あの夜のあの一瞬から耳障りな呟きは少しばかりなりを潜めて、お陰様で寝不足程度で健やかな朝を迎えることが出来た。慣れなのかどうかは知らないが、慣れだとするならなんと恐ろしいことか。
「悪いけど、時間守るようにならない限り私あなたとは出かけないわよ」
「まだなんも言ってないんですよメリーさんや」
「あらごめんなさい、いつもの行いがあれなものだからつい、ね」
同時に日頃の行いというものも恐ろしいもので、ただ顔を見ているだけでこうして難癖をつけられるようになってしまった。
「言いたいことがあるんなら言ってくれればいいじゃない」
「ん、まぁそうなんだけども……」
実際その通りだ。言わなくても察せ、なんて事を言っていいのは相手がエスパーの時か、己の評判がパワハラ上司になった時だけなのだ。しかしながら尋ねたいのは昨日の事。あの、奇妙な少女についてなのだ。本当に尋ねていいのだろうか。
「────メリー、昨日何してた?」
「何って、別にいつも通りよ。後はちょっと人助けくらい」
「…模範のようなお過ごし方で」
「それ褒めてるの?馬鹿にしてるの?」
「どっちがいい?」
「今からあなたを一発叩いても怒られないと思うのだけれど、どう思う?」
メリーは私のからかいに頬を大きく膨らませて、立腹の様子を示した。愛いやつめ。これだからからかうのがやめられない。
しかしこれで謎が深まった。もういっその事、あの時の名前でも出して────
「あぁ、人助けといえば蓮子。”八雲紫”さんとはどうなったの?」
なーんて決心を固めていたら、あろう事か本人がその名前を出すのだからまさしく出鼻をくじかれた気分だ。
「どうって、どういうことよ」
「あれ、知り合いじゃないの?蓮子のこと探してたから親戚か何かだと思ってたんだけれど」
その会話で、私は凡そ百の可能性と、そこから二つの仮説を組み上げた。
メリーが寝ぼけている、私が疲労から見た幻覚、ドッペルゲンガー。色々可能性はあるけれど、恐らくは”メリーがイマジナリーフレンドを持つようになってしまった”か、或いは”メリーと八雲紫なる謎の人物の境界が混ざってしまった”と言った所であろうか。
現実的に考えてしまえば前者の可能性の方が大きいのだ。ストレスから来るイマジナリーフレンド。私という人間が着いていながら、なんと情けないことであろうか。しかしながらここで生じる疑問は”なら私が見たのは誰だ”という点なのだ。己の二重人格が友達で、脳内で仲良く会話していたとしても、ならなんで私は名前を知っていた。ありえなくないか。ありえないだろ。
となれば後者はどうなのだろうか。正直なところこじつけだ。オカルト好きの勝手な妄想と言われても仕方の無いような。けれどそう考えれば多少は合点が行く。つまりは私がメリーと共に見た事のある幻像の世界。或いはメリーが夢で旅立つ不思議な世界。そちらからなんらかの影響を受けたと。あの後ろ髪を引かれた奇妙な現象も、空想が現実になっただけの話なのだろう。無理やりだが、無理やりだからこそ合点が行く。
「結局、たらればなんだよねぇ…」
「何の話よ」
「確率論使ってチンチロで儲けようって話だよ」
「嘘おっしゃい。あなた地下にでも行くの?」
嘘、という言葉の言い方も、棘の多さも全く違って、ここだけでも同じだったらもう少しだけ、頭を緩く出来るのであるが。
「で、結論付けぐらいしてくれてもいいんじゃないの?紫さん」
心情のように揺れる視線を下に向ければ、私はそう言い放った。
それを聞いてメリーは。否、先までメリーであった少女は「カマってのは人の目を見てかけるもんよ」と嘲笑った。結論はどうやら後者に近しいようである。ガタリと、机が揺れ動いた。
「ま、そうよね。だってなんにも話してないんだもの。そりゃ怒るわよね」
八雲紫は、その襟を掴む私の腕を嗜めるように叩いた。けれども、私にとってはそれすらどうでもよくって。
「とっととメリーから出ていけ。今、すぐに。」
捻りもなんにもない、切っ先みたいな脅し文句。それがなんの強制力も持たない鈍であることはわかっているけれど、私には突きつけずには居られなかったのだ。
「あら、良いのかしら?私は別に構わないけれど、貴女は死ぬまで一生後悔するわよ。断言してもいいわ」
「なんでよ」
「それを、今から話して上げるわよ」
黙れと被せて引っぱたいてやりたいけれども、その言葉が本当になるのだけは嫌だったから渋々手を弛め、硬い椅子へと腰を下ろした。
「あなた、えーと…蓮子、だったわね。昨日、…いいえ。今、世界はどう見えてるかしら?」
「狂ってる。あんたには見えないわけか」
どう、ということはやはり、この女にもこの事象は、この狂った世界は観測できていないのだろうか。或いは、或いは。
「…そこら辺の語弊は後で触れるとして、そう、狂ってるの。そりゃあ良かった」
その引き攣るような笑いはやっぱりあの温和な笑みなんかじゃなくて、背筋に氷をぶちまけられたような感覚に陥ってしまう。その感覚は昨日のあの、世界に凝視された時の、あの瞬間に酷似していた。
「あれ何よ。あんたもお仲間なわけ?」
「その問いには”はい”とも、”いいえ”とも言えるわね。まぁ、端的に言うのなら……妖怪、かしら」
妖怪、それ即ち日本の伝記に描かれるような、人の恐怖を糧として育つ化け物のことであろう。現代でも怪談話の主役として親密に扱われるような、秘封倶楽部としてオカルト研究に励む私としても馴染み深い単語である。けれどあれは。
「妖怪にしては抽象的すぎる」
妖怪とは言葉で語られるものである。妖怪とは絵で伝えられるものである。表現できるあらゆる言葉で、あるいは表現出来ないという言葉一つで。脳裏にその姿を示すように詳しく事細やかに語られ伝えられ偲ばれるものだ。
故にその姿には具体性があり、故にそれは規則に乗っ取り、そしてその限られた中で人を恐怖に陥れる。それこそが妖怪の本質では無いのか。
「その意見は正しいわね。けれど少しだけ違うわ。妖怪であり、けれど今は妖怪とは到底呼べない。結構面倒くさい状態ね」
答えが出ない。私は今すぐに解が欲しいのに、それが一向に出てこない。だから思わず「結局なんなんだ」と問いかけたけれど。
「なんにでもなるでしょうね、今なら」
と、なんとも言えぬ言葉で濁してきた。ただその濁りきった解答もまた答えであるのだと、私は即座に理解した。
「あなたが直面しているものは妖の素の塊なのよ。沢山の妖が現実に溶けて混ざりあった、大きな大きな塊なの。えぇ、言われればなんにでもなるようなね」
それはなんて不条理なものなのであろうか。あらゆるオカルト話、古今東西の妖怪伝記。それに等しいものが私の前に現れたと、そう言っているのである。
故に鬼と言われれば鬼となり、天狗と言われれば天狗になり、ある時は神にも悪魔にもなんてことは無い小鬼にすら成り下がる。そういうものなのだろう。
「…けれど、私が見たものはそんな大それたもんじゃなかったわよ。大体噂話だってしてないもの。それに、あんただって…」
其の素朴な疑問を、誰でも湧くような疑問を聞いて、八雲紫はにこりと微笑みながら。「えぇ、そこなのよ大切なのは」と続けた。
「それ自体は百鬼夜行の塊であるけれど、あなたが見ているのはその一部の。そして何より、あなたが見ているのはその大本の本質なのよ」
なるほど。つまり先程考えたように鬼や天狗が混ざりあったものであるとして、普通の人間には、漫然と全体を眺める人には鬼にも天狗にもなるのだ。けれど何故か私はそうではなく、ごく一部。百の怪異から出来ていたのなら、その全体の1%だけ、その一つだけを見ている訳だ。だからこそそれが何であるか語らずとも理解出来ていると。
「まぁ厳密にはこれまた少し違って、ごく一部でもまだ見えてすらいないのだけれど、そういう事よ」
「自然と思考を読むんじゃないわよ」
となると残る疑問は数少ない。となると次に気になるのは
「なんでそんなものがあるわけよ。この現代科学の進歩する時代で、気づいていないだけでそこにあったなんて言わせないわよ」
「あなたもよく知る場所から。と言うより、あなた達がこっちに来たりしてたから流れてくる道が出来てたんでしょうね」
「私と、メリーのせいだとでも?」
「それは違うわよ。どちらかと言えば私のせいね。こうなるまでなんにも出来なかったもの」
私のせいだと語った。そう明言した。私はそこに、死ぬほど腹が立った。ならば一人で解決してしまえよ。
「だから譲歩して上げてるでしょうに」
その台詞にもどこがだ、と噛み付いてやりたかったけれど、私を射るその目は酷く冷徹だった。人が人を見る目じゃない。確かにこれは妖怪だ。
「どういうことよ」
「それもおいおい話してあげるわ……って言いたいけれど、納得しないだろうから一つだけ明言してあげるわ」
またもや話を流そうとした。あるいは話せる時間に制限でもあるのかもしれない。そこら辺も聞きたくはあるが、八雲紫は傲慢に頬杖を付きながら。
「この子が貴女と同じだとするなら、とぉっても面白いことになりそうよねぇ?」
真っ当な人間のような。化け物が人間の顔を取り繕ったような。だからこそ全身の鳥肌が立つような笑みでそう告げた。
思えばこの世界が少しだけまともになったのも、この女を見てからである。この女がきっとなんらかの緩和剤になっているのだろうけれどそれが何でかは分からなくって、あぁ本当に分からないだらけで嫌になる。ただどうしたって私に出来ることなんて何も浮かばなくって。
「……そうだ蓮子。あの漫画に出てた秋刀魚のお店、美味しそうだったじゃない?私あれ見て秋刀魚ブーム来てるのよ」
「そりゃスピンオフですよメリーさんや」
不意に戻ったその呆け顔に、無理に微笑み返すだけが、その時の私の精一杯だった。