顔真っ赤なネイチャさんに「お、お馴染み1着ぅ……」と言わせるまで 作:東京競馬場
その日は朝から賑わっていた。
模擬レース当日というのは、重賞レースの開催される競技場ほどではないにせよ、トレセン学園内が沸き立つ日であることは間違いない。
そのレースの果てにチームへの招待状を手にした者や、そのレースの果てに1つの出会いを得た者にとってはこれから生まれる後進という名の脅威を目にする機会であるし。
学園側にとってはどう転ぼうとただの得だ。誰が勝とうが負けようが、優れたウマ娘が輩出されるならそれで良し。何の憂いもなくレースを観戦できる立場である。
無論、出場するウマ娘にとってはこれが人生の転換点になりうるし、応援に来た彼女らの友人知人もまた、それぞれの良き未来を願ってギャラリーを彩っている。
難しいのはトレーナーたちだろうか。
"これから"を共に出来るかもしれない優駿を見極める。未だスカウトに関してはドラフトなどの合意を待たずトレーナー個人個人の裁量に任されているあたり、歴史の浅さを感じなくもないが――今はそれがルールなのだから、従うしかない。
早い者勝ちの癖に、欲しいウマ娘が見つかるかは未知数。
ただこの日に限っては注目株は決まっていた。
――トウカイテイオー。
全勝の彼女がまた模擬レースに出るということの意味。
それはきっと彼女がスカウトを欲しがっているからであるというのが、学園側の解釈であった。
あながち間違ってもいない。
そも、ただ走りたいだけのウマ娘が模擬レースに出ることは推奨されていない。
ここはれっきとした審査の場であり、目的がある。
"全勝"を記録しているトウカイテイオーとて、公の場でスカウトを求めているのでなければこの芝の上には現れない。
単にこれまで、彼女の求める水準に見合うトレーナーとの出会いがなかったというだけの話だった。
誰が彼女を獲得するのか。
トウカイテイオーのエントリーが決まった時点で、話題の中心はそこから逸れることはなかった。
「はー……キラキラしてるなー、相変わらず」
模擬レースは7レースを終え、自らの出番まで残り2つを挟むのみとなったナイスネイチャはそう独り言ちた。
既に体操着の上からゼッケンを付け、体を温めるべくストレッチに勤しみながら遠くへと視線を投げる。
そこにはちょうど着替えを終えて出てきたばかりのテイオーが、まるでそこを己のパドックとでもするかのように胸を張り、観衆の注目に自信という名の笑みで応えていた。
話しかけに行くつもりはない。
思えば本当の本当に最初の頃は、緊張をほぐす傍ら同レースに出走する顔見知りに声をかけたりもしただろうか。
別に緊張に対して逆効果だったとは思わない。けれど、なんというか。
それはきっと思い返せば、慢心の表れだったのかもしれない。
気軽に話しかけて、ゆるっとやってこー、と笑顔を振りまくような余裕はもう無くて。
周りが走り続ける中、1人だけその場から踏み出せない焦燥と恐怖に縛り付けられて、ただ目の前のレース1つにしか意識を向けられなくなっていった。
このレースで必ず。このレースで必ず。
そう必死になり続けた結果、こうして今も同じ場所に停滞し続けている自分。
しかし不思議なもので、いくらか久しぶりのこのレースはそこまで悲壮感を覚えていなかった。
やれるだけのことをやってみたいと。この数日の充足感がそうさせていたのだと、彼女は明確に答えを出せたわけではないが。
トウカイテイオーに声をかけないのは、いつものような鎖の焦燥からではなく。
単に、今の自分の全力をぶつけてみたいとそう思えたから。
唯一ほんの少し胸の内で燻る疑問があるとすれば。
――なんで、トウカイテイオーがこのレースに出る気になったのか、だけ。
でも、それを今聞きに行くのもなんだか嫌で。
聞きたくないとばかりに垂れる耳を、ナイスネイチャは自覚していなかった。
けれど、その耳が軽くぴんと張った。
ざわめく会場の一方向に視線を向ける。
するとそこに、居た。
1人の青年が――って
「あぁれっ……!?」
思わずナイスネイチャは呻いた。
「マーベラース★」
「おう、マーベラース★」
「違う違う、もっともーっとマーベラース★」
「なるほど、マーベラース★」
「……なにしとんじゃあの2人。ていうか、やっぱり知り合いだったのかぁ……」
見覚えのありすぎる少女と一緒に、見覚えのある動きを繰り返す1人の青年。
思わずやる気が下がりそうになるのをぐっと堪えて――しかし、ざわめきの理由はもちろん彼らなどではなかった。
「やあ、神谷くん。今日の模擬レースはどうかな」
"皇帝"が、そこに居た。
悠々とした歩みで並ぶのは、1人のトレーナー。
その光景に皆が皆理解する。何も知らなかったウマ娘たちでさえも知るだろう。
きっとあの、マーベラスマーベラスしている一見間抜けな男こそが、噂の"フランス帰り"なのであると。
レースを控えたウマ娘たちが、みんな彼を見ている。
「あの人が」
「へえ……じゃあつまり」
「声かけて貰えるかどうかが勝負かも」
「知らなかったの? 体験行かなかった?」
「知らないけど、あんたの反応で腕は分かるね」
「……まけない」
ざわざわと、にわかにざわめく会場。
「……ま、そうだよね」
思わず零れた声は、斜に構えたいつもの呟き。
分かっていたことだ。あの人が
そうであったなら、こうなることは分かっていた。
「……負けたく、ないなぁ」
なんて思うのは、モブには傲慢すぎると心の底でもう1人の自分が叫ぶけれど。
それでも今日まで頑張ってきたのは、この模擬レースの為なのだ。
「ようシンボリルドルフ。マーベラース★」
「む?」
首を傾げるシンボリルドルフに、青年の後ろからひょっこりと大きな黒の二房が顔を出して同じように笑う。
「マーベラース★」
「マーベラスサンデーと一緒だったか、神谷くん」
「おう、ほらシンボリルドルフもマーベラース★」
笑顔のままに催促されては、案外とノリの良い皇帝が断るはずもなく。
というより、日頃から厳格たる自分が他のウマ娘から距離を開けられていると自覚しているが故に――
「待て待て待て貴様!! 会長に何をさせるつもりだ!!」
「おうエアグルーヴ。マーベラース★」
「……貴様」
「マーベラース★」
「……そんな顔したって生徒会一同は絶対にそんな挨拶しないからな」
「マーベラース……」
「いつから貴様の鳴き声はマーベラスサンデーのまがい物になったのだ……!!!」
供に連れてきたエアグルーヴのやる気が下がり続ける横で、ふふ、と小さく笑ったシンボリルドルフは一言。
「マーベラス、だな」
「会長!??!?!」
これにはマーベラスサンデーもにっこり。
「マーベラース★ ルドルフ会長もマーベラスだね!!」
嬉しそうなマーベラスサンデーに一度頷いてから、シンボリルドルフは少し表情を真面目なものに戻し青年を見やった。
「さて、神谷くん。答えを聞いていないが」
「そうだな。挨拶が終わったんだ、返事はしねえとな。いや中央トレセン学園すげーわ」
「ふふ。だろう?」
当然と言えば当然のこと。
青年――神谷は、この模擬レースを第1レースからすべて見ていた。
だからこそ実感するのだ。
優駿たちの卵とも言うべき存在である彼女らが、誰も彼も逸材の可能性を秘めたウマ娘であることを。
「いっそのこと全員担当出来りゃあなあ」
「なら今からでもチームを組むよう打診しようか」
「勘弁してくれ。妖怪足ペロキャンディーマン経由ならともかく、お前から理事長に話が行ったら理事長特権でマジでやらされそうだ」
「私としては、それでも構わないと思うが」
難しいものだと顎に手を当てるシンボリルドルフに、隣のエアグルーヴは眉にしわを寄せて呟く。
「会長はどうしてそこまでこの男を……」
「エアグルーヴ。キミもトレーナーを持てば気づくことがあるさ」
そう言われてちらりと神谷を見ると、マーベラスサンデーとじゃれていた。
「……いや、しかし、よりによってこれは」
「シンボリルドルフ。今度また生徒会室でジョーク研究しような」
「貴様ァ!!!!!」
これ扱いされた神谷のインターセプトに、本気で頭痛を耐えるように額に手を当てるエアグルーヴであった。
よく理解していないシンボリルドルフは、首を傾げながら約束の日取りを調整している。
「この前タイキシャトルの奴がアツアツのコーヒー飲んだあとに言ったんだよ」
「ほう?」
「『
「ははははははは!! それは凄いな!! 舌が、そうかなるほど、やけどでふふ、ははははダメだ笑いが止まら、止まらない!」
エアグルーヴのやる気が下がった。
「エアグルーヴ」
「なんだ……」
「笑いのセンスというのは日々磨かれるもんだぜ。誰だって最初はうんちで笑うんだ。それをそれぞれの人に相応しいものにもっていくのは、一歩一歩の知識と驚きさ」
「いや、しかし……」
呻くエアグルーヴの横でマーベラスサンデーがきらきらした瞳と共に顔を出す。
「
「そうマーベラス。……あれこれひょっとして俺が世界マーベラス計画に知れず手を貸してしまった……?」
「マーベラース★」
「ふっ、全部お前の手のひらの上だったよマーベラスサンデー……」
「マーベラース★ その気づきもまたマーベラスだよね!! うふふふふふっ!!」
苦渋の決断のもと、生徒会室でのジョーク研究が許されたのはそのあとの話である。
下がり続けるやる気を代償に、未来の可能性を選んだエアグルーヴであった。
可能性は、人を熱くする。
「――なんだあの一団」
思わずナイスネイチャが呟いたのも無理はない。
レースとレースの間隔はそれなりに空くからこそ、歓談の余地もあるのだろうが……それはもうめちゃめちゃに目立っていた。
特にエアグルーヴがまともにトレーナーと会話をしているように見えるのが大きい。
実際はどうあれ、やはり知らないところで外面の判断というのはされるものだ。
なんならこの状況で一番株ないし格を上げたのはそこに平然と混ざっているマーベラスサンデーだったりするのだがそこはそれ。
マーベラスサンデーはふとナイスネイチャの視線に気づくとぶんぶん手を振り始めたので、曖昧な笑みと共にひらひらと振り返しておいた。
そしてそこで気づいた。
思いのほか、自らの体が硬いことに。手を1つ振るにも違和感。
もう少ししっかりアップをするべきかと考えて、否定。入念に丁寧に行っているはずであるし、何よりこれ以上緊張をごまかすように動いてしまったらスタミナに支障をきたす。
皆が皆トウカイテイオーに注目しているのは言われなくても分かっている。けれどこれは自分にとっての大一番。
「ふぅ……この時間早く終わってくれないかなあ……」
ばっと走ってしまいたい。
と、そんなことを考えていた時だった。
「カイチョー!! あとおまけで
思わずそちらを振り向いたのは、無理のないことだろう。
楽し気にシンボリルドルフの居る方へ駆け寄っていくそのさまは無邪気な子供。
彼女たちが親しいことは周知の事実であるし、駆け寄ることに疑問の余地はない。
ただ、そのあとに彼女が言ったセリフ。その真意はいったい。
少なくともレース前に特定のトレーナーと話をすることは基本的にはマイナスだ。
当たり前のことだ。スカウトの可能性を自ら狭める行為になる。
けれどトウカイテイオーにとってはそんなもの関係ないのだろう。
世の中の色んなしがらみを、知らないとばかりに天真爛漫な笑顔と共に突っ切っていく姿は、たまらなく"キラキラ"していて。
「――よう、昨日ぶりじゃねえか未来のレジェンド」
「未来のレジェンドかー。うーん、テイオー伝説の方が好きかなー」
「じゃあThe legendは?」
「なにそれめっちゃよさそう!!!」
なんの違いがあった、と頭を押さえるエアグルーヴを置いて。
「カイチョー、今日の模擬レースしっかり見ててね! ボク、頑張っちゃうから!」
「そうか。……それは良かった」
穏やかな笑みを浮かべるシンボリルドルフは、ちらりと横目で隣の神谷を一瞥する。
どんな形であれ、こうしてトウカイテイオーがレースを心待ちにしているという状況そのものが彼女にとっては好ましかった。
「マーベラスも見に来てたんだ。そういえばネイチャも走るもんね。負けないよー?」
「マーベラス★ 頑張ってねテイオー!」
「うん。でもマーベラスだけなんだね。マヤノは?」
「マヤノはトレーナーさんとデートなんだって!」
「えー、もう、友達甲斐がないなー」
唇を尖らせるトウカイテイオーに、マーベラスサンデーは少しためらったように俯く。
逡巡すること少し、顔を上げて彼女は笑った。
「結果は分かってるから、って言ってたよ」
「そっか! ふふん、そうだろーね!」
ころころと機嫌が変わる彼女の笑顔は微笑ましい。
遠目に見ていたナイスネイチャの肩の力が抜ける。
詳しく何を言っているかは聞き取れないが、それでもシンボリルドルフからエールを貰い、神谷とも親し気なことは見て取れた。
――まあ、そうだよね。
変に気合を入れる自分がバ鹿らしく思えてきてしまうけれど。
その想いには今だけ蓋をする。押しとどめて、拳を握る。
やれるだけのことはやるんだと、見て貰えるだけチャンスじゃないかと。
せめて。
そう、チームにぎりぎり入れるくらいには――
「えーー!? チーム組まないのぉ!?」
その声に、ナイスネイチャは凍り付いた。
「そっか。ま、いいや。じゃあチームのエースじゃなくて、専属だね!」
「はは、じゃあ走りを見させてもらおうか」
「ふっふー、見ててよ、れーめーへん!!」
「ああ、黎明編だな」
その笑顔は、トウカイテイオーに、まっすぐ、向けられていた。
本年度第12回中等部所属ウマ娘模擬レース第10レース
芝右回り2000m(中距離)11人
ぞくっ、とした寒気はしかし一瞬のことだった。
それはきっと脅威とは感じられなかったということなのだろう。
無敵のトウカイテイオー伝説にとっては、たとえ序章であろうとも些事でしかなかった。
よく分からないが、かといって気にする必要もない。
それよりしっかりみんなが見てくれているかを確認して、トウカイテイオーはゲートに入った。
そしてその外、9番に入ったナイスネイチャは自らの背でゲートが閉まる音を聞いてはっと我に返った。
「っ……」
それまで何を考えていたのかを、覚えていない。
頭が真っ白になる、というのはきっとこういうことなのだろうと知った。
きっと今まで考えることを避けていた。
3着で良いと思い始めた頃から癖にはなっていたのかもしれない。
思いもしなかった。
今自分が何をしているのか。何をしようとしていたのか。
隣の気配は、誰よりも大きい。
「アタシ、は」
今、トウカイテイオーと同じものに手を伸ばしている。
たった1つしかないものに。
『……がんばれ、ネイチャ』
その言葉の意味を、今ようやく理解した気がして。
ゲートが、開く。
「きれーなスタートだな。それ専用の訓練でも積んでるのかってくらいに」
「もちろんゲート練習はみんなしているとも」
「や、もうここまでくると集団行動だろ。担当つく前の中等部生なんざ、普通半分は出遅れるぜ」
「それは言い過ぎだろう?」
「さーな」
後頭部で手を組み、見据える先は良バ場を駆け抜けていく11人。
メモを構える様子がないのは、記憶力への自信からか。
あるいは、今のところ誰も"これは"と記録するつもりがないからか。
「へー、気持ちいいくらいの大逃げだな、4番。スタートも良かったし」
「オイシイパルフェか。彼女は最近脚質を見直して逃げを試し、成績を上げていると聞く」
「……生徒会長すげえなおい」
「私ではなく、目に留めなければならない1人1人のウマ娘が素晴らしい……と、キミは分かっていそうなものだが」
「じゃあお前もすげえウマ娘の1人なんだよ」
「ふ、そうか。ならば今だけは私より、彼女らをしっかり見てあげてくれ」
「言われなくてもな」
ハナに立った4番が1人悠々と逃げていく中、ぐんぐんと縦に伸びていく展開。
「先行集団と後方はっきり分かれたな」
位置取りには少々粗が目立つが、そんなものはこれから先に努力するべきこと。
最初は、先行だから前に行く、差しだから押さえる、それでいいと神谷は思う。
無言で見据えるレース展開に、しかし外野は盛り上がりを見せていく。
やはり動向が気になるのはトウカイテイオーだろう。
これが本当のレースなら、まごうことなき一番人気だ。
「トウカイテイオーは外に付けたな」
「巻き込まれるのを嫌ったか?」
「いや、しっかり展開が見えているんだろう」
「まさか。感覚でこなしてるだけだろうさ。それができるから天才なんだ」
「しかしこのままではトゥインクルシリーズでは通用しないな」
やいのやいのと、自らの考察を述べディスカッションを進めるトレーナーたち。
本来ならあの輪に収まっているべきなのだろうかと疑問が鎌首をもたげるが、隣を見ればこの学園の"皇帝"が腕を組みレース展開を見定めている。
ならこんな好位置をわざわざ外れる理由もないかと、神谷はレースに目を戻した。
確かに現状トウカイテイオーの素質は図抜けている。
位置取りのうまさというよりは、むしろその足捌きとでも表現しようか。
巧みなステップが自分の体を勝手にいい位置に向けてくれている。ゆえにスタミナにも不安がない。ゆうゆうと自分のペースで走ることが出来ている。
――そう、自分のペースなのはトウカイテイオーだけだ。
「……4番の子、掛かっちゃってるな」
「ああ。ただもともとスタミナが売りだった少女だ。それで後半の伸びに期待が出来ないからこそ逃げを打つという方法をとった。テイオーのプレッシャーでペースを乱しているかもしれないが……」
「なるほど。それでも展開としては悪くないのか。いいな、頑張り屋さんだ」
追込を狙うほど完全な後方に控えているウマ娘は居ない。
全体的にトウカイテイオーを基準としたハイペースに巻き込まれ、逃げは想像以上に逃げを打ち、先行バは"トウカイテイオーは先行バである"という認識から無理やりついていき、後方の差しウマ娘はなんとか最終コーナーまで離されまいと必死に食らいついている。
ただこのペースでは、最後に足が残っているかどうか怪しいところだ。
「トウカイテイオーはすげえな」
「ふむ。どうだろう、キミの担当にするつもりは?」
「そりゃ出来るなら伸ばしてやりてえが……」
悩むように、ぼやくように神谷はトウカイテイオーの走りを見据えた。
先行してバ群の中に居るのに、悠々と1人で走っているようなその姿が目に焼き付く。
「笑ってるな」
「ああ、いつも笑っている」
「……シンボリルドルフは、トゥインクルシリーズで笑ってたか?」
マーベラスサンデーにも、エアグルーヴにもこの会話の真意はいまいち掴めなかった。
けれどきっとこれこそが答えだったのだ。
シンボリルドルフのこれまでの動き、そして神谷というトレーナーに期待したもの。
「いや、私は」
目を細め、トウカイテイオーの走りに己の過去を重ねるように呟いた。
「笑う余裕なんてないくらい、楽しかったからな」
「……そうか。そうだな。お前のダービー最高だった」
「ありがとう」
シンボリルドルフは、自らの日本ダービーを思い出す。
おそらくは人生で最も、「勝ちきった」という感情が自らの身を焼いたレースであることは間違いない。
そして、それに不可欠だった要素があるとすれば。
――スズパレード。ビゼンニシキ。
二人のウマ娘の顔を思い出し、シンボリルドルフは首を振った。
「走ることが楽しい――それは間違いない」
けれど。無敵のテイオー伝説を築くなら、もうそろそろ。
"本気"になる取っ掛かりが必要なのだ。
走る、走る、走る。
耳に響く蹄鉄の音がやかましい。
11人という決して多い人数ではないこのレースで、その音を煩わしく思ったのは何故だろう。
このうるさい胸の鼓動をも無視出来ていないからだろうか。
歯を食いしばり駆ける足が、明確に"掛かって"いることに気づけないほど、ナイスネイチャはバ鹿ではない。
ただ、どうしようもない焦りが自らの心を掻きむしっているのは確かだった。
明らかなオーバーペース。
「でもそれはっ……!!」
周りを見据え、そして何より前を睨む。
「あんたたちだって同じでしょッ……!!!」
吐き捨てるように呟くのも致し方のないことだ。このふざけたハイペースは自分だけではない。皆がそうだからそうなるのだ。
まるで、たった1人の逃げウマ娘に全てを支配されているような感覚。
だが原因は違う。はっきり分かっている。
見られるものなら見てみたい。
今彼女が、どんな顔をしているのか――。
前を行く"8"のゼッケンを見据えて思う。
あるいはこれは徹底マークにも近い動きなのかもしれない。
どのウマ娘もみなトウカイテイオーを意識し、彼女の一挙手一投足に気を遣って駆けている。
思わず口角が歪んだ。
それはきっと、ウマ娘に限った話ではないのだと。
みんながみんな、トウカイテイオーを見ている。
彼女の走りを見ている。
分かっていたはずなのに。知ってる知ってる、そう自らに言い聞かせてきたはずなのに。
諦めていたはずなのに。彼女には勝てなくても、と思っていたはずなのに。
なのに。
なのにどうして、こんなに視界が潤むのか。
こんなに胸が苦しいのか。
「よーし」
「そろそろ」
「無敵のテイオー様の実力」
「見せちゃおっかなー!」
まって、と声にならない声を漏らした。
今何mだと思ってるんだ。
どれだけみんなもがいて走っていると思ってるんだ。
たった今踏み越えた視界の端に映る
残り、800m。
なのにどうして、
どうしてお前は、
「そんなっ――」
前掛かりの姿勢になっている――?
「うっそだろあいつ!?!?」
「最終コーナー前からスパート。相当足を溜められたな」
「いやすげえわ、これは無敵のテイオー様だぜ」
「スカウトは決めたか?」
「確かに、まあ最終レースだしな。そろそろ――」
惜しみない賞賛は決して耳には届かない。
届かないけれど。
届かないからこそ、潤んだ視界は諦めという晴天を簡単にくれはしないのだ。
「う、ぁ――」
脚が、動く。
脚だけは、動く。
いやだ。その一言が頭を真っ白に染め上げる。
気づけば、その姿勢はテイオーと同じ。
「待って――」
歯を食いしばる。
「待ってよ――」
踏みしめる脚は、その加速だけは、いつもよりずっとずっと力強く。
むーりー!! と叫ぶバ群を切り裂く超加速。
見えない、何も。
ぼやけた視界には前を進むウマ娘の番号も分からない。
追い越すウマ娘の顔も分からない。
ただ、コースを形作る内ラチだけを頼りに、必死に脚を回し続ける。
その先、ちっぽけに見える――たった今逃げのウマ娘を追い抜いた、あの背中。
「置いてかないでよ――」
ああ、そうだ。
置いていかないで欲しい。
3着で良いって、言い訳していたくらいに嫌だったんだ。
現実を突きつけられるその光景が。
キラキラは、自分の前には無いんだって。
誰かに見せつけられるのが――嫌だったんだ。
「トウ、カイッ……!!」
『トレーナー……さん』
『おう』
「――テイオーーーッ!!」
それだけは。そのキラキラだけは、アタシだけの――
「……あいつだ」
「ん?」
思わず呟いた神谷の声に、トウカイテイオーが盛り上げに盛り上げた喧噪の中でも1つだけ反応があった。
穏やかな雰囲気を崩すことのない、余裕と期待。
その表情が、レースを前にしたウマ娘には相応しくないほどの母性を感じさせるものであることにすら、神谷は気づくことがなく。
視線は駆ける最終直線に固定されたまま、本能で理解した『一緒に凄ぇことが出来るウマ娘』の番号を見ようと目を凝らして――
それより先に彼女の瞳を見て思い出した。
それが、どのウマ娘だったかを。
「そっか……あいつか」
「嬉しそうだな」
「そうか? そりゃな。でも」
振り返り、神谷も笑みを隠さずに片眉を上げた。
「お前も笑ってるぜ?」
「私が?」
驚いたように、シンボリルドルフは頬に手を当てて。
「ふむ……そうか」
納得と共に。
「そうだろうな」
楽しそうに、頷いた。
直後競技場は、この日一番の大歓声に包まれた。
「はあ……はあ……ぐっ……うぅ……」
肩で息をして、徐々に引き戻される現実。
歓声はそれこそ、重賞レースなどには遠く及ばない代物ではあるけれど。
それでも嫌でも耳に入るのは――
「テイオー!! 凄いぞテイオー!!」
「あんな凄い走り模擬レースで見られるなんて!!」
「見に来て良かったよー!!」
沸き起こるテイオーコールだった。
そして。
――3着。
それが彼女の現実だった。
トウカイテイオーどころか、大逃げを打っていたウマ娘にすら追いつけず、彼女の模擬レースは幕を閉じた。
「いえーい!! 見たかー! これがテイオー様の実力だー!!!」
わあああああ!!
と、押しかけていた多くが盛り上がる競技場。
その彼女の背に、脚が耐えきれず倒れ伏すウマ娘たちが何人もいることなど――きっと誰も気にはしない。
それが悪いとは言わない。
もともとそういう世界だと分かってこの場所に足を踏み入れた。
複数で1を競うのだ。涙を呑む者の方が多いに決まってる。
ただ、それでも。
その多数の側に置かれるのが悔しくて辛くて、それから逃げるように心を守る手段が、斜に構えてヒネたそのメンタリティだったから。
「そ……」
震える唇を整えるように、一度仕切り直して。
「……そううまくはいかないかー。あははー」
最初から分かっていたことではないか。
「まぁ? アタシにしては頑張った方じゃあないですかね? 自主トレくらい年頃のウマ娘としては当然のことと重々承知ではありますけども、それでも……」
それでも、頑張った。
あの日、一縷の希望が見えたと思った。
たった20㎝。今日走ったのがその何千何万倍の距離だったとしても、あのほんの一歩の距離が希望だった。
1人で、その希望を擦るように頑張って。
「それでも、さぁ……」
ああそうだ。
無我夢中できっと、抑え込んでいた心はもう。
考えないようにしていた感情は、見るも無残にむき出しにされて。
はっきりと意識してしまったらダメだった。
その20㎝と、たった少しの夜のトレーニングだけが。
「頑張ったと……思う、んです……よ……」
最後に自分に残された、"キラキラ"だった。
潤んだ視界が、そのままだったら良かったのに。
彼女が見たのは、勝利の余韻そのままに"トレーナーさん"にじゃれつく主人公だった。
「悪い、テイオー様」
「ん? どしたの??」
「黎明編の終わりは最高だった。俺も諸手を上げて喝采したいとこなんだが」
「え、う、うん」
ぽんと頭に手をのせて、神谷は笑う。
「――その続き、激闘編の準備をしにいかなきゃならん」
「げ、激闘編!?」
だ、と走り出す速度は、ウマ娘に比べたらずっとずっと遅い。
ただその方向に走り去る遠い小さな人影に、トウカイテイオーは気づいた。
そしてなんとなく察した。彼が何をしようとしているのか。ほんの少し残念ではあるけれど。
「お、追いつけるわけないよ! 誰か呼んでもらった方が」
「はっはー、追いつけるから追いかけるわけじゃねえんだよ! ……いつか分かるさ」
「なんだよそれカッコつけー!!」
しかし決して、その遅々とした走りはただの無謀ではなかった。
突如競技場に突っ込んでくる明石焼きの人力車屋台。
葦毛のイケメンが、親指で屋台を指して言い放つ。
「助ける約束だからな。――乗ってけ」
「さんきゅーゴルシ愛してる!!」
「おうよ、愛の分だけぶん回してやらぁ!!!」
「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」
「はいじゃあここでドキドキじゃんけん! 何回愛してるって言ったでしょーか!!」
「億万回分だぜ♡」
「かー、そういうの求めてないんでー」
「じゃあもう撤回っ!! そんなこと言うなんて!!」
「嘘だよハニー愛してるぜー!!」
びゅーーーーん。
瞬く間に小さくなっていく明石焼き屋台に、取り残された多くの面々。
不安そうにその先を見つめるマーベラスサンデーと、
「何回? 撤回……ふ、ふふふはははは!!」
今日は良い空気しか吸ってない皇帝が盛大に笑い転げていた。
それは案外と何も考えていないように見せて、何も心配などしていないからかもしれない。
第0戦 模擬レース
トウカイテイオー 1着
ナイスネイチャ 3着
トゥインクルシリーズ通算成績 0ー0