繰り返す昼夜の、その中間。夕暮れの黄昏が龍明の防壁に沈む、地上よりもだいぶ高度のある地平線。日の入り時刻よりもだいぶと早い生活習慣によって、周囲で光り出す光景に混じるようその探偵事務所にも明かりが点けられた。
鍋でぐつぐつと煮込まれるシチューの泡。それは菜箸で混ぜられて具材がゴロゴロと漂い出すと、次にもその場を離れたコック柏島はお皿に乗せられたお手製アップルパイを持ってきて、先にテーブルへと出していく。
そして出来上がったシチューを食器に取り分けていくと、普段よりも一つ多く用意した三人分の食事をテーブルに移し終えて、すぐ隣で向き合いながら座る二人の女性陣へと声を掛けていった。
「チェスに集中してるところすみません。ご覧のように夕食の用意ができましたので、三人でいただきましょう」
ピンク色のエプロンが似合う柏島歓喜。彼に声を掛けられた葉山ユノは余裕な表情で「えぇ」と答えていく中、顔に貼った絆創膏やシップをくしゃくしゃにするほどの難しい表情で悩んでいた少女が、ふと顔をあげて驚きの声を上げていった。
「ん? ——んぇ?! ぇ、これカッキー作ったの!? うそ、カッキーが料理できるってホントだったんだ……」
「菜子ちゃんの中の俺って、普段どんな印象で映っているんだろ……」
呟く柏島歓喜を他所にして、シチューとアップルパイに喜びを見せていく蓼丸菜子。香りも吸い尽くすように嗅ぎまくる様子を見せつつも、葉山ユノの特等席の隣に座って三人で席につき、食事の挨拶を済ませて夕食の一時を過ごしていった。
——やりかけのチェスがそのままの空間。午後九時を指す時計を目にした柏島歓喜は、椅子に座ってテレビを観ていた蓼丸菜子へとその言葉を掛けていくのだ。
「時間も時間ですから、そろそろご自宅に帰られては?」
「え……あ、うん……。そう、だね……」
「……大丈夫ですよ。学校帰りに、またこうして探偵事務所に寄り道してきてください。ユノさんは菜子ちゃんを大歓迎しますし、俺だって大歓迎ですから」
「まぁ、うん……」
……俯く蓼丸菜子。躊躇いを見せて動こうとしないその様子に、柏島歓喜も事情を知るからこその申し訳なさで顔を渋らせていく。
——沈黙。二人が中々に切り出せないその空気に、事務机に脚を乗せて座っていた葉山ユノは、立ち上がる動作で物音を立て始めた。
「菜子ちゃん」
ひたひたと歩き、蓼丸菜子の後ろに歩み寄る葉山ユノ。そして少女の肩から腕を通して優しく抱きしめるようくっ付いていくと、蓼丸菜子もまた彼女の腕に手を回して離れようとしなかった。
「今日は帰りましょう。ご自宅で貴女の帰りを待つ人々がいるわ」
「……アイツらなんかが、アタシの帰りを待ってるワケがない。——あの日、アイツらアタシに何て言ってきたと思う? 『居候の分際で、よくもなめたような真似ができたな』、『この、食費から学費までのあらゆる費用で私らの財産を食いつぶす害獣もどきが』。そんなことを言われて帰りたいと思うヒトなんか、フツーはいないでしょ……」
「それでも、彼らにとっても貴女に帰ってきてもらわないと困るのよ。色々とね」
少女の頬に、自身の頬をくっ付けていく葉山ユノ。ぴとっ、とくっ付いた温もりと、隣から香る安堵の匂いによって蓼丸菜子は唇をかみしめるようにして、堪える感情で次第と目元を震わせ始めていく。
離れたくない。もっと二人と一緒にいたい。
……柏島歓喜は、頭を掻いてどうするべきかを考えていた。だが、彼が言葉を掛けるよりも先に少女へと問い掛けたのは、この探偵事務所の主である葉山ユノからだった。
「住む場所を変えたい?」
「……え?」
頬をくっ付けたまま、少女は少しだけ彼女へと振り向いていく。
「どういうこと……?」
「もし菜子ちゃんが良しとするのなら、この探偵事務所に住居を移す選択肢もあるわ」
…………。
葉山ユノの腕を、蓼丸菜子はぎゅっと抱きしめていく。そして目元に雫を溜めながら少しばかりと沈黙を貫くと、次第にも喉を鳴らしながら、堪えていた感情に身を任せて大粒の涙を流し始めていった。
「……ッ住みたい。住みたい……っ。そんなこと言われちゃったら、アタシ……ホンキで移り住むこと考えちゃうよ……ッ!」
「もう大丈夫よ。今まで独りにしてしまってごめんなさい。長い間、散々と、心が圧し潰されてしまいそうな強い孤独と戦い続けてきたのだと思う。——これからは一緒に過ごしましょう。私ももう、貴女を遠くから見守ったりしない。……これからは、より近い所から貴女を護り抜くわ」
「ユノさん…………っ、ユノさぁん…………うぁ、ぅぁぁ」
葉山ユノの、自身の座る姿勢の後ろから交わしてきた優しい抱擁に蓼丸菜子は泣き崩れた。
彼女に寄り掛かり、我慢し続けてきた気持ちを爆発させた今。……蓼丸菜子という一人の少女もまた、漆黒に身を纏いし流浪の救世主に救われた存在の一人なのかもしれない——
「じゃあ俺、菜子ちゃんをご自宅まで送り届けてきます。……菜子ちゃんの件は、後日ユノさんからお伺いするということで、まだしばらくはこのお見送りが続きそうですね」
そう言う柏島歓喜は玄関で葉山ユノと会話を交わし、蓼丸菜子を連れて夜の街へと駆り出された。
二人を見送った葉山ユノは、ひとり残った探偵事務所をひたひたと歩き進めていく。
それは真っ直ぐと窓辺へと向かって夜景を眺めていくと、ふと踵を返して事務机の引き出しを漁り始め、埋もれた“写真”を取り出しては窓へと近付いてから、“それ”へと視線を落としつつそう呟いた。
「…………これで良かったのかしら」
迷い。彼女らしからぬ不安な声音でそう言うと、手元のそれを眺めながらセリフを続けていく。
「数年の間に変化してしまっていた家庭内事情。これに気付けず、結果的により深い傷を負わせてしまったことは、私の落ち度だわ。……本当にごめんなさい。けれども、下手に私が関わってしまっても最後、あの子も逃れられない運命に晒されて、そう遠くない未来にも、より一層もの脅威と対峙して命が脅かされてしまうかもしれない。——ねぇ、これで良かったのかしら……。私は果たして、あの子に対して最善の選択を選んであげることができたのかしら……」
事務所の明かりで反射する彼女の姿。写真を眺める姿に凛々しさの微塵もなく、彼女らしくない肩を下げた棒立ちのサマを映し出しながら、その顔にシワを寄せた力む表情をひとり浮かべて佇んでいた——
『今日限りで、俺はあんたの世話をやめるッ!! それで!! この力でこの憎たらしい世界を滅ぼして!! 俺は、新しい世界を創り上げてみせるッ!!!! ——この力は、ありがたくいただいていくぞ!! だから、後のあんたの世話は————』
別の奴隷にでも任せておきな————
……蠢く液状。暗がりの地べたに這いつくばる小粒の”それ”は、小さな触腕で身体を引き摺るようにしながら宵闇の深淵へと消えていった。