峠を下り始めてから1分経った頃。
ボクはあのウマ娘を見えなくなるほどの大差ぶっちぎっていて、このままなら余裕で勝てると考えていた。
昼間に軽く走っただけでこの峠のベストレコードを更新したんだから、ボクが更新する前のレコードしか出せていない彼女に負けるはずがないと思いながらペース崩さず走り続ける。
「(ふふん、やっぱ素人じゃボクには追い付けないね♪)」
余裕をかまして鼻歌を歌いながら3つ目のコーナーを曲がったとき、ほんの一瞬、目の端に光が差し込んだ気がした。
最初の直線で10バ身以上離したはずなのに、わずか3つのコーナーでここまで差を詰められるのはありえない、そう決めつけて見た物は虚構だと都合良く頭で処理した。
「(気のせい気のせい!こんな地方でボクに追い付けるウマ娘なんているわけないもんね!)」
ボクは速度を上げず落とさずターフを駆け抜ける。
ボク自身も綺麗だと思うようなコーナリングで、あのウマ娘には直線でもコーナリングでも間違いなく勝っていると思った。
けど、また目の端に光がちらつく。しかも、さっきよりも長く。
「(やっぱり、差が詰まってる……!?)」
ありえない、そんなことは絶対に無い、自分にそう言い聞かせて足を回す速度を上げる。
保っていたテンポが一瞬のうちに崩れ、焦りが先行して走りのフォームも崩れ始める。
でもそんなボクを無視して、コーナーに差し掛かる度に視界の端に映るライトの光は、映る時間が少しずつ延びていき、そして大きくなっていく。
あのウマ娘がウソでなく本当に距離を詰めて、ボクを捉え始めている証拠だ。
踏み込みを強くし加速を上げる。
スタミナが切れる前に走り抜けてしまおうと考えたが、脚質の合わない逃げは足の負担になり、余計にスタミナを奪われてしまった。
「(しまった……なんてバカなことをしちゃったんだボク!)」
ほんの僅かでもスタミナを残し、集中力を切らさずに最後まで走り抜けるのが峠レースで勝つための絶対条件。
なのに既に集中力は先行する焦りに圧され、荒れるフォームはスタミナを奪っていく。
だからといって、そのまま続けるほどボクは賢くない訳ではない。
逃げから先行へ、崩れたフォームを直して呼吸を足のリズムに合わせて整える。
たったそれだけのことをするには、まだ十分すぎる差がある。
「(リズムを掴んで……フォームを直して……行けッ!)」
ダテに中央ウマ娘のエースを努めていない。
ボクはボク自身が思った以上に体勢を早く立て直して、元のスピードまで加速する。
少しだけ振り返ると、あのウマ娘のライトはコーナーで曲がっても消えない位には近づいていた。
「(まだ距離は……5バ身は無いね。でも、これなら逃げ切れる!)」
勝機は掴んだボクは調子に乗らず、一定のペースで着実に勝利に手を伸ばす。
どこにもミスが起きないように、直線はもちろん、コーナリングのライン取りからブレーキングポイント・加速タイミングを冷静に頭で判断して、その最適解を探る。
間違いなく最初の時よりも良い走りができていて、このままの走りなら、きっと昼間にやったタイムアタックよりもかなり速いタイムを出せると思う。
でも、この安定した走りでも、あのウマ娘は差を詰めてくる。
前半よりも安定した高速域での走りに、なぜ付いてこれるのか全くわからない。
何かおかしい、そう思うことしかできない。
ふと、昼間にあったあのウマ娘との会話を思い出した。
ボクが迎え撃つのはチャレンジャーじゃない、何故ならあのウマ娘が自分がチャレンジャーじゃない的なことを言っていたからだ。
なら他所から来たボクがチャレンジャーということなるけれど、ならば相手は一体何なのか。
「(わからない……もしかして、ギャラリーにいたあの娘が言っていた『この峠最速のダウンヒラー』って言うのは……レコードを作った娘とは違う?)」
ボクの頭に、そんな疑問が浮かんだ。
この峠のレコードは本気じゃなくても大差で更新できたのに、本気で走っている今は距離を詰められている。
どうしてなのか、それは更新前のレコード保持者があのウマ娘ではないと考えると辻褄が合う。
「(いくら違うウマ娘だろうと、ボクは負けない!)」
コーナーでのグリップ感を確実に掴み、芝を遠心力で負けない限界速度で駆ける。
横Gが体を押し倒そうとするけど、そのギリギリのラインを見極める。
峠のコーナーは一つ一つ特徴が違い、同じ場所は決してない。
初めて走ったときには様子見で軽く走ってレコードを更新したから、天狗になってたんだ。
今になってあのウマ娘の言葉を聞いておけば良かったと後悔する。
「プラクティス、しといた方がいいんじゃないですか?」というのは体力を消耗させたいが為に言ったんじゃなくて、こういうものの確認をした方が良いというアドバイスだったんだ。
「(つまり、あのウマ娘がボクに迫る理由は……コースの熟練度!)」
理由がわかって余計な思考が終了した頭はやけにクリアになっていた。
でも同時に、クリアになった思考は現状を正確に判断しすぎて、かえってボクを焦りを掻き立てる。
自分のレースの勝利への渇望という本能を、残っている頭の作業域で必死に押さえつけるが、隙間から漏れる焦りは少なくはない。
「(マズイ……マズイよトレーナー!峠に特化したウマ娘になんて……ボク、どうしたらっ……)」
クリアだった頭の中はいつの間にか再び焦りに支配され、ぐちゃぐちゃになった。
処理していたはずの思考は複雑に絡み合った糸のように、何が何だったのかすら判別できない。
絶好調が絶不調まで降下して、頭と体のフォームは合わず、それどころか肺も言うことを聞かず、全てのギアが噛み合わなくなる。
しかし、勝利への執着は体に「走れ」と命令をして、噛み合わない体は半ば諦めている思考に反して「それでも」と前へと進む。
もっと前へ、もっと速く、と冷静な思考は本能に埋め尽くされ、直感だけがコーナリングの命綱のなっていた。
もう後ろを見る余裕すら無いボクは、ただひたすら足を前へ前へと出して、見えない敵に大量の冷や汗を流しながら走るしかなかった。
走れ、進め、勝て。
その言葉だけが耳の中で、頭の中で反芻して周囲の音が遮断されかけたとき、頭の中に飛び込んでくる言葉があった。
「ねぇ」
ハッと我に帰った。
極限まで狭くなっていた視界は急激に広くなり、失っていた冷静さはたった一つの感動詞で戻る。
ハプニングとか事故とか、頭のどこかでそういうのを憂慮していたから、冷静さを取り戻せたのは現状では僥倖だ。
でも、それは皮肉でもある。
「息、荒いよ」
まだほんの少しだけ後ろにいるんだろう。
姿は見えないけれど、声は聞こえる。
なによりも、ボクのじゃないライトが、すぐ隣のターフを照らしていた。
この声は、ライトは、あのウマ娘がすぐ後ろにいることの証拠だ。
「(なん……で、どうやって……あれだけの差が)」
ボク自身がどれだけの時間を焦りから回復するのに使ったかはわからない。
けれども、あの距離を詰めるほどの時間は与えていないはずだ。
ならばどうして。
「(連続コーナーを過ぎて直線……この短い区間でこの距離が詰められた。ボクのスピードが落ちた?向こうが加速した?)」
ゴルシみたいにワープでもしない限り、短時間で詰めるのは到底できない距離のはず。
しかし現にあのウマ娘は真後ろにいる。
たとえそれがワープであれなんであれ、後ろに張り付かれたのは事実なのだ。
今のボクがすべきことは、冷静になった頭で現状を打開する方法を考えること、それだけだ。
「(あのウマ娘はたぶん直線は速くは無い。となると距離が詰められたのはコーナーかな?もしそうならボクももっと速く行けば……でも、さっき以上のスピードでコーナーに突入すれば、たぶんゴム蹄鉄が今以上に垂れてグリップがなくなる。最悪は、アンダーが出てインを明け渡すことになる)」
自分のシューズの状態は走っていれば嫌でもわかる。
アンダー・・・グリップが効かないせいで起きてしまう曲がりきれない現象が、これ以上ゴム蹄鉄を垂れさせると起きてしまうということを。
ライン取りが上手くできていない状態での高速コーナリングはゴム蹄鉄の消費が激しく、かつ脚への負担が大きい、それはさっき身をもって知った。
「(この後は4連ヘアピン。このシューズの状態じゃ最後まで競り合えないけど、それは背中に張り付かれてたらのこと……)」
ボクは残りの短い直線に全力をかけ、一気にあのウマ娘を突き放す。
「(追い付かれる前に、逃げ切る!)」
最初の右曲がりヘアピンに突入。
足を若干右斜めにして、左への遠心力に対してのグリップの準備と、減速を同時に行い、コーナリングの体勢を作る。
考えたラインが現れたタイミングで一気に加速してコーナーを抜けていく。
「うっ……くっ……!」
やはりゴム蹄鉄がかなり垂れてきているせいでアンダーが出て、大きく外側に膨らむ。
それでも体勢を立て直して次のヘアピンの突入の準備をする。
減速をするほどのスピードはもう乗ってなくて、あとは惰性で3つのヘアピンを抜けなければならない。
それであのウマ娘に勝てるのか。
答えは嫌でもわかる、否だ。
「(……っ、ウソ!)」
まだ一つしかヘアピンを抜けていないのに、もう後ろに現れた。
ライトはボクのすぐ隣の芝を照らして、次のコーナーでそこを通るのを宣言しているようにも見える。
「(前について……ブロックするしか!)」
芝を照らすライトの光に乗るように横へスライドし、あのウマ娘の前を走る。
視線を感じるようになり、真後ろにいることを実感した。
「(あとはこのままゴールまで……)」
勝つための計算は2つ目の左曲がりヘアピンに突入したことで打ち切られる。
さっき学んだことを活かし、アンダーが出ないようにしっかり減速し、理想のラインを描いてコーナー駆ける。
ゴム蹄鉄がしっかり芝を噛んでくれて、足が滑ることなくヘアピンを抜ける。
「(この速度が限界……これ以上は転んじゃう!)」
コーナーでの限界スピードの感覚を頭に叩き込んだところで、再び頭が回り出す。
ゴム蹄鉄は垂れ続けるから必然的にさっきよりも速度は落となさくちゃいけない。
失速と加速の振れ幅は大きすぎて、もう細かいスピードコントロールはいくら冷静だろうと不可能。
「(このスピードと位置じゃ絶対に転ぶ……アウトから攻めるしか)」
しょうがない、そう割りきって3つ目の右曲がりヘアピンでの為にインからアウトへ移動する。
あのウマ娘の速度だと直線で抜くのは間違いなく不可能だし、ヘアピンも入り口のすぐあとに頭を塞いでしまえば抜けなくなる。
「(これならなんとかな……なっ!?)」
今、ブレーキングポイントの限界が過ぎた。
減速したボクの後ろには同じように減速したあのウマ娘がいるはず。
なのに、あのウマ娘のライトはボクの隣の……イン側の芝を照らしていた。
「(ウソッ!?減速しない……というか、減速しないと転んじゃうよ!?)」
自分よりも相手の心配をしてしまうほど、その行為は危険なことだ。
コーナリングに失敗して転ぶだけならまだいい。
しかしこの速度では転ぶだけでは絶対に済まない。
だというのに、あのウマ娘はその危険性を無視してヘアピンに向かっていく。
追い上げで並走状態になり、ボクとあのウマ娘のヘアピンに突入したタイミングは同じ。
でも速度が圧倒的に違う。
安全に曲がっていけるボクの速度と、遠心力が地球上から消えない限り吹っ飛んでいってしまう速度のあのウマ娘。
「(無茶だよ!絶対に転んじゃ……え?)」
信じられない光景が目に飛び込んできた。
必死に理解しようとしてもそれを受け入れたくないと頭が拒むような、そんな光景。
「(なんで……溝を走ってるの!?)」
ウマ娘が基本的に走るのは芝とダート。
でも、あのウマ娘が走っているのはどちらでもない、コンクリートの上だ。
インの更にインとでも言うべきなのか、それともそもそもコース外と言うべきか。
あのウマ娘は側溝を走り、その段差で無理やり遠心力を抑え、グリップの限界を越えた高速コーナリングをした。
「(はや、すぎるー!)」
思った以上にゴム蹄鉄が垂れていて起きてしまったアンダーのせいで大回りになったコーナリングに対して、あのウマ娘は超のつくほどの高速コーナリングで、空いてしまった差は1バ身。
埋めるにはもう、グリップとスタミナ、そして精神力が足りなかった。
「(だめ……ボクじゃ……追い付け、ない……)」
どんどん失速する。足が、腕が、身体中が重く感じる。
もう加速できない。
「あれ……あのウマ娘は……?」
前のウマ娘はもう最後のヘアピンを抜けていったのか、目の前にはもういなかった。
ボクがゴールラインを切ったとき、その差は大差で、タイムは9秒差だった。
初の、黒星だ。