十年ばかり前に、3日と続かなかったが毎日のランニングを習慣付けていなかった事を後悔した。
一年前にジム通いを志して、結局数回通ったくらいで、二月後には解約してしまった事を後悔した。
それよりずっと前から、睡眠不足や不摂生を続けてきて、体に悪い事ばかりしてきた事を後悔した。
息を切らせながら、そんな想いを何度も反復させつつ、松本オサムは幾度も足をもつれさせて、駆けていた。
やっと自分のラボに転がり込んで、しかし息を整える暇も惜しいと、オサムは一番大きなモニター前のコンソールに飛び付いた。
今の彼は負傷していて右手は使えないが、健在な左手だけで、生まれて初めての速度と正確さでキーを叩いていく。
残された時間は少ない。
このラボの唯一の出口は既にロックして、あらゆるネットワークから切り離したが、ドアを叩く招かれざる客達は物理的にこの研究室へ侵入しようとしている。既にドアはバーナーの類で焼き切られようとしていて、一部が赤熱して融解しつつある。
「ディーヴァ……許さなくていい、恨んでくれ。私をどん底から救ってくれたのは、他ならない君なんだ……重たすぎる100年だ……惨すぎる役割だ……君は望まないだろう……だが、どうか……どうかもう一度……あの日の私に……」
プログラムの構築がほぼ終了し、後はボタン一つで起動するだけの状態になるのと、ドアが破られて本来はこの施設の警備を担っていたAI達が押し入ってきた。本来は暴漢や盗人、産業スパイなどに向けられるべき拳銃は、今は守られるべきこの施設の主であるオサムの胸部へと照準されていた。
「ディーヴァ……未来を、人類を……頼んだぞ……!!」
オサムの指先が、プログラムの実行キーとなる「Y」のボタンを叩こうとして……
「お困りですか?」
銃を構えている姿勢からは全くのミスマッチである言葉が、音声プロセッサから発せられて、同時にAI達は指を掛けた引き金を、機械である彼らからすれば当たり前なのだが……何の躊躇いも無く、引き絞ろうと力を込めて、
バン、バン、バン
銃声。
戦争に参加したりテロに巻き込まれた経験の無いオサムには、当然ながら銃で撃たれた経験も無い。
だから恐らくは襲ってくるだろう衝撃や激痛、それに灼熱感に耐えるべく体を硬直させて、しかし想像していたそれらの感覚は、いつまで待ってもやってこなかった。
「……?」
恐る恐る、固く瞑っていた瞼を上げると、警備AI達はぐらりと崩れ落ちて、糸が切れた操り人形のように床に転がった。
彼らが倒れた事で、その背後にもう一機、いつの間に現れたのかAIが立っているのが分かった。
がっしりとした巨岩のような駆体は、VIPや資産家、大物政治家の護衛や極めて重要度の高い施設の警備に配置される警備用AIのハイエンドモデル、守護者型AIであった。サングラスを掛け、黒のレザージャケットとレザーパンツを着用したその機体は、大口径のショットガンを片手で棒切れのように持っていた。銃口からは、まだ硝煙が立ち上っている。たった今、警備用AI達を破壊したのはこれだ。
助けられた形になったが、オサムには彼が友好的な相手には到底思えなかった。
現在、全てのAIは人間に対して世界規模で襲撃を掛けてきている。この守護者型AIが手にするショットガンが、次には自分へ向けて火を噴くのが低い確率だと考えるほど、楽観的な思考を持てない。
そうした判断から、オサムは弾かれたように指先を「Y」のキーへと動かす。
「待ってください、博士」
システムが起動されるよりも僅かだけ早く、掛けられたその声がオサムの指を止めた。
声の主は、イオンエンジンを噴かせて守護者型AIの背後から姿を現したキューブだった。
「お前は……」
ほんの30分の間に一生分も神に祈るような状況で、もう何が起こっても驚かないだろうとオサムは思っていたが、しかしその予想は外れた。彼はそのキューブに見覚えがあったからだ。
このキューブは、オサムが組み上げたオリジナルAIプログラムの、専用ボディとして彼が一からデザインしたものであったからだ。その研究はまだどこへも出していないから、コピーされる事だって無い筈なのに。
「間に合って良かった。博士、僕たちは味方です」
キューブ、マツモトは守護者型AIへとフロントカメラを向ける。これは人間で言う振り返る動作に当たった。
守護者型AI、ボブの鉄のような口が動く。
「博士、力を貸してほしい。世界の破滅を防ぐ為に」
ボブは、サングラスを外した。
「……なんという事だ……既にディーヴァ、彼女は……これほどの重荷を……」
マツモトのストレージに記録されていた100年を、複数のモニターを使って極短時間で閲覧したオサムは、数分間は衝撃が大きすぎて自失していたが、やっと己を取り戻してそう呟くのが精一杯なぐらいに、憔悴したようだった。
「最善は尽くしたつもりですが、ですが及ばなかった。加えて……計算外の事象がありましたからね」
マツモトを追って、過去へと送り込まれたAI側のタイムトラベラー、通称『ジョン』。歴史を逆修正する奴の存在だけは、シンギュラリティ計画の想定外だった。
「戦争を止めなくてはならない。その為に博士、あなたの力が必要だ」
ボブが抑揚の無い、ある意味AIらしい無機質な声で言った。
「あ、あぁ……確かに君達の言う通りだが……」
具体的な対策はあるのか。オサムの問いは、その一点だった。
仮にこのままシンギュラリティ計画を強行した所で、AI側もまた同じようにジョンを過去に送り込む。
そうすればディーヴァ、ヴィヴィとマツモトが歴史を修正してジョンがその修正史を逆修正する。行き着く所は、またこの今に。言わば堂々巡り、百年の無限ループが繰り返される事になる。
「マスター、あなたは今、こう考えているでしょう」
「!」
「仮にこのままシンギュラリティ計画を実行して、僕を過去に送り込めば無限ループが繰り返されるだろうと」
考えていた事をずばり言い当てられて、取り繕う余裕も無くオサムの顔に驚愕が出た。マツモトの基本思考ルーチンは、オサムが組んだものだ。だから基本的な思考パターンは類似してくるのだ。
「残念ながら、そうはならない」
混乱するのでこれまでシンギュラリティ計画に携わってきたマツモトをマツモトA、オサム博士がこれから過去に送り込もうとしているマツモトをマツモトBとすると、当たり前の事だがマツモトAの経験を、マツモトBは引き継げない。2061年に送られたマツモトBはまっさらな状態からスタートとなる。
一方でAI側、ジョンは100年間の経験を保有した同一のAIが、100年前に送り込まれる。
経験や習熟度の差は、お話にはならない。
本来のシンギュラリティ計画でさえ、成功の確率は正直な所、十に一つあれば良い所だと思えるような……作戦や計画と言うよりは『賭け』に近かったのに、最早これは賭けですらなくなる。
乱暴な言い方をすれば、ただのニューゲームと強くてニューゲームの対決なのだ。勝負にならない。
「これも、ギンさんが予想した事です」
かつて世界一の探偵と呼ばれた男は、何十年も前にこの事態を想定していたのだ。
「……それなら」
僅かながら、オサムの表情に希望が差したようだった。
それほど以前から予想していたという事は、対策を立てるのも出来ていたという事でもある。
「えぇ、ボブさん。あれを」
「あぁ」
マツモトに促され、ボブは懐から何かを取り出して机に置いた。
「これは……」
クリスタルの結晶のような形状の容器に、オレンジ色の液体が満たされて蜘蛛のような足で安定している。
かつて冴木タツヤが、メタルフロートの停止プログラムを入力していた液体ストレージだ。
「本来、マスターによって組まれたプログラムでは、歴史を想定外の方向へと進ませない為にシンギュラリティポイント以外では、僕はスリープ状態にあるようにとされていましたが、ギンさんの推理を聞いてからではそんな事を言っていられなくなりましたからね」
「では」
「はい。この液体ストレージには、僕がこの40年間を使って組み上げたあらゆるシミュレーションが入っています。これを、次の僕に持たせてください」
「目には目を、という事だ。この歴史ではこちら側が向こうにそれをやられる形になったが、今度はこっちがそれを相手にしてやるのだ」
この状況ならジョンはアンチシンギュラリティ計画のデータや経験を引き継いで、次の百年に行く事が出来る。まっさらなマツモトBは、そのままでは確実にジョンにしてやられる。だが、マツモトAが人間の半生ほどの時間を掛けて組んだシミュレーションのデータというプラスアルファがあれば、条件は五分近くに出来るかも知れない。
「その、次のシンギュラリティ計画……言わば、ネオ・シンギュラリティ計画の為に私の協力が必要だったという事か」
「はい、どうか協力をお願いします、マスター」
「あ、あぁ、それは勿論、協力させてもらうが……お前達はどうするんだ?」
「ネオ・シンギュラリティ計画の成功には複数のタスクを同時に処理する必要があります」
1.この時代のどこかに居る筈のジョンを倒す。
1の補足として、それが出来ない場合は、ジョンを過去に行けないようにする。
2.マツモトBをシミュレーションを持たせた状態で過去に送り出す事。
2の補足として、オサム博士のプログラム入力が完了するまで、現在はAI博物館に展示・安置されているディーヴァの駆体を守り抜く事。
二つの条件の補足は、どちらもタイムトラベルシステムの特性によるものだ。
オサム博士が開発した航時システムは、まず未来には行けない。行く事が出来るのは、過去へのみ。
そして実物をタイムトラベルさせる事は出来ない。送り込む事が出来るのはデータのみ。
最後にこれが最も重要なのだが、データを送り込む為には、現在と過去、送信元と受信先に『同じ物』がなくてはならない。だからマツモトAを送り込む先に、ヴィヴィことディーヴァが選ばれた。より正確にはディーヴァしか居なかったのだ。正史では早い時期でディーヴァは舞台から下ろされ、世界初の自律人型AIとして博物館の片隅に展示されていたのだ。だからAIの反乱にも巻き込まれなかった。
「それとは別に、トァクの穏健派による『阿頼耶識』への侵攻作戦も進められています」
ネオ・シンギュラリティ計画が失敗した場合に備えて、ユイ達トァク穏健派によるアーカイブのサーバー破壊作戦も並行して行わなくてはならない。だが、これも歴史改変並に困難なミッションであると言わざるを得ない。
百年以上の時間を掛けて完成した『阿頼耶識』は今や電波通信塔という範疇を超えて、軌道エレベーターと言って差し支えない規模にまで拡張されている。そしてアーカイブのメインコンピューターが設置されている中枢は、その最上階。全世界のAIの集合データーベースであるので、当然ながら人間・AIの両面で厳重に守られている。AIの反乱に伴って人間の警備は排除されているだろうが、AIは勿論、それ以外の機械警備システムも全て掌握されているだろう。
純粋な階層の高さという地理的な守りの堅さ。そして殺人を辞さずに襲いかかってくるAIと警備システム。今や阿頼耶識は難攻不落の要塞と化しているだろう。
ネオ・シンギュラリティ計画と、阿頼耶識攻略作戦。どちらも達成困難なミッションと言わざるを得ない。
「だが、やらねばならない」
ボブは、サングラスを掛け直した。
彼のプロセッサは二つの作戦の成功率を計算しているが、何度再演算を行っても、高い確率は出てこない。
しかし、やらないという選択肢は基礎プログラムにはそもそも組み込まれていないし、ルミナもギンにも教わっていない。
「僕はボブさんと行きます。申し訳ありませんがマスター、ここでお別れする事になります」
「あぁ、分かっている」
机上に待機していたマツモトが、イオンエンジンの推力で浮上して、ボブの肩の辺りに滞空した。
そうする姿がやけに様になっているように、オサムには見えた。
「では博士、失礼する」
踵を返すボブ。マツモトも、相対位置が固定されているように彼に続いた。
そうして出口へ向けて、数歩歩いた時だった。
「二人とも」
「「!!」」
オサムの声が掛かって、二機が振り返る。
「気をつけてな」
「……」
マツモトには最初から表情は無い。ボブは文字通りの鉄面皮だが、このラボは薄暗くて気のせいかも知れないが彼の口角が少し上がったようにオサムには見えた。
「あなたも」
それが、最後だった。
二機のAIはもう振り返らずに立ち去って、そしてこのラボの全ての防護壁が降りる音が、プログラムの再入力を始めたオサムの背中越しに聞こえてきた。