が、何故か現代の渋谷に迷い込んでいた。
ジェゼッペ・ヴェルディ(1813~1901年)
現代でも公演される『椿姫』、『アイーダ』などを生み出し「オペラ王」と呼ばれた偉人*1である。
1888年、そんなヴェルディも長年の仕事に疲れ引退を決意し始める時期に差し掛かっていた。
オペラの仕事よりも慈善事業をしたり*2農業をする方が*3有意義であると感じていたのだった。
ある日、音楽新聞「ミラノ音楽新報」に掲載されたとある記事を見つけた。
それは「謎の音階」*4と名付けられた音階で、これまでにない不思議な響きを持った音*5に彼は興味をひかれた。
オペラに疲れていたヴェルディは、ほんの手慰みで、ほんの気まぐれで久しぶりに音楽を奏でた。
長音と短音の入り混じるハーモニーは違和感を覚えながらも、どこか心地よさを感じる。
そして、気づけば現代の渋谷駅前*6にいたのである。
ヴェルディは困惑していた。
自宅にいたはずなのに、それがいつのまにか見たこともない景色の場所にいる。自分もいい年齢だから耄碌したのかもしれない。きっとこれは自宅にいながらに見ている幻覚なのだ。
そう思うと今まで見たこともない大勢の人混みも、見慣れたキャベツ畑に似ているような気がしてきた。*7
ボケ始めているにしても、知らずのうちに畑にまで出てしまっているのでは前後不覚もいいところだ。
幻覚らしく自宅用の簡素な服でも周囲の黒髪の人たちはヴェルディを気にしていない*8が、ここで寝転がって正気に戻るのを待つというのも気が引ける。実際は恐らく畑の中なので汚れてしまうだろう。
せっかくの幻覚なのだから楽しんでみようと思ったヴェルディは人混みを避けて路地へと抜けると、見慣れない小さい家が並ぶ一角へとたどり着く。
地元の人間からすれば少しの距離だったが、慣れない景色と慣れない空気の中で老体のヴェルディは大いに疲れてしまった。
さすがにヴェルディにもこれだけ長く体感的に続くものは幻覚ではないのではないか、という不安が頭によぎっていた。それ以外の何かと聞かれると分からないのだが、妄想や錯覚にしては現実感がありすぎる。
何か用事があって海外まで出かけたのを忘れてしまったのか、それとも遠出を先で頭でもぶつけてしまったのか。
先ほどの黒髪の人達から判断するに東洋の国のどこかだろう。政治などに興味もなく*9農場にこもっていたヴェルディには遠い外国のことは良く分からなかった。
ただ遠い場所にあるだろう我が家とキャベツ畑が懐かしかった*10。
「キャベツ植えたい……」
心細さに呟くと、その声を聴いたかのように目の前に緑色の玉が飛び出してくる。
「キャベツだ!」
見違えるはずもないグリーンなボールにヴェルディは年甲斐もなく飛びついた。遠い異国の地で信じられるのはキャベツだけだった。
「おや……これはツヤツヤとしている」*11
「おーい、おじいさーん!」
声のする方を見れば乗馬帽子に似たものを頭にを被った少年が手を振りながらこちらに走り寄ってきていた。
「そのキャベツ俺のなんだ! 受け止めてくれてありがとう!」(日本語)
「ああ、君のキャベツか。これは何て品種なんだい?」(イタリア語)
「俺はアゲ太郎っていうだ」(日本語)
ヴェルディの興味はキャベツにしかなかった。
必死にキャベツを指さし外国語でまくしたてる老人にアゲ太郎は自分の名前を告げる。
まさかキャベツの品種を聞かれているとは思わなかったし、言葉が分かってもアゲ太郎はキャベツの細かい品種については分からなかった。*12
「このキャベツはアッゲタロというのか*13」(イタリア語)
「ところでどうしたいんだい。こんなところで観光なら駅前はあっちだよ」(日本語)
土地柄、外国人にも慣れているアゲ太郎は駅の方向を指した。きっと道に迷ってしまったのだろうと思ったのだ。
今きた道を指さされたヴェルディにもその意図は分かったが、いまのところ行く当てもなく異国をふらふらするしかない。
どうやらこの国の人は親切なようだが、助けてもらってもどうすればイタリアに帰れるか分からないし、どうやってきたのかもわからない。それよりもそのキャベツを食べてみたいのだがいいだろうか。どこでそのキャベツが手に入るのだろうか。
「そのキャベツを食べられないかね」(イタリア語)
「それならうちにおいでよ」(日本語)
不思議とキャベツに関しては言葉が違っても通じた。ただ単にヴェルディがキャベツを食べたいような顔をしていたから空腹なのだと伝わったのかもしれない。
少年に導かれヴェルディは住宅街の一角にある店の中へと入っていった。
しぶかつ。
渋谷に店を構える大衆向けのとんかつ店である。
アゲ太郎はこのしぶかつを営む店主の長男であり、次期店主となることも期待されている少年だったのだ。
ヴェルディは誘われるままにとんかつ屋の
こざっぱりとした店内は清潔感がありながらもオリエンタルな雰囲気を感じさせ、ヴェルディの音楽家の感性をバチバチと刺激した。
「いやバチバチと……これは……?」
バチバチと鳴っているのは揚げているトンカツだった。
「これはトンカツだよ」
「トンカツ……コートレット*14か」
ヴェルディの故郷では大量の油でバチバチと揚げることはせずに、バターやオリーブ油で揚げ焼きにする。
また肉も豚ではなく叩いて薄くした子牛を使うのがイタリアでは一般的であった。*15
「おじいさん、ヒレカツ定食でいいかい?」(日本語)
「ああキャベツをたくさん頼むよ」(イタリア語)
通じないはずの言葉の意味を知ってか知らずかキャベツを大盛りにしたアゲ太郎がヒレカツ定食を出すと、その見慣れぬ提供形式にヴェルディは身の動きを止めた。
(板に乗った皿の上には青々としたキャベツ、そしてトンカツ。陶器のボウルに入っているのはライス。スープは木製のカップか)
ナイフもフォークもないが、紙の袋に入った2本の木の棒が添えてある。
(これはチョップスティックだな)*16
慣れてはいないが、見様見真似で箸を使うことはくらいは出来る。何しろ指先を何十年も使って仕事をしてきたのだ。
指に挟んだ木の棒を器用に使い、わしっ千切りのキャベツを掴んで口へと運ぶ。
ドレッシングもついていない生のキャベツだが、ほのかに甘くシャキシャキとした食感があって柔らかい。
元のキャベツの品質、鮮度が良いのは当然だが葉の繊維を損なわないように刻まれている技術は
続けて肉を口に入れる。
柔らかい肉にサクリとした衣も軽く油切れが良い。
年齢と共に歯が弱くなり胃も重いものを受け付けなくなってきていたが、この肉は弱くなった顎の力でも簡単に噛み切れて胃も重くならない。
そして肉のあとに食べるキャベツもまた絶品である。
「美味しかったよ、ありがとう。この国の金は持っていないのだが使えるだろうか」
「ああ、俺があとで両替してくるよ」*17
しっかりと完食し腹の膨れたヴェルディは店を出て、行く宛先もないことを思い出して途方に暮れた。
来た時と同じように急に元の農場に戻れるのではないかと思い、渋谷の街をぶらぶらと歩いてみたが徒労に終わり、やがて日が暮れると疲れ果てて道玄坂の路地の隅に座り込んでしまった。
「あれ、おじいさん?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、キャベツの少年がヴェルディの顔を覗き込んでいる。
「君は……」
「観光で疲れたなら、中で休んでいきなよ」
少年が目の前にある建物の中を指さしていた。
疲れた様子のヴェルディに対して親切心で何かを言ってくれているようだ。
先ほどのトンカツも美味しかったし、きっと悪いことにはならないだろう。
心まで疲れたヴェルディは再びアゲ太郎の言われるままに店の中へと入っていった。
店の名前はCLUB BOX。
アゲ太郎がDJに目覚めた店である。
♪♪♪ ッ!! ■■■■””!!
店内にはヴェルディの理解できない音楽が溢れていた。
聴衆が耳を澄ませるコンサートではなく、ステージに立った人間が演劇を見せるでもなく、重低音に怪しげな明りとダンスと何よりも圧倒的なパワーが爆発しているのである。
もう少しヴェルディが昔の人間であれば黒魔術のサバトを行っていると思ったかもしれない。
「なんだこれは」
「クラブハウスさ! 座れるスペースがあるから、そこで休むといいよ!」
ヴェルディの知っている音楽とは全く違う形の音楽である。
若者の文化なのだろう。老人である自分には理解できないのは当然だが、それを差し引いても「時代が違いすぎている」と感じるには十分だった。
気おされしばらく様子を見ていたヴェルディだが、好奇心を刺激され注意深く観察を始めるとステージでターンテーブルを回しているDJが音楽の発生源だと見抜いた。
(あの黒い円盤が回転するのに合わせて音が鳴る。それを手で遮ったり横にある機械を触ることで変調させているのだな)*18
「おじいさん、何か飲み物持ってこようか」(日本語)
「ああ、とても興味深い場所だ」(イタリア語)
キャベツ以外の話は全く通じていない。
しばし流れる音楽に耳を澄ましていると、曲が終わり違う音が流れ始める。
「おっ、アンセム*19だ」
ヴェルディの耳にはとても知っているような讃美歌には聞こえなかったが、少年がそう言っているのであれば彼らの宗教に基づいた曲なのだろうと納得した。
彼らの宗教音楽は佳境に差し掛かったところで、突如別の音源が重なり流れ始める。
「これはミックス*22っていうんだよ」
「なるほどミックス*23か」
音楽を刻み、違う曲をいくつも重ね合わせ、一つの音楽として成立させている。
似たような、1つのプレートに幾つも違うものを並べるものを最近どこかで見たはずだ。
目の前にいる少年で二つの要素が混ざり合わさり、一つになって答えになった。
「そうか。聖歌とトンカツは同じだったのか!」
天啓を得たヴェルディがアルキメデスのように叫び声を上げる。
「おじいさん、どこに泊まってるか分からないけど、近くなら……あれ?」
アゲ太郎が老人に話しかけようとすると、既にその姿は煙のように消え失せていた。
「帰っちゃったのかな?」
後日、アゲ太郎は老人から受け取っていた海外通貨を両替しに行ったが、既に使われていない通貨だと言われて断られてしまい、仕方なく古物商に持ち込んでいた。
「これは100年以上前のイタリアの通貨ですね」
「そんなに昔のイタリアの?」
「ええ、もう少し新しいのは、そこに飾ってありますよ」
1000リラと表記された紙幣に印刷された髭面の老人の姿はまるで……。
「まさかね」
農場の中で目を覚ましたヴェルディは、しかし全てを夢だとは思わなかった。
長らく忘れていたような音楽の歓びを体験したことで「もう一度だけオペラに戻ってもいいかもしれない」と思った。
彼をしつこく誘っていた友人の脚本家から、話だけでも聞いてみようと考えた。
そして5年後の1893年、ジュゼッペ・ヴェルディによる名作喜劇オペラ「ファルスタッフ」が公演される。
1901年に生涯を終えるまでの最後の仕事は「聖歌四編」という4曲からなる混声合唱曲集であった。
その1曲目は