……トレーナーはもう寝たのかな。
トレーナーの部屋の明かりが消えてからだいぶ時間は経ってる。今日は外に出かけたし、もうきっと疲れて寝ちゃったよね。
「…………っ…………ううっ……」
そう思ったとたん、急に涙がいっぱい出てきた。
……どうしてボクは泣いてるんだろう。
……悲しいから?
……寂しいから?
……わからない。でもね、夜になるといっつも涙が出てきて止まらなくなっちゃうんだ。
……こんな風に泣いてるところ、トレーナーには絶対に見せちゃダメだよね。トレーナーの前では、いつも元気にしてなきゃいけないから。
……トレーナーが、元気でいてほしいって、ボクにそう言ってたから。
だから、ボクはトレーナーの前ではいつも笑っていなきゃ。
……ホントは泣きたいことばっかなんだ。
今日の朝ごはんだって、たくさん失敗しちゃって。でもトレーナーはおいしいって食べてくれて。
そうやって、トレーナーのやさしさに甘えて……ボク、このまま居ていいのかなって。何にもできないのに、居ていいのかなって。そんな考えが浮かんできて、思わず涙が出そうになる。
でも、絶対泣いちゃダメだ。一番大変なのはトレーナーなのに、ボクが泣いちゃ絶対にダメだ。
そう思ってグッと涙をこらえて、精一杯笑う。元気なボクでいるために。
……だから、その分の涙が今出てきちゃってるのかな。
いろんな気持ちが、いろんな涙が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、いっぺんに出てきてるのかな。
……ボクは泣き続ける。自然と涙が止まるまで、我慢していたものが全部なくなるまで。
……明日、トレーナーの前で笑顔でいるために。
ボク、トレーナーのことが好き……だった。
あの頃、ボクは自分のことをすっごいウマ娘だと思ってた。
走れば誰にも負けないと思ってたし、レースに出ればいつも一番だった。ボクは無敵のテイオー様だって、そんな風に思ってた。
だから、トレーナーなんて別に誰でもいいと思ってた。走るのは結局ボクだし、トレーナーなんて関係ないじゃないかって。
毎日、いろんなトレーナーがボクのところにやってきた。
うちに来てくれ、君を絶対三冠ウマ娘にする……そんなことをいう人たちがたくさん。
……ボク、そんなことに興味はなかった。ボクはただ、憧れのカイチョーみたいなウマ娘になって、カイチョーにいっぱい褒めてもらおうとしか考えてなかったんだ。
三冠ウマ娘なんて目標にするものじゃない。カイチョーみたいなウマ娘になるんだから、当然なれる。そんな風に思ってた。
だから、そんな風にいっぱいスカウトに来られてもわけわかんないし、むしろ選ばなきゃいけないのがめんどくさかった。
でも、ちゃんと考えなきゃダメだってカイチョーに言われて、だから仕方なくトレーナーをちゃんと探そうってなって。
それで、声をかけたのがトレーナーだった。
別にトレーナーなんてみんな同じだと思ってたけど、なんだかこのトレーナーは他とはちょっと違う気がしたんだ。
何というか、レースで勝てる強いウマ娘のボクじゃなくて、ボクっていうウマ娘を見てくれているような、そんな感じ。
気のせいかもしれないけど、ボクはそう思った。
そこからトレーナーといろいろ話したり、トレーニングをつけてもらったりした。
トレーニングは結構面白かったし、トレーナーもいっぱい褒めてくれていい気分だったけど、やっぱりカイチョーには敵わないと思った。カイチョーに褒められるとすっごく嬉しいし、カイチョーを目指して頑張ればボクはもっと速くなれる。だから、その時のボクにとってトレーナーはただの顔見知りだった。
それが変わったのは、やっぱりカイチョーとのレースの後だったと思う。
カイチョーはすっごく速くて、ボクが憧れてる姿そのままで。
いつもだったらそんなカイチョーの姿を見れて嬉しいはずなのに、なんだかとってもイガイガした。
みんなが見ていたのは強くて速いカイチョーのことで、負けたボクのことを見てる人なんていない。
……そう思ったら、胸がキューってして、痛くてたまらなかった。
……ボクはレース場を立ち去った。まるで逃げ出すみたいに。
カイチョーに向けられた歓声をなぜだかこれ以上聞いていたくなかったから。
途中でトレーナーが話しかけてきたけど、話したい気分じゃなかった。
どうせ、みんなカイチョーに夢中なんだ。ボクのことなんてほっておいて欲しかった。
街中をがむしゃらに走った。ボクはこんなに走れるんだ、こんなにすごいんだって自分に言い聞かせるように。
そうでもしてないと、なんだかボクがボクでいられなくなっちゃうような気がして。無敵のテイオー様じゃなくなっちゃうような気がして。
夜になってもずっと走り続けた。自分でも無理をしてることなんてわかってたけど、でもどうすればいいのかわからない。
苦しくてたまらないのに、それをどうすればいいのか全然わからない。
わからないまま、ボクは走り続ける。カイチョーみたいに……カイチョーみたいに……
……そんな時だった。トレーナーに会ったのは。
夜更けの公園、ボクとトレーナーが初めて会った場所。
なんでだか知らないけどトレーナーがそこにいて、ボクに声をかけてきた。
……なんでいるんだよって思った。ほっといて欲しいのに、なんでボクのところに来るんだよって。
こんなボク、誰にも見られたくなかった。だって、こんなの無敵のテイオー様じゃない。
……こんなの、ボクじゃない。
だから、じゃあねって言った。キミとは話したくないって、そうやって立ち去ろうとした。
でも、できなかった。足がもつれて、その場で倒れちゃって。
大丈夫かってトレーナーの声が聞こえた。
ボクは振り返りもせずに返事をした。大したことない、あっちに行って。
トレーナーのことを見たくなかった。きっと、ガッカリだって思ってるだろうから。
無理なトレーニングをして、挙句の果てに倒れて。
ボクのことをすごいウマ娘だって思ってた人も、こんなのを見ればきっと失望する。もうボクのことなんて見てくれなくなる。
だから、無理やりにでも立ち去ろうとして……
……やっぱりできなかった。
『これ以上無理したらダメだ!』
そう言って、トレーナーがボクの前に立ちはだかる。
そんな風に言われて、ボクのなかの何かが切れた。
今まで溜まってた鬱憤、胸のイガイガ。そういうのを全部吐き出すようにしてトレーナーに叩きつけた。
『……うるさいなぁ、偉そーに!』
『どいてよ!まだボクのトレーナーでもなんでもないくせにっ!!』
つい。うっかり。口をついて出てきちゃった言葉。ホントはそんなこと言うつもりじゃなかったのに。
でももう言っちゃった言葉は取り消せない。取り返しがつかない。
……これでホントに終わり。もうトレーナーがボクをスカウトすることはない。そう思った。
なのに……
『どかないっ!!』
トレーナーはどかなかった。ボクのことをじーっと、怖い目をして見つめてきた。
視界がぼやけてくる。いつの間にか、目に涙が浮かんできた。
……ボク、怒られてるんだ。トレーナーに、本気で。
無理をしてたから。無理を続けようとしていたから。
『……なんだよぉ……。怖い顔しないでよぉ……!』
ボクがそう言うと、トレーナーは優しい目になって言った。
『……ごめんな。……でも、心配だったんだ』
心配、してくれたんだ。そう思った。本気でボクのことを心配してくれたんだ。
トレーナーのことをじーっと見つめる。
トレーナーの目は、ボクのことを見ていた。
レースで一番になるボク、無敵のテイオー様じゃなくっても。
こんな、ボロボロで、カッコ悪いボクでも。
トレーナーは、ちゃんとボクのことを見てくれていた。
それが分かったとたん、目から涙があふれてきた。
腕で拭っても拭っても、涙が出てきて止まらない。
『…………』
トレーナーは何も言わず、ただボクの頭を優しくなでた。
その日、トレーナーはボクのトレーナーになった。
……ボクが勝手に決めただけだけどね。
……それからは、毎日忙しかった。
カイチョーへのセンセンフコク。日々のトレーニング。
大変だったけど、毎日がすっごく楽しかった。
ボクは自分のことをすっごいウマ娘だと思ってて、無敵だと思ってた。
でも、他にもすごいウマ娘はいっぱいいて、ボクなんてまだまだだった。
だけど、大丈夫。ボクにはトレーナーがついてる。いつもボクの一番近くにトレーナーがいてくれる。
だからボクはもっともっと強くなれる。そして、いつかはカイチョーも越えられるような、そんなウマ娘になれる。
ボクとトレーナーなら、絶対に!
……いつからだろう。トレーナーのこと、好きになっちゃったのは。
……わかんない。でも、気がついたら好きになっちゃってたんだ。
トレーナーに、もっともっとボクのことを見ていてほしい。ずーっとずっと、ボクの傍にいてほしい。
トレーナーといると、胸がドキドキするようになった。
トレーナーに撫でられると、顔がぽうっと熱くなった。
……トレーナーが他の娘と話してるのを見ると、なんだか胸がチクチクした。
この気持ちを伝えなきゃって思った。
ずっとトレーナーと一緒に居たい。そう言わなきゃって。
クラシック三冠をかけた菊花賞。二人で目標にしてきた三冠ウマ娘になって、トレーナーに告白しよう。
……そう、思ってた。
……ボク、トレーナーのことが今でも……好き。
好きだったじゃない。今でも好きなんだ。
……でも、もうダメなんだよね。
ボクのせいで。ボクが取り返しのつかないことをしちゃったせいで。
……ボクが、トレーナーの脚を奪ってしまったせいで。
……ボクは、もうトレーナーのことを好きでいる資格なんてないんだ。
……ないんだ。
……ない……はずなのに……っ!
トレーナーとずっと一緒にいたかった。
トレーナーのお嫁さんになりたかった。
もう、ぜんぶ叶わない。ぜんぶ、ただの幻なんだ。
……ボク、ウマ娘に生まれなければよかった。
……そうすれば、そうすれば、トレーナーを傷つけることなんてなかったのに……!
涙は、止まる気配を見せなかった。