浅いまどろみの中。
朝特有の鋭角に差し込む陽射しが、カーテン越しにまぶたを灼いている。
「あなた、起きて」
柔らかな声にゆっくりと目を開くと、その声の主を視界に捉える。
寝室全体に広がる柔らかな光が彼女の長い髪を透かして、まるで天女の羽衣のようだ。
「⋯⋯おはよ」
「ずいぶん寝坊助さんなのね」
俺の妻、雪ノ下雪乃はそう言って慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
そう俺の妻⋯⋯え? 待って。いや結婚はしてないな。うん、まだしてない。
「結衣たちももう起きているわ」
結衣⋯⋯俺たちの愛娘の名前。いややっぱり違う。娘に結衣と名付けた覚えはない。そもそも娘が生まれた記憶もない。目の前の状況に、思考が追いつかない。
「小町がパパ遅いって文句たらたらよ。早く来てね」
そう言って雪ノ下は、開けっ放しだった寝室の扉から出て行った。
パチン、と自らの頬を叩くと。
ようやく回り出した頭が昨日までの出来事を思い出し始める──。
* * *
あれほど見事に咲き誇っていた桜はとうの昔に散り去り、高校三年生となって初めての季節が移り変わろうとしていた。
「比企谷くん」
「おぉ⋯⋯。ありがと」
文庫本を注視し過ぎていたのか、雪ノ下に声をかけられるまで紅茶を用意してくれたのに気付かなかった。
カップを持ち上げてそれを啜ると、既に飲み頃になっている。最近は俺の猫舌に合わせて、ぬるめで提供してくれるのだ。
小町が皿を用意して、由比ヶ浜がまたガサゴソとお茶請けをそれにあけていく。ちなみに一色はスマホをシュシュっとスワーイプしているだけで何もしない。入り浸るならちょっとぐらい仕事してもバチは当たらないと思うよ?
「昼間はちょっと暑いぐらいになってきましたねー」
「そうだねー」
テレホンショッキングのタモさんと聴衆のやり取りみたいな会話は、ここ最近の平穏を現しているかのようだ。
このところ、全員で対処しなければいけないような大きな依頼はない。去年に比べれば随分細々とした依頼もあったけれど、それらはまだ十分な仕事の
来年も小町がこの奉仕部を続けていくつもりながら、もっと経験が必要だ。それについては、少々焦りもある。奉仕部として活動の実績がほとんどない上に部員が一人ともなると、来年以降部活と見なされるかどうかもあやしいのだ。まったく去年の自分と今の自分の思いと状況の変化には、苦笑するしかない。
──トントン、と。
俺がそんな事を考えていたからだろうか。随分と久しぶりに、扉を叩く音がした。
雪ノ下が小町を見ると、コクと部長は頷いた。
「どうぞー」
小町が答えると、ガラッと音を立てて扉は開け放たれる。
「失礼します」
そう一言断って入室してきたのは、珍しい事に男子生徒四人組だ。その内の二人には、見覚えがある。
「お久しぶりです」
「あ、うん。よかったら座って?」
由比ヶ浜と小町は突然の比較的大人数の来客に、ドタバタっと四人分のパイプ椅子を用意した。
はてさて。奉仕部の部室にこんなに人が来るもの珍しい。しかも来客が全員男子だったせいで、男女比すら逆転しているのがもっとレアだ。Sレアぐらいの珍しさ。しかも来客者全員、眼鏡。全然判別がつかねぇ⋯⋯。
「えー、それでは⋯⋯。今日はどのような御用件で?」
小町が改まって言うと、見覚えのある方の眼鏡の一人が言う。
「はい。本題に行く前に、自己紹介を。遊戯部二年の相模と」
「同じく二年、秦野です」
うん、そうそう。知ってた知ってた。いや別に名前を忘れていたわけじゃない。ちょっと喉から出にくかっただけだから! だからセーフ。
「それでこっちは」
「映像研究部二年、
「同じく二年、
うーん、見分けつかねぇ。三分後には名前と顔が一致しなくなること確定だ。続いて俺たちも順に自己紹介を済ませると、いよいよ本題に入る。
「今回は、映像研究部としてお願いがあってきました」
笹目と名乗った方が、膝の上で握り拳を作りながら言う。つまり遊戯部は橋渡しという事だろう。
「実は今度コンテストがあるんですが、それに提出する作品の撮影にご協力頂けないかと」
「具体的に言うと、出演して頂けないか、という相談です」
「出演?」
笹目の次に長谷が言うと、思わずそう問い返してしまった。撮影のキーワードに、また舞台の用意やら音響やらの裏方だと、勝手に思い込んでいたからだ。これには彼女たちも顔を見合わせて頭の上に疑問符を浮かべている。
「出演って⋯⋯。そう言うのは自分たちでやったり、演劇部とかに依頼するもんじゃないのか?」
「普通はそうなのかも知れませんが⋯⋯。脚本上自分たちではどうしても演じられないのと、あと演劇部に知り合いが居ません」
いや知らねぇよ。というか俺もあなた方と知り合いじゃありませんが? と半眼で呆れていると、補足係の長谷(多分)がフォローに入る。
「演劇部も自分たちの活動があるでしょうし⋯⋯。それに映像上の見た目もこちらに依頼するのが最適かと思いまして」
なるほどなぁ、とそれには同意する。雪ノ下を筆頭に、この部室には学校内屈指の綺麗どころ可愛いどころが集まっている。そう言えば一応部外者のはずの一色は、とそちらを見ると意外にも真剣に話を聞いている。
「こちらがその企画書になります」
笹目と長谷が立ち上がると、全員に薄い冊子が配られる。映像研究部では演じられないと言う、その作品のタイトルは。
「疑似家族プロジェクト?」
「ええ。皆さんには疑似家族を演じて頂けないかと」
「家族それぞれの役にはまって演じては貰うんですが、決まった台詞はほとんどありません。あくまで高校生同士が共同生活を行う中で、それぞれに母や父、子どもという役割が与えられた時にどんな行動や変容が演者に訪れるのか、と言うのが今回のコンセプトです」
つまりはシェアハウスに一緒に住む若者を追ったリアリティ番組みたいなものか、と勝手に納得する。それに付け加えるならば、そこに役割という演技が入るというのが、フィクションでありリアリティ番組とは一線を画している。
「とは言え全部お任せ、というのは作品にならないので、それぞれのキャラクターにはメールやラインなどのメッセージで行動を指定していきます。その行動に対してのリアクションはそれぞれのアドリブになるわけですが⋯⋯正直コンセプトが大切なので、演技力は求めてません。素の反応が出てしまうのも、面白さの一つになると思ってます」
「モニタリング的な要素もエンタメのエッセンスの一つ、って事か」
「そうです。その通りです!」
俺の理解が嬉しかったのか、笹目(おそらく)が食い気味に答える。野郎がそういう反応するとつい引いちゃうからやめた方がいいと思います。
「来月、三連休があるじゃないですか。そこでマンスリーマンションを借りて、実際に三日間擬似家族として生活をしてもらって、それを撮影編集という手法を取りたいんですが⋯⋯」
そこまで言って、俺たちの反応が変わったのに気付いたのだろう。長谷(きっと)は言葉を徐々にフェードアウトさせていく。
三日間、擬似家族として生活する。つまりは家族でもない相手と寝食を共にするという事だ。いや小町は家族だから、そもそも擬似家族というコンセプト的にそこはいいのかと言う話にもなる。
「やっぱり、受験があるんで厳しいですかね⋯⋯」
「そこじゃないでしょ⋯⋯」
静観を決め込んでいた一色が思わず、と言った様子で突っ込む。受験を理由に断る事は、おそらく無い。お菓子を食べながらくっちゃべっている暇があるなら勉強しろという話だ。
問題はもっと基本的なところ。それは俺たちにとって共通認識であろう。
「共同生活、ね⋯⋯」
雪ノ下のその反応は、応とも否ともとれない灰色の答えだった。俺たちだって、歴とした高校生。それが撮影の為とは言え三日も同じ屋根の下とは、色々と不都合が多かろう。
「あ⋯⋯。家族からとか、彼氏さん的にNG出されそうな感じですかね」
笹目(天然)の何気ない問いかけに、部室内の空気が一気に変質する。こいつ、サラっと敏感なところに突っ込みやがって⋯⋯。でも悔しい感じちゃう(びくんびくん)。
「そ、そこは問題ではないのだけれど⋯⋯」
「あ、それなら配役的なところですか? 一応奉仕部に男子は比企谷先輩だけと聞いていたので、台本上父親役を演じてもらいたいんですが⋯⋯」
笹目はそう言うと、ぐるりと女性陣を遠慮がちに見る。
「比企谷先輩がこの中の誰かと付き合っているとかなら、その方が母親役、というのが一番いいと思ってます」
⋯⋯何も知らないって、恐ろしい。見てくださいよこの部室内の空気。固まっているなんてもんじゃない。もう氷河期ですよ氷河期。動くもの皆凍りつく極大ブリザードを発生させた笹目(ぶっ込み隊長)は、自分がどれだけセンシティブな話題を攫っていったか分かっていない様子で答えをじっと待っている。
「⋯⋯でも母親役なら、一番ゆきのんがぴったりだよね」
その沈黙を破ったのは、意外にも由比ヶ浜だった。その意見にはみんな同意なのか、大なり小なりの頷きが交わされる。
「⋯⋯という事は、引き受けて貰えるという事でいいんでしょうか?」
長谷(よく分からん)の問い掛けはその顔の向きからして俺に宛てられたものだったらしいが、これは俺の決断すべき事ではない。
「それは部長次第だ」
俺の言葉に、部屋中の視線が小町に集まる。色々とクリアすべき課題はあるが、これは奉仕部にとってチャンスとも取れる案件だ。他の部活との合同企画。しかもその作品の出来如何によっては、大きな実績となるだろう。
「うーん⋯⋯。これに関してはそれぞれの予定もあるので⋯⋯雪乃さんは、どうですか?」
「私は⋯⋯構わないわ」
「結衣さんは?」
「あたしも、いいよ。楽しそうだし、全員で何かするのって、久しぶりでなんか嬉しいな」
素っ気なく答える雪ノ下も、率直に答える由比ヶ浜も、反応は悪くない。しかしこの部室には、まだ聞くべき相手が一人残っている。
「いろは先輩」
「⋯⋯え? は? わたし?」
「いろは先輩は、どうしますか?」
小町の真っ直ぐな瞳に見つめられて、一色は即答するのを躊躇っていた。ここまで聞いておいて部外者扱い、というのはある意味酷だろう。
「設定と台本上、五人居てもらうと助かるんですが⋯⋯」
沈黙を戸惑いと見たのか、あと一押しをするかのように長谷が付け加える。そして再び視線が集まるのは、一色のところだ。
「⋯⋯仕方ないですね。それにいつもお茶を頂いているお返しは、しなくちゃですし」
その答えに、ふわっと空気がやわらぐ。これでコンセンサスは得られ、かつ利害も一致した。
「では、奉仕部として協力します。が、小町とお兄ちゃんは実際に家族なんですが⋯⋯」
「それは設定上疑似になれば問題ないかと。あくまで疑似、なので」
「そうですか。ではもう一つ。猫を連れていっていいですか?」
「猫?」
小町の質問に、俺も忘れていた事に気付く。カマクラの世話の事だ。
「両親が休みでも不在になる事があるので、出来れば連れて行きたいんですが」
「なるほど。確認してみます」
笹目が手元の企画書にサラサラとメモを取ると、パチンとボールペンを引っ込める音が部屋に響く。ちなみに雪ノ下のお目々がキラキラしているのに気付いたのは俺だけだ。多分。
「では父親役は比企谷先輩、母親役は雪ノ下先輩。それ以外のメンバーは子ども役という事で、当日までに設定や台本を詰めていきます」
とそこで久しぶりに声を出したのは、遊戯部の相模だった。どうやら遊戯部は橋渡し役だけではなく、シナリオについても一枚かんでいるらしい。
「あとは他に確認して置きたい事とかはありますか?」
長谷が聞くと、俺たちは顔を見合わせた。まだ一つ、クリアになっていない問題がある。
「共同生活って言ってたけど、寝室とかはどうするんだ?」
「そこですが⋯⋯二人は夫婦役なので、同じ寝室を使って貰いたいです。寝室にもカメラをセットして、そこでの会話というのもストーリーの要になるので」
長谷が答えると、シンと室内が静まり帰る。撮影とは言え、いいのかそれは。あと自分で聞いておいてあれだけどこの空気どうにかして! 色々想像しちゃってシンドイよ!
「雪ノ下先輩は、それで大丈夫ですか?」
「⋯⋯まあ、演出上必要なら仕方ないわね」
雪ノ下はこちらに一瞥をくれる事もなく、ほのかに頬を赤く染めて答えた。雪ノ下がいいと言うなら、こちらも断る理由は無い。
「そうだな、必要なら⋯⋯」
歯切れの悪い言葉は尻すぼみになってしまって、どうにも格好がつかない返事になる。おいいろはす、ニヤニヤしながらこっち見んのやめろ。
「他に何か質問はありますか?」
俺たちはもう一度顔を見合わせると、ふるふると首を振った。あとの事は正直まだリアルに想像できなくて、これと言って思い付かない。
「では今日のところはこれで。ご協力ありがとうございます」
笹目がそう言うと長谷と遊戯部の二人も揃って頭を下げる。いえいえこちらこそと俺たちも頭を下げると、未知の事が始まる期待と不安の入り混じった、どこか浮き足立った雰囲気で奉仕部の部室が満たされた。
かくして映像研究部の企画する「擬似家族プロジェクト」は。
奉仕部と遊戯部の協力のもとで、静かに始動したのだった。
ここまでお読み下さりありがとうございました。
タイトルから前作『まちがった青春をもう一度。』の続編だと期待させてしまったら申し訳ありません。
こちらはPIXIVに掲載していた「疑似家族プロジェクト」という連載物を改題し、加筆修正を加えた作品になります。
まったりほんわか進めていきますので、楽しんで頂けたら幸いです。