超光速の証明   作:雁来紅

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安定の見切り発車


10 メイクデビュー前の喧騒

 新学期。

 進級、進学、あるいは留年という喜怒哀楽が詰まった春先に、文山八京は見事トレセン学園のトレーナーとして配属されることが決定した。

 当初は再評価を言い渡された身であった為、周りとの軋轢を危惧した八京だったが、たづな曰くこの件は理事長の独断で行ったものであり、公表する事はないらしい。「シンボリルドルフに言ってたじゃん」という当然の疑問が湧いたが、既に合格をもらっている八京はそれ以上考えるのをやめた。

 そんなこんなで紆余曲折ありつつも学園での新人トレーナーの地位を得た八京だが、彼の学園での活動は養成学校とは正反対のものだった。

 座学で知識を詰め込んだ学生時代とは対照的に、トレーナーは経験する事で能力を高めていく。新人トレーナー向けの研修は勿論のこと、ベテラントレーナー率いるチームのサブトレーナーとして経験を積んでいくのが通常の流れだ。中央のライセンスを取得しているとはいえ、この学園でトレーナーとして成長していく為にはライセンスを取るための勉強とは全く違う努力をしなければならない。

 新人であっても何かとやる事が多いトレーナー業ではあるが、例外として、研修を終え、あるいは研修を受けながら真っ先にウマ娘をスカウトする新人トレーナーも一定数存在する。その理由は我々トレーナーの懐事情にも関連する事柄だ。

 トレーナーはウマ娘をスカウトし、ウマ娘はトレーナーと組んでレース出走を目指す。

 持ちつ持たれつ、一蓮托生とも言うべきパートナーを持ちたいという望みはトレーナー、ウマ娘問わず抱いているものだ。しかし新人のトレーナーがウマ娘をスカウトしようとしても彼女たちが簡単に首を縦に振ることはない。ウマ娘側から見ればベテラントレーナーの元でトレーニングしたいと思うのが当然だ。知識はあっても指導者という立場では素人に毛が生えた程度の新人トレーナーに自分の全てを預けようとは思えないだろう。同じ望みを抱きながらもそれを叶えさせてくれるかは、ウマ娘側の裁量によるところが大きいのが現実だった。

 ではなぜそれを知りながらもスカウトに行くかといえば、スカウトしたウマ娘の活躍で自身の給料も変わってくるからだ。

 GⅠやGⅡといった格の高いレースに出走できるのはごく僅かなウマ娘だけだが、もしそれができたのならトレーナーとしての実績が認められ、更なる待遇向上を期待できる。

 待遇の良さに定評のある中央のトレーナーではあるが、その中には更に上を見据えて自分の腕でどこまでいけるか挑戦する上昇志向の強いトレーナーは少なくない。

 とはいえ給料アップ目当てでウマ娘をスカウトしに行くのはごく僅かで、大半は代々トレーナーとして名をあげてきた家系の跡継ぎだったり、有名な大学や留学を経てこの学園にやってきた、最初から能力が保証されているような人間が殆どだった。

 本来であれば文山八京もベテラントレーナーの下で学び、経験を積んだ後にウマ娘をスカウトするはずだった。

「おーい、モル……トレーナー君、前みたいに走ってくれないかい? もう少しデータが欲しいんだ」

 しかし、現在。

「前って一昨日のことか? 勘弁してくれ。前だって門限ギリギリの誰も見ていないような時間帯に練習場を借りて走ったんだ。いくら練習場が豊富だからって好きな時間に好きに借りるのには限度がある」

 学園に配属されてはや1ヶ月。研修を終え、やるべき仕事を覚え始めた頃。八京は既にアグネスタキオンとトレーナー契約を結んでいた。

 側から見れば下積みをすっ飛ばして学園の問題児をスカウトした変人なのだが、これは配属前から半ば決まっていた事だったので問題はない。ないのだが、

「そういえば、なんで君はここで報告書なんて書いているんだい?」

「…………」

 その言葉に八京はキーボードに走らせていた指をぴたりと止めた。

 この学園に配属され、与えられる業務がある以上、八京含めたトレーナー達には業務を行うスペースが与えられる。

 とはいえトレーナー室のような個室はそこそこ大きなチームを組んでいるトレーナーに与えられるもので、八京に与えられた場所は言うなれば、職員室のような机と椅子一つ分程度の領土が与えられた共用の部屋だった。

 しかし八京が現在いるのはあの時の殺風景とは似ても似つかない、物でごちゃごちゃになった空き教室という名の研究室である。

 その室内に置かれた長机の端っこにPCを置き、パイプ椅子に座る八京はさながら巣から追い出された小動物のようだった。

 八京はひと段落したアグネスタキオンの報告書を保存して一度PCを閉じると、

「……視線がちょっとな」

「視線? ……ああ、なるほど」

 八京のその一言を聞いてアグネスタキオンはすぐに得心がいったように頷いた。

「変人と契約した変人トレーナーに見られてるみたいでな。気にする事でもないんだけど、いかんせん集中できない」

 長い間自身の特異性を隠していたせいか、八京は自分が話題の中心になるのを苦手としている。そのうえ向けられる奇異の視線の中には自分と同じようにウマ娘をスカウトした由緒正しい家系の人間も含まれており、こちらの方はむしろ「あの問題児をどうやって引きこんだのか」と邪推しているらしい。

 そんな視線から逃れるように八京はこの1ヶ月間、こうしてアグネスタキオンの研究室に転がりこんで業務を行っているのだった。

 その話を聞いたアグネスタキオンは、八京の憂鬱をよそに腹を抱えて笑い出す。

「ハハハハ! それは災難だったね。まあしかし、君の走りを見ればすぐに黙りそうなものじゃないか。いっそのこと、かけっこでも挑んだらどうだい?」

「無理に決まってるだろ。理事長からの忠告を忘れたのか?」

 そう言って八京がアグネスタキオンの方へ振り返ると、彼女は窓辺に寄りかかってクリップボードにとめられたA4用紙をぺらぺらとめくっていた。最早先程の発言の興味さえ失っている。

『忠告ッ! 君の驚異的な走力についてはこの場にいる全員、口外する事はない。しかぁし! それと同様に君も、その足については誰彼構わず話すような事はしないように!』

 シンボリルドルとの併走後に秋川理事長と交わした約束を思い出す。

 流石理事長と言うべきか、彼女自身八京の走力を目の当たりにして、興味より先にこれが知れ渡った場合の弊害を危惧したらしい。

 要は「打ち明ける相手は選べ」との事だが、少なくとも八京は現時点でアグネスタキオン以外にこの足について話す気はなかった。

「むしろこの足のお陰でお前を引きこめたなんて思われたら嫌なんだよ」

「まあ半分事実だがね。自分の足を餌に私を釣ったんだから」

「俺は可能性を提供しただけだ」

「分かっているとも」

 そう言ってアグネスタキオンは窓辺から離れた。向かった先は黒板、の隣に置かれたホワイトボード。 

 その上には「メイクデビュー」の文字と、今から約1ヶ月後の日付が書かれていた。

「これ、消しちゃダメかい?」

「ダメだ。絶対忘れるだろ」

 アグネスタキオンの集中力は素晴らしいものだが、一度働くと他の物事が目に入らなくなるという欠点がある。研究に夢中でメイクデビューの事を忘れていた、なんて事になれば予定を組み直さなければならない。トレーナーとしてまだ日が浅すぎる八京にとって予定やトレーニングメニューの見直しはかなりの重労働だった。

(だが、出走すればタキオンは必ず一着を取れるはずだ)

 メイクデビューで一着を取らなければ次のステップには進めない。中央という高い実力を持ったウマ娘がひしめき合う舞台で、その荒波に揉まれ、一勝もできないまま学園を去るウマ娘も存在するのが現実だ。

 しかし八京はアグネスタキオンのポテンシャルの高さを知っている。希望的観測ではなく、彼女はシンボリルドルフと競い合える程のウマ娘だ。まだトレーニングを開始して1ヶ月あまりだが、少なくとも有象無象に埋もれる選手ではないという確信はある。

(当面の課題は、タキオンの気持ちをレースにどう向かせるかだな)

 ちらりとタキオンを見れば、今度は試験官とフラスコを持って何か実験の準備をしている。そこには目的達成への純然な意欲しか存在せず、悪く言えばレースの事など殆ど考えていないだろう。

「ああ、そうだ。この前作った薬を渡し忘れていたんだった。飲んでくれるね?」

「……そういう約束だからな」

 少なくともメイクデビューまではモルモットとしての活動も続けなければいけない事を実感して、八京は諦めたようにため息をついた。




諸事情によりアプリ版ウマ娘ができないので少々齟齬があるかもしれませんがご了承ください。
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