超光速の証明   作:雁来紅

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遅くなりました。レース中の描写が難しい。


8 巧遅拙速

 校舎の一階にある職員用の更衣室に八京が向かって数分後。

 小走りで練習場に戻ってきた八京の体は、赤と白を基調とした運動着に包まれていた。トレセン学園近隣の住民には見慣れた姿。唯一の真新しさ、というより違和感があるとすれば、それを着用しているのが人間の男性である点だろうか。

「サイズは問題ないか?」

「ああ。でも、これを俺が着てもよかったのか?」

 運動着の袖や、腰のあたりに空いてある穴をしげしげと見つめつつ八京が問うと、シンボリルドルフは芝の上を歩きながら言った。

「保健室の備品として置いていたものだから気にしなくて良い。後で洗って返却してくれ」

「そうか。ありがとう」

 彼女の後ろを歩きながら八京は足元の芝の感触を確かめる。

 コンクリートの地面を蹴るのとは違った感触。学生だった頃にレース場の見学にも行ったことはあったが、この上を全力で走ったことは勿論無い。

「緊張しているか?」

「え?」

 気づけばシンボリルドルフは立ち止まっており、八京はその横に並ぶ。

 八京はスタート地点に立っていた。

「2000m。走った経験は?」

「……距離だけで考えるなら、小学校のマラソン大会で走ったのが最後だな」

 小学校の行事の一つ。

 結果は勿論ウマ娘が上位を独占し、自身の脚力を隠していた八京にとってあまり面白くない記憶だった。人目につかない場所でそれくらいの距離を走った事はあるが、正確な距離を覚えているのはそのマラソン大会だけだった。

 そんな彼の答えにシンボリルドルフは僅かに考える仕草をしてから、

「実を言うと、エアグルーヴに止められたんだ。人間との併走は危険だとね」

「エアグルーヴ?」

 そう言って八京はあたりを見渡すと、コースの外でこちらを見守る理事長たちの後ろに一人のウマ娘がいた。先程ここまで運動着を届けてくれたウマ娘だ。こちらを見つめる彼女の顔は険しく、というか、八京の事を思い切り睨んでいる。迂闊に近づけば殴られそうだ。

「やめるのか?」

「いいや、併走はする。しかし条件を付けさせてもらう」

 そう言ってシンボリルドルフは八京から離れると、コースを囲うように立つ柵の手前で立ち止まった。

「私は外を走る。君はどう走っても構わない」

 私が合わせよう。

 そう言うシンボリルドルフからは驕りの類は一才感じられない。彼女は既に2000mを走り切っている。しかし大外を走るという、距離的なロスを背負うと宣言してもなお、自分が勝つと言う自信に溢れていた。

 とはいえ何も知らない者からすればこの併走自体が出来レースのようなもので、こちらの安全を優先するシンボリルドルフの判断は正しい。

 八京は皮肉や嫌味の類ではなく、思わず訊いてしまう。

「いいのか? そんなに俺を有利にさせて」

「君が私との併走を申し出たのはちゃんとした考えがあったからだろう。なら私はその考えを遂行できるようにサポートするまで。無論、勝ちを譲る気はないが」

 挑発とも取れる八京の問いにシンボリルドルフは真面目に返答する。

 しかしこのハンデをもってしても、八京とシンボリルドルフの実力が同等とは言い難い。

 何事も予備知識は大切だが、それより大事なのは経験だ。何度も鍛錬を重ねて、教科書に書いてある言葉では補いきれないスキルを身につけていく。いわば勘やセンスともいえるそれが勝敗に影響を与えないとは言い切れない。

 ともすれば、経験によって蓄積されるスキルに八京の一夜漬けにも等しいスキルが通用するかどうかは微妙なところだ。八京の個人的な予想では一割通じれば良い方だ。

 この併走の目的は、アグネスタキオンに八京自身の可能性を見せる事にある。

 退学の決意を固めたアグネスタキオンの心を動かすような、例えるなら先程のアグネスタキオンのような鮮烈な走りを見せる事だ。 

 自分の足に対する疑問や心配が消えた訳じゃない。しかし少なくともこの場にいる人々は自分の走りを見ても離れて行ったりしないだろう、という確信はあった。

 八京は軽く準備運動をしてからシンボリルドルフに言う。

「こっちは準備できたぞ」

「承知した。では」

 頷いたシンボリルドルフは秋川やよい達がいる方向を見て手を挙げる。直後、「承知!」という元気な声が返ってきた。スタートの合図は秋川やよいが行うらしい。

 両者は口を閉じる。走る前の体勢を取り、視線は前方だけを見つめる。陸上競技とは違い、スタートは常に横一線。距離的なロスは常につきまとい、出遅れようものならそのロスはさらに顕著になってくる。

 周囲が沈黙に包まれる中で八京の心臓は高鳴った。それは緊張ではなく興奮で、あの「皇帝」が隣にいるという事実だけで八京は一生分の幸せを得たような気分だった。

(ああ、勝ちたいな)

 早く走りたいと言わんばかりに足元が疼く。初めて速く走った幼い頃と同じ高鳴り。

 そして身の程知らずにも程がある意気込みを胸に八京が一層集中力を高めたところで、

「はじめ!」

 秋川やよいの声と同時に両者は走り出した。

 

 

 

「ふぅン……」

 たった今眼下で始まった併走を目にして、アグネスタキオンは足を組み直してぼそりと呟いた。

 模擬レースや選抜レースを行う練習場に備え付けられた観客席はレースに出走するウマ娘が有名であればあるほど観客で埋め尽くされるものだが、人払いを済ませている現在、席についているのはアグネスタキオンだけだ。

「予想は当たりか。まあしかし、驚いたね」

 芝の上を疾走する二つの影。コースの大外を走るシンボリルドルフは距離的な不利を一切感じさせる事なく先頭を走り続けている。

 対して八京はコースの内を走っている。この両者の間に空いた不自然な間隔を見れば、併走する上で事故が起きないようにとシンボリルドルフが八京にハンデを与えたのは誰の目から見ても明らかだった。

「しかし……ふむ。ハンデねぇ」

 アグネスタキオンはにやりと笑う。

 本来人間が勝てるはずのないこの勝負。シンボリルドルフが大外だけを走るにしても、人間の脚力では到底彼女の背中を追うことさえできないだろう。

 つまるところ、ハンデがハンデの意味を成していない。

 しかし、

「フォームもぶれぶれ、足元も覚束ない。だが……ククク、これは理事長もさぞ驚いているだろうね」

 10バ身のリードをつけられながらも――否、リードを10バ身まで抑え込んで必死にシンボリルドルフの背中を追う文山八京にアグネスタキオンは狂気の瞳を向けた。

 

 

 

(クソッ、走りにくい……!)

 併走を開始してすぐに、八京はいつもは感じない違和感を感じ取っていた。

 八京は現在、大外を走るシンボリルドルフの背中を遥か後方から追いかけているところだ。

 練習で出せている力が出せていない訳ではない。事実八京はシンボリルドルフの走りに必死について行っているし、スピードだって人間の脚力では到底至ることのできない領域に踏み込みつつある。原因はもっと別の、それもかなり感覚的なものだった。

(緊張……とは違う。気圧されている……?)

 遥か前方、10バ身ほど離された先に見える「皇帝」の背中。その背中が見上げるほど大きく見える。

 八京は誰かと一緒に走ったことがない。より正確に言うのであれば、本気で誰かと走り競った事がないのだ。

 思い出すのは誰もいない一本道を一人で走っている景色だけ。彼自身も、人間の身でありながらこの脚力をひけらかす事の危険性を身をもって理解していた。

 だから気づかなかった。本気で競った経験が極端に少ない八京にとって、自分を打ち負かさんと全力を尽くす者の迫力を。

 追い抜けるものならやってみろ。

「……っ!」

 勝てない、と直感的に悟ってしまう。全身を伝う汗にひんやりとしたものが混じる。八京は今自分が併走しているウマ娘がどんな存在なのかを改めて理解した。

 トレセン学園の生徒たちの頂点に君臨するウマ娘。勝つ事が目的でないと理解しながらも、少しでも「勝ちたい」などと思ってしまった自分が恥ずかしい。

「うお、っと……!」

 そんな事を考えてコーナーを曲がったものだから、スピードに体を取られて大きく外側に滑る。遠くからたづなの悲鳴が聞こえた気がしたが、ぐらりと倒れそうになる体を八京はなんとか引き上げるとそのままコーナーを曲がり切った。シンボリルドルフの背中は依然として遥か前方だ。

(強いな。それに、綺麗だ)

 圧倒的な実力で先頭を走り続けるシンボリルドルフのフォームはスタートしてから現在まで全くぶれていない。一見すると簡単に見えるが、それは日々のトレーニングによってしっかりと基礎ができている証明でもある。

(アグネスタキオンもきっとあのレベルまでいけるはずだ)

 走りながらそんな事を思う。

 観客席を見ることはできないが、きっと彼女は自分の走りを見ているだろう。

 興味を持ってくれただろうか。それとも自分の醜い走りを見て失望しているだろうか。

(後者だと傷つくな)

 シンボリルドルフとの実力差を見せつけられた直後にしては楽観的な感想だった。

(認めてもらうんだ)

 醜い走りをしているのは理解している。ろくな指導も受けずに一人で走っていたのだから当然だ。しかしそんな事で今回の目的の達成を阻まれるのは困る。とても困る。

 ならば、醜さを覆い隠すほどの鮮烈な走りを見せるしかない。

 スタート直後の萎縮と緊張は解れ、直線でリードを7バ身ほどまで縮めて最終コーナーにさしかかる。

 歓声を上げるものは誰もいない。二人の足音だけが練習場に響く。

 見えなくなるシンボリルドルフの背中を追いかけるように八京もコーナーを曲がる。今度は事前に減速していた為、足を滑らせるような事にはならなかった。

(ここからなら……!)

 地面を蹴る足に更に力を込める。

 八京にとって芝のコースで併走するのは初めての経験だ。

 しかしスタートのタイミングや位置取り、コーナーの曲がり方など、初めてなりに色々と考えて走っていた。

 そして最終コーナーを曲がり終えた今、残るはゴールまでの直線のみ。八京にとって見慣れた一本道の景色がそこにあった。

 八京は温存していた体力を全て吐き出すように地面を蹴った。これでシンボリルドルフとの距離が少しでも詰められればいいと思いながら。しかし、

「なっ……」

 すぐに理解する。

 自分の考えなど、歴戦のウマ娘からすれば取るに足らないものだと。

「まだ速く……!」

 シンボリルドルフの背中が更に遠ざかる。足音も呼吸も、追い抜くことは無理でもせめてゴールまでに差を縮めようとしていた自分の浅はかな考えを嘲笑うかのように遠くに消えていく。

(ダメだ……)

 脳裏によぎるのはシンボリルドルフに無様に敗北した自分の姿。それはまだいい。

 だが、アグネスタキオンがこの学園を去ることだけは。

 自信が揺らぐ。そしてそれは八京の精神だけでなく走りにも影響を与えた。

 転びそうになりながら走る。速度はぎりぎりキープできているが、それでもシンボリルドルフを追い抜くどころか、彼女に追い縋る事もできないだろう。

 限界だ。

 そう思った矢先だった。

「トレーナー君!」

「――え」

 どこからか声が聞こえた。しかし辺りを見渡したい衝動を堪えて八京はただ前を見た。その声が最近聞き慣れた声だったからだ。

 掠れた声が八京の耳に再び届く。

「地面を蹴ることだけ考えろ! 体の事は考えなくていい!」

 まるで怪我をしろと言わんばかりの、助言にしては些か配慮に欠けた言葉。

 しかしそれは、今まさに折れそうだった八京の心を確かに支えていた。

「君の最高速度を! 見せてみろ!」

「……!」

 最高速度。

 そうだ。

『私は最高速度の先を見たい。足が速いなんて陳腐な言葉では足りないくらい、影すら踏ませぬその先へ行きたいんだ』

 あの日、殺風景な空き教室で彼女に言われた言葉を思い出す。

 それだけじゃない。

 今まで交わした数少ない彼女との会話が彼女の精神を物語っている。

(彼女は一度も、「限界だ」なんて言わなかったじゃないか!)

 前方を睨む。

 ゴールまであと500m。

 シンボリルドルフの背中は遥か遠くと思えるほど離れた場所にあった。

「地面を蹴る……体の事は後回し……」

 アグネスタキオンの言葉を反芻しつつ八京は姿勢を低くする。

 意識するのは足の爪先。本来であれば体全体を使って走るものだが、八京はその体の強度と脚力のアンバランスさ故にその枠から外れている。故に、

(折れませんように)

 心の中でそうお祈りして、八京はギリギリまで姿勢を低くした直後、

「ッ!」

 短い気合いと共に右足で地面を蹴り上げた。

 足が沈む。それが足元の芝を抉ったのだと八京が認識するよりもはやく、彼の体は前方に加速した。そして、

「へぶぇっ!?」

 バランスを崩して地面と熱烈な接吻を交わすこととなった。

 顔面から全身に衝撃が走る。だが骨が折れるような痛みは届いてこない。

「な、んのっ!」

 八京は鼻の奥に残る痛みを我慢しながら転んだ勢いのまま一回転するとすぐに走り出す。

(今度は……!)

 フラッシュバックする幼い頃の失敗を振り切って、先ほどと同じように地面を思い切り蹴る。

 「走る」というより前方に「跳ぶ」ような走り方だが、これが現時点で限りなく正解に近いスタイルであると八京は本能的に理解した。

 二回目の跳躍では転ぶ事はなく、八京は少しだけ近づいたシンボリルドルフの背中を見つめる。

 蹴って、跳ぶ。体勢の立て直しは着地した後でいい。

「もっと……!」

 ゴールまで100m。彼我の距離はおよそ5バ身。

「……はは」

 思わず口角が上がる。

 先程のアグネスタキオンの言葉に応えるように八京は加速していく。無様な走り姿でも関係ない。勝敗はもう気にしてさえいなかった。

 自身の最高速度を彼女に見せる。

 その一点だけを胸に八京はシンボリルドルフとの距離を詰め続けた。そして――、

「それまで!」

 八京にとって永遠にも感じられた併走は終わりを迎えた。




一陣の風
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