秋の京都競馬場。夏のうだるような暑さは過ぎ去ったはずなのに、この場所だけ夏に取り残されてしまったのだろうか。そんな錯覚を覚えるほどの熱気が、スタンドを包んでいた。
既に超満員の会場。それもそのはずだろう。みんな、彼女の姿を見たいと思っている。みんな、歴史的な瞬間を目にしたいと思っている。
クラシック三冠をかけた大一番、菊花賞。
この舞台の主役は未だ負けを知らず、無傷での皐月賞、日本ダービー制覇を成し遂げたあのウマ娘。
皆が待ち望んでいる。過去一人、あの七冠ウマ娘シンボリルドルフしか成しえなかった偉業、無敗三冠の達成、その瞬間を。
そうして迎えた11R。観客の興奮と熱狂、それと緊張。それらのすべてが最高潮に達する。
続々とウマ娘たちがゲートインしていく中、ゆっくりと、最早風格すら漂わせ、彼女がやってくる。
彼女の名は────────
トウカイテイオー。無敗の二冠ウマ娘だ。
各ウマ娘がゆっくりとゲートインし態勢完了。全員が一斉にスタートする。
きれいにそろったスタートからは菊の舞台のレベルの高さが窺い知れる。
けれども、そんな強力なライバルたち相手に、テイオーは先頭から4番手につけて先行していた。
いつも通りの、かつ彼女にとって最高のポジション。
仕掛けるのは、最後の直線。
俺の頭の中には既に第四コーナーから伸びやかに飛び出し、最終直線をぶっちぎるテイオーの姿がありありと描かれていた。
レースはそのまま展開していく。3000mという長丁場、徐々にペース配分を違えてかかり気味な娘たちも出てくる。けれどもテイオーはそれらに惑わされず、自分の思い通りにレースを展開していった。
そうして迎えた第四コーナー。細長く広がっていた隊列が、ぐぐぐっと収斂していく。そうしてできた塊の中、一人のウマ娘が疾風のごとく飛び出してきた。
トウカイテイオーだ。
伸びる、伸びる、伸びてくる。繰り出される足の一つ一つが地面をがっしりとつかみ、柔らかに、しなやかに。見るものを魅了するあの走りで。
『行けっ!テイオーっ!!』
おれは我を忘れて叫んだ。
テイオーは先頭目指してぐんぐんと加速していく。
必死の逃げ切りを図る先頭の娘。
大外からぶん回して差し切らんとする娘。
きりきりとした競り合いが展開される。
残り200m。最後のハロン棒を駆け抜け、ゴールまでのラストスパート。
2800mを走り切り、全ての体力を燃やし尽くしたウマ娘たちが最後の力を振り絞って駆けていく。
今燃やしているのは根性か、気力か、はたまた死力か。
スタミナという概念を超えて走るウマ娘たち。
そう、このレースを制することのできるのは一番速いウマ娘でも一番運のあるウマ娘でもない。
────一番"強い"ウマ娘。
おれは今、この言葉の意味を理解した気がした。
勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい、と。その思いが一番強いウマ娘がこのレースを制するのだ。
ここでテイオーが仕掛けた。またもう一段階ぐっと伸びてくる。
ここが最後の攻防か。場内が爆発したかのような歓声に包まれる。
あと1/2バ身、クビ差、ハナ差…………誰もがテイオーの勝利を確信した。
…………だが。
あと一歩、あともう少し。そこから伸びない。それどころか後ろとの差がみるみる縮まっていき、ついには追い抜かされる。
風船がしぼんだように場内の歓声は消え、変わって悲鳴が飛び交った。
……ここまでなのか。
……これが二人の夢の終着点なのか。
……終われない。こんなところじゃ終われない。
おれだって勝ちたい。きっと、この場にいる誰よりも強く、テイオーと同じくらい強く、勝ちたいと思っている。
俺一人じゃ無理だ。テイオー一人じゃ無理かもしれない。
けれども。おれとテイオー、二人でなら。おれたちの、"勝ちたい"という気持ちでなら。
誰にも、絶対に、負けない!
『『テイオーっ!!勝つぞっ!!!』』
腹の底から、力の限り叫んだ。テイオーに届けと願いながら。テイオーに届くと信じながら。
────願いは届く。
残り50m。沈みかけていたテイオーが再び加速を始める。
うつむいていた顔が上がり、その表情が見える。
彼女は……やっぱり、微塵も諦めてなんてなかった。
そのまっすぐな眼差しは、ただただゴールだけを見つめている。誰よりも早く、そこを駆け抜けようと。
あと30m。
『届け……』
あと20m。三人が並んだ。
『届け……!』
あと10m。全員一歩も譲らない。
『届けっ!』
そして…………
『勝ったのはトウカイテイオー!!ハナ差の勝負で菊の舞台を制した!!』
『無敗での三冠達成!!あのシンボリルドルフ以来の偉業を、トウカイテイオーが成し遂げた!!』
スタンドが爆発した。地鳴りのように歓声が轟く。テイオーコールが鳴り響く。
歓声を一身に受け、テイオーが立っていた。無敗の三冠ウマ娘、トウカイテイオーが。
…………わかってる。
その姿を観客席から眺めながら、おれは独り言ちた。
……これは夢だ。
おれと、テイオーと、二人で思い描いていたままの景色。
立つことすら叶わず終わった、二人の夢舞台。
このあまりにも素晴らしい光景は、だからこそこれが夢だとはっきりわかってしまった。
これは夢だ。夢でしかない。夢だけれども。
……むしろ夢だからこそ。薄暗い現実のすべてを忘れ、この鮮やかな夢に今は浸りきりたかった。
まだまだコールは鳴り止まない。テイオーは笑顔で観客に向かって手を振っている。
……そうだ。おれはトレーナーじゃないか。ここで感動に浸ってる場合じゃない。行かなきゃ。早くテイオーのところに行って、そしておめでとうって。やったなって。
二人でぐしゃぐしゃに泣いて、笑いあうんだ。
そう思って、おれはスタンドから彼女のもとへと…………
…………駆けだせなかった。
『あれ?』
脚が動かない。これは夢なのに。夢の中なのに。
縫いつけられたかのように、その場から動くことができない。
『あれ……』
すると、テイオーのもとへと駆けていく人影が見えた。誰だろう、あれは。
トレーナーのおれはここにいるし、ドクターか誰かだろうか。もしかすると何かトラブルがあったのだろうか。
その人はテイオーへまっすぐに向かっていく。テイオーもそれに気づいたらしく、満面の笑みを浮かべていた。
『あれ……?』
テイオーがそいつの胸へと飛び込む。そいつと、泣きながら笑いあっている。
誰なんだよ、そいつは。
そんな仲のやつがいたのかよ。
スクリーンに映る彼女が口を開く。
"ありがとう、トレーナー"
……そう、彼女は言っていた。
『ああ……』
……そうか。
"トレーナーのおかげだよ"
『ああ…………』
……そうだよな。
"……あのね、トレーナーに言いたかったことがあるんだ"
『ああ………………』
……おれなんかがトレーナーにならなければ。彼女には、こんな未来があったはずなんだ。
"ボク、トレーナーのことが…………"
「うわああああああああ!!」
「はあ……はあ……」
おれはベッドから跳ね起きた。全身が汗でびしょ濡れになっている。
……やはりあれは夢で、これが現実。
脚が動かなくなったおれと……
「トレーナーっ!?」
扉がバタンと開いてテイオーが部屋に飛び込んでくる。
「大丈夫!?なにか……」
おれの叫び声を聞いて駆けつけてきたのだろうか。月明かりに照らされて、彼女の顔が見えた。
真っ赤に充血した目。涙で腫れた瞼。
そして、心配そうにこちらを覗き込む表情。
夢で見た彼女とは程遠い、そんな姿。
……走れなくなってしまったテイオー。ここにいるのは、そんな二人だけだ。
正直、安堵を覚えた。テイオーがちゃんとおれのところに居てくれていることに。
……けど、それと同時に後ろめたさを感じてしまう。
「……ごめん、びっくりさせちゃったな。大丈夫。ただ……悪い夢を見ただけだ」
うつむきがちに言葉を紡ぐ。テイオーの顔を見ていられなかったから。
どうして泣いていたのだとか、聞かなければならないのかもしれない。
おれのせいだとはわかりきっているけれども、ちゃんと話しなきゃいけないのかもしれない。
……けれども、それを聞いたらこの関係が終わってしまうかもしれない。
お互いに、堪え切れなくなってしまうかもしれない。
だから、何も聞かないのがいい。おれたちは、このままでいい。
……テイオーが居てくれれば、もうそれ以上は望まないから。テイオーが居ないと、おれはダメだから。
おれのエゴ以上の何物でもないけれど、それでもこれでいいんだ。
「悪い、夢…………?」
俯きながらテイオーが問いかけてくる。
「ああ。でも……夢は夢だ。大丈夫。何の心配もないよ」
「……ほんと?」
「ほんとだ。……夜中に起こしちゃってごめんな」
優しい声色で語りかける。どことない欺瞞を自らに感じながら。
「それじゃ……おやすみ、テイオー」
「……うん。おやすみ、トレーナー」
彼女は部屋から出ていった。
これでいい、そう胸の内で繰り返し呟く。
そうやって自分に言い聞かせようとしていることが何もよくないことの証左になっているようで、なんだか滑稽で仕方がなかった。
目を閉じると、再びあの夢がフラッシュバックしてくる。
あんなテイオーの笑顔を見れたのはいつぶりだろうか。
……トレーナーがおれでなければ、今もテイオーはああして笑っていられたのだろうか。
ジークムント・フロイトによれば、夢とはその人の抑圧された無意識が投影されたものだという。
聞きかじっただけのこの言説を、馬鹿げたものだと一笑に付すにはおれの夢はあまりにも生々しかった。
……あの時。おれは、どうすればよかったんだろうか。
分岐点はたくさんあった。どこか一つでも違う道を選んでいれば、こんなことにはならなかった。
……けれども、おれはそのすべてで間違い続けた。
その結果が……この脚と。そしてあの泣きはらしたテイオーだったのだとすれば。
……おれは……おれは……トレーナーになるべきじゃなかったんだ……