孔の壱
私の世界は白く清純である。
35坪、二階建ての家に住み、自分専用の部屋を持ち、専業主婦の母と会社員の父を持つ極めて裕福かつ恵まれた家庭に住んでいる。
睡眠時間はまちまちなれども毎朝6時に起床し、体を伸ばして顔を洗い、朝食を平らげ歯を磨き、髪を整え私服に着替えて大学へと足を運ぶ。通学路の雀の歌や道を共にする友人と他愛のない会話を交わし、そうしていつもの机に着く。
休み時間には必ず教室の外に出る。外に出て話を聞き、話を交わし、新鮮な多数の情報を頭の中へとインプットする。こうしてその日得た些細で愉快な出来事を言葉として連ねて、学生新聞として刷り上げる。それを眺めて、談笑の肴にする生徒を見る度に私の世界はまた1つ、白く美しく変わってゆくのだ。
けれどもその日夢に見た世界は、少しだけ変わっていた。
それは穴であった。
白紙の世界にくり抜かれたように出来た、黒い黒い世界を映す大穴。そこには深淵があり、先の見えない闇があり、実態のない世界があり、けれど手を伸ばすと何も無く、そこにあるものは何も無い空間だけなのだと嫌でも理解した。
理解したその瞬間の感覚といえば、筆舌に尽くし難いものだ。脳がバチバチと焼けて溶け落ちるような、或いは胸の内から体内に己が引きずり込まれていくような。ただ私はその時、失ったことに気づいたのだ。この穴は、私に空いた穴なのだと。
「返して」
言葉は無意味に反響して、木霊して、やがて私の元へと帰ってくる。当然だ。そこには何も無いのだから、言葉が届くはずもない。言葉を届ける場所がない。
けれども叫んだ。返せ、返せ、返せ、返せ、と。
幾度となく。喉が張り裂けても尚。まるで言葉でその穴を埋めてしまうように。いや、きっと埋めてしまっていたのだろう。そうして偽のセメントでその穴を押し固める事に、私の瞳からは大粒の涙がぽつり、ぽつりと零れ落ちてゆくのである。それは虚無感故に。それは喪失感故に。何かを失ったと、深く深く実感していくが故にである。
──────────さて、この感情の名前はなんだったであろうか?
あぁ、そうか。あぁ、そうなのか。私は今、今きっと、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「蓮子、何やってるの?」
「虫喰い算」
「SPIでも受けるわけ?」
摂取したエネルギーを消費するために問題集をパラパラと捲っていれば、横から顔を出した金髪の少女にそう尋ねられた。成程、SPIか。
己の適性を測るのはやぶさかではない。限界を知り、現状を知り、現実を知り、不足を知る。次の成長に繋げるために見なければならないものを数値化してくれる、というのは良いことである。
周りとの比較にしても、区切りが明白であるが故に優劣の差もはっきりと出る。平均的に見て優れている点、そうでない点、そういうものがきっぱりと浮き出てくる。だからこそ長きを伸ばし、人はまた前に進めるのである。
しかしながら己が何が得意か、なんてことはこの歳になれば自ずと分かるものである。優劣がどうとか、周りと比べても仕方あるまい。その分野で一番でなければその分野に進めないのなら、野球選手は複数居まい。
故に私のこれは道楽だ。いわゆる暇つぶしなのだ。蚕が住まう葉のように穴あきの数式に文字を落とす。人間とは知恵が発達した獣であるが故に、頭を回転させている時が最も特色を生かしている瞬間であるはずなのだ。
「クロスワード代わりみたいなもんよ」
「あなたいつも暇よね」
説明を省いても、というより説明としての体を成していなくても意味が通ずるというのはとってもとってもやりやすい。付き合いのなせる技、とでも言うべきだろうか。もうなんというかひしひしと抱き合いたい気分だ。
最小限の会話でやり取りのできる人間と会話している時ほど、楽しい瞬間もあるまい。自分の言葉がそのまま通じる、というのは実際とても楽なもので、楽であるから楽しい…というのは言葉遊びの世界でしかないけれど、そこに楽しさが結びついているのだから楽しいのだろう。
「相手がメリーだからかなぁ」
「それ、すっごい失礼じゃない」
同じ言葉で捉え方が二つもあるのだから、全く日本語は難しい。取り繕う間もなくムッと頬を膨らませるメリーに対して、あははと乾いた苦笑いを零す。平和な日常だ。
昼休みも時が過ぎ、昼食を食べ終えた有象無象はざわざわと、或いはがやがやと揃いも揃って廊下へと出かけてゆく。あぁ、そういえば今日は月始めか。
「メリー、写真」
「お断り。ほら、そんなに気になるんならとっとと立って見に行くわよ」
「あぁ〜〜有象無象の一員になりたくないぃ〜〜…」
携帯を差し出した手はペチンと叩かれて、聞こえていれば大勢から反感を買うであろう情けないヘイトスピーチを口にしながら、ずるずるとそのまま、抵抗もすることなく引きずられてゆく。
人の並がごった返し、衝突する教室前の狭い廊下にて遠目に掲示板を眺める。
我が校では一ヶ月に一度、校内新聞が配布される。それは学生が校内外の情報を雑多に纏めたものであるが、これがなんとも面白い。内容は正直ありきたりだ。サークルやら部活動の実績報告に、誰も聞いていない生徒の個人的な報告事ばかり。にもかかわらずそこにありがちな誇張表現など一つも無く、言葉遊びや言葉選びで、或いは見出しや本文の配列で、或いはフォントや写真で。そうした細やかな工夫一つ一つで人を惹きつける、校内において絶対の娯楽である。
そんなものがホームルームでの配布に先がけて45分間だけ掲載される物だから、月初めの昼休みはいつもこうして人だかりが出来上がる。
「この人だかりは…ズバリ、人の恋路と見たね」
「それじゃあ私は…この私の先見の明の秘訣についての特集と見るわ」
「いつインタビュー受けたのよあんたは」
中身も見ぬうちにこうして賭け事を始めるのは我ながらどうなのだろうかとは思うが、果てさてどうにも人の波が消え去らない。いつもの事ながらなんという盛況であろうか。
一昔前に家庭用ゲーム機を販売した時は、物売りというレベルではないぐらいに人がごった返したと言うが、如何せん今の人口密度は以下に京都広しといえどここがダントツ一位なのでは無いだろうか。ただ立っているだけでふつふつと汗が滲んでくる。
さて、そうしてあれこれ苦悩しながら人の並に揉まれる私の視界をふいっと、一つの影が横切った。
「…蝶?」
それは白い蝶であった。モンシロチョウとかではなく、不思議な話私はそれが白く輝いているように見えた。
私は無意識のうちにその蝶へと手を伸ばしていた。正直虫は触れない。小さな頃はバッタとかセミとか手で捕まえたりもしていたけれど、今やれと言われたら絶対に無理だ。触れるのは蚊とカブトムシぐらいだろう。けれども私は手を伸ばしていた。
だってそれが、まるで誰かの宝物のように感じてしまって────────
「おわあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「れっ、蓮子ー!?」
結果として私は我先にと教室に戻る生徒の波に攫われて、半ば無理やり立ち退きする羽目になるのであった。
「むぅー…」
急いで戻れど無情にチャイムは鳴り響き、結局私は今の今まで見出しすらお目にかかれず。よりにもよってなんで運動部の屈強な野郎共に、それもわざわざ最上階まで運搬されねばならぬのだ。服はしわくちゃだしチークは擦れて落ちたし帽子も踏んづけられたしでいい気分がしない。あいつらの部活廃部になんないかな。
「まぁまぁ、そんな拗ねない拗ねない」
「はいはい、どうせメリーさんはゆぅーっくり眺めたんでしょぉ?私が必死こいて戻ってきてる間にさぁ」
「見てないわよ。というか私かれこれ七回は同じこと言わなかったかしら」
「ぶっぶー、今ので八回で〜す」
さて、拗ねたフリしてからかうのはいつもの事であるが机の足に強烈な一発が来たのでそろそろ辞めておこう。それにメリーが嘘をつかない人間であることは重々承知している。わかっているのだけれどこればっかりはやめられない。
「…というか、毎回思うんだけれどHRに配られるんだから別に待てばいいじゃない」
「かぁ〜っ!分かってないなぁメリーさんは。ネタバレされた映画面白い?」
話には鮮度と付け合せがある。その話を新聞として見るのか、或いは人から話として聞くのか。話が何に付随するのかというのはとても大切だ。無論その場によって適す形は違うだろうけれど、今回の場合新聞の中身を人から聞く、というのは最悪だ。後々見るにしたって、一度中身を聞いた新聞は話として酷く劣化し腐敗する。ただ問題集の答えだけを写しても何も得られず、学習の機会も失うようにである。
しっかし構内の話題の偏りの酷いこと。どいつもこいつも見出しがどうのこうのとやらなくてもいい井戸端会議を始めている。内容は忘れるようにしているけれどもやはり単語一つぐらいは頭の中に残っている。
「…私は面白いと思うんだけどなぁ」
さて、友人を一人減らさなければならないが。そんな事は置いておいて、だ。前から乱雑に配られる学級新聞をぱらりと開いて、聴覚だけを教壇に向ける。
漫研解体危機。映研作品コンテスト金賞受賞。誰かもわからぬ輩と顔だけは知ってる輩の校内恋愛報道。クソどうでもいい教員が書いたであろうコラム。いつもどうりプライバシーに欠けたベターな内容だ。ベターで安直で。
けれどそう、いつものようにベストでは無かった。
「ネタバレの弊害かぁ…?」
パラパラと捲っただけで面白くない、というのは極めて失礼なのであろうがなんというか今一つ。心の一部を抉って新しく埋め合わせてくるような、そんないつものインパクトがどこか消えているようで。無論今までと比較して、という話であるのだが。
「蓮子、ほらもう帰んないと」
「ん、もうそんな時間かぁ……なんかごめんね」
「待たされるのはもう慣れてるわよ」
穴が空くほど見つめてもパッとしないのは変わらないで、納得がいかないまま眺めていれば太陽はもう既に半分以上隠れてしまっていた。夢中になるのはいい事だが、ここまで人を待たせてしまうのはいただけない。それでも笑って許してくれる友人に感謝せねばなるまい。
「…ねぇメリー、今日の新聞…」
「なんだか、あんまり面白くなかったわね」
「だよねぇ…あの時見れてりゃあなぁ」
鞄の口を閉めてカツカツと音を立てながら廊下をある最中、投げかけたあまりにも無粋な質問には思っても見なかった同意が帰ってきた。やはり人の話を耳に挟んだのが悪かった、ということなのだろう。…などと私は勝手に納得していたのだけれど、さて、どうやらメリーはそうでは無かったようだ。
「私は、言葉回しがどこか躊躇っていたように感じてつまらなかったのだけれど」
「──────────」
反論はおろか言われれば成程、と。むしろそれ以外の理由がない程に、なぜ分からなかったのだとなるほどに納得した。納得してしまった。確かにそうだ。今日の新聞は回りくどく抽象的で、それでいて
「おんやおんや、人の新聞にケチつけるたぁいい度胸じゃんけ。えぇ?」
それは人を小馬鹿にするような無邪気で、好奇心に満ちた声だった。
くるりと振り向いた。そこには少女がいた。黒っぽい下ぶち眼鏡の奥にペン先のように鋭い眼光を秘めた、おさげの可愛らしい小さな少女が。私はこの少女を知っている。
「いやっそれは…」
「冗談冗談。前と比べて面白くないのは自覚してるし。気にしてないっての」
「…本当ですか?」
「傷つきはしたけどね?」
取り繕おうとした言葉も封じられて、けれどそこにつけ込むわけでもなく飄々とした態度を貫くような。新聞の著者だと言われれば納得のいくふざけ散らかした性格だ。この性格はあれだ、八雲紫にどこか似ている。
「…えーと、先輩はなんでこんな時間まで残ってらっしゃるんですか?」
「ん?あぁ、えーとね、うーんとね。笑わないで聞いて欲しいんだけれどね?秘封倶楽部に、オカルト話の相談事ー…なんちゃってね。後マエリベリーちゃんと親睦でも深めようかと」
秘封倶楽部、と来たか。うーむ不味い。
秘封倶楽部というのは私が勝手に許可も取らず主張しているオカルトサークルである。人員はたった私とメリーの二名。非公認もいいとこの口だけサークルであり、部活やらサークルからの隠れ蓑なのである。
しかしそれを出汁に擦り寄ってくるとは思わなんだ。相手が男ならば下目的だと想像付くが、この先輩は正直読めない。
「私のコレに手を出す前に、お話聞かせて頂いても宜しくて?ペテン話ならお断りですよ」
「あぁ、話なんだがね?実は最近、私────────」
小指を立てながら間に割込めば、いつもの通り突き放すように問いかける。どうでもいい詐欺話なら正直笑って帰れるのだ。故に私はそれを熱望する。けれどこういう時の神様っていうのはいつもタチが悪いもので。
「────────物忘れが激しいんだ」
「…は?」
けれど時たま、人の願いを聞き入れてくれるものなのだなぁと、つくづく痛感した。