桎梏の闇   作:水奈川葵

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▼末尾にて*のついた単語の説明があります。


【後編】

 伊南(いなみ)旭耀(きょくよう)は現れた日輪(ひのわ)を見た途端に、何事か凶事が起きたことを悟った。

 

「どうされた? そのように暗い顔をされて」

 尋ねられた日輪は、もう繕って笑みを浮かべることもできない。

 

「いえ……それで月読君(つくよみぎみ)の御薬は出来たのでしょうか?」

「それがあの後、教えられた場所に行ってはみたのですが、ほとんど花を落とした後のようでしてね。採取できたのは数本でした。しかし、株があることはわかりました故、来年には手に入れることが出来るでしょう。さすれば、ようやく十分な量を採取することも可能に……」

 

 聞きながら、日輪はどんどんと不安になった。

 

 まだ陽光の中を歩けぬほどに脆弱な体を持ちながら、日が沈むと月読君は通り名のごとくいきいきとして動き回る。頭も冴えて、日頃から辛辣な言葉は、ますます舌鋒鋭く人の心をえぐる。

 

 いずれ薬によって本復した時には、いよいよ殿上人として御所へも参内するだろう。

 あの博識と眉目秀麗な人だ。

 きっと帝の覚えもめでたく、あっという間に蔵人頭(くろうどのとう)*ともなり、やがて父の後を継いで政治の中枢で権力を握ることは間違いない。

 

 それで――――いいのだろうか?

 

 あの酷薄なる性状の人を、政事(まつりごと)の中心に据えて、国が乱れることはないのだろうか。

 

「………伊南先生」

 青ざめた顔で、日輪は旭耀の名を呼ぶ。

 

「なんでしょう?」

「私がお渡しした…あの…青い彼岸花のある場所の書付を持っておられますか?」

「あぁ…はい」

 

 言いながら旭耀は懐から取り出すと、日輪に差し出す。

 新たな情報を追記してくれるのかと思ったのだが、期待を裏切って日輪は受け取るなりその紙を破り、しかも火に焚べてしまった。

 

「日輪殿!」

 旭耀が驚いて声を上げると、日輪は切羽詰まった顔で向き直った。

 

「兄様を…これ以上の者にしてはなりませぬ」

「兄?」

 

 旭耀が聞き返すと、日輪はハッと顔を強張らせた。

 すぐに俯いて弁解する。

 

「…すみませぬ。別のことを考えていて思わず出たようです」

「…………」

 

 旭耀は腕を組んでまじまじと日輪を見つめた。

 その顔色、容貌の微妙な変化を感じる……。

 問診しようとして、冷ややかな声が後ろから響いた。

 

「日輪殿。御方様がお召びです」

 

 現れたのは新たな北の方の女房だった。

 無表情に日輪を見つめている。

 

「………只今、参ります」

 再び暗い顔に戻って、日輪は女房の後について歩き出す。

 

 旭耀はすっかり肩を落として元気をなくした日輪の背中を、痛ましげに見つめていた。

 

「……とうとう摘んでおしまいになったか……」

 

 つぶやいて溜息をつくが、自分には慰め程度のことしかできない。

 日輪を見つめる月読君を観察していれば、いずれそうなるだろうとは予想していたのだから。

 

 それにしても、どうして日輪はあの紙を燃してしまったのだろう?

 だがまぁ、実際に現地に赴いたので、概ねの場所は記憶している。近い内に再び訪れて、今度は自分で明記することにしよう……。

 

 

◆◆◆

 

 

「ねぇ…教えて下さいましな。殿はどのように貴女(あなた)をお抱きになるのかしら?」

 

 北の対屋(たいのや)の奥。薄暗い御帳台(みちょうだい)の中で、日輪は身動きできずにいた。

 左手を女房達によって押さえつけられ、腹の上には月読君の奥方である中の君が跨っている。

 

 姫君らしいたおやかな、優しげな笑みを浮かべながら、中の君は檜扇(ひおうぎ)でツツ…と日輪の腹から胸へと伝ってゆく。

 

「この前に初めて月がきたばかりというのに、随分と豊かな胸でいらっしゃること」

「………北の方様…お許し下さい。どうか…」

 

 言いながら、ゴホッと咽せたのは、口の中に溜まった血が気管に入ったからだ。

 

 

 ―――少し前のこと。

 

 

 旭耀と別れ、女房に案内されて現れた日輪を見るなり、北の方―――式部卿宮の中の君は驚いたようにその容姿を見て言った。

 

「まぁ……このような者なの? 殿の寵愛を受けておいでというから、紫の上*のごとき美しい方とばかり思っていたのに…」

 

 自分の容姿が醜いことは、言われるまでもなくわかっている。

 けれど自分を傷つけようとして言ってくる中の君の声音に、日輪は若干失望した。

 

 先の奥方であった左衛門督の娘は、日輪の姿について何か思うことがあったとしても、口にすることはなかった。他の女房達と別け隔てなく、優しく接してくれた。

 きっとこの穏やかな人であれば、月読君の心もほころんで、幸せになれるだろう…と思った。

 結果は哀しいものとなったが。

 

 きっと彼女もまた、心砕いて月読君に寄り添おうとしたのだろう。けれど、彼の人の救い難い獣心に気付き、失望して自ら命を断ったのだろう……。

 

 ボンヤリと考えていたせいで、気付くと目の前の中の君を無視していたらしい。

 ハッと我に返った時には、既に中の君は怒りのあまり青ざめていた。

 脇息を投げつけられ、固い部分が目の上に当たって態勢を崩し、顔を覆う間に、中の君は素早く歩み寄ってきて、檜扇でしたたかに打ってくる。

 

 まさか主人の奥方に手を上げて反抗することは出来ないので、日輪はひたすら「お許し下さい」と連呼しながら、頭を下げるしかなかった。すると、いきなりグイと脇を掴まれて立たされる。逃れようと身をよじったが、後ろで日輪を羽交い締めする女の力は存外に強く、ビクとも動かない。

 

 目の前に立った中の君がふわりと微笑して、檜扇で口を覆いながら言った。

 

「まぁまぁ…無理よ。宿禰(すくね)東豎子(あずまわらわ)*の出ですよ。日頃から女だてらに武術にも励むほどです。そなたの腕など簡単に折ってしまいますよ」

「………お許しを」

 

 再び言うなり、中の君は扇を再び束ねてビシリと日輪の頬を打った。

 口の中が切れて、血が口腔内に溢れる。その後には一切の弁明の間もなく、ひたすら中の君は日輪の顔を扇で打った。

 

 やがて中の君はハァハァと息が乱れて疲れたのか、脇息を拾い上げて、(しとね)の上にヘたりと座り込んだ。

 

「フン! 身分の低い女なんて、この程度のこと痛くも痒くもないようですのね。でも、それでは罰にならないわ。宿禰、その女の腕を折ってごらんなさいな。そうすれば父上に頼んで、また東豎子として働けるように口きいてもらいましょう」

 

 言うなり、背後から掴んでいた女が日輪の右腕をひねり上げた。

 

()っ! ……痛い! やめて! どうかお許し下さい!! 痛いッ! 嫌ッ!」

 

 ミシミシと骨が軋む音が耳に直接響いてくる。

 恐怖と痛みで、日輪の全身から冷や汗が噴き出る。

 

 痛々しげな悲鳴が響いて、日輪はその場に倒れ込んだ。

 右腕が熱く、途中から感覚がない。動かせない。

 

「なぁに…折れてるの、それ? まぁいいわ。御帳台に運んで頂戴」

 

 中の君が面白くなさそうに指示すると、宿禰という女房と、もう二人ほどの女が出てきて日輪を担ぎ上げて運ぶ。

 

 それから女房達に左手を押さえつけられ、腹の上に跨った中の君は日輪の小袖をはだけて、その膨らみを(もてあそ)んだ。

 

「ねぇぇ……教えて下さいましな。殿は……このように貴女を悦ばせるのかしらァ…?」

 

 妙に間延びしたような、淫靡な声が這い登ってくる。

 

 右胸を揉まれながら、左胸の中心の突起を吸われて、日輪はクラクラと眩暈がした。

 必死に意識を保とうとするが、気が変になりそうだった。吐き気と共に、視界がぼやけて暗くなってくる。

 

「私、貴女とは仲良くしたいと思っておりますのよ。所詮は乳母の孫娘など、妻として認められるものではないのだから、それは同情しますわ。だから、殿と貴女との仲を裂くつもりなどございませんのよ」

 

 言いながら中の君は日輪の袴の帯をスルスルと解いてゆく。

 日輪は(ふる)えた。

 貞操をなくしたとはいえ、これ以上、中の君によって玩弄(がんろう)されるのは耐え難い。

 

「やめて下さい…どうか…お許し下さい」

「さっきからそればかりよ、貴女。もう少し、面白い切り返しができないの? 殿はどうしてお前みたいな卑しくて醜い、愚陋(ぐろう)な女を相手になどなさるのかしら?」

 

 苛立たしい様子で言って、中の君は露になった日輪の陰部を見やって酷薄な笑みを浮かべた。

 

「……ねぇ。ご存知? 唐土(もろこし)の後宮ではひどい拷問がありましたのよ。ココに火で焼いた棒を挿し込むそうですの」

 

 恐怖のあまり気を失いそうになった時、クスクスと笑う声が聞こえた。

 

「フ……悲鳴がして来てみれば、ここにいるのは妲己*か、呂后*か」

 

 御帳台の布を上げて入ってきたのは、月読君だった。

 

 日輪は朦朧としながら、その姿を見ようとして目を細めた。

 どうしてだろう? 月読君の姿がいつもと違って見える。

 

 真っ白な髪、獣のような足、体には牙が幾重にも重なった口が、涎を滴らせている。

 化け物のようだ。まるで。

 

 中の君は呆然として、つぶやく。

「昼は…塗籠におられるものとばかり……」

 

 月読君は腕組みながら、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 

「私がおらぬ間に、憎き側女(そばめ)を虐げようとしていたか。生憎(あいにく)だな。今日のような厚い雲のある日は、さほどに疲れもせぬ。そのうちに雨になろうよ……いや、降ってきたか」

 

 ポツポツと雨の音が聞こえてきたと思うと、あっという間に屋根を打ち付ける音は激しくなった。

 

 彼は中の君の前に立つと、その頭を掴んだ。「ヒッ」と中の君が短い悲鳴を上げる。

 

「女房共は出てゆけ」

 主を助けようと手を伸ばしかける宿禰らに向かって、冷たく言い放つ。

 

「お、お許し下さいませ…!」

 中の君を幼い頃から世話する命婦(みょうぶ)があわててひれ伏すと、彼は苛立たしげに急かした。

 

「出てゆけと言っているのだ。聞かぬのであれば、暇を出してもよいのだぞ」

 

 命婦は蒼白になると、ぎこちなく頭を下げて御帳台を出て行った。

 宿禰らもその後に続いていく。

 

 三人だけになると、彼は再び笑みを浮かべて中の君を見た。

 

「さぁ…どうしてほしい?」

「あ……あ……と、殿が……」

 中の君は、はらはらと涙を流しながら、自分の頭を掴む彼の手に縋った。

 

「殿が…(わらわ)の元においでにならぬから……聞いて…教えて頂こうと思ったので御座います。日輪殿がどのように殿に奉仕されているのか……」

 

 その返答を聞くや、彼は大笑いした。

 明らかに自分を嘲笑しているのに、気付かぬ中の君は阿諛迎合した引き攣り笑いを浮かべる。

 

 笑いが収まると、彼は中の君をぞんざいに放り投げた。

 畳から転がり落ちて、中の君は打ち付けた額に手を当てながら起き上がる。

 

「そんなに知りたければ、そこに居て見ておけ」

 

 言うなり、彼は日輪の上に覆い被さった。

 

「やめて下さい! 嫌です!!」

 

 左手だけで必死に抗うと、彼は不思議そうに日輪の右手を掴んだ。

 痛みに絶叫する日輪を見て、(たの)しげに笑う。

 

「なんだ…? 折れているのか? ハハハハ…よっぽど恨みに思われたのだな。大したものではないか。貴様程度の女が宮家の息女に嫉妬されるなど…」

「………」

 

 絶望がまた日輪の心を凍らせる。

 涙に濡れた瞳に、ふたたび月読君の姿が変わって見えてきた。

 

 白い髪、鋭い牙、全身を覆うような赤黒い斑紋、そして…紅い…瞳。

 

 ―――――これが、この人の本性なる姿なのだ……。

 

 諦観して、もはや意識を失うしかなかった。

 そうせねば、きっと死んでしまう。いや、いっそこのまま息絶えたかった。これ以上、どうして生きる理由があるのだろう…?

 

 

 その夜、月読君は中の君の元へと行ったが、朝になる前に戻った。

 早朝、中の君は首を括って死んでいるのが見つかった。

 

 

◆◆◆

 

 

 右腕が折れて動かず、熱も続いたことで、日輪はしばらく房室に引き篭もって寝込んでいた。

 

 月読君の元へ侍ることもなく、それでも無理にでもお召しがあるかもしれぬと、内心怯えていたのだが、何も言ってこない。

 ホッとしながらも、奇妙な胸騒ぎがする。………

 

 すっかり花を落とし、葉桜となった新緑の眩しい光に目を細めていると、弁の君が声をかけてきた。

 

「大丈夫なの? 起き上がって」

 振り返って、日輪は安心させるように微笑む。

 

「熱は…もう大丈夫」

「それならいいけど」

 

 言いながらも弁の君は胸が痛んだ。もう日輪にかつての溌剌とした陽気さはない。

 それも全て()の人が奪ってしまった。無理に微笑みを浮かべる姿が痛々しい。

 

「ねぇ…」

 日輪は内心の不安を見せないように、何気なく尋ねた。

「月読君はお元気でいらっしゃるのかしら?」

 

 その呼び名を聞いた途端、弁の君はギクリと顔を強張らせた。

 

「……どうしたの?」

 

 顔色を変えた弁の君に、途端に日輪は不安が増大する。我知らず胸を押さえた。

 弁の君はそれこそ笑顔を作って言った。

 

「あ…いえね……やっぱり…ホラ、北の方がああしたことになられたから……色々と気塞ぎでいらっしゃるのでしょうね。少しばかりご不調なのよ。物をお食べにならないし。食べても気持ち悪くて吐いてしまわれるの。顔色も以前のようにお悪くて………」

 

 日輪は立ち上がると、母屋(もや)に向かおうとして、弁の君に止められた。

 

「大丈夫よ! 近江殿がちゃんと見て下さっているわ」

「おばば様は、近頃は目も悪くて…ちゃんとお世話できないかもしれない。私が行かないと……」

 

 弁の君は日輪の左腕を掴みながら、ぶるぶる首を振った。

 

「日輪。もう、おやめなさい。あの人は…殿の事は、放っておきなさい。私達は、ただ粛々とご面倒を見ればいいのよ」

「何を言っているの? そんなに具合が悪くなっているなら……先生に診てもらわないと。伊南先生にはお知らせしたの?」

 

 ウッと弁の君は息を呑み込んだ。普通にせねばと思いつつも、不自然に固まった顔は無理に笑おうとすると、冷や汗が噴き出る。

 

 日輪はみるみるうちに、顔色が悪くなる弁の君を見て、底知れぬ鬼胎(おそれ)が足元から這い登ってくるのを感じた。

 

「……なにがあったの?」

 なにか―――ではなく、なにが、と問うてきた日輪を見て、弁の君は深く溜息をついた。

 

「伊南先生は……お亡くなりになったわ」

 

 一気に日輪の心臓が凍りつく。

 

「……いつ……どうして…?」

 

 掠れた声で尋ねる日輪に、弁の君はゆっくりと話して聞かせた。

 

「三日ほど前のことよ。いつものように訪れておいでで……貴方の具合が悪いと言ったら、後で診察に行きます、って……仰言っておられたわ。でも、いつまで経っても母屋(もや)から出ておいでにならなくて……」

 

 そこまで言ってから、弁の君は日輪を見て少し苦く微笑んだ。

 

「貴方と…近江殿以外は……先生が殿を診ておられる間は入れないでしょう?」

「………」

 

 確かに弁の君の言う通り、月読君は診察中の姿を見せたがらなかった。着替えも同じ。

 自分の弱々しく痩せた体を見せることを極度に嫌い、近江か日輪にしか裸体を見せることはしない。

 

「仕方なく近江殿がいらして、しばらくしてから義清を呼ばれたの。始末をするように……と」

「……始末?」

 

 弁の君は視線を逸らすと、うめくように告げた。

 

「鉈で……頭を割られていた……らしいわ」

 

 日輪は慄然として言葉を失う。

 蒼白になった日輪を見て、弁の君は日輪の震える手を握りしめた。

 

「日輪……わからないのよ。誰も見ていないのだから。誰が先生を殺したかなど……詮索しては駄目なのよ」

 

 皆、知りながら知らぬ振りして…そうして旭耀の死は抹消される。

 再び母屋へと向かおうとする日輪の左腕を弁の君は強く掴んだ。

 

「日輪!」

「だって…そんなことをなさるわけがございません! そんなこと……先生は…月読君を治して下さる人なのに……せっかくこれまでやってきたのに…!」

 

 叫びながら、涙が零れる。

 旭耀の優しい笑顔が砕かれて、散ってゆく…。

 

 

 

 幼い頃から、高名な祈祷師や医者に診てもらい、誰もが匙を投げる中、唯一人だけだった。

 伊南旭耀だけが、月読君に心から寄り添い、本気で治療しようとしていた。であればこそ、日輪も心打ち解け、年は離れていても、同志のように励まし合ってきた。

 

「普通、こうした病弱なる人というのは、精神も弱くなって、気力が落ちて、いずれ極楽浄土に行くのだとばかり世を儚んで過ごす方が多いのですが、月読君は違う。なんとしても、どうあっても生きたいのだと……全身から叫んでおられる……」

 

「私には息子がおったのです。月読君と同じように体が弱くて……一度も野山を走らせてやることも叶わず、幼くして亡くしましたが…。その息子も事切れる寸前まで、元気になることを夢見ておりました……」

 

「…おそらくは誰もわからぬのです。月読君にとっては、生きること全てがお辛い。常人には想像を絶する苦しみの中で、生きておいでなのです。哀れなか弱き命と、同情するは安いが、それでは彼の人に卑屈を与えてしまう。だから、私は君を哀れむことは致しませぬ。ただ専一に、己に出来得る限りのことを尽くして…彼の方の天命を必ずや繋ぎましょう……」

 

 

 

 医師としての使命を必死で果たそうとしていた旭耀の、柔和で穏やかながら、頼もしい笑顔を、もう見ることはできない……。

 日輪は崩れるように座り込むと、袖の中に顔を埋めて泣いた。

 

 なんということだろう。

 こんな皮肉があるものか。

 これで月読君は最も信頼すべき人を失った。薬もなくなり、このままでは……

 

「………」

 その事に気付いた途端、日輪は卒然として身を起こした。涙に濡れたまま、切れ切れに尋ねる。

 

「……薬…は?」

「え?」

「先生が……月読…君の……薬……」

 

 弁の君は泣き伏した日輪を痛ましく見ていたが、突然起き上がるなり問われて、意味がわからなかった。

 

「何を言ってるの?」

 日輪は弁の君の袂を掴んで、切羽詰まった顔で問うた。

「先生が下さった、お薬よ。月読君がいつも()まれていたお薬は!?」

 

 言いながら、さっき弁の君が言っていた彼の不調を思い出す。

 もしかすると、もはや薬はないのではないだろうか。だから、また具合が悪くなっているのではないのか…?

 このまま薬を服まずにいれば、徐々に健常になりつつあった彼の体はまた弱って、以前のように力なく…いや、前よりもずっと痩せ細って…いずれ……

 

 その先を考えた時、日輪は自分の感情の相克に頭が割れそうになった。

 

 死ぬこともできず、尼となることも許されず、逃げることもできない自分。

 

 けれど、月読君に死んでほしいとは思わない。思えなかった。

 あれほどひどい仕打ちをされても、憎むことが出来ない。

 

 ―――まるで呪われたように。

 

「薬を服まないと……死んでしまう……亡くなられてしまう……」

 

 涙を流しながら、日輪はなにかに取り憑かれたかのようにつぶやく。

 

 弁の君はゆるゆると首を振って、静かに嘆息した。

 もはや、自分には日輪の気持ちが理解できない。

 あれほどの屈辱を許し、亡くなったとはいえ主人の北の方からの悋気で腕を折られる虐待を受けながら、どうしてこの娘は、まだ彼の人に尽くそうとするのだろう…?

 

「日輪、殿のご不調は仕方ないわ。ご自身の因果なのだから」

 冷たく弁の君は言った。

「皆、そう思ってる。近江殿と貴方だけよ。この期に及んで同情するなんて……」

 

「弁の君……」

 悲しい目で日輪は弁の君を見つめた。非難する気はない。きっとそれが普通だ。

 

「この三日ほど(しとみ)*も下ろさせて、ずっと塗籠にこもってらっしゃるわ。あの方なりに、罪に思うところがおありなら……あるいは神仏も救いの手を差し伸べるでしょうけど………」

 弁の君は言ってから、皮肉げに顔を歪ませた。

「そんな気持ちがあれば、自分を治そうとしている医者を手にかけるようなことはないでしょうね……」

 

 再び旭耀の笑顔が浮かび、日輪は悄然と俯いた。

 

 もう……彼の人を救う手立てはないのだろうか……?

 

 

◆◆◆

 

 

 夕焼けの空に、黒い鴉が飛んでゆく。

 

 一緒に夕空を見上げて、光りだした星を数えたのはいつの頃だったろうか。

 子供ながらに博学な彼の人は、星の名前とその由来を教えてくれた。

 

 いくつもの星。いくつもの光。

 

 吸い込まれそうな空に手を伸ばすと、自分よりも背の高い彼も手を伸ばして、星を掴み取った。

 得意げに微笑んで、そうっと掌を開くと、そこには薄緑色の(ぎょく)*が乗っていた。

 幼心には、それは星なのだと思った。星を掴み取れる人なのだと、信じた。

 

 皆が病弱な彼を憐れみ、彼の中に死を見ていた。

 

 けれど日輪にとって、彼は光り輝いて見えた。

 自分よりもずっと美しくて、ずっと賢くて、ずっと懸命だった。

 

 自分の出生の秘密を知った時、卑屈になるしかなかった日輪にとって、彼が兄であるということだけが、せめてもの誇りだった。……

 

 

 ゆらり、と視界の端に炎が揺らめいた。

 紙燭を持って立っているのは、すず菜だった。

 けれど、違う。

 緑白色の光が体内から発光し、額には梵字が浮かび上がっている。

 

「……日輪よ」

 

 その声は低く朗々として響き、日輪の全身を包む。

 

「そなたも…旭耀も…()の者にとって呪縛となるしかない定めとなった。だが、そなたには逃れる術を教えてつかわす」

 

 相変わらず、意味不明なことを言いながら、すず菜が両手を日輪の前に差し出すと、その上に光が集まってきて、短刀となった。

 

「……まだ、今なら間に合う。この刀であの者の首を斬って捨てよ。さすれば、そなたの苦しみも消えよう……」

 

 日輪はまじまじとその刀を見た。

 銀の鋼は磨き上げられ、陰鬱な顔をした日輪を映す。

 

「どうして…あの方をそうまで苦しめるのですか?」

「………」

「兄様は生きたいだけです。それだけが望みなのです。誰もが当たり前に望むことを、より強く望まねば生きていることも出来なかったのです……。貴方様は神の御使いであれば、おわかりのはずです」

 

 強い言葉で言い募る日輪に、すず菜の表情が揺らぐ。

 眉間を寄せ、沈痛な顔でつぶやく。

 

「……私は……神の使いなどではない」

「……では、何者です?」

「…………抗う者である」

「あらがう…もの…?」

「日輪よ…私はもう何度もそなたと会い、少しずつ定めを変えてきた。そなたの名前に言霊を与えて縛縄とすること、其は旭耀も同じ。だが、人の宿業はそう簡単には動かぬ…。私が介在できるのも、おそらくこれが最期……」

 

 すず菜の中から発光する緑白色の光が弱くなっていくのを見て、日輪は叫んだ。

 

「待って! お願いです! 助けて!! 兄様を助けて!」

 

 閉じた瞳が細く開き、静かな声ですず菜は告げた。

 

「全ては……彼次第」

 

 

 紙燭が落ちそうになって、ハッとしたようにすず菜が目を開く。

 

「あ………あれ?」

 きょろきょろと訳がわからぬ様子で辺りを見回すすず菜に、日輪はそっと声をかけた。

 

「……ありがとう」

「え?」

「紙燭を…持ってきてくれたのでしょう?」

 言いながら紙燭を受け取ると、すず菜は「あぁ…うん」と曖昧に頷いて出て行った。

 

 日輪はしばらくその場に立ち尽くしていたが、ふと懐に重さを感じた。

 そっと紙燭を床に置くと、中にあるものを取り出す。

 綾錦にくるまれた短刀が現れた。簡素な白鞘に入ったそれは、確かに先程まですず菜が手に捧げ持っていたものだった。

 

 ―――――この刀であの者の首を斬って捨てよ…

 

 夕闇の幻と思いたかったが、逃れようもなく自らの手の中にその短刀はある。

 鞘を少しだけ横に滑らせると、銀に光る艷やかな刀身が、相変わらず陰気な日輪の顔を映した。

 

 目を瞑る。

 

 星が見える。

 星を掴み、日輪に見せてくれた彼の姿。彼の顔。彼の瞳。

 興奮して、しきりに称賛する日輪に、呆れながら、少し困ったように笑っていた。

 

 あの頃、あの瞳には、まだ優しい光が宿っていたのだ。………

 

 

◆◆◆

 

 

 塗籠(ぬりごめ)の、粘りつくような闇の中で、彼はギリギリと歯噛みしながら、全身を覆う倦んだ熱と飢餓感に自らをきつく抱きしめて、横たわっていた。

 生ぬるい空気が、風のない空間でじっとりと脇を濡らす。

 背中も汗で布地が貼りついて鬱陶しい。

 

 ―――――苦しい……熱い……苦しい……喉が……乾く…痛い………

 

 つぶやきは声となって出ず、ただ荒い息づかいだけが孤独な空間に響く。

 

 どうして自分ばかりがこんなに辛い思いをせねばならないのか。

 自らが犯した訳でもない因業を背負わされて、どうして自分だけが苦しい…?

 

 苦悶の中で、手を伸ばす。

 助けを求めるその先に浮かんだ女の姿に、彼はカッと目を見開くと、自らの愚かしさに唇を噛み締めた。

 

 血が流れ出て、ポタリと(しとね)に落ちる。暗闇に黒く染みて、じわじわと広がる。 

 

 ―――――どうして…?

 

 どうして同じ二親を持ちながら、あの女はあんなに健やかに生きていられる?

 

 自分は生まれる前から望まれもせず、何度も殺されかけ、出生してさえも病に責め苛まれ、どこまでも死がつきまとってきたというのに。

 

 

 母が火葬にする前に息を吹き返した自分を見て、号泣したという話を聞いて、彼は違和感しかなかった。

 あの母が、自らの子供に愛情から涙を流すとは思えなかったからだ。

 

 長ずるに従い、女房達が囁きあう噂にそれとなく聞き耳をたて、遠回しな言葉の中にある真実をつなぎ合わせて到達するのに、時間はかからなかった。

 要は自分の本当の父は左大臣でない。母の父母共にしたる実兄である。

 自分は畜生の交わりによって生まれた……というだけの話。

 

 あの日。

 

 自分が火に焚べられようとしていたあの時、密かに笑っていたのは、他ならぬ母であった。

 己が(はら)の中で育みながら、死ぬことを願い祈っていたのだ。

 死産して、哀れなる我が子を悼む母親を演じれば済むと思っていたのが、死んだ赤子がいきなり大声あげて泣き出したので、急に恐ろしくなって泣き喚いたのだろう。

 

 歓びの涙でなく、恐怖の涙だったわけだ。

 

 それほどまでに忌避しながら、よくものうのうと同じ事を繰り返したものだ。

 たった二人だけの兄と妹である故に、よほどに体の性が合ったとでもいうのか……?

 

 日輪が自らを獣達の為した子だと告白した時には、憎悪で脳が焼き切れそうだった。

 

 全く同じ因業を背負いながら、あの女は産声を高く響かせて、生まれてきたのだ。

 咳しても胸は傷まず、草を踏んで駆け回っても息切れすることなく、何一つ不自由のない体。

 美しく、柔らかに伸びゆく肢体。少々の傷も病もはねのける内なる光を持った存在。

 

 だから引きずり下ろしてやったのだ。

 自分と同じ、業苦の中に堕として、快哉を叫ぶはずだった……。

 

 それなのに―――――。

 

 なぜ苦しい?

 悲しむ姿も、絶望に沈む姿も、望んだことなのに、見ても少しも嬉しくない。

 後になって押し寄せる苦い気持ちが、更に苛立ちを募らせる。

 

 それが嫌だ。それが痛い。苦しい…。

 

 どうして自分だけが、これほどまでに苦しまねばならないのだ…!

 

 

◆◆◆

 

 

 ギィ…と戸が開く音がする。淀んだ塗籠の中の空気が動く。

 

 誰だ? 昼の間は誰も決して寄るなと命じているのに……。

 彼は目を瞑ったまま、眉間に深い皺をつくる。

 

「もう、夜になりましておざります……兄様」

 柔らかい声が耳朶をうつ。一瞬だけ安堵が訪れたが、起き上がって日輪を見る瞳は険しいものとなっていた。

 

「……うるさい」

「食欲がないと聞いて……葛湯をお持ちしました。せめて喉を潤すぐらいには……」

 

 恭しく高坏に椀を置いて差し出してくるのを、彼は乱暴に払った。

 床に透明な液体が零れ、椀が転がる。

 いつもならすぐに片付けるために立ち上がる日輪は、座り込んだまま、転がった椀を眺めていた。

 

「兄様……もう薬はございません」

 

 寂しげな声に、彼はフンと鼻を鳴らす。

「なにが薬だ。あんなもの…役に立たぬ……いらぬわ」

 

 日輪は視線を椀から彼へと移すと、じっと見つめた。

 

「薬がないから、お辛いのではないのですか?」

「服んでも効かぬ薬をこれ以上服んでどうするというのだ? 無意味なだけよ」

「兄様…もう薬は頂けませぬ。伊南先生は身罷られました。殺されたのです……」

 

 日輪は淡々と言ってから、彼の瞳を射た。

 

「……あなたに」

 

 彼はさっきまで寝込んでいたとは思えぬ早さで日輪の襟を掴むと、壁に押し付けた。ダン、と背中をしたたかに打ちつけながら、日輪は叫んだ。

 

「どうして…先生を殺したのです!?」

「うるさい! あの男がいつまでものらくらして一向に私を治すこともできぬからだ! 挙句、また花を摘みに行くのに、一年待てだと!? 巫山戯るな!!」

「あと一年……たった一年では、ありませんか…」

 

 涙を浮かべて言う日輪に、彼の全身に青筋が浮かび上がる。怒りの余りに慄えが止まらない。

 

「たった…一年だと? よくも言ったな…貴様。この苦しみを…痛みを…あと一年も続けろというのか…」

 

 逡巡と凶暴な衝動が交錯しながら、彼の手は日輪の首に巻き付いてゆく。それでも指が震えて、力がこめられないでいると、不意に自分の首の根本に熱の塊のようなものが刺さった。

 

 彼は瞬時に飛び退って、肉を灼くその物体を掴むと、痛みに顔を歪めながら引き抜く。

 ガラン、と血に染まった短刀が落ちた。

 その赫い刀身に絡みついた肉片が、塵となって消えていく。

 

「……日輪……貴様…」

 

 怒りが昂じて平坦になった声を遮るように、日輪が涙声で言う。

 

「お許し下さい……どうか…これ以上、罪を重ねないで下さい……」

「罪、だと?」

 

 もはや笑みさえ浮かぶ。

 彼は再び日輪の体を壁に押し付けると、その癖のある赤茶けた髪を引っ掴んだ。

 

「誰の罪だ! この私は!」

 

 叫びながら、日輪の頭を壁にぶつける。

 

「同じ両親を持ちながら、どうして私だけが親の咎を背負わねばならない!? 同じ身の上なら、お前も苦しめ! 熱にうかされ、止まらぬ咳に胸を掻き毟って血を流してみろ!! 死の淵を眺めて眠れぬ夜を過ごしてみろ!! お前に何がわかる!? 全て持って生まれたお前に…何がわかる!!?」

 

 何度も壁に頭を打ち付けられ、意識を喪失した日輪の腕がダラリと垂れた。

 頭を割って流れ出た血のにおいが鼻腔に入ってくると、彼に猛烈な飢餓が襲ってきた。

 

 ガアアァァァッッ!!!!!!!!

 

 獣のような咆哮を上げると、彼は日輪の細い首筋に噛み付いた。

 ビクリと飛び上がって、日輪は目を開く。

 

「あ……ぅ……」

 

 もう言葉も出ず、悲鳴を上げることもできなかった。

 自らの肉を咀嚼する音を聞きながら、涙が零れる。

 

 ゆっくりと、左手を持ち上げる。

 途中で消えかける意識を必死に掴んで、手を伸ばす。

 

 ようやく彼の頭に手を置いた時、ホゥと息をついて安堵した。

 

 そうっと、撫でてやる。

 手負いの獣をなだめるように、優しく。

 

 だが、彼は既に獣以下の存在になりつつあった。

 

 日輪が事切れるまで彼の頭を撫でていたことに、気付くことはなかった。

 

 

--------------

 

 明らかに異様な状況にあるとわかりながらも、誰も塗籠に近づくことはできなかった。

 出入口には近江がまるで門番のようにあたりを睨みつけながら、座ったまま、毒を仰いで死んでいた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 彼はすっかり日輪を喰い尽くした後、塗籠から出てくると、目に入った人間から殺していった。

 一刻もせぬうちに、屋敷にいた者すべてを殺して喰うと、夜の闇の中へと跳梁する。

 

 その日、方違(かたたが)え*で偶然にも左大臣の屋敷に訪れていた(そち)の宮は、急襲した鬼によって最初に血祭りにあげられた。

 左大臣家が阿鼻叫喚の地獄絵図となる中で、最後の最後まで生き残っていたのは、左大臣の正妻。

 先帝の愛娘であり帥の宮の妹で、彼と日輪の母だった。

 生粋のお姫様であり、ただあるものを考えもせず受け入れてきた彼女は、自らの生んだ恐怖を目の前にしても、鈍く首を傾げるだけであった。

 

 彼は一欠片の逡巡もなく、母親の首を落とすと、その前に切っておいた実父の首と共に、肥溜めの中にぶちこんだ。残された体は、野犬の食うに任せる。

 

 たっぷりと人間を食べ、ようやく飢餓感が解消されると、彼は再び屋敷に戻った。

 

 無人となった庭をうろついて、藤棚を見つけると、その匂いに吐き気をおぼえ、すぐさま燃した。

 傲然と、満足そうに燃え盛る藤棚を見る彼に、白い影が声をかけた。

 

「……済んだか」

 

 彼は気配を感じなかった故にビクリとして振り返った。

 

「……なんだ、お前は」

 

 眉を寄せる彼の前に立っている影は、緑白色の光を放ちながら、おぼろげに人の姿をとるも安定しない。ただ、声だけが玲瓏と響く。 

 

「どうあっても…結局はこうなるのだな。抗っても、所詮、人の心には勝てぬ。貴様が獣以下と親を貶めながらも、自ら妹を求めずにおれなかったように……」

 

「うるさい!」 

 

 彼は苛立ちのまま、伸ばした手で影を断ち切ろうとしたが、白い影はすばやく土の中に消えると、燃え盛る藤棚を背に姿を現す。

 落ちた藤の一房を拾い上げた。

 

「やはり…貴様は喰ろうたな。だが今度こそ『(しゅ)』をかけた。貴様が喰ろうたのはただの女に非ず。『日輪(ひのわ)』じゃ」

 

「……何を言っている?」

 

 彼が睨みつけたまま問い返すと、影はゆらりと近寄った。

 

「わからぬか? 旭耀の薬と、貴様が『日輪』を喰ろうたことで、呪は完成した。貴様がたとえ不老不死の能力を得て、人の世を跳梁跋扈しようとも、永遠に日の(もと)に過ごすことはできぬ身となった……」

 

「………な…に?」

 

「貴様は日輪(にちりん)……太陽を喰ろうたのだ。自ら光を呑み込み、闇に堕とした」

 

「…………」

 

 彼が言葉を失うと、影がまた一歩、近づく。

 

「闇の中を進むがいい。二度と、日輪は貴様の前には現れない。手に入らぬものに手を伸ばして(くう)をかく虚しさは永遠に続く。それが貴様に与えられた罰なのだから…」

 

 その白い影に顔の表情などないのに、声音は暗い。

 

「うるさい! いつまでもゴチャゴチャとわからぬ事を!」

 

 彼は怒鳴りつけ、再び伸びた爪を振り上げたが、また白い影は消えた。

 再び現れたのは、大岩の上。

 ただの影が揶揄するように問いかける。

 

「私を喰らうか? 二度までも」

「なに?」

「貴様は自分の妹と、子を喰ろうて鬼となるのだ………鬼舞辻無惨」

 

 その言葉に、無惨は明らかに動揺した。

 

「………子?」

「気付かなかったか? 貴様の子が日輪の胎内にあったを……飢餓に耐えられず、貪り喰ろうたろう……?」

 

 ビリビリと無惨の全身を奇妙な慄えが通り抜けた。

 怒鳴りつけようとしても、声が出ない。

 

 ゆっくりと足元から這い登ってくる寂寥と灼けつく焦燥。

 今の自分に最もふさわしくない感情。

 

 白い影は垣間見えた無惨の動揺に、念入りに『呪』を唱える。

 

「母は……お前を最後まで助けようとしていた……愚かで哀れな生き物だ」

「……黙れ」

「頭が痛いか? そうだ…お前は忘れるだろう。全て」

「黙れ……」

「私の事も、日輪(はは)の事も………日輪(ひのわ)に連なるもの、すべて忘れる……」

「黙れ!」

「地獄を抜け、いつか許されて光射す場所に戻っても、そこにお前が一番求める者はいない。愛別離苦は永劫に続く……」

 

 泣き叫ぶような咆哮と共に、鞭のようになった腕が伸びて、白い影を噛み付くように斬り捨てた。

 

 今度は白い影は逃げず、その場にハタリと倒れた。

 無惨が近づくと、露草の上に横たわっていたのは、へその緒をつけた、拳ほどの大きさの胎児だった。瞼すら開かぬままに、それは塵となって消えていく。

 

「…………」

 

 

 すべてが風の中に消えた時、無惨はそこにあったものを思い出すことはなかった。

 

 己が最初に喰った人間の名も顔も、居たことすら忘れ、忘れたことすらも意識に残らなかった。

 

 

 自らの桎梏(しっこく)の由縁を知ることなく、彼は鬼の始祖となる。………

 

 

 

<桎梏の闇 了>

 

 

 

 




■単語説明■

[蔵人頭・くろうどのとう]
 朝廷における令外官の役職。天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。

[紫の上・むらさきのうえ]
 源氏物語の登場人物。光源氏の妻として、容姿とともに知性・性格・才芸などでも理想的な女性として描かれる。

[東豎子・あずまわらわ]
 後宮にて帝の世話する下級女官の一つ。特定の男性名が与えられ、行幸の際には男装して供奉する。

[妲己・だっき]
 古代中国の殷王朝最後の皇帝の妃で、酒池肉林などの残虐非道な行為を行い天命を失わせた悪女。

[呂后・りょこう]
 漢王朝初代皇帝・劉邦の正妻。劉邦の死後、劉邦の側室であった戚夫人に対し、残虐な行為の末、殺害した。

[蔀・しとみ]
 格子を取り付けた板戸。上部に蝶番(ちょうつがい)をつけ、外または内側に水平に釣り上げて開ける。しとみど。

[玉・ぎょく]
 翡翠のこと。

[方違え・かたたがえ]
 陰陽道(おんみょうどう)で、外出するときに凶となる方角を避けて、前夜、他の方角で一泊してから目的地に行くこと。


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