顔真っ赤なネイチャさんに「お、お馴染み1着ぅ……」と言わせるまで 作:東京競馬場
1600mのレースだったらどうだったか分からない。
それが、精一杯の沖野のフォローだった。
地団駄を踏んで「特訓よ!! 付き合いなさい!!」とネクタイ引っ掴んでずんずん帰っていったダイワスカーレットは、もはやそこに優等生の皮を被って絡んでいたもう1人のトレーナーが居たことすら頭から吹き飛んでいただろう。
これが、或いはトレーナーの有無の差というものなのか。
ダイワスカーレットの素質は決してマヤノトップガンやマーベラスサンデーに劣ってなど居ない。だが2人には既に数月を共にしているトレーナーが居て、ダイワスカーレットはこれから磨かれる原石。
だとしたら、それは凄まじいことだと神谷は思う。
決してトレーナーの存在を軽視しているとか、或いは過剰に評価しているとか、そういう話ではない。
神谷が接してきた数多くのウマ娘。それぞれに優劣というものは、やはり明確に在った。
世の中というものは残酷で、誰しもが一番になれるわけではない。
中距離では一歩譲るが、マイルでならトップをとれる――なら、どんなに良かっただろう。
現実は、中距離もマイルも、果ては長距離も同じ1人のウマ娘に誰も届かないなんてこともざらだ。
頑張ってトレーナーと歩んできたウマ娘が、ひょっこり現れたルーキーに全ての面で及ばないことだって、ままある。
だからこそ、先ほどまで3人が走っていた芝の競技場を見て神谷は思うのだ。
トレーナーのもとで必ず強くなってくれる、綺羅星のような原石たち。
素質では優劣の付けられない逸材の宝庫。
これが中央トレセン学園か、と。
知ってはいたが、こうしてちょっとしたことを目にする度に改めて自覚する。
「マーベラース★」
「おうマーベラース★ すげえマーベラスな走りだったな」
「ありがとー!! もっともーっとマーベラスに、これから世界を染めていかなきゃ!」
「壮大な改革計画だな。お前のトレーナーが羨ましいぜ」
本心からの言葉をかければ、嬉しそうにほほ笑むのは小柄な少女。
小柄な割にスタイルはよく、また大ボリュームの黒髪の自己主張が凄まじい。
だが彼女の中で最も目を惹くのはその煌めく美しい瞳だろう。
思わず神谷も「マーベラス★」と呟いてしまう、これからが楽しみなウマ娘だ。
もう少し体が出来たら、いよいよメイクデビュー出走といったところだろうか。
「ねえねえマヤはー? ちゃんと見てたー?」
「おうマヤノトップガン。すげえ楽しそうに走ってるもんだから、見てるこっちまで笑顔になっちまったぜ。名前からも思ったけど、戦闘機思い出すな。かっけえわ」
「えへへ。ちゃんと見ててくれたんだね! 許してあげる!」
「ありがとよ」
もう1人はおしゃまで溌剌な少女だ。名をマヤノトップガン。
小柄な体躯から繰り出される力強い動きには、ひょっとしたらどんな走り方も出来てしまうのではないかという末恐ろしさがある。
実際にやらせてみないと分からないが、そんなことを神谷の口から言うわけにもいかない。
神谷が彼女たちに出来るのは、せいぜいケガをしないよう見張っていることと。
「やー、二人ともすげーわ」
これは本当にただの正直素直な感想でしかないが、そうした賞賛を口にすることくらいだった。
神谷の胸元程度しかない身長の二人が、わちゃわちゃと至近距離でじゃれているのは大変微笑ましい。
爺のように緩く笑って見守っていると、しかし二人は神谷の賞賛に合わせて不気味なアイコンタクトを交わした。
瞳と瞳の間に桜色の電光が奔るが如くのそれに、神谷は気づくことがなく。
「でもでもー、なかなか勝てないんだよねー。ネイチャに」
「そなのー、アタシもネイチャがとってもマーベラスだと思うの!!」
ふむ、と顎に手を当てる神谷。
興味を持って耳を傾けている風の彼を置き、マヤノトップガンとマーベラスサンデーは楽し気に会話を進めていく。
「そんなネイチャにトレーナーさんが付けば、世界はもーっとマーベラス★」
「うんうん、マヤもそう思う!」
神谷は戦慄した。
「……なんてこった、マジかよ。そんな奴が居るなんて」
先ほどまでの自分の考察は何だったのか。
この才気煥発なウマ娘たちの中でも、"居る"のか。そうした絶対の王者が。
マーベラスサンデーもマヤノトップガンも素晴らしい走りを見せるウマ娘だ。
彼女らにトレーナーがいなかったら、沖野辺りは脚に頬ずりかましていても不思議ではない。否、ひょっとしたらそのままべろべろと嘗め回すかもしれない。
妖怪足舐めキャンディーマンの話はさておき、トレーナーのいないウマ娘がこの二人にそこまで言わせるとはと、神谷は生唾を飲み込んだ。
「そのネイチャって子は知らないが、俺はお前ら応援してっからな。担当トレーナーの許可取れたら、いつでもなんでも教えるから」
「え?」
「あれれー?」
おや、と神谷は首を傾げるが、先に傾げたのは二人の方だった。
かわいらしく二人で顔を見合わせて。それから困惑したような顔で、眉を下げてマヤノトップガンは神谷を見やる。
「……ネイチャだよ? ナイスネイチャ」
「有名な奴なのか。いやすまん、言ってなかったけど俺ここ最近着任したばかりでな」
「知ってるけど……」
「知られてたのかよ」
嵐のごとく突撃してきて、走るから見ててとだけ言われ。
そうして今に至るまで、素性も何も知ったものではなかった。
ああいや、名前は名乗られたが。
「……マヤ分かっちゃった」
なんだかわかりたくもないような渋い顔で、マヤノトップガンは唇を尖らせた。
「どうしたのマヤノ?」
「んー? えとねー、びっくりするくらいネイチャがへたれ」
「全然マーベラスじゃないね……」
続いてがっくりと肩を落とすマーベラスサンデー。
おいて行かれているのは神谷ただ1人だ。
「でもネイチャ、この前すっごくマーベラスな感じだったのに」
「珍しく練習の話をさ、自分からするくらいさ、楽しそうだったのにさー!」
ぶつくさと文句を垂れる二人の文脈を、神谷は全く理解できないままではあったが……とりあえずそのナイスネイチャというウマ娘はものすごく強いのにトレーナーが不在ということらしいと判断して、二人の会話に割って入る。
「よー分からねえが。そいつはトレーナーが欲しいのか?」
「んー、トレーナーが欲しいというか……」
指を唇に当て、思い悩むようにマヤノトップガンがぼやく。
その横に居るマーベラスサンデーも似たような雰囲気だ。
しかしどうも、トレーナーが欲しいというわけではなさそうだと神谷は受け取って。
求められることを重視する神谷の感想は、決して彼女らの欲しいものではなく。
「まあ事情持ちで才能ある凄い奴なら、きっと沖野サンがほっとかねえだろ。ちょっと話でもしてみるわ」
「あ、じゃあネイチャめちゃくちゃ遅いよ、全然すごくない」
「うんそれならネイチャ全然マーベラスじゃない」
「は?」
「マヤノ君、これは第2回マーベラスネイチャ会議が必要だー!」
「アイコピー! それじゃ一旦――」
『テイクオーフ(マーベラース)!!』
練習直後とは思えないとんでもない加速力で、足をぐるぐるさせる勢いでちんまい二人組は去っていってしまった。
巻き起こった土埃を払い、神谷は呟く。
「なんなの」
いつから習慣になったのかは、はっきりと覚えている。
この数日間変わらない、彼女の夜の自主トレーニング。
「――あと、3本やってこう。……や、4にしとこ。なんか、あと3回っていうのもちょっとアレだし」
ぐっと腰に巻いたゴムを調整して、軽く膝を休めるために屈伸を挟んで。
それからまた歯を食いしばって、自らが引いた"あの日"のラインを目指して遅々と歩む。
――楽しかった。
口を突いて零れた言葉を、結局彼女は覚えていた。
「ふっ、うっ……」
トレセン学園に入るまで、きっと自分もキラキラしていた。
物語の主人公だと疑いもしなかった。府中のスタンドから眺めたウイニングライブのセンターを自分と重ねて、いつかあの坂を誰よりも早く突き抜けるんだって夢想した。
脚が速いのは自慢だった。
小学校の頃から、クラスどころか学校でも誰にも負けなかった。
商店街のみんなに自慢した。
ネイちゃんは早いねと、みんなが笑顔で見守ってくれた。
中央トレセン学園に入る時だって、胸を張って報告出来た。
けれど――そこまでだった。
続いていた主人公としての道は、そこまでだった。
「い……よしっ……! 行った……!」
あと3本。
自らの心のうちでそうカウントを進めて。
また、最初からやり直し。
淡々とした自主トレーニング。
それこそがきっといつか実を結ぶと信じて。
「もういっちょ……」
実を結ぶと、信じて。そのうち、何がどう"実を結んだ"と、成功したと言えるのかも分からなくなった。
中等部に入ってそれなりの時間が過ぎた。
同室のマーベラスサンデーに最初こそ抱いていた対抗心もすっかり薄れた。
あっという間に置いていかれたと思ったのは、やはり専属トレーナーが付いたと知った時だろうか。
仲良しの面々はチームに入ったり、トレーナーを見つけたりと既に羽ばたく準備を進めている。
――チームリギルの入団テストを受けたのは、きっと焦りからだった。
最初は憧れていた。自分もあそこにと願った。
けれどもう、その時にはきっと心は折れかけていたのだろう。
もし入れなかったらどうしよう。その時自分の物語は終わるのではないかと――そんなはっきりと自らの感情に説明をつけていたわけではないけれど。
でも多分、振り返ればそういうことだ。あの時感じた怖さ、腰が引けた理由はきっとそうなのだ。
なのに、受けた。
マーベラスサンデーや、マヤノトップガンがトレーナーを見つけたあとに。
そして落ちた。それはもうあっさりと。
それなりに練習を重ねて、レースに向けて色々自分なりに勉強して、入団テストの時のレース運びなんかも研究して。
結果は、3着。
同室のマーベラスサンデーに、申し訳なくなった。
数日間、夜にずっと自分のデスクの灯りを付けっぱなしにしていた癖に、結果は一切伴わなかった。
そのあとのマーベラスサンデーの顔は、いまいち覚えていない。
ただ、入団テストのことに触れてこなかったのは、知らなかったからではなく優しさなのだろうとは気づいている。
情けなくて涙が出そうだった。
専属トレーナーを見つけるための模擬レースに出始めたのはそのあとで。
笑えるくらい3着ばかりを取り続けた。
「っし。あと、2本」
驚くほどしっかり脚が動く。無理だ無理だと思っていたのは自分だけで、あの日に彼と行ったトレーニングはまぐれなんかじゃなかったと教えてくれる。
でも、何日続けても、伸び自体は悪かった。あれから、1㎝もその先へは進めていない。
「でも続けるだけ。続ければ……」
きっと実を結ぶ――だろうか。疑問が鎌首をもたげる。
彼を思い出す。
自分の方が、よっぽど迷子だった。
道が分からない。がむしゃらに頑張ったって、何がどう変わったかも分からない。
足掻いて、足掻いて、足掻き続けて。トレセン学園に入学した時から、自分は一歩も動けていない気さえした。
楽を、してしまった。
お馴染み3着、なんて笑って言って、その時ふっと身体から力が抜けた。
肩の荷物を降ろしてしまったような感覚だった。
もしかしたらここで良いのかもしれないって、迷った末に見つけた場所が、ゴールなのかどうかも分からないけれど。
それでも見つけて、ほっと一息ついてしまったのだ。3着という、居場所。
3着で良い。キラキラしているのは一握り。
斜に構えて、マーベラスサンデーやマヤノトップガンの勝利を祝う。
その時の二人の表情も……やっぱりいまいち覚えていない。
そして。きっと、とどめはアレだろう。
『テイオーって……トレーナー居なかった、の……?』
『居ないよー? 無敵のテイオー様のトレーナーになりたいって人はいっぱい居るけど、カイチョーがちゃんと選べって言うからさー』
だからちゃんと選ぶんだ。無敵のテイオー様に相応しいトレーナーを。と。
そんな風に言われたら。もう、ダメだった。
選ばれることに必死になっていた自分。選ばれすらしなかった自分と同じ学び舎に、トウカイテイオーが居る。
模擬レース全勝。トゥインクルシリーズ出走を今か今かと待っている、ナイスネイチャの人生でもっとも大きな壁。
口にしたくなかった、認めたくなかった――この世界の主人公。
「……アタシにしては、やれてるはずだから」
あと1本。
きついきついと思いながら、それでもこなすのは何故だろうか。
ああ、やっぱり。楽しかったからだ。
届きたくても届かなかったなにもかも。
練習を、走ることを、走りに紐づく何もかもを、久々に素直に楽しいと感じられたから。
この世界の主人公が自分ではないと突き付けられて、それでも続けていたトレセン学園への在籍。
惰性だと己を嘲笑っていた。
あらゆるすべてを言い訳にした。
でも、もし。
もし、まだ迷っているだけだというのなら――久々に見えた、道こそがあの20㎝先のラインだったから。
「っし、ラスト1本……!!」
脚を伸ばす。懸命に。今日も自分で引いた、あの日と同じ距離。
あの日のように心を支えてくれる"何か"は無い。
けれど、心のうちを温めてくれた不思議な感覚を忘れたくもない。
――トレーナーなのか聞いておけば良かったかな。
――でも「礼をする」って言ってるタイミングでトレーナーかどうか聞いたら、卑怯な逆スカウトみたいに思われないかな。
――もし、"あの"トレーナーだったらどうしよう。そうじゃないといいな。
渦巻く感情に、蓋をする。
だって。
『そう言うなって。マジこの街来て初めて会ったのがお前で良かったわー』
自分でマーベラスサンデーに言ったではないか。
『いくら最初に会ったからと言って、アタシのトレーナーなんかにはなりたがらないっしょ。同期にテイオーが居るんだもん、猶更ね』
もしもあの人が、噂になっている"あの"トレーナーなのだとしたら。
キラキラした人は、そういう人同士が結ばれる。ブスの片思いなんて通らない。
そう、自らに言い聞かせるのが嫌だから。
だから、"あの"トレーナーじゃないといい。
『トレーナーじゃねえしな。メニューに口出しするのは違ぇだろ』
とは言っていた。あの日はバッジも付けていなかった。
だからといって、違うと決めつけるにはあまりにも――ウマ娘に対する理解が深かったようにも思えてしまって嫌になる。
悶々とした気持ちを持つこと自体も、分不相応だと言い聞かせて蓋をした。
あの日の思い出を胸に、それなりにまた頑張る。それでいいじゃないかと、それが"らしい"じゃないかと、言い聞かせ続けているのに、顔を出すのは何故だろう。
その答えを、己の中に未だ燻り続ける強く激しい炎を、今の彼女はまだ知らない。
「へへ、ここは知ってる、知ってるぜ……」
その声に、弾かれたように顔を上げた。
反動で腰から上がゴムの勢いに持って行かれそうになって尻もちをついて、そのままポールのところまでお尻ごとずささささと引っ張られてしまったけど、危うく頭をポールにぶつけるのは耐えた。耐えきった。
「なんかすげえ叫び声聞こえたんだけど!? ぎゃああああ!? とか! おいどこだ誰だ何があった!!」
あまりの羞恥に絶対今出ていきたくないと思った彼女。
だが現実は非情である。
「……なにしてんだお前」
「あ、あはは……よ、よく会いますね?」
「全くな。でもやっぱここか。へっ、俺ここは知ってるんだ……!」
「……ここからの帰り道は?」
「……………………」
「目ぇ逸らすなおーい……」
はあ、と溜め息。声のトーンが少し上に滑ってしまっている自覚を必死に頭から追い出して。
差し伸べられた手を受け取って、立ち上がってお尻についた土を払う。
「しかし自主トレか。精が出るな、お前も」
「やー……まぁ? アタシもウマ娘ですし?」
「ふーん。それにしても大層なもんだと思うが。こうやって誰も見ねえところで頑張れる奴が、最後に笑ったりすんだよな」
「あーあーあー! そーゆーのほんと良いから!」
耳心地が、良すぎるのだ。
気づけば心の炉に薪をくべられているようで。
何かの魔法かと言いたくなる。
だから、ついうっかりこちらも口が滑るのだ。
「良かったらちょっとまた、"見て"って貰えたり……しま、せんかね!? ああいや、色々予定とか無ければでいいんですけど、全然!」
「おうもちろん。こっちから頭下げて頼みたいくらいだ」
「さ、さいですか……」
「ふらふら散歩した甲斐があるってもんだぜ」
「ほんとに散歩なんですかねぇ……」
じとっと目を向ければ、露骨に逸らされる。
それがおかしくて小さく笑った。
「じゃ、見てるだけ見てっから。頑張れ」
「はーい。頑張りますよー、アタシなりにー」
「お前なりって、相当修羅だよなこれ……」
「いいから!!」
思わず手で顔を扇いで。
「はぁもー……あっつー……じゃあ行きますのでぇ……」
「おう」
息を吐いて、一歩を踏み出す。
数日間変わらないトレーニング。
正確にはもう少し前からやっていたけれど、明確に目標が出来て毎日同じメニューを繰り返しているのは数日だ。
「しかしこの修行編って感じがたまらねえよな。動画残しといて引退式で流せば全米が泣くぜ」
「アタシ、なんかで……!?」
「何言ってんだお前だからだろ。普段は商店街であんなかわいいかわいい持て囃されてる奴が実は裏でこんだけ頑張ってて、掴み取った栄光は街のみんなの応援があったからとか最高のヒロインじゃん」
「~~~~!! やめて!! やめろ!! ハズイって!!」
「しかも毎日毎日ステップアップしてるわけだ。コマ送りの漫画だってもうちょい尺使うぜ」
「んなこと……」
「だってこれ、この前より距離長いだろ?」
「――え?」
彼が指さすラインは、記憶によれば同じ程度の距離。最初こそ記憶頼りだったが、メジャーを持ってきてちゃんと測ったのだ。
それが、ズレているとは思えないが。
「バ鹿言え、俺がちゃんと記録を示したんだろが。俺が間違ってるはずがない」
「嘘……」
じゃあ、ひょっとして今まで自分は。
「日々成長する怪物か? なんだお前アタシは大したウマ娘じゃありませんみてえな顔しといて。メイクデビューで百バ身差つける布石か?」
「そんなこと出来ませんけど!?」
「まあいいや、頑張ってみろよ。まさか何日も同じことやってるわけもなし、毎日ちょっと先まで行っちまうみてえな化け物っぷり発揮してんのか?」
「え、いや、どーだろね……あはは……」
自分でそう笑っておいて、しかしナイスネイチャの表情は少し変わった。
もしも彼の言う通り、少し距離が伸びていたのだとしたら。
それを毎日繰り返してきた自分は、あとちょっとくらいは足を伸ばせたりするのだろうか。
「……アタシ」
「え、やる気? なんなの、俺が来るまで盛り上がり残してくれてたの?」
「待ってない!!!!!!!! ……あっ。いや、待ってないです」
「なんだそのリアクション。でもちょっとおい、伝説回来るのか? 全国のトレーナーさん申し訳ねえ、俺だけの独占生放送っぽいぜこれ」
「乗り出すな乗り出すな」
できなかったらどうするんだ、という言葉をなんとか飲み込んで。
レースのスタート前のように、ぐっと構えて、一歩を踏み出す。
気持ち大股で、ゆっくり一歩一歩確認しながら。
「澱みねえ動きだな……序盤のゴムの反動なんざそよ風にもなってねえ」
「……」
うるさい、という気持ちもまた、飲み込んで。
集中すれば、自らが引いたラインもはっきり見える。
「そこもうちょい行けるか!?」
「えっ……うん!」
と、一歩踏み込もうとした時に声。気持ち踏ん張りを強め、深く踏み込む。
「行けんのか……マジか……」
「自分で言った、くせに……!?」
「や、まあまあ良いじゃねえか、すげえのには変わりねえんだ」
悪びれすらしないこの男。
だが――ふと気づく。
「……あれ」
「どうした?」
「や、なんか」
脚を伸ばせば。
本当に、あれだけ毎日届かなかった部分に届きそうで。
「思ったより簡単……」
「て、天才はいる……悔しいが……」
「やめろぉ!!」
本気で戦慄したような顔をされると、なんか恥ずかしくて。
それでも自分で言ったことは本当で。
すっと伸ばせば、
ラインを越えた。
それはもう、あっさりと。
「えー、全国のトレーナー諸君。世界で最も幸福なトレーナーというものにですね、恥ずかしながらワタクシが――」
「やめてやめてやめてってば!!!」
――思い返せば。
今日もまた、あっという間に乗せられていたんだと気づく。
果たして、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかも分からないけれど。
それを問いただすことに価値などない。
それに、と彼の方を見れば。
「いやほんと、ウマ娘の進化って奴は計り知れねえというか、単にお前が天才なのかどっちだと思うよ……」
「前者!」
叫ぶ彼女はしかし、眉を下げる。
本当に嬉しそうだから質が悪い。ともすれば、あれだけ数日間乗り越えることのできなかった壁を乗り越えた自分よりも。
だから、ふうと一息ついて。
「ありがとう……ございました」
一言、礼を告げた。
「あ? いやいや礼を言うのはこっちだろ」
「いやなんでだ」
思わずツッコミよろしく手が伸びてしまうナイスネイチャに、しかし青年はどこ吹く風。
「頑張ってるとこを見るのが褒美みたいなとこあるからな、俺らみてえな人種は」
「……」
俺らみてえな人種。その発言に、いよいよナイスネイチャも目を閉じる。
その直前視界に入ったのは、気づかず見ないようにしていた彼の胸元。
買ってもらったスポドリをちびちび両手で傾けて、ポールに背を預け小さく呟く。
「今度、模擬レースがあるんですよ。急に決まったんですけどね」
「げほげっほ」
なぜむせるのかは、よく分からないけれど。
「そうじゃねえかとは思ってたけど、トレーナー付いてなかったのか」
「あはは、ウマ娘と一緒に勝ちたいトレーナーがアタシなんかを担当するわけないじゃないですか」
「んなことねーよ、全世界のトレーナーが」
「そのくだりはもうよろしい」
調子のいいことを言うこの男に、思わず言ってみたくなる。
じゃあ担当してくれますか。
なんて。
……でも。
「アタシに恩があるって言ってましたっけ……」
「そんな嫌そうな顔で言う???」
道案内を、恩と言ってくれるのは嬉しい。
そのおかげで出会えた。
それに、振り返って思えばやっぱり今日も――楽しかった。
でも、その恩のせいで口にできない。
負い目に付けこむようなことは、したくない。
「……えっと。結局聞けてなかったんですけど、貴方は、その」
トレーナーなのかと言いかけて、ふと気づく。
そんなことよりも前に、いくら何でも交わしておくべき礼儀があったことを。
ぽりぽりと頭を掻いて、らしくもない非礼に自分に呆れながら彼女は言う。
「そういえば、名前すら名乗ってなかったかー。……アタシ、ナイスネイチャって言います」
「そっか。なるほどな」
「なるほどなとは??」
予想外の返しに困惑するのもわずかな時間。
笑った青年は、告げる。
か細い恒星の輝きにうっすら反射するトレーナーのバッジとともに。
「俺は神谷。新人のトレーナーだ」
ああ、やっぱりと、胸の奥にすとんと落ちる感情。
納得と、それから何だろう。落胆だろうか。
「ひょっとして、フランスからお帰りになられたばかりという?」
「ナイスネイチャも知ってたか」
「まあ、はい」
そうではないかとは思っていた。
そうでないといいとも思っていた。
敏腕というのも、分かった。
ひょっとしたら、先ほど自分で言い聞かせていたように、この思い出を胸に頑張っていくべきなのかもしれない。
それこそトウカイテイオー辺りと契約を結んで、それはもうトゥインクルシリーズの歴史に名を刻むコンビになって。
その時にきっと、商店街のお客さんなんかにひっそりと自慢するのだ。
最初にあのトレーナーに指導してもらったのは、実は自分なのだと。
チームを組むという噂が一縷の望み。
それでも付いて貰えたらいいなと思うだけで高望みだろうか。どうだろうか。
3人くらい募集していたら、それならぎりぎり望みがありそうか。
しかし、そう。
やはり目の前の男は、トレーナーと呼ばれる存在だった。
「トレーナー……さん」
「おう」
口を突いて、意識の外で零れ落ちた言葉に、響く返事があって。
――ああ、いいな。
つい、そう思ってしまって。これは欲だと、ナイスネイチャの心は叫ぶ。
でも、星明かりの中でその欲張った問いを吐き出した。
「模擬レースで……担当を?」
「ああ、そのつもりだ」
「そう、ですか」
そうですか、と。自らの心に、週末の日付を刻んだ。
模擬レースまで、あと3日。