これは夢だ。
妙にふわふわとした思考の中で八京はすぐに理解する。
視界に広がるのは実家の近くにある一本道。八京がよく一人で走っていた場所だ。人通りが少なく、通るとしても高齢者が多いこの道は八京にとって、走る姿を見られても誤魔化しが効く絶好のランニングコースだった。
不意に画面が動く。自分ではない誰かがその道を走っていく。人間には出せない速度を維持したまま、周囲の田畑が視界の後ろに消えていく。
よく見た光景、よく見る夢。しかし今回は違った。
視界を流れる田畑の速度が格段に速くなる。耳元でびゅんと風を切る音が聞こえ、その景色を見ているだけで息が苦しくなる錯覚を覚えた。
肺だけではない。腕も、足も、思考さえも前に進む燃料として燃やし尽くされ、明瞭な思考がずぶずぶと泥沼の中に沈んでいくようだ。
そこで八京はやっと思い出した。これは数少ない自分の全力疾走の記憶である事を。正確には全力疾走に近い速度、だが。
ではなぜ全力疾走ではないかといえば、その理由は唐突に視界に現れた。
足の裏から地面を蹴る感覚が消える。それと同時に八京を襲った浮遊感に思わず呼吸が止まった。
形容し難い音が響いた。
ウマ娘の体の構造は人間とほぼ同じだと言われている。しかし物事に対する考え方には僅かに差異が見られる。走って転んだ時の対処法が良い例といえるだろう。人間が想像している速さが自転車と同じくらいの速度であるのに対し、ウマ娘が想定する速さは自動車と同じ速度だ。当然この時の八京が自動車と同じくらいの速度で走って転んだ時の対処法を心得ている訳がなかった。
つまるところ、これは若かりし頃の失敗というやつだった。
かちり、と時計の時針と分針が6と12を指した所で八京は覚醒した。
「……最悪だ」
目を開けて、八京は開口一番にそう呟く。
幼い頃の夢を見るのは珍しいことじゃない。ただ、面接当日に見る夢として適さなかったというだけで。
目を覚ます直前の景色は既に朧げで、所々抜け落ちてしまっているが、それでも自分の失敗という点はしっかりと記憶に刻まれていた。
(あいつなら、どうする)
八京の場合はあの後、言い訳をするのに必死だったのをなんとなく覚えている。さぞ間抜けで必死な顔をしていたのだろう。
しかしあのウマ娘なら。
「今日聞いてみるか」
最後になるかもしれないから。
そんな一言を飲み込んでベッドから抜け出す。
洗面所で顔を洗い、台所に向かう途中で玄関に置いてあるランニングシューズに目が行った。
玄関の隅に鎮座する三足のランニングシューズ。しかしその内の一足は既に原型をとどめておらず、二足目に関してもつま先のあたりが剥がれ落ちそうになっており、何年も使い込まれたような風格を醸し出している。
「一週間で二足……出費が……」
リビングに置いてある痩せた財布を見て八京は苦しげに呟く。必要な出費とはいえ、ランニングシューズはそれなりに値段のするものだ。
朝と夜、更には比較的安全な山の中までも、時間がある時にひたすら走った結果がこれだ。
それだけではない。
リビングのテーブルの上には陸上競技や体の構造に関する本、ウマ娘に関する論文をまとめた雑誌が散乱していた。調査というよりも不安を押し殺すための誤魔化しに近かった。
しかしここまでしても不安はまだ残っている。秋川やよいの求める答えになっているかどうか。そして、アグネスタキオンを説得できるかどうか。
一つ成功させるだけではダメだ。両方とも成功させて、初めて八京が得る成果なのだから。
「……大丈夫だ」
気を落ち着かせるようにそう自分に言い聞かせて、八京は面接がある時刻まで最後の調整を行なった。
「お久しぶりです、秋川理事長」
「うむ! その顔、答えは出たようだな!」
トレセン学園の玄関前で八京は秋川やよいと挨拶を交わす。
なぜ理事長室ではなく、玄関前に理事長がいるのか。
それは八京が事前に頼んでおいた事が原因だった。
秋川やよいの後ろに控えていたたづなは、同じように八京に一度挨拶をしてから、
「練習場は午後から整備があるという事にして貸切にしました。シンボリルドルフさんからもお話は伺っています」
「ありがとうございます」
八京はお礼と共に頭を下げる。急なお願いを受け入れてくれた彼女には感謝しかない。彼女がこのお願い受けてくれなければ八京の作戦は始まる前から失敗していた。
秋川やよいもたづなから事情を聞いているようで、
「驚愕! まさか君がアグネスタキオンに興味を持っていたとは」
「そうですね。才能溢れるウマ娘は嫌でも興味を抱きますから」
本来であれば面接を終えてからアグネスタキオンとシンボリルドルフの併走を見に行く予定だった。しかし八京は、面接と併走の見学を同時に行おうと考えた。
「お願いした身で言うのもあれなんですけど、本当に時間をずらしても大丈夫だったんですか?」
「無論! トレーナーの卵が明確な意思を持って動いたのだ。ならば私はそれに全力で応えるのみ!」
快活に応える秋川やよいはそう言って扇子を勢い良く開く。本来こんな常識はずれな行動が許されるはずがない。秋川やよいのような心の広い人物でなければこの提案を許可してはくれなかっただろう。
しばらく歩いて練習場に到着すると、そこには既に二人のウマ娘がいた。どちらもジャージ姿で準備運動を行なっている。そのうちの一人はこちらに気づくと、準備運動を中断してこちらに近づいてきた。
「来たな。まさか二つを同時にこなそうとは、驚いたよ」
「賭けである事実が変わったわけじゃない。アグネスタキオンは?」
「既に伝えてある。まだ時間はあるから話してくるといい」
そう言って、シンボリルドルフは八京の後ろにいる理事長たちの挨拶へ向かう。八京はその場を一旦離れて、準備運動を続けているアグネスタキオンのもとへ向かった。
「アグネスタキオン」
「……まさか君が絡んでくるとはね」
アグネスタキオンは八京を見るや否や薄らと笑みを浮かべた。
「私を引き止める気かい? おおかた会長あたりにお願いされたんだろう。こんな事になるなら、あの時質問に答えなければよかったかな」
「なんで退学を選んだんだ?」
「君も教師たちと同じ質問をするんだねぇ。無論、研究のためさ。実力者揃いのこの環境を捨てるのは惜しいが、ここじゃなくても研究はできる。海外とかいいかもしれないね」
説得しても無駄だ。
そう言外に言われたような気がして、八京は少し考えてから、
「お前を説得するかは、まだ決めてない」
「ふぅン? じゃあなんで君はここにいるんだい?」
「今からここで面接なんだ。この面接の結果次第で、俺がここのトレーナーになれるか決まる、と思う」
「へぇ、面接。ククク、面接の場所をここにするなんて君も酔狂だねぇ」
「お前の走りを見るためでもあるからな。説得するかはそれから決める」
「そうかい。ならせいぜい見ているといい。少なくとも無様な結果にはならないさ。会長には恩もある。全力を出すとも」
そう言ってアグネスタキオンはコースの中に行ってしまった。先行きが不安な会話だったが、それでも想定の範囲内だ。
「コースは芝2000mでいいか?」
「いいとも。何かと世話になった会長の頼みだ」
遅れてコースに入ったシンボリルドルフがアグネスタキオンと話をしている中、八京はその外からそれを見守る。
かたや「皇帝」と謳われた絶対強者。かたや一族の最高傑作と謳われ、しかしその奇行の数々によって退学に追い込まれたウマ娘。
皇帝が勝つか、最高傑作が勝つか。
「では理事長、合図をお願いします」
「承知!」
かくして、シンボリルドルフとアグネスタキオンの本番のレースさながらの併走は、秋川やよいの合図で始まった。
「やはりシンボリルドルフさんがリードしてますね」
たづなの言う通り、スタートが切られてから先頭を維持し続けているのはシンボリルドルフだった。しかし公式レースに出走したことがないアグネスタキオンもその後ろにつけている。両者ともに本格化を迎えているのだろう。走力は互角といったところか。側から見ていてもレベル高さをひしひしと感じる景色だ。
「では、こちらも始めるとしよう!」
「はい」
椅子も机もない練習場の隅で秋川やよいが言う。八京の学園にきた本来の目的はこの面接を受けるためだ。
秋川やよいは勢いよく扇子を広げる。しかし理事長と八京の身長差故に、八京は目の前の理事長を見下ろす形になる。
「私から聞くことはただ一つ! ここでトレーナーになるという君の意気込み! 問おう! 君はこの学園で何を成す!?」
大きく息を吸う。
アグネスタキオンは最高速度の先に行きたいと言った。それが彼女の譲れないものであり、きっと誰にも邪魔されることのない純粋な憧れだ。
眩しかった。それと同時に自分の足を隠しながら生きてきた自分を情けなく感じたし、それと同じくらいに、憧れた。
「私の夢は、最速のウマ娘を育てることです」
ターフ上ではアグネスタキオンとシンボリルドルフが変わらず走り続けている。そして最終コーナーに差し掛かったところで、アグネスタキオンが動いた。
「幼少期、そして今に至るまで他人には言えない秘密があった私にとって、その夢は一つの憧れでもあります」
彼女は笑っていた。苦しいはずなのに、その顔は狂気とも歓喜ともとれる笑顔で彩られている。
幼い頃に見た映像が脳裏に浮かぶ。アグネスタキオンの姿は映像の中のウマ娘と重なっていた。
「この学園で、最高速度の先、可能性の先に行きたいと言う彼女と出会い、自分の夢を明確にすることができました。だから私はアグネスタキオンと一緒にトゥインクルシリーズに挑みたい。そして、彼女を最速のウマ娘にしたいと考えています」
ほぼ同着でゴールを通り過ぎて行った二人を見て、八京は秋川やよいに向き直る。そして、
「……というのが建前です。実際は、私の秘密を受け入れてくれるであろう彼女の力になりたいと、そう思っただけです」
自分はトレーナーに向いていない。
この一週間を通して八京の出した結論はそれだった。
最速のウマ娘を育てる。
それは八京が考え抜いた際に見つけ出した、彼にとっての譲れないものだ。
しかしそんな陳腐な考えはきっとこの学園のトレーナーになるような人物にとって適さない。
「質問! では君の本音は何なのだ?」
ここで面接を打ち切られても文句は言えないのだが、秋川やよいはそれでも八京に質問を投げかける。
八京はここのトレーナーに適さない。実力はあってもウマ娘に認めてもらえなければ意味がない。
ではどうすれば彼はここのトレーナーになれるのか。
「私を見てもらおうと思います」
「見る?」
「はい。秋川理事長に、そして、彼女に。そうすれば分かってもらえるかと思います」
少し待っていてください、と秋川やよいに伝えて、八京は息を整えているアグネスタキオンのもとへと向かう。
「お疲れ。やっぱり良い足を持ってるな」
「おや、面接は終わったのかい? それで次は私の説得かな?」
「いや、面接はまだ終わってない。……アグネスタキオン、退学について考え直してくれないか?」
「またそれか。会長にも言われたよ。そして同じ答えを返した。無理だよ」
「そうか」
頷きながら、アグネスタキオンの後ろにいるシンボリルドルフをチラリと見る。彼女は首を小さく横に振った。
八京はアグネスタキオンに視線を戻して、
「なら、良かった」
「何? 君は私を説得しにきたんじゃないのかい?」
「説得してほしかったのか?」
「揚げ足をとるんじゃない。君は何をしにきた? 私の走りを見にきただけではないんだろう?」
「ああ、俺はお前を説得しにきた。さっきの走りを見て確信したよ。お前はここにいるべきだ」
「さっきの発言と矛盾しているじゃないか」
懐疑的な視線を向けるアグネスタキオンに、八京はその言葉をはっきりと口にした。
「お前の研究、手伝わせてくれないか」
「……へぇ、まるでスカウトをしにきたトレーナーのような事を言うんだね?」
「俺がトレーナーなら真っ先にお前をスカウトする」
「断るよ」
アグネスタキオンは即座に拒否した。
「研究を手伝うと言いつつ、レースやトレーニングで平気で研究の時間を潰す。トレーナーとはそういう存在だ。邪魔者と言ってもいい。それは君も同じだよ」
初めて向けられた明確な拒絶に少し胸が痛くなる。
しかし、ここで退く訳にはいかない。
今日、この日のために八京はここにいるのだから。
「……そうだな。確かにお前の意見は最もだ。一方的にこんな事を言われても信用できるはずがない」
「その通りだね」
「俺はお前の走りに可能性を感じた。きっと最高速度の先に行くという夢もいつか叶えてしまうんじゃないかと思うくらいに鮮烈だった」
「褒めても私の考えは変わらないよ」
「で、俺は気づいたんだ。これはフェアじゃない」
「うん。……うん?」
「お前が全力の走りを見せてくれたのに、俺はまだ何も見せてない。こんな状態で俺がお前を説得するなんて不公平だ。そう思わないか?」
「いや、思わないけど」
選抜レースというものがある。
本格化を迎え、走力が開花したウマ娘が自分の実力を見せる為に出るレースだ。
トレーナーはこのレースを見てウマ娘を評価し、スカウトするウマ娘を決める。
しかし正規の手順を踏んだところでアグネスタキオンが首を縦に振ることはないだろう。
本来であれば説得はここで頓挫していた。だが、しかし。
何事にも例外はある。
「俺の走りを見ていてくれ。そして俺がお前の研究に協力できるかどうか、お前が判断してほしい」
「君の走りって……あ、おい!」
何かを言いかけたアグネスタキオンの脇を通って、八京はそのウマ娘の前に立った。
「シンボリルドルフ」
「おや、説得は終わったのか?」
「いや、まだだ。説得も面接も、これから終わらせる」
そう言って八京は一つのお願いを口にした。
「併走してくれ、シンボリルドルフ」
「……ふむ。確認のために聞くが、誰が誰と併走するんだ?」
シンボリルドルフの目が細められる。その些細な変化に気圧される八京だったが、目を逸らすことなく言った。
「俺が、シンボリルドルフと併走するんだ」
八京は迷いなく言い切る。命知らずな提案だと誰もが思うだろう。秋川やよいやたづなが驚愕の表情を露わにしている中、シンボリルドルフは冷静な表情を崩さずに、
「その行為にどれ程の意味があるのか私にははかりかねるが、手加減はできないぞ?」
「そんなの期待してないさ。それに、アグネスタキオンと併走した直後ってだけで、俺には十分なハンデだ」
本番さながらのレース、全力疾走。いくら皇帝といえど疲れていないはずがない。
「コースは?」
「さっきと同じだ。芝2000m」
「……承知した。君はスーツ姿のままで走るのか?」
「革靴じゃないだけマシだと思うしかないな」
履いているシューズを見せて言うと、シンボリルドルフは僅かに考えてから「分かった」と言った。
「アグネスタキオンの説得に必要というのなら、私も全力でそれを手伝おう」
「助かるよ」
シンボリルドルフは踵を返すと、おもむろにスマホを取り出してどこかに連絡を取り出す。
その時、背後から声がかかった。
「命知らずにも程があるよ、君」
「疑問を疑問のまま放置したくないって言ったのはお前だろ?」
「それにしたって挑む相手をもう少し選べなかったのかい? 理事長達を見てみたまえよ」
アグネスタキオンに促されるように視線を動かすと、おろおろと理事長とシンボリルドルフを交互に見るたづなと、何も言わず観戦する態度を取る秋川やよいの姿が見えた。
「お前には俺の走りを見てもらう必要があるからな。それに、皇帝と走れるなんて貴重な体験だ」
「……貴重の一言で済ませるあたり、やっぱり命知らずだな、君は」
アグネスタキオンはそう言うと、ひらひらと手を振って踵を返した。
「客席で見させてもらうよ。せいぜい私の興味を惹くレースをしてくれ」
「……分かってる」
練習場に向き直る。
全力を出すのは初めてかもしれない。といっても、出し惜しみをする余裕があるほど自身の能力が特段優れていると思った事はない。
夢で見た光景以外で、自分が全力で走った記憶というのは見つからない。いつもどこかでブレーキをかけて、それを良しとしていた節もあったからだろう。
しかし今は違う。
実力者が集うトレセン学園。そんな学園の生徒達の頂点に君臨するウマ娘、シンボリルドルフ。
皇帝と謳われた彼女が自分との併走を了承してくれた。
危険だからと拒否される可能性は十分にあった中でその決断をした彼女に八京は感謝せずにはいられない。
八京の足。それは秋川やよいの問いに対する答えと、アグネスタキオンの説得の鍵の両方を握っている。
加減なんて許されない。
努力は必ず実るとは限らない。だが八京が破壊してきたシューズ達は、彼の確かな努力の証だ。
「文山八京」
シンボリルドルフに初めて名前を呼ばれる。
八京は高鳴る鼓動を抑えて返答した。
「ああ、準備はできてる」
「そのようだな。だが、その前に」
シンボリルドルフがそう言うと同時に、遠くからこちらに走ってくる何者かの足音が聞こえてきた。
「着替えてくれ。流石にスーツ姿はダメだ」
トレーナー見習いの フミヤマが 勝負を しかけてきた!
更新遅くなります