「こんばんは人の子」
「その挨拶癖強いからやめな?」
日も顔を隠し始める夕暮れ。鴉の鳴き声は聞こえるけれど、それが鴉の鳴き声かもわからない。ただ少なくともそう思えるという
「姿形が他人な以上、キャラ付けって大事でしょう?」
果たしてこの女がどこを目指しているのやら。人気投票の順位でもあげたいのだろうか。そう考えると何故か無性にむかっ腹が立ってきた。昼間の件も含めてやっぱり叩いてやろうか。けれど身体はメリーなのだから、それはやっぱりダメだろうか。
「…なぁんか身の危険を感じたから、昼間の話の続きでもしてあげるわね」
「勘のいい」
「今不穏なこと言ったわね?」
「何も?」
わざとらしく考えを口に出せば、それに対して知らん顔をする。こうしてからかい半分に言葉を交わしていると、八雲紫も段々と人間らしく見えてきた。我ながら意地の悪い行いであるが、相手が相手だし神様もにこりと笑って許して下さることだろう。
風がゲラゲラと嗤っている。歯を剥き出しにしながら去っていく太陽は今日も今日とて変わらぬようで、ふと陰に目をやれば、校舎がステップを踏みながらダンスをしているようだった。私と世界を繋ぐエレキテルは電波の波の元に伝わり、それは餓鬼の唄の如くである。あ、ぐわり、と八雲紫の輪郭が世界に溶けだした。
臟のそこから戦慄の産声が蛆虫のように湧いてくる。歓喜の嬌声がじっとりと浮き出て吹き出し始める。回っている。回っていた。ただひたすらに狂い回っていた。それは正しく歯車のごとく、潤滑に迅速に不規則に。
卑しい雀の鳴き声は三里を越えて辷り鳴き、それ即ち日没する所以なりとお釈迦様は仰ったのだから。なればこそ、日の本印は星々に変わり、人造の世界は蹂躙の群れを成して、それはとめどなく嗤いが込上げる代物なのだろう。何せそれこそ歴史の体現であるのだから。
決して退屈などしない、あぁ素晴らしき世界也。私もこの世界の一部になれるのなら、いやなれるだろうから。
「今何したの」
狂気の世界に旅立った我が思考を元に戻すべく、己の頭にごつんと拳骨をくれてやれば、薄気味悪く笑う八雲紫にそう問いかけた。歪む輪郭がピントを合わせられるように、たった一つの輪郭へと収束して、再度八雲紫としての形を持った。
「あら、そうしたのは貴女でしょう?」
何を。と言いたかった。けれど不意に答えが脳裏に浮かんで、自問自答で完結したが故に。それは口から毀れはしなかった。
「右向きながら左は向けないわよねそりゃ」
「影分身でもしたら良いんじゃないの?」
「どこで読んだのよ」
今現在、私は妖怪、そして怪異として八雲紫を見ている。その本質が怪異であるが故に。相容れないが為に。けれどさっき私は人間のようだと、本質から目を逸らしていた。慣れ会おうとしていた。それは正しく友のように。それは正しく相棒のように。忌むべきものを忌まなかった。
瞬間、世界が狂いだした。八雲紫を見つめてでたらめな世界を見失ったあの時とは真逆。つまりは。
「逃げる手段は覚えたかしら?」
「おかげさまで」
人間とは不器用なもので、二つの物事に焦点は合わせられないのだ。一つに焦点を合わせれば、視界の端の風景など気に止まるはずもない。
結局世界は歪んでいるけれど、それは眼鏡だとか、フィルターのようなものなのだろう。致し方ない話だ。だって八雲紫と私の間には必ず世界があるのだから。
しかしまぁなんと単純なことだったのであろうか。
「それは僥倖。なら次のお話を…その壊れた世界を戻す方法を教えてあげましょうか」
うっふふふ、なんて漫画みたいな笑いを上げて、不敵に、可憐に、妖艶に。あたかもそれが虚構であるかのようにわざとらしく、八雲紫はそう告げた。
「どうすりゃいいの」
「簡単簡単、猿でもできるわよ」
もっとも、貴女が猿以下ならどうしようもないけれどもね。なーんて言いたげな目だ。同じメリーの、人形のように端正で花のように繊な顔なのに、なんとムカつく面であろうか。或いはわざとかもしれないが、それでも結局ムカつく。
「私と同じように、怪異を見つけて、名前を呼んであげなさい。そしたら私が連れて帰ってあげるわ」
私がどうやって、と尋ねるよりも早く八雲紫はそう呟きながら、空中を指でなぞった。瞬間空間が裂ける。そこにあったのは一寸先すら見えない裂け目であり、けれどもその中におびただしく、数万光年先から私を見すえていたであろう、数多の狂気の視線がそこにはあった。
「…どうやって見つけんの。居場所なんて検討つかないわよ」
「妖は人や場所の上にしか成り立てないものよ。だから怪異の本質を見出しなさい。その上でしらみ潰しに探しなさい。そうして目を凝らして、死ぬ気で見つめなさいな」
「名前は、あんたみたいに?」
「えぇ自ずと」
漫然とした怪異は名前を得ることで、初めて個として確立できるのだろう。故に見つめてやれば良いと、本質を見極め、姿を見極め、そうして名前を見極めてやれば良いと。単純な話であるものだ。
自力で見つけて欲しいものだが、私が名前を呼んでやらなければきっと八雲紫はその怪異を怪異として認識できないのだ。だって八雲紫にはその怪異が当然のものであるから。普通の世界が異常だから、それに視界を覆われているから。私が引き摺って見せつけてやらないと見つけられないのだ。
「介護老人みたいねあんた」
「二度と街中歩けないようにするわよ」
憎まれ口にもこうして言葉を返してくるのは、或いはメリーの影響でもあるのだろうか。馴れ合うべからずとは思えども、その人間くさい様子はなんだか奥ゆかしい。
「無駄だと思うけど、居場所のヒント聞いてもいいかしら?」
波打つ帰路に着く前に、最後に一つだけそう尋ねた。きっと何も得られないだろうけど、ただ何となく尋ねてしまった。八雲紫はその問いに悩むかのように沈黙を続けて。しかしながら不意にこちらに振り向いて。
「案外、すぐ近くかもしれないわね」
と微笑み返した。なんとも意味深な言葉に引っ掛かりを覚えていれば続けざまに
「助っ人でもいるかしら?」
と聞かれて。私は迷わず親指を立てて背を向けた。
空に鴉が飛んでいる。片翼の美しい。けれどそれは何となく縁起が悪く感じて、カーブミラーに移る私はひらひらと手を振っている。心無しか疲れ気味だし、今日は早めに寝てしまおうか。
「蓮子ー!」
ふと、やかましい声が背を叩く。振り返れば、そこに居たのは変わらず懐かしい、のんきで能天気で、何事にも多感で無関心な忙しい少女で。
「明日の天気は何かしらーっ!?」
人のことを天気予報かなにかと思っているのだろうか。仮にそうならマジでのめしてやろうかほんとに。
けれどまぁ、何も言わないのは感じが悪いので。
「午後から土砂降り。傘もってきな」
適当に当たり障りのない、ごく普通に有り得そうな言葉を返すのだった。