超光速の証明   作:雁来紅

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一区切りです


9 アグネスタキオン

 併走終了後の対応はスムーズに行われた。

 八京が抉り飛ばした芝についてや、彼が負った怪我の具合、練習場の整備の日程など、八京自身が口を挟む暇もなくそれらの問題は解決、あるいは対策がなされ、面接の結果は後日という事でその場で解散という運びとなった。

 八京を除いて。

「『先に行ってる』だそうだ。私には意図を汲みかねるが、君なら分かるだろう?」

 シンボリルドルフから伝えられたアグネスタキオンの伝言を頼りに、八京は人気のない校舎を彷徨っていた。

「……見つけた」

 併走終了から約20分。

 以前の記憶を頼りにあそこでもないここでもないと校舎内を歩き続けた末に、八京はあの時の空き教室の前に立っていた。

 念のためノックする。反応はない。そもそも夕方だというのに電気もついていない。

 しかし彼女の伝言が指し示す場所を八京はここしか知らなかった。

「入るぞ」

 勝手にそう宣言して、やや立て付けの悪いドアをスライドさせて中に入る。

 室内は相変わらず殺風景なままだった。あの時八京が座った椅子と長机があるだけの、一見人の気配なんて微塵も感じられない部屋だった。

 だが、彼女はいた。

 教室の左奥。窓辺によりかかりながら、開け放たれた窓の外に視線を向けるアグネスタキオンの表情は八京の位置からでは窺い知る事はできない。

「…………」

「…………」

 八京が近づいてもがアグネスタキオンは口を開かない。八京もじっと彼女が喋るのを待っていた。沈黙する事を「天使が通る」なんて言う事もあるそうだが、この言葉が本当なら今頃この教室内は天使達で大渋滞を起こしている事だろう。

 そんな沈黙を破ったのはアグネスタキオンの声だった。

「あれが、君の最高速度か」

「……」

 八京の脳裏を過ったのは落胆の2文字。しかし併走はつい先程終了し、結果は既に出てしまった。

 シンボリルドルフの勝利。そして、八京の敗北。

 八京は顔の見えないアグネスタキオンを真っ直ぐ見つめた。

「ああ、そうだ。お前のお陰で俺も自分の速さを知ることができた」

「……そうか」

 アグネスタキオンはぽつりぽつりとしか喋らない。八京にはそれが自分との会話を疎んでいるように感じられてしまう。

 納得してもらえなかっただろうか。

 ネガティブな考えが頭を支配し始めた頃、アグネスタキオンが再び口を開いた。

「異常だ」

「…………」 

「人間の姿でありながらその脚力。しかも体の強度は恐らく人間と同等程度。全くもって理解し難い。私が追求するウマ娘の可能性以上に謎が多過ぎる」

「ああ、理解してる」

「そして、最も異常なのは君だ」

 アグネスタキオンが八京の方を向く。その瞳は狂気というよりも、理解し難いものへの畏怖と疑問がない混ぜになっていた。

「理解者もいない。当然相談できる人間もいない。そんな中でよくもまあ愚直にこの学園に想いを馳せたものだ。普通ならどこかで折れるんだがね」

 それはお前もだろう。

 そんな言葉を飲み込む。八京はアグネスタキオンの幼少期を知らない。もしかすると理解者がいたのかもしれない。あるいは、八京に対する疑問で自分の事なんて忘れてしまっているのかもしれない。

「それは俺の意思が強かったと言う他ないな」

「怖くなかったのかい?」

「怖いよ、今でもな。だけど、今日の併走で少しだけ安心した」

 シンボリルドルフと併走して、最終的にはアグネスタキオンの助言もあって現在の自身の最高速度といっても差し支えない速度で走ることができた。そしてその結果、足が折れるなどの反動も見られず、取り敢えずは全力で走っても問題ない事が分かった。

 これは、一人でただ走っているだけでは得られなかった貴重な成果といえる。

「お前を説得しようと思えたからこその成果だ。感謝してる」

「……ふぅン、そうかい。で、君はお礼を言うためだけに来たのかい?」

「呼び出したのはそっちだろ?」

「どっちが呼び出したかなんて些細な事だよ」

「……考えは変わったか?」

 面接の結果はまだ分からない。合格している事を祈ることしかできないが、アグネスタキオンは違う。

 今ここで、八京は自身の目的が達成されたかどうかをアグネスタキオンに問うた。

 アグネスタキオンは栗毛を揺らしながら僅かに考えるような仕草を取る。白衣を着ていない制服姿の彼女のその仕草は、背伸びをする子供のようにも見えた。

「一つ訊こう。君は私をどうしたい?」

「最速のウマ娘に育て上げる」

 こればかりは即答だった。

「ウマ娘の可能性を追求し、速さに貪欲なお前なら、きっと達成できると俺は思ってる」

「しかし私は自身の研究で手一杯だ。トレーニングやレースに関心を持つかは保証できない。それでも、その考えは変わらないかい?」

「俺を使えばいい」

「……へぇ」

 アグネスタキオンの瞳の色が変わる。今となっては見慣れた、狂気を孕んだ瞳だ。

「俺を使って好きに実験して研究すればいい。トレーニングは()()()でいい」

 アグネスタキオンの説得に成功したとしてもアグネスタキオンの考えが変わらない可能性は十分にあった。意味のある成功を望みながらも最悪の可能性を考えた八京は、考え抜いた末に自分自身の体を天秤に乗せる事を選んだ。

 アグネスタキオンの学園での評判を聞くに、それなりに危険である事を覚悟した上での八京の提案だったが、アグネスタキオンはそれを聞いて呑み込み顔で頷いた。

「なるほど、そうきたか。しかし……ククク、トレーニングをついでとは。君以外のトレーナーが聞いたら呆れられそうな言葉だ」

「問題ない。お前が俺を使いたいなら、お前はトレーニングせざるを得なくなる」

 アグネスタキオンは研究の進歩のためなら手段を選ばない。その行動の良し悪しに関わらず彼女が研究の手を止める事はないだろう。

 そんな彼女にとって、合意したうえで好きに扱ってくれていいと言ってくれる人材は喉から手が出るほど欲しいはずだ。

「お前の研究を俺が手伝う。そしてお前はそのついでに最速のウマ娘になる。お互いに損のない関係だと思うぞ」

「アッハハハハ! 損のない関係って!」

 限界だとばかりにアグネスタキオンは腹を押さえて笑い出す。薄暗い教室に彼女の元気な笑い声が響き渡った。

 数分後、なんとか笑いを抑えて、ぴくぴくと上がる口角を指で押さえたアグネスタキオンは再び八京に訊いた。

「……本当にいいのかい? 人権は簡単に捨てるものじゃない。自分からモルモットに志願するなんて正気を疑われるよ?」

「お前がこの学園を去る事に比べたら些細な事だ。それで、乗るのか? 乗らないのか?」

「……ふむ。良くも悪くも予想外だ」

 八京に迫られ、アグネスタキオンは「本来悩むのは君であるべきなんだけどねぇ」と言ってため息をついた。

「随分狂った瞳になったものだ。これじゃあどちらがおかしいのか分からないじゃないか」

 おかしいという自覚はあったのか、という八京の素朴な疑問に答える事なくアグネスタキオンは窓辺から離れた。そのまますたすたと八京の前へ歩み寄る。

「名前」

「名前?」

「そう、君の名前だ。思えばちゃんと聞いていなかったからね。ほら、自己紹介」

「あ、ああ」

 アグネスタキオンに急かされて、八京は佇まいを正してから口を開いた。

「文山八京。トレーナー志望だ。……よろしく?」

「それだけかい?」

「それだけって……、他に聞きたいことでもあるのか?」

「あのねぇ……。スカウトするんだろ? 私を」

「……!」

 八京はようやく理解する。これは彼女なりの気遣いなのだと。

 いきなりの本番だが、言う事は特に難しくない。

 八京は今の気持ちを率直に伝えた。

「君をスカウトしたい」

 その言葉を受けて、アグネスタキオンはじっと八京を見つめた。そして、

「……ふむ。いざ真面目に迫られるとなんだか不思議な気分だ」

「俺の緊張返せよ」

「冗談だよ」

 アグネスタキオンは小さく笑ってから右手を前に差し出した。

「いいとも。君の熱意、いや、狂気は気に入った。共に可能性の先を目指そうじゃないか」

「……ああ、よろしく」

 そう言って八京はアグネスタキオンの小さな手を握った。細枝のような彼女の手は、その割に強い握力で八京の手を握り返す。

 その時、八京は思い出したようにアグネスタキオンに言った。

「名前」

「名前?」

「お前の口から聞いた事なかったなと思ってな」

「えー、いいだろ名前なんて」

「俺に自己紹介させただろ。そもそも、お前のトレーナーになるんだから互いに互いの事を知らなきゃダメだと思うぞ」

 トレーナーの教本に書いてそうな事を言う八京にアグネスタキオンは露骨に面倒くさそうな顔をする。

「一度だけだ」

「そんなに自己紹介したくないか」

「どうにも、私の母や祖母を褒めちぎる輩がいるものでね」

 ややうんざりした様子でそう言ったアグネスタキオンは握った手を解くと、先程の八京のように佇まいを正す。そして、

「アグネスタキオンだ。タキオンとは『超光速の粒子』を意味する。校内では変人扱いされているが、そんな奴の手を君は取ったんだ。君には私のモルモット兼助手兼トレーナーとして誠心誠意尽くしてもらうからそのつもりでいてくれ」

「せめてトレーナーが最初に来てほしかったよ」

「ハハハ! それは無理なお願いだ。なんなら今からスカウトするウマ娘を変えるかい?」

 アグネスタキオンの冗談混じりの問いかけに八京は小さく笑う。

「それこそ無理なお願いだな。俺はお前の走りに魅了されたんだ。今更変える気はない」

「そうかい。ならせいぜい働いてくれ」

 ほんの少し、僅かな時間教室内に笑い声が響く。

 そこに問題児はいなかった。いや、正確には彼女の優先事項は変わっていないし、トレーナー側が譲歩する事で解決という形になった。

 しかしそこには確かに、トレーナーがついた事を彼女自身も気づかない程度に、しかし声を弾ませて喜ぶ一人のウマ娘とトレーナーの姿があった。




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