「お前って足速いよな。運動してなさそうなのに」
そういった問いを受けた経験は多くあった。質問した本人にも悪気は一切無く、同時にその問いを受けた八京も特に不快になる事はなかった。
「よく言われるよ」
スポーツテストを終えた後に向けられる疑問も、その一言で自分は話題の的から外れるのだ。必要最低限の労力で自分の事を隠し通せるのだから、むしろこの問いをしてくるクラスメイトに感謝すらしてしまう。
だが、今回は。
「些細なことでもいい。いくら走っても疲れないとか、あるいは足がよく痛むとか」
狂気の色を瞳に宿しながらも淡々と訊いてくる栗毛のウマ娘は、トレセン学園の生徒というより病院の医者の雰囲気に近かった。
「君が買ったランニングシューズだけどね、そんなにすぐ壊れたりしないよ。私が実際に使用してみたんだから間違いない。お陰で朝と夜の時間が走り込みに消えてしまったけどね」
こいつは何を言っている。俺は自分から自分の事について話そうとした事は殆どないはずだ。
自身の特異体質を自覚してはや数十年。今まで完璧に隠し通してきた事を目の前のウマ娘はいとも簡単に見抜こうとしている。
(可能性があるとすればスポーツショップで話した時か?)
ランニングシューズを買いだめする人間も少なくないが、彼女の目にはそれが異質に映ったのかもしれない。もしくは八京が蹄鉄を凝視していた時から自身の研究に繋がる何かを見出したか。
根拠があるにせよ無いにせよ、彼女の問いは八京を動揺させるには十分過ぎるものだった。
頭をフル回転させている八京を尻目に栗毛のウマ娘は饒舌に語る。
「これはまだ憶測に過ぎないが、もし本当だとすれば君のその体は私の研究を大きく飛躍させる存在になり得るはずだ。だから」
ただの思いつきか、それとも確信があるのか。
何を考えているかわからない瞳が八京の瞳を射抜く。
「君のことを、教えてくれ」
「……」
仮に、八京がトレーナーだとして。
目の前のウマ娘をスカウトしている最中なのであれば、その言葉は本来八京の口から出るべき言葉だ。
しかし八京は未だトレーナーではなく、これといって誰にも譲れない強い思いを持っている訳でもない半端者だ。故に、
「無理だ」
「……ふぅン。まあ確かに、自分のプライベートに関わることを言いたがらないのは当然だね。数回しか面識のない人物が相手なら尚更だ」
「そうじゃない。俺とお前との仲が良かったとしてもその質問には答えないし、そもそも、俺の足はどこも悪くない」
目の前のウマ娘は相当な切れ者のようだが、未だ八京の特異な能力にたどり着くには少し確証が足りていない。そして確証が足りていないものを真実だと声高に主張ようにも見えなかった。
ならばここは、何のヒントも与えず、全て否定してしまえばいい。
八京の言葉に栗毛のウマ娘は目を細めた。そして、
「……分かった。意思は固いようだからね。私も無理だと分かりきった事に労力はかけたくない」
しかし、と言葉を切った彼女は、立ち上がって黒板の方へと向かった。
「私の研究について何も言っていなかったね」
「説明したところで変わらないものは変わらないぞ」
「わかっているとも。ただ、君には話す価値があると判断した」
そう言って栗毛のウマ娘はチョークを持つ、ことは無く、八京に一つ問いを出した。
「ウマ娘とはどういう存在かな?」
「端的に言えば足が速い。高機能な耳と尻尾を持っているのが特徴だ」
「正解だ。ではなぜ足が速いと思う?」
「何故って……、まだその議論には結論が出てないだろ」
「その通り。ウマ娘は何故足が速いのか。何故そのように生まれてきたのか。人間と同じ骨格をしながらも、形成される筋肉は人間と同じサイズでも遥かに強い負荷に耐え切れる強靭なものとなっている。いいかね、君」
栗毛のウマ娘がこちらを見つめる。その瞳には狂気の他に夢と期待も混じっているような気がした。
「分かっていない、という事はまだ限界ではないという事だよ。ウマ娘の最高速度も、それ以上の速度に到達し得る事を否定する根拠は未だ発見されていないんだ」
狂気を宿す瞳で、子供のような無邪気さで彼女は語る。
「私は最高速度の先を見たい。足が速いなんて陳腐な言葉では足りないくらい、影すら踏ませぬその先へ行きたいんだ」
「最高速度の、先……」
学生時代、幾度と言われた言葉が脳裏に浮かぶ。
『お前、足速いよな』
いつも受け流していたものだが、堂々と認めてしまおうと思った事がない訳ではない。
足の速さは自分の長所だとも思っていた。しかし年齢を重ねるうちに身体機能だけでは長所になり得なくなり、周りに溶け込む為に嘘に妥協を重ねる日々が続いた。誰かの前で全力で走った記憶は八京には思い出せない。
しかし目の前のウマ娘は、八京が隠し続けていた速さの先へ行きたいと言った。何が彼女をそうも駆り立てるかは分からない。だが、
(彼女は全力でそれを実現しようとしている)
狂気に染まった瞳で、そして自身の体を全て使って、彼女はその夢に向かって邁進するだろう。
八京には無い「譲れないもの」が、彼女にはあった。
「……すごいな」
「だろう? どうだい、少しは私の事を知ってくれたかな?」
「ああ、お前はすごいよ。小さな事で悩んでる俺よりもずっとずっと」
思いっきり頬を張られた気分だった。
八京は立ち上がると、栗毛のウマ娘の前に立った。
「でも、悪い。やっぱりお前の質問には答えられない」
「……ふうン、そうかい。まあいいさ、今の話は私が話したいと思ったから話しただけだからね。私としては疑問を疑問のままで放置しておくのは嫌なんだが……おっと」
栗毛のウマ娘は腕につけてある腕時計に視線を落とす。時刻は昼休みの終わり頃をさしていた。
「時間だ」
「ん、ああそうか、授業があるもんな」
以前は授業をサボって学園を抜け出していた彼女でも、勉学に対する意欲は残っているらしい。
しかしそんな八京の安堵とは逆に、栗毛のウマ娘はきょとんとした顔で、
「授業? そんな無駄な事に時間を使う気はないよ。私が行くのは生徒会室さ」
「サボったのがバレたのか?」
「研究の進歩に必要な犠牲を迷惑行為と宣う教師たちにどんな説教をされようが構わないけど、今回は違うよ。それじゃ、さようなら」
そう言って栗毛のウマ娘はそう言って八京の横を通り抜けて廊下へ続く扉に向かう。八京は振り向いて言った。
「ああ。また聞かせてくれよ、その研究の話」
「……」
先日のスポーツショップの時と同じく、彼女が反応する事はない、と思いきや、栗毛のウマ娘は扉に手をかけて言った。
「それは恐らく無理だろうね」
僅かにこちらを見る彼女の瞳に浮かんだ感情を八京が理解する事はできなかった。
「君がここのトレーナーになる頃には、私はもういないだろうから」