトレーナーは、神谷というトレーナーの腕を疑問視している。
だが共通見解なのはそこまでで、神谷に対しどういうアプローチをするかはそれぞれだ。
1人のウマ娘を与え、その様子を窺おうとする者も居れば。
それすら1人のウマ娘を不幸にするとして、早々に追い出してしまおうと考える過激な人間も居る。
逆に、あえてチームを組ませて破滅させようと考える者も居て、結局のところそのどれも直接的な行動には起こされていないが、それでも。
この模擬レースという舞台が整った以上、どうなるかは分からない。
「――まあ、でも。あれだ」
顎に手を当て、神谷は言う。
「俺の足を引っ張るのも結構だが、そいつらだって自分のウマ娘を活躍させられなければ死んでいく。育てやすいウマ娘をスカウトするのが普通だろ」
「……なるほど。じゃあお前は」
得心がいったというように、沖野は頷く。
果たして神谷の真意はと言えば、沖野の思った通りで。
「ああ。俺は自分のスカウトを変えない。俺のことを必要としてくれるウマ娘を選ぶ」
「それがたとえ、これまでと変わらなくても、か」
もしかしたら、自分と一緒に夢を追ってくれないかもしれない。
「それで満足なのか?」と口から零れてしまいかけるほどに、彼女たちは神谷の知らないところで幸せを見つけ、礼を言って去ってしまうかもしれない。
それでも神谷はトレーナーだ。
ウマ娘の幸せを作り上げるのが、彼の仕事だ。
ただ、少し神谷は目を細めて呟く。
「……俺にとっては、そうだ」
「?」
「ただ……言われちまったからな。信じてみようとも思ってる」
皇帝シンボリルドルフは、日本競バを――ひいてはこの中央トレセン学園を、逸材の宝庫だと言い放った。
この場所で、神谷の夢は叶うと言った。
だからこそだ。だからこそ、神谷は選ぶウマ娘を変えない。
こいつとなら、と思った相手の手を取って、きっとその先へ越えていけると信じて。
「今週末。……楽しみにしてるよ」
「そうか。お前がそう言うなら、いいさ」
笑う沖野が目を細めた先で、ぼこぼこにされたダイワスカーレットが、二人の少女に向けて負けじと二本目を要求していた。
「次は1800m……って言ってるくね?」
「あいつさてはマイルなら勝てると踏んで……!?」