これは、その藍華が書き留めた膨大な日誌や報告書の中で、「恥ずかしい日誌、禁止!」と、自ら封印した日記風日誌の、とある一日の記録を紐解くものである。
(藍華編)その 華麗なるステップとスワップは……(1)
ああ、眠いわ……。
私は支店へと向かう道すがら、少しあくびをした。
ここ、カンナレージョ地区は、サンタ・ルチア駅にも近い事もあって、人通りも多く、活気のある街だ。
普段なら、この賑やかな街に元気づけられ、自然と仕事モードに切り替わるというのに、今日はこの眠さのせいか、気持ちがうまく切り替わらない。
冬なのに、ポカポカと暖かい日差しが降り注いでいるから?
それとも
或いは、お店で衝動買いしたヘアピンを眺めていたせいで、寝るのが遅くなったから?
いずれにしろ、眠い事だけは確かだ。
軽く2、3回、但し、なるべくすれ違う人達には分からないように、あくびをしながら歩くと、目的地の、少し見慣れた建物が近づいてくる。
そう、ここが私の城とも言うべき『姫屋カンナレージョ支店』だ。
支店長になって、何となくではあるが、この建物が、自分のお城だと思える様になってきた。
もちろん私は、かの
支店の入口に掲げられている、≪HIMEYA Filiale di Cannaregio(姫屋カンナレージョ支店)≫という、姫屋のロゴ入りのプレートの前に立ち、しばし鑑賞する。
う~ん。このプレート、何度見ても、いい。
ダメだとわかっていながら、自然と顔がニヤニヤしてしまう。
と、同時に、胸に熱いものが込み上げてきた。
よーし、気分がノッて来たわ! 気合いを入れて、今日もみんなに元気よく、挨拶しなきゃね!
惜しみながらも、そのプレートとお別れして、裏手の従業員通用口へと歩く。
そこにある扉の前で、私は軽く深呼吸してから、ドアの前で祈った。
今日も、いつものルーティンが成功しますように!
私には、朝、建物に入る時に、欠かさず行っている、華麗なる儀式がある。
まあ、儀式と言っても、「♪ウンバラバラバーウンバッバ」などと歌いながら、神に捧げる踊りを踊るとか、魔方陣を書いて、大きなフードを被り、あき……いや、悪……もとい、異世界から誰かを召還する呪文を唱える訳ではない。
従業員用通用口は、カードリーダーに、解錠用のカードを縦に通すタイプだ。
そのカードを、華麗な手さばきでカードリーダーに通したら、一発で読み込むか。
ただそれだけではあるが、私にとってそれは、今日という日が、素敵な一日になるかどうかの、運試しなのである。
カードをパスケースから取り出し、人差し指と中指で挟み持つ。
私にとって、緊張の一瞬だ。
「レッツラー、GO!」
シュッ
「……」
あ、あれ?
ピピッと鳴らない。
昨日まで、35回連続で成功していたのに、よりにもよって、どうして今日のこの日に失敗してしまうの?
そんな事を考えながら、少し周りを見回してみるが、幸い他の社員はいないようだ。
『ねえ、グラン。これ、ノーカウントって事でもいいわよね?』
『HAHAHA! モチのロンだよ藍華! そもそも、今のはリハーサルだったんじゃあなかったのかい?』
『あっ! そうだわ! 嫌だ、私ったら、一体何を言っちゃってるのかしら?』
『HAHAHA! 勘違いなんて、誰にもある事さ! それじゃあ藍華、そろそろ準備はいいかな?』
『モチのロンよ! グラン』
『OK! 一発勝負、ド派手に決めちゃおうぜ!』
『うんっ!』
と、昔のアメリカンホームコメディドラマ風のセルフ脳内問答をしてから、もう一度カードを通し直す。
シュッ
……
「あれ? どして?」
あによこれ? 故障してんの?
全く、カードリーダーのクセに、この
そんな事を思いながらも、焦る気持ちは止められず、原因を考える。
もしかして、カードリーダーの故障?
いや、それなら、この時間に私一人だけということはないだろう。
とりあえず、インターホン鳴らして開けて貰う?
いや、『あ、こいつカード忘れたな』等と思われたら嫌だし、言い訳するのも面倒だ。
一体このピンチを、どうしたら華麗に切り抜けることが出来るだろうか?
「うーん……」
「お嬢?」
「うひゃっ?」
おののきながら振り返ると、そこに不思議そうな顔をした、あゆみさんが立っていた。
あゆみさんは、トラゲット一筋の
一緒にトラゲットをやった、かの水無灯里曰く、『明るくて、お客さまもウンディーネも、みんなが楽しくなる、トラゲットの達人さん』らしい。
実際、仕事はきっちりこなしているようだし、後輩達の面倒見もいい。なので、本店にも頼み込んで、この支店を手伝ってもらう事にしたのだ。
「やっぱりお嬢でしたか。おはようございます!」
「あ、あゆみさん。おはようございます」
「もしかして、声かけたらマズイ感じでしたか?」
「えっ? いえっ! 全然大丈夫ですよ!」
「どうしたんスか? さっきから、何か手裏剣投げるような動きしてるなーって、見てたんスけど……」
「えっ!?」
まずい、見られている。モロにまるっと完全に見られている。しかも『手裏剣』という厄介なワードのオマケ付き。
何か言い訳を考えなければ……。
「……て、天気がいいから、支店に入る前に、昔習ったニンジャモンジャ体操でも、しようかなーって思ったんですよ。あゆみさんも、一緒にどうです?」
うん、手裏剣も関係してるし、誘った事でリアリティが増す。我ながら華麗な切り返しが出来た、と思った。
「おおー、ニンジャモンジャ体操スか! 懐かしいなあ……」
「ですよねー!」
「……ん? でも、そのカードを持ちながらスか?」
「えっ?」
そうだった、私はカードを持っていた。
『ニンジャモンジャ体操』は、エア手裏剣、エアまきびし、エア
基本、各自が思い思いの動きをするのだが、『体操中は、何も持ってはいけない』という、絶対無二のルールがある。
これを守らないと、夜中に現れる『なぞのおやかたさま』に切腹を命じられてしまうという、恐怖の罰が下る事を、ネオ・ヴェネチアっ子は皆、幼少期から教え込まれるのだ。
それを、あゆみさんが知らない訳がないから、最もらしい言い訳を考えないと、誘った事自体がウソになってしまう。
問題はそれだけではない。今の私は、手裏剣ではなく、まるで怪盗が、予告状のカードを投げるかのような持ち方をしている。
いっそ、路線変更して、冗談っぽく「アナタのハートを戴くためよ♡」などと言いながら、ピッと投げたら、「お嬢……」と、顔を赤らめながら受け取ってもらえるだろうか?
いや、ダメだ。
きっと私は、あゆみさんのリアクションを待つ前に、「恥ずかしいセリフ、禁止! 自分!」とセルフノリツッコミを入れてしまうだろう。
そして、
この最悪の状況を、どうしたら華麗に切り抜けられるのか?
「あ、あの……。そう! ニンジャモンジャ体操をする前に、まずは手と指の体操をしようかなーって思ったんですよ」
「手と指の、体操?」
「そう! あーホラ、指には沢山のツボがあるって言うじゃないですか」
「ああ、そうなんスね」
言葉とは裏腹に、あゆみさんは、納得感のカケラもない表情をしている。
そりゃそうだ、明らかな付け足しなのだから。
でも、もう押し通すしか方策はない!
「で、あゆみさんもどうですか? ニンジャモンジャ体操」
「は?」
「えっ?」
一瞬だけ、あゆみさんの眼が
いや、きっと気のせいだ。
物事全てを前向きに、ポジティブに捉えること。それは私が、みんなにも言い聞かせていることでもあるのだから。
という事を改めて自分に言い聞かせて、あゆみさんに尋ねる。
「ダメ……ですか?」
「あっ、いやあ、せっかくのお誘いで悪いんスけど、ウチ、今日のトラゲットの集合場所がちょっと遠いんで、早目に出なきゃならないんスよ」
「そ、そうなんですか? 残念だわ」
「いやあ、本当ッスよー。それはまた今度って事で、ちょっーと横、失礼しまーす!」
あゆみさんはカニ歩きの様に私を避けつつ、ポシェットから解錠用のカードを取り出した。
そうだ、このままだと、あゆみさんも失敗する?
ここはやっぱり、カードリーダーが故障しているかもしれない、という事を、華麗に、かつ、さりげなく教えてあげた方がとか考えてる間に通しちゃったよおい。
ピピッ カチャッ
あ、普通に解錠した。
「あれぇー? あれれぇー?」
「うん? どうかしたんスか?」
「い、いえ、別に!」
「じゃあ、すいません。ソコ、どいてもらってもいいスかね?」
「モチのロ……もちろんどうぞ!」
慌てて後ずさりをする私。ドアを開けるあゆみさん。
「ああ、それからお嬢」
あゆみさんはそう言うと、自分のカードを指して、その指でトントン、と叩く。
そして、「じゃ、そういうコトで」と、笑顔で支店に入って行った。
『カードを見ろ』って意味?
改めて、指に挟んだカードを見てみる。
「あれぇー? あれれぇー?」
私が持っていたのは、昨日私がヘアピンを衝動買いしたお店の『CLUBニャンペンカード』という、ポイントカードだったのだ。
そういえば昨日、買い物を済ませた私は、うっかりポイントカードを受け取り忘れてしまった。
店の外で気づいて、慌てて受け取りに戻ったものの、後でサイフにしまえばいいやと、パスケースに、このポイントカードを入れてしまったのだ。
「はは……あはは……」
さっきまでのポカポカとした暖かさから一転、冬特有の木枯らしが、私から心の熱を奪って行く。
そんな気がする、朝のひとときであった。