時系列はライスと会った直後くらいです。
午後11時。
夏と言えど風が冷え始めるこの時間に、私は群馬トレセンの練習用ターフの上で大の字になっていた。
首から提げていたストップウォッチのボタンの上に指を置いたまま、上がっている息を整えようと深呼吸をする。
いくつもの不可の文字が並ぶ芝1200mのタイム、そこについに数字が書かれた。
しかしその数字は何の慰めにもならない数字で、私はおもむろに腕を持ち上げ、ターフに振り下ろした。
「ハァ……クソッ、こんなんじゃレースにも!」
疲れ切った体を怒り任せに起き上がらせ、タイム記録表が挟まったボードを腹いせに掴み、ガードレールに向かって投げつける。
くるくると空気抵抗に負けて失速しながら回るボードはガードレールに接触して、ガンッという鈍くも軽くもない中途半端な音を立ててターフに転がった。
それがまるで自分のようで、実に惨めで、私は再びターフに横になった。
ストップウォッチに浮かぶ電子文字は『1:27:49』。
1200mのデビュー戦の平均タイムにプラス17秒ほどした数字が、今の私の才能の限界だった。
目をそらしたい現実にストップウォッチの電源を落とすが、数字は脳裏にこべりついたように瞼を閉じても目の前に浮かんでくる。
「……クソッ!」
何をしたってこの現実は変わりはしない、ここで己の限界を嘆き騒ぎ立てたところで何も変わりはしない。
上体を起き上がらせて、重い腰を上げる。
離れた場所に落ちているボードを拾い、憎らしくも頭から離れない数字を殴り書いた。
「……アホらし、帰ろ」
自分の体のことは自分が一番よくわかっている。
もう成長のピークが過ぎているのに今更肉体造りなど意味がない、1000mすら超えられない自分にそれ以上走る能力なんて必要ない。
ルドルフさんの手を取ってから、今まで以上にそういう思考をすることが間違いなく増えた。
パンダたちの前ではなんとか平静を保っているが、そうでない時の私の目は死んだ魚の目以上に腐って、濁っている。
走りの事を話すパンダたちといるのが嫌でトイレに逃げ込んだことだってあった。
その時に見た鏡に映る私は、まるで殺人犯のような顔つきだったのは今でも覚えている。
走ることを嫌悪し始めればウマ娘として、アスリートとして終了だと群馬トレセンに入学するときに言われたが、もしそうなのであれば私は何度終わっているのだろう。
考えるだけ無駄、頭を振って思考を止めて私は帰り支度をする。
汗にまみれたジャージを着替え用バッグに突っ込み、制服を崩して着る。
誰も見ていないのをいいことにリボンすら着けず、練習用ターフの電灯を消した。
職員室にコースの入り口の鍵を戻すために廊下を歩いていると、どうせ誰もいないと思っていた職員室に誰かいるようで、扉の隙間から光が漏れていた。
誰だろう、そんな思いと共に扉をノックすると、久しく聞いていない教官……トレーナーのいないウマ娘を指導する教師……の声が返ってきた。
「教官……久しぶり。まだ残ってたんだね」
「久しぶりだなハチ。お前こそ、こんな遅くまで残ってていいのか」
「親にも学校にも許可は貰ってるから。教官は今何をしてるの?」
「
「……そっか」
私はコースの入り口の鍵を元の場所に戻し、職員室から踵を返さずに教官のもとに足を運んだ。
そして教官の隣の教師の椅子を移動させて、教官の後ろに座った。
「どうしたよハチ」
背もたれに背を預け、飛び出た頭を教官の背中に預けた。
「ねぇ教官」
「どした」
「私って、走らない方がよかったのかな?」
「……話してみろよ」
教官の机に備わっているライトしか光源の無い暗い天井を見上げて、震える喉度を抑えながら固くなる唇を必死に動かす。
「私ね、中央に見学しに行ったときにデビューするって決めて、デビューするために必死に頑張ってきたんだ。だけど……だけど、走り切れないの!」
「……」
「何度も何度も走ってみたのに!走り方も変えて、距離も変えて、コースも変えて!なのに……絶対に走り切れない!超えなきゃいけない壁が超えられないの!何度やってもクソみたいなタイムしか出ないの!何をやっても変わらなかったの!私はッ……私は……もう、どうしたらいいのか、わかんなくて」
「……そうか」
中央から帰ってきてもう数週間が経とうとしていた。
その間私は一度もサボることなく今までより何倍も質を上げたトレーニングを、何倍も多くの数をこなしてきた。
平地やトレーニングコースでは最高速度を上げるためのトレーニングと加速力を上げるためのトレーニングを。
峠の登りではパワーとスタミナを上げるためのトレーニングを、下りではコース取りと思考力・思考速度を上げるトレーニングを。
誰に頼るわけでもなく基本一人で頑張ってきた。
一人で自分の弱さに打ち勝つんだ、そう意気込んだはずなのに、その志はとうの前に真っ二つに折れている。
絶不調のまま体に鞭を入れてここまで来たが、限界はある。
肉体にも、メンタルにも。
「……教官」
「……なんだ」
「私、どうしたらいいかわかんないよ。体の成長ピークも過ぎてるし、障害だってある。こんな体でデビューなんて、できるわけないよね」
「……どうだかな。俺はそうは思わない」
「え……?」
教官は他のウマ娘たちのトレーニング資料を重ねてタテとヨコを机に叩いて合わせて机に置くと、ヨイショイという掛け声と共におもむろに立ち上がる。
動く背中に頭を上げると、教官が上着を着て鍵を取るのが見えた。
何をするつもりなんだろうと思うと、教官は引き出しからストップウォッチと一枚の紙を取り出して、私を見据えた。
「ハチ、まだ走るれるか」
「え?う、うん。走れるけど……」
「聞き方を間違えた。走る気はあるか」
「っ……まだ、あるよ」
「そうか。じゃあ先にダートコースにいる」
教官はそれだけ言い残すと電気も消さずにさっさと出て行ってしまった。
私は急いでトイレに駆け込み、先ほどまで着ていた汗まみれのジャージを再度着て、小走りでダートコースに向かった。
コースに着くと、そこには一枠だけのゲートを手で押してダートに入れていた教官がいて、私はどうしてゲートを用意しているかわからなかった。
ゲートを用意し終わったのか、教官は腕で額の汗をぬぐっていた。
その際に私がいるのに気付いたようで、こっちに来いと手招きをしてくる。
私は誘われるがまま教官のもとに行くと、教官は私に聞いてきた。
「ハチ。お前、最近ゲートを使ったトレーニングしてるか?」
「ゲートを使ったトレーニング?最近は使ってないけど、ちょと前には授業で使ったよ」
「最近は取り入れてないか。それなら、今から使って走ってみろ。距離はそうだな……800mでいい」
「800m……?トゥインクルシリーズに800mは存在しないよ?それにゲートを使ってって、どうして?」
「いいんだよ。とにかく走ってみろ。ゲートインしたら俺のタイミングで開くから、それでスタートだ」
「わ、わかった。行ってくるね」
私は教官が用意したゲートに入り、800m先のガードレールの向こうにいる教官を見据える。
スターティングのポーズを作り、ゲートが開く音を逃すまいと耳を澄ます。
800mは私の足が痛くなる前にゴールを切れる距離だ。
この距離はカサマツレース場で見ることが多いが、正直、逃げと先行の勝率が高く中央レースと比べると面白味はそこまで感じない。
だけど私の足はワガママを言えないから、カサマツ開催の800mのレースの映像は多く見てきた。
おかげでこの距離の走り方はわかる。
それは──
ガシャン!
──大逃げだ。
800mなら息が切れることも無いから、最初から最後までトップスピードで駆けることができる。
しかしそれは周りのウマ娘にも言えること。
脚を溜める時間も距離も無い800mレースで追い込みと差しは少なく、先行と逃げの作戦を取るウマ娘がほとんどだ。
ゲートが開いた音を耳が捉えた瞬間に、私の足はダートの砂を蹴飛ばして弾丸のようにゲートを飛び出した。
ピッチ走法ですぐにトップスピードに到達するが、同時に第一コーナーが迫るのもすぐだ。
しかし峠とレース場ではコーナーの性質が全く違う。
峠であればコーナー進入前に一気に減速して進入し、コーナー内で再加速して駆け抜けていくスタイルが基本だが、レース場ではそうではない。
レース場のコーナーはストレートと比べ若干遅いだけのスピードでの突入をしなければならない。
もし峠と同じような走り方をレース場のコーナーで行えば周りに置いて行かれるのは必至だ。
私はコーナーに入るときにかかる横Gを身体を若干斜めにして足首の角度を上手く変えることでしっかり砂場を踏み、直線時よりもさらに加速する。
このトレーニングにおいてスタミナの温存は必要じゃない。
必要なのは絶対的なスピードで、そこに最後までスピードを維持する以外の余剰体力はあるべきではない。
私の体はステイヤー気質であったがゆえに、この距離ではトップスピードを維持してもスタミナが少し残る。
であれば何をすべきか、その結論はすぐに見えた。
「(限界を超えたスピードを……出すだけだッ!)」
私はグッとダートに足を踏み込ませて、ロスしてしまう反発力を考慮して先ほどよりも強い力でダートを蹴り上げる。
後ろに吹き飛ぶ砂よりも速く前に進み、一気に第一コーナーから第二コーナーを駆け抜け、最終直線に入る。
教官の姿が一瞬見えて、そこまで走ればいいというのがわかると、私は一気に姿勢を低くして、前が見えないほどの超前傾姿勢になる。
走り続けなければ倒れるというリスクを背負い、引き換えに今までにない高速を手に入れる。
残り短い直線をさらに速いスピードで駆けるために、ピッチ走法からストライド走法に切り替える。
ダートしか見えない視界の流れが一気に速くなり、頭頂部に当たる風の強さが変わる。
加速した分重くなる空気抵抗に若干驚きつつも、残り短い直線を自覚のないまま走り抜けた。
気付いたのは、教官の「よし」の一言だった。
私は徐々にスピードを落とし第三コーナーの手前で止まる。
肩を上下させるほど息を切れてなく、スタミナを使い切ることができなかったことを悔やんでいると、教官が私に手招きをしてきた。
肩を落としながら教官のもとに赴くと、教官はいきなり私にストップウォッチを……私のタイムを見せつけてきた。
どうせ大したことないタイムだろう、そう思って見てみると、映されていたのは意外どころではないタイムだった。
「0:48.9……これって」
「ああ、平均タイムよりも……しかも笠松時代のオグリキャップよりも速い」
そんなバカな、口をついででた言葉は自分のタイムに対する否定だけだった。
自分にそんなタイムが出せっこないといつまでも信じられずに頭を抱えていると、教官が私の名前を呼んで言った。
「なあハチ。お前、笠松に行かないか?」
「笠松に……?」
「ああ。このタイムなら笠松の800mのレースで十二分に戦える。俺はそう思うぜ」
確かに、このタイムが笠松で出せるなら入着だって夢じゃない。
夢にまで見た一着だって、もしかしたら取れるかもしれない。
だけど、私はトレーナー……ルドルフさんから中央トレセンでトレーニングしないかと誘われている。
どちらも魅力的ではあるが、取れるのはどちらか一方のみだ。
1000m先を見たいという目標に辿り着くのに最も近い道は、きっとルドルフさんの案に乗ることだろう。
「(でもそれって……私にとって正解なのかな?)」
わからない。
何が正解なのか、何が不正解なのか、わからない。
私はどうしたらいいかわからず教官の顔を見る。
すると教官は小さくため息を吐いて、そして私を睨んだ。
「ハチ」
「……教官?」
「レースを
「ッ……!?」
教官の言葉に私の核心を突かれた気がして、言葉を失うとともに少し胸が痛んだ。
「ハチ。お前についての話は聞いている。名前は知らないが中央のトレーナーが付いたこともだ」
まだ誰にも言っていないはずなのにどうして、私がそう聞くのを遮るように教官はまくしたてる。
「だからこそ、お前は甘いんだ」
「甘い……?」
「ああ。自分の考えを持たないで、他人に道を選んでもらう。オイシイ話を差し出されたら、後先考えずにそれを取ってしまう。そうしてきた結果が今だろ?」
教官の言葉に、一気に頭に血が上るのを感じた。
それが図星だということを理解して、無視して。
「教官に何がわかるの!?皆と違う私の何が!」
「わかるわけないだろ。自分の芯すら持たないでフラフラしてるお前の気持ちなんて」
「芯くらい、私だって……!」
「あるのか?じゃあ言ってみろよ」
「それは……1000mを……」
勢いで出てしまった言葉に後悔した。
中身のない空っぽの反論が大人に通じるはずがないと、論外だと分かっていながら出しかけた言葉を飲み込んだ。
言葉を無くした私に教官は再びため息をつき、私の頭に手を乗せた。
「今のお前は道を選べるんだ。中央に行くのも、笠松に行くのも、ここに留まるのも自由に選べる。だが、どこに行こうとお前に芯が無ければ、どれを選んでも最後にお前がなるのは負け犬だ」
「……」
「ハチ、負け犬になるな。お前の芯を探せ。芯はお前を必ず1000m先に、更にその先まで連れて行ってくれるはずだ」
教官は最後に笑って私の頭を撫でて、校舎に向かって歩いて行った。
また一人になってしまった私は、グラウンドのライトを無意味に見上げて呟いた。
「1000mの更にその先……そこに連れてってくれる、私の芯……」
私は視線を更に上へ上げて、曇っている夜空を見上げた。
星一つも見せてくれない雲は、まるで私の進むべき道を隠している靄のようにも見えた。
でも、道が見えないだけでは進まない理由にはならない。
ルドルフさんとあの日約束した1000m先の景色を見るためにも、それを叶えるための私の芯を探すためにも、今は見えない道を進まなくちゃいけない。
「私は……」
今わかることは、正解の無いこの答えはきっと
私が求めるモノは、きっと……
公務員辞めるの勿体ないと言われるけど、仕事として受けてる授業中に寝てる奴らと一緒にいたくもないし…あと仕事してる感じがしないのが一番嫌ですね、感覚が学生時代と変わんないんで給料貰うのが申し訳なくなってくるんです…
次は実家から通える車関係の仕事に就きたいですね…整備士免許なんにも持ってないけど()
5月末までは埼玉にいるからどこかで会えるかもね!(そんなわけない)