『2005年、東京優駿
最も幸運な馬が勝つ。日本ダービーではそう謳われる。この2頭を除いて。
最速の大逃げ馬、【弾丸】ストレイトクーガー
最速の追い込み馬 【英雄】ディープインパクト
どちらか1頭だけならば、見る人はきっと退屈しただろう。
この2頭が揃っていたから、私たちは熱くなれた。
次の伝説を見よ。』
【THE WINNER CMシリーズより】
ダッ、ダッ、ダッと自分がターフを抉る音が聞こえる。
その音と共に一歩、また一歩、彼女の青と白の勝負服が近づいてくる。すでに最終コーナーに入っている。
弥生賞からずっとこうだ。彼女の背を追いかけ続けていた。弥生賞では並ぶことで精いっぱいだった。皐月賞では半歩競り勝てた。ダービーでは自分の背を見せるのだと意気込んでいた。
しかしその背が近づく時があまりに遅く感じた。ダービーは皐月賞より400m長いとは言っても、それと比較しても既に並んでいてもおかしくない。時間は無いと言っても、この2カ月を訓練に費やしてたのだ。仕上がりは皐月賞の比ではない。だとしたら―――
(彼女はもっと早くなっている…!)
思わずギリィと歯ぎしりをしてしまう。皐月賞で感じた手ごたえは、空虚な願望に過ぎなかったというのか。すでに最後の直線に入っている。時間切れだ。あの背を追い抜き、こちらの背を見せるという願いは届かないのだ。
ならばせめて
「勝つんだ…ッ」
疲れ果てた脚に力を入れる。必死に脚を廻し、地を蹴り前へ前へ。
最後の50mでやっと並ぶ、あと少しだと最後の力を振り絞る。もはや背を見せる願いなど遠くに置き忘れていた。ゴール板が過ぎ去ろうとしている。なけなしの気力で地を蹴り飛ぶ。その一瞬だけ自分が走る理由を忘却した。
『ストレイトクーガーとディープインパクト、横並びでゴールイン!こちらからはどちらか先かはわかりません!写真で判定が下されます!』
疲れ果てた体に力は入らず、慣性に従って50mほど進んだ所でようやく歩くほどの速さに減速した。隣で競っていた彼女も、自分より少し前でゼィゼィと肩で息をしながらゆっくりとこちらの、掲示板の方へ振り向く。私もそうだ結果は、と思いだし掲示板へ振り向く。
『ハナ差でストレイトクーガー!ストレイトクーガー1着です!』
そこに灯っていた数字は自分ではなく、彼女のものだった。
足元が崩れ落ちるような感覚と共に視界は黒く染まり―――
「…夢、またですか」
私は自室のベットの上で眼を覚ました。外は未だ薄暗い朝の4時頃。未だ夏に入ってない6月なのに汗で枕が濡れているのが気持ち悪い。日本ダービーが過ぎ去って既に1週間が経つと言うのに、ここの所眠ってもあの夢しか見ていない。
無理に寝ようとしても寝付けないのは分かっているので、私は汗でぬれたパジャマからジャージに着替える。水を飲み、同居人のハーツクライを起こさないように音を立てずに寮の外へ出た。
星空は見えず、雲に覆われたどんよりとした空を見上げ深呼吸する。ひんやりとした湿気を含んだ空気を感じ、そしてわたしは走りだした。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
いつものジョギングルートを無心で走り続ける。あの夢を見始めてから毎朝行うようになったジョギング。疲れるくらい走らないと、気分は沈んだままになりそうだと思い始めたことだ。約1時間のコース、その道程の半分ほど行った所で軽い休憩をはさむ。
川岸の堤防の上に備え付けられたベンチに座り、日の出で赤く染まる川を眺める。ここでも何かを考えるという事はしない。あのダービーの事しか考えられなくなるのだから。
「ひゃっ!」
突然、頬に冷たい物が当てられる。驚いた私が振り向くと、そこにはチームの先輩であるトウカイテイオー先輩がジャージ姿で缶のスポーツドリンクを持って立っていた。
人懐っこい笑みでスポーツドリンクを手渡してくると、先輩は私の隣に座ってきた。
「こんな時間から頑張ってるね!」
「いえ、まあ、はい」
「僕も日の出から走ってるけど、それより早いでしょ?」
「そ、そうですね、大体4時頃から…」
「4時からかー」
そういったやりとりをすると、先輩の笑みが優しいものになった。
「もしかして眠れない?」
ドキッとした。元々9時頃にはベットに入るので睡眠不足にはなっていないのになぜわかったのだろうか。
「ダービーの前までジョギングは休日の朝しかやってなかったのに、終わった後、急に走るようになったらわかるよ」
私は手に持つドリンクに目線を落とす。心配かけさせたくなかったのに…。
「ねえディープ、何に悩んでるか話してよ。君が迷惑をかけたくなくて、何事も一人でやろうとしちゃうのはわかるけど、僕たちは同じチームなんだよ。君が苦しんでるの、見たくないよ」
少しの躊躇の後、ポツリポツリと私は話し始めた。ストレイトクーガーとの関係、皐月賞で勝った後の慢心、ダービーでの敗北、その悪夢。先輩は私が話してる間は何も言わず、私の話を聞いてくれた。
「これは受け売りなんだけど、ディープはこんな言葉知ってる?『兎は亀を見ていた。亀はゴールを見ていた』っていうの」
「…いえ、知らないです」
「レースにおける心構えだよ。亀だけを見ていたら、亀を追い越す事しか考えなくてペースが乱れる。ただ亀のように自分のレースをして、ゴールを目指せばいいのだっていうのね」
僕も兎だった、と先輩はポツリと零した。
「天皇賞・春、マックイーンに負けたの知ってるでしょ?その時の僕は兎だったんだ」
懐かしがるように、だけどどこか楽しげに眼を細めた先輩に私はなぜか驚いてしまう。
「負けた…のなら、悔しいのではなかったのですか?」
「悔しかったよ」
先輩は即答した。
「無敗が途切れた訳だし、とっても悔しかったよ。でもね。マックイーンは僕の目標になってくれたんだ」
「目標…ですか」
「そう、僕が何度骨折しても、何度立ち止まっても、絶対に勝ちたいって思える相手。走り続けられる理由。だから、奇跡を起こしたんだ」
奇跡、先輩が起こした有馬での大復活。それを見てマックイーン先輩も諦めずに復帰を目指したのはあまりに有名な話だった。
「ディープも、ストレイトを相手に勝ちたいって思ったから練習、頑張ってたと思うんだ。だけど僕たちをもっと頼ってよ。僕たちは一人じゃ強くなれない。勝ちたいと思える人、ライバルがいて、自分を支えてくれるトレーナーがいて、一緒に練習してくれる仲間がいて、初めて強くなれるんだ」
「でも…私は…」
「みんなに迷惑かけちゃうから?迷惑ならゴルシが一番かけてるじゃん。特にマックイーンに。そんなことよりも自分がどうしたいかだよ」
ずいっと先輩が顔を突き出してそう聞いてくる。
自分がどうしたいか、思えばあまり考えなかった。
ストレイトに勝ちたいから。それもある。
ストレイトに背を見せたいから。それも目標だった。
だけど、ああ、そうだ。私は、ストレイトに見てほしいんだ。
ストレイトはいつも真っ直ぐ前を見続ける。そこに私が居たいんだ。
だから―――
「私は…私はストレイトに勝ちたい。あいつが勝ちたいって思える相手になりたい!」
「そっか!そうだってみんな!」
とトウカイテオーは背後に振り向く。釣られて私も振り向いた先にはチームスピカ全員がいた。
「テイオーの言うとおり、わたくし達をもっと頼りなさい」
優しい眼を向けるメジロマックイーン先輩
「いよーし!なら今度一緒にカジキマグロ釣りにいこうぜー!」
と謎の提案をしてくるゴールドシップ先輩。
「いやなんでそうなるのよ!」
ゴールドシップの提案に突っ込みを入れるダイワスカーレット先輩。
「よっしゃ!オレも練習手伝ってやる!」
そう意気込むウォッカ先輩。
「私も一緒に走ってあげる、ね?」
優しくほほ笑むサイレンススズカ先輩。
「みんな一緒に頑張ろうね!」
元気に拳を突き上げるスペシャルウィーク先輩。
「盗み聞きしていたのはすまなかった。だけどディープインパクトはチームとの間に壁があったから、こうでもしないと悩みを聞き出せないと思ってな」
トウカイテイオーに頼んだのだと説明し、謝罪する私たちスピカのトレーナーさん。
「みなさん…」
「ストレイトクーガーへのリベンジ、俺たちチームスピカが全力で応援してやる。だから俺たちをもっともっと頼ってくれ」
「…はい!改めて、これからよろしくおねがいします!」
「よし!じゃあみんな集まれ!」
その掛け声とともに先輩たちは円になり、中央に手を置きあう。私もおずおずと円に加わり、中央の重ねられた手の一番上に自分の手を置く。
「打倒!ストレイトクーガー目指して!頑張るぞ!」
エイ!エイ!オー!の掛け声が当たりに響き渡った。