金がねェ…欲しいモンが買えねぇ…
辛くなった呼吸に後ろから聞こえる濡れた芝を走る足音が重なり始めたのはいつからだろう。
連続コーナー区間に入ってから、残っていた差はすぐに無くなった。
後ろを走るパンダトレノさんのライトは私の脚元を照らしていて、私の影の鮮明さが彼女との距離を表している。
鮮明であればあるほど距離は近い、パンダトレノさんの走りはまるで煽り走りだ。
「(……コーナー一つ一つに恐怖を感じる……今までこんなこと、無かったのに)」
峠のコーナーなど侵入前にしっかり減速さえすれば曲がっていける、それが峠のセオリーだ。
だけど煽られながらそれをするには、まだ私自身のレース経験が足りなさすぎる……いや、仮に足りていてもできたかどうか。
私は必死に脚を回しているのに後ろの圧は離れない、ピッタリ張り付いてくる悪い子のそれに近い。
「(焦ってはいけない……後ろを抑え続ければ、勝機は十分にある。煽られようが自分の走りをすれば……必ず)」
中盤の同じようなコーナーが連続する区間を抜けて、変則コーナーが連続する終盤の区間に突入した。
ここからの区間ではタイトコーナーが連続して次にはロングストレートなど、私の脚が活かせる場面がいくつか存在する。
終盤の最初の方にある二連続九十度コーナーを抜けた先のロングストレートと、スカイパークまでの最後の直線。
その道中にもきついコーナーはあるが、そこさえ防ぎきってしまえばいいだけの話だ。
「(勝利が少しでも見えてくると冷静さが戻って来る……安心感なのか、それとも慢心か。いずれにせよ、最後のコーナーで前に立っていれば、私の勝利は確実)」
深くまで攻め込むことは不必要、ただミスをしない最善の走りこそ今求められていること。
それを実行するには後ろからのプレッシャーに耐える、しかもただ耐えるだけでなく、その圧を苦痛に感じないようにしなければならない。
でなければ、良い走りなどできるわけがないからだ。
パンダトレノさんに張り付かれたまま最初のロングストレートに入る。
このロングストレートは約百五十メートルで、コース全体で見れば僅かでしかないが、差を作るには十分だ。
コーナーからの立ち上がりは互角かパンダトレノさんの方が上だが、そこからの加速勝負では圧倒的に私が上。
終盤の最初のコーナーを抜けた所で一度並んでしまうものの、私は一気に脚を回してパンダトレノさんを突き放す。
やはりコーナリングと立ち上がりはパンダトレノさんの方が上だが、この直線は完全なパワー勝負、彼女が私に勝てる道理はない。
「(お友達を追い続けて何年か……あの速さに追いつくためにずっと走り続けてきた。こんなところで、速さで負けるわけにはいかない)……っ!?」
消えていったはずの足音が、再び耳に飛び込んできた。
まだ百メートルも走っていないのに追いつかれるはずがない、思わず振り返る。
「……き、っつ……」
パンダトレノさんは見たことの無いような広さのストライドで全力で脚を回して、トップスピードを稼いでいた。
ストライドを徐々に広げていって、トップスピードの上限を無理やり上げたようだ。
もちろん、普通のウマ娘がレース場で使う技術と変わりは無いが、そのストライドの広さは尋常じゃない。
ゴールドシップという高身長で脚質が追込みのウマ娘がいるのだが、彼女はストライドが非常に広いことで有名だ。
だが後ろにいるパンダトレノさんはそれ以上のストライドで走っていて、今にも股が裂けてしまうのではないかと心配になるほどだ。
「(この雨の中であんな無茶をするなんて。そこまで広げたストライドを減速時に狭められなければ、待っているのは転倒だけだというのに……)」
直線がもう終わる。
今ブレーキをかけなければガードレールと友達になってしまう、横を流れていく雨粒のスピードがそれを示している。
しかし、今のポジションのまま減速すればインが空いてしまい、コーナリング中に差されてしまうかもしれない。
コーナリング中のポジション変更は危険が伴うが、ここまでやってのけている彼女ならやりかねない。
私は少しイン側に寄り、踵を使ったブレーキングをする。
脚は滑っているがそれでも確実に減速はできている、このままコーナーに……そう思った瞬間だ。
「(パンダトレノさんのライトの光が……アウト側から!? アナタ……一体何をするつもり!?)」
光が横から飛び出してくる。
そして、パンダトレノさんが私と並ぶ。
ブレーキング中の私と、脚を回したままの彼女が、並ぶ。
「しょっ……正気ですかアナタ!」
思わず口に出た言葉は私を通り過ぎていくパンダトレノさんには届かない。
彼女はそのままアウト側を走って行き、コーナー直前で踵ブレーキを、そしてそのまま脚を滑らせて行ってしまった。
一瞬の踵ブレーキでスピードを調節して滑らせる走法……ドリフト走法をやってのけたのだ。
タキオンさんが事前に集めてくれた妙義山でのプラクティスの様子では、彼女はこの走法を一度も見せていない。
そのドリフト走法を、こんな雨の中で彼女がやったことに、私はもう戦意を喪失しかける。
パンダトレノさんはドリフト走法でコーナリングをして、最速でコーナーを抜けていく。
ポジションは完全に入れ替わった。
「(っ……! 前に出られたからって……まだ、まだ負けたわけじゃない! ゴール終盤のロングストレートで……あそこまで付いて行ければ! 付いて……行ければっ!)」
必死に脚を回す。
恐怖すらも理性で抑え込んで、とにかく前に追いつくための速さを……そう思っていたのに。
前との距離は一向に縮まらない。
それどころか、離れていく。
「(付いて行けないっ……コーナー一つ抜ける度に、確実に差が開いてく……)」
後ろから見ていると、パンダトレノさんは私と比べてコーナーへの進入スピードが格段に速い。
何故あそこまで速いのかはわからないが、雨が得意な私ですら恐ろしいと感じる領域を、彼女は物にしているということだ。
追い抜かれてしまったコーナーを私が抜けた時の彼女との差は一バ身程度だったはずだが、今はそれすらわからない。
コーナー一つ分……二つ分と、バ身では測れないほどの距離が開いてしまっている。
「(同じスピードでコーナーに入れない。あの人と私の……どこがそんなに違うっていうの……)」
最終直線でも詰めることができない距離に、既に見えなくなった彼女のライトのテールランプの残光に、勝敗は決したと、足の回転を緩めようとする。
もう勝てない、これ以上やったところで何の意味があるのか。
そう、諦めようとした、刹那。
ヴォンッ……ヴォンッ……ヴォォォォォン!
謎の音が、後ろから迫る。
お友達は今日は見えない、だけど……違う何かが見えた。
それは一瞬、爆音を轟かせて私の横を通り過ぎていく。
車だ。
白と黒の、とても古い車。
パンダトレノさんと同じ色をした、同じ開閉式ライトの車。
その車は私の前でブレーキランプを光らせると、ハザードを一瞬だけ焚いて加速していった。
「(……もしかして)」
私はその車がブレーキランプを光らせたのと同じ場所で踵ブレーキをして、減速。
ハザードを焚いた場所で、一気に踏み込んで加速していく。
するとどうだ、不思議なぐらい簡単にコーナーを曲がって行けるではないか。
「(私に走り方を教えてくれている……? あの車は……パンダトレノさんの……)」
車に付いて行き次のコーナーを抜けると、車は煙のようにフッと消えた……まるで最初からいなかったかのように。
そして消えた車の向こうに、一瞬だけパンダトレノさんのテールランプが見えた。
「(諦めようとしてたのに……まるでトレーナーのようなことをするのですね)」
遠くから、同じ車の音が聞こえた。
「(いいでしょう……最後まで走り切って見せます。娘さんが負けても……知りませんから!)」
私は脚の回転を今まで以上に上げて、一気に加速する。
コーナーとコーナーの短い直線を危険領域を飛び越えたスピードで駆け抜けて、踵ブレーキで減速する。
ドリフト走法とはまた違うが、今の私にできるソレもどき、ブレーキングしながら進む走りだ。
ゴム蹄鉄が耐えられないスピードでわざと突っ込み、滑りながらそのコーナーに侵入する。
グリップが効き始めたタイミングで方向転換して脚を回せば、ドリフト走法ほどではないが、今までの堅実な走りよりも速く走れるはずだ。
「(ドリフト走法はまだできないけど……私だって、このバトルに勝ちに来ているんだから!)」
目を見開き、雨の中に残光を残して消えていこうとするパンダトレノさんを睨む。
コーナーは残り少ない。
私は今出せる全てを絞り出し、今にもコーナーの向こうに消えてこうとするパンダトレノさんに追いすがる。
九十度コーナーを先の走法で抜けて、緩い連続コーナーを駆けて、そして、最終コーナーを抜けた。
パンダトレノさんは、一足先に最終コーナーを抜けたが、まだ私の射程圏内だ。
「(距離は三バ身程……ここからは、加速勝負!)」
ラストの約二百メートルの直線に入った瞬間に、体勢を出来る限り低くして、空気抵抗が少なく地面を蹴る力が強くなる前傾姿勢を取った。
視界に映る雨粒が先ほどよりも速く横を流れていき、自分が加速していることがよくわかる。
これならばパンダトレノさんを追い抜ける、そう思ったのだが。
「(あれは……超前傾姿勢!? それにあの広さのストライドで走るなんて……間に合わないッ!)」
確かに徐々に距離は詰まっているのだが、それでも向こうの逃げるスピードも速い。
直線は残り百メートルほど、差は二バ身程度。
だけど、その差があまりに遠く感じる。
「(時間が無い! もっと……私の脚っ、もっと回って!)」
無理矢理脚を回して、ストライドの幅も広くする。
グンと加速していきパンダトレノさんとの距離は縮まるが、並ぶには至らない。
残り五十メートル。
「(届いて……届いて、届いてッ!)」
目を瞑って頭も低くして、もっと空気抵抗を減らす。
前は見えないがゴールは直線が終わる場所、後は真っ直ぐ走るだけだ。
もう自分がどれほどのスピードを出しているのかわからない。
ゴールまであと何メートルなのかもわからない。
ただ、走るだけ。
「うぅぅ……はあああああああああッ!」
全力で腕を振って、全力で脚を回して……声が聞こえた。
『カフェ! 減速したまえ!』
その声に反射するように上体を上げて、踵ブレーキをかける。
いきなりのブレーキで急停止できるスピードではなかったのか、私の脚はズルズルと滑っていく。
強く瞑ったままの目を開けば、既にゴールである直線の最後を通過していて、私はスカイパークの駐車場の目の前の緩いコーナーを滑っていた。
ゴム蹄鉄のグリップが効き始め、私はスカイパークの駐車場内で止まることができた。
停止と同時に膝に手をつき、肩で息をする。
「ハァーッ……ハァーッ……フッ……ゥー……」
ぼやける視界を袖で拭い、額に張り付いている前髪をかき上げる。
目を瞑っていたせいで勝敗がわからず、観戦用であるドローンを探すと、どこからともなく正面に現れた。
私はドローンのカメラを見て、カメラの向こうのタキオンさんに尋ねた。
「勝負は……どっちが勝ったんですか……?」
あくまでも冷静に、乱れる息を無理やり整えた口調で訊くと、タキオンさんはしばらくの沈黙の後、言い渋るような口調で伝えてきた。
『……僅差だったが……君の負けだ、カフェ』
「……そう……です、か……」
私はそれを聞き、この雨を降らしている暗い天を仰いだ。
悔しい……その感情を抑えきれず漏れ出してしまったのを誤魔化すために。
カフェ編はもう少しだけ続くんじゃ!