ふと、目が覚めた。
今は朝だろうか、それともまだ夜明け前だろうか。
うすぼんやりとした視界の中、枕もとをまさぐる。コツン、という感触。目覚まし時計は4時半を指していた。ということは、もうすぐ夜明けだろうか。窓は分厚いカーテンに覆われ、外の様子は伺えない。
辺りはとても静かだ。都会の何も聞こえない死んだ町の静けさとも違う、生き物たちが息をひそめて夜明けを待つ静けさ。時折、待ちきれないというように草や木々のさざめきが聞こえてくる。
間もなく、カーテンの隙間から茜色の陽射しが差し込んできた。夜明けだ。
まるでそれを待ち構えていたかのように鳥が歌い、木々が音楽を奏でる。外の世界は、今まさに賑やかな目覚めを迎えていた。
部屋は未だ薄暗い。世界はこんなにも色鮮やかだというのに、この場所だけ切り取られたように灰色だ。
ベッドに寝転がりながら、じっと窓を見つめる。あの覆いさえなくなれば、きっと陽の光が暖かく部屋を照らしてくれるだろう。そうすれば、このモノトーンの景色はカラフルに彩られるはずだ。
……本当に?
朝は憂鬱だ。また今日という一日が始まってしまうから。
昼は憂鬱だ。また自分のことが嫌いになるから。
夜は憂鬱だ。また何もできないまま一日が終わってしまうから。
こんな太陽の光なんて、何一つ彩ることもできない。どこまでも広がる灰色、灰色、灰色。
この灰色の世界に、おれたちは閉じ込められてしまったんだ。
ガチャ、とドアの開く音がした。窓から視線を離し、扉のほうを向く。
音を立てぬよう、そっと静かに部屋に入ってきた彼女と目が合った。
「あれ、トレーナー。もう起きてたんだ」
彼女は薄暗がりの中で微笑んだように見えた。ぼんやりとしたシルエットが窓際へと向かっていく。
カーテンがぱっと開かれ、光が一斉に差し込んできた。部屋の隅々までが明るく照らされていく。
「おはよう、トレーナー」
光の中で彼女が微笑んだ。
……ああ。どうしてこうなってしまったんだろうか。
……わかってる。みんな、おれのせいなんだ。
おれは、おれの太陽までもを灰色に染め上げてしまった。
彼女から笑顔を、脚を、すべてを、奪ってしまったんだ。
微笑む彼女、トウカイテイオーは、どこまでも寂しそうに笑っていた。
テイオーに連れられてきたダイニングで、おれは新聞に目を通していた。目次を見る限り、どこかとぼけたような話題ばかりだ。今日もこの国は平和だという事だろうか。
一面からめくっていき、政治欄、経済欄と読み進んでいく。時折出てくる興味を惹かれる記事を読みつつ、全体を流していく。そうして読み進めていくうちに、ピタリと手が止まった。
……ここを読むのはやめよう。そう思った。視線を起こして台所に立つテイオーに目をやる。
エプロン姿の彼女は、トントンと歯切れいい音を響かせている。どうやら野菜か何かを切っているようだ。結い上げられたポニーテールが音に合わせてぴょこぴょこと揺れている。エプロンの隙間から覗く白いうなじには、キラリと汗が光っていた。
……頑張ってるなあ。頑張って……くれてるんだよな。
見ていられなくなったおれは視線を落とし、再び新聞を読み始めた。
そのまましばらく新聞や広告に目を通しながら待っていると、鼻腔をくすぐるにおいが漂ってきた。
ふたを閉めた鍋からはコトコトという音が聞こえてきて、ぼちぼち吹きこぼれそうだ。机のそばのトースターでは食パンが焼かれていて、もうじき焼きあがるだろう。
テイオーはと言うと、ジュウジュウと音を立てるフライパンと格闘している。蓋をしているという事は、目玉焼きでも作っているのだろうか。
着々と朝食の準備が整いつつある。きっとあと10分もすれば、トーストに目玉焼き、サラダに加えてポトフか何かの朝食が目の前にやってくるだろう。
彼女は何事にも一生懸命だ。こんな朝食の準備にだって。
……きっと、そうでもしていないと壊れてしまうだろうから。
バタバタと慌ただしく動き回る彼女を見て思う。
まるで結婚したてのお嫁さんみたいだ、と。
本当なら、テイオーもいつか想いを寄せる誰かのためにこうして朝食を作っていたのだろうか。
幸せと笑顔があふれる家庭で、素敵な朝を過ごしていたのだろうか。
……おれは、テイオーとそんな未来を描けていたのだろうか。
彼女を見た瞬間、おれは一目惚れした。
おれは大したトレーナーではなかった。それなりの実績を持つ、それなりのトレーナー。人一倍一生懸命頑張ってきたつもりだったけれど、大した才能もない。現実なんてそんなもんだった。
対して彼女には才能があった。見るものすべてを魅了する、圧倒的な才気を放っていた。
クラシック三冠の大本命。それが彼女、トウカイテイオーだった。
誰もがが彼女に走りに夢中になった。その才能を欲した。
おれも確かに彼女に夢中になった。でも、それは才能がすごいだとか、迎え入れれば三冠間違いなしだとか、そういうことじゃない。
ただただ、彼女のことをずっと見ていたかった。誰よりも近いところで、誰よりも長く。
自分の程度は知っていた。彼女みたいな娘がおれのようなトレーナーの下に来るわけはない。
きっと優秀なトレーナーの下で、立派なウマ娘として育っていくのだろう。
でも、諦められなかった。一目惚れしてしまったから。どうしても、彼女を一番そばで見ていたかったから。
その思いが届いたのか、果たしておれは彼女のトレーナーとなった。
おれは大したトレーナーじゃなかった。テイオーからいつも教わってばかりだった。
でも、彼女だって決して完璧じゃなかった。無敵じゃなかった。
足りないところだらけの二人。でも、だからこそ、おれたちは二人で一緒にお互いの足りないところを補い合って、少しずつだけど着実に歩んで行ったんだ。
憧れのカイチョーに追いつき追い越したい。そんなテイオーに見合うようなトレーナーになりたい。
お互いの目標目指して頑張って、笑って、泣いて。そんな日々を過ごしていた。
一体いつからだろう。彼女に惚れたのは。
初めに感じたあの気持ちとも違う、もっと心の奥から湧き出た感情。
誰よりも早く駆け抜ける彼女の姿。周りの人々を魅了する彼女の姿。最初に好きになったのは、そんな彼女の姿だった。でも違う。それとは違う。
年相応にはしゃぐ彼女の姿。文句を言ったり、ぶー垂れる彼女の姿。悔しくて涙を流す彼女の姿。
そのすべてに、おれは心を奪われた。ずっと見ていたい、隣に居続けたいと、そう思った。
……そう、思ってた。
あの日々は幻だったのだろうか。
もはやおれたちは現実という檻から逃れられない。
もう二度と、そのようなやさしい幻想を見ることは叶わないのだ。
「「いただきます」」
二人一緒に手を合わせて食べ始める。
食卓にずらりと並んだ品々は、どれもテイオーが作ったものだ。
下処理が足りていなかったのか、芯が残ったままのニンジンが入ったポトフ。ブイヨンを入れすぎたみたいで、若干濃い目の味付けだ。
目玉焼きを口に入れると、時折ガリっという食感がする。殻が入ってしまったのだろう。
「どうかな、トレーナー」
不安そうな顔で彼女が尋ねてくる。
おれの返す答えはいつも同じだ。
「うん、おいしいぞ」
「……そっか、よかった」
テイオーがおれのために作ってくれた食事だ。不味いはずがない。
食器を動かし、ひたすらに食べ続ける。
カチャカチャという硬質な音だけが食卓を支配していた。
「「ごちそうさまでした」」
食事が終わると、テイオーが皿をまとめて流しに運び、食器洗いを始める。
おれはお礼を言うと、自分の部屋へと向かった。
「ふぅ……」
軋むドアを開けて自室に入ると、思わず息が漏れた。
おれも随分と体力がなくなったものだ。
デスクまでやってくると、おれは本を読み始めた。古いSF小説だ。この時代のSF小説はいい。人々がまだ夢を失っていない時代だから。自由な想像力を働かせて、おれを遠くに連れて行ってくれるから。
鳥になりたい、とはよく言ったものだ。
おれは自由になりたいのだろうか。この鳥籠から飛び立ちたいと思っているのだろうか。
……いいや。そうは思わない。おれはきっと、有り得ないことだとわかっているからこそこの手の小説を読んでいるのだ。
こうしていると、おれはどうして生きているのだろうと思う。
何もせず、ただ空想と現実のはざまを飛び交っている。現実に戻る気もなければ、空想に飛び立る勇気もない。ただただ生きているだけの人生。
答えはわかっている。
罪悪感だ。
罪悪感だけが、おれに生きる意味を与えてくれている。
この罪悪感を感じることが俺に課された罰であり、贖罪なのだ。
トントン、というノックの音が聞こえた。
「トレーナー?」
テイオーだ。返事をして中へと迎え入れる。
ベッドに行かなくていいのかと聞かれたが、大丈夫だと答えた。
ただ用事はそれだけではなかったようで、続けて言葉を紡ぐ。
「あのさ、トレーナー。今日は天気いいしさ、散歩にでも行こうよ」
「……散歩か。いいな、行こうか」
「わかった。じゃあ、準備するね」
「ああ。頼む」
準備を終えると、テイオーと一緒に外に出る。
言っていた通り、今日はいい天気だ。太陽が憎たらしいほどギラギラと輝いていて、時折吹くそよ風が気持ちいい。
こうして外に出るのは久しぶりだ。改めて見ると、いい場所だと思う。この場所を用意してくれた学園長には感謝しなくちゃいけないな。
視界の至る所で花が咲き誇っている。黄色いの、青いの、赤っぽいの。今まで花になんて興味を持ったことはなかったけれど、こうしてみると花というのは美しい。
カンカン帽を被った彼女も、花の美しさを目に収めているようだった。
二人の間に会話はない。話をすると堪え切れなくなってしまうだろうから、これでいいんだ。
今はただこうしていればいい。こうして一緒にいられればそれでいい。
……それだけで、十分すぎるほどに十分だ。
遠くの稜線にはまだ白いものが残って見える。山頂付近に積もった雪だ。
あの雪がすっかり融け切ってしまうころには、おれはどうしているのだろうか。彼女はどうしているのだろうか。
山は何も答えてはくれない。ただ鎮座するのみだ。
今日も一日が終わる。
特に何もなく、何をなすこともなく、ただ無力に過ぎていっただけの一日が。
……おれのわがままで彼女を縛り付けてしまっていることはわかっている。
彼女の罪悪感を利用してるんだ、おれは。
でくの坊の両脚を殴りつける。何度も、何度も。
痛みも何もかもわからなくなった両脚は何の電気信号もよこさない。肉でできたただの棒っきれだ。
全部、おれのせいなんだ。こいつだっておれがテイオーの脚を、夢を奪った罰なんだ。
脳内に彼女の姿がフラッシュバックする。あれも、これも、全部おれが奪った。
残ったのは、あの痛々しい笑みを浮かべる彼女の姿だけ。
おれは未熟なせいで。おれが弱いせいで。
おれは……何をやってるんだろう……
暗闇に意識が沈んでいく。意識を失うその間際、おれは誰かの泣き声を聞いた。
それが誰のものなのか、おれはよく知っていた。