7/14 12:38修正しています。
「ふぃー⋯⋯」
安定の一番風呂ならぬ一番最後風呂を頂くと、俺は雪ノ下の座るソファに隣合うように座った。雪ノ下はあいも変わらず膝の上で丸まるカマクラの背中を撫で続けている。あなた本当にカマクラの事好きですね。
「⋯⋯⋯⋯」
特にやる事もなく点けっぱなしだったテレビを観ていると、横から無遠慮なほどの視線を感じる。なんでしょうか、何かついていますか。腐った目以外に。
雪ノ下はそっとカマクラを抱き上げて床に放すと、何も言わずに洗面所の方へ向かう。カマクラは「うなぁ」とどこか寂しそうな声を出すと、ガラ空きだった由比ヶ浜の脚の上に飛び乗る。由比ヶ浜は少しだけびくっと身体を震わせたが、流石にもう慣れて来たらしくテレビを観ながらその背中を撫で始めた。
雪ノ下は一分と経たないうちに戻ってくると、俺の横に座ってカマクラでも招き入れるかのようにポンポンと自分のももを叩いた。
「あなた、耳垢が溜まっているわよ」
「⋯⋯おう」
「ここに寝て。耳掃除してあげる」
自分でできるんですけど⋯⋯と片頬を引き攣らせながら目だけで訴えると、雪ノ下は超いい笑顔で「何かしら」とでも言わんばかりに首を傾ける。
マジですか雪ノ下さん。その行為自体はやぶさかではないというかバッチコイどんと来いなんだが、みなさんご在宅なんですよねぇ⋯⋯。
「頼む⋯⋯」
一切表情を崩さず視線も逸らさない雪ノ下に根負けして、その膝に頭を預けた。細過ぎるが故にクッション性など皆無だろうと思っていた雪ノ下の太ももは、下側にした方の耳が沈み込んで中々どうして心地よい。ゆきのんの太もも、略してゆきもも最の高⋯⋯。
「⋯⋯⋯⋯」
耳かきの感覚など放っておいてゆきももの感触に全集中していると、不意に由比ヶ浜と目が合った。何か言われるのかしら⋯⋯と視線をテレビに戻しつつ勝手に不安になっていると、由比ヶ浜は膝の上のカマクラを抱き上げ雪ノ下がそうしたように優しく床に放した。
由比ヶ浜は立ち上がって俺たちの方に近づくと、何も言わずに俺の寝そべっているソファを背もたれにして座り込む。えぇ⋯⋯そこに居られると立ち上がれないんですが。
「あ、いてっ、ちょっ」
何この状況、と訝しんでいると、何者かに頭頂部を連打される。
見れば俺たちの方に近づいていたのは由比ヶ浜だけではなかったらしい。カマクラがふーっ、と鼻息を荒くしながら俺に高速猫パンチ攻撃を繰り出してきたのだ。
よくよく考えてみたら雪ノ下の膝の上を取られた挙句に次に座り込んだ由比ヶ浜の脚まで奪い取られたのだ。そりゃ怒るわ。ガンジーでもブチキレて全速力ラリアットかましてくるレベルだし、俺なら一生許さない。俺許すまじ。
「カーくん、随分怒っているわね」
「だな⋯⋯」
ちょうど右耳側の耳掃除が終わったのか、雪ノ下が俺の耳から手を離す。俺が起き上がると、カマクラはあっという間に雪ノ下の膝の上を占領した。
「ん」
それを二人して苦笑して見ていると、由比ヶ浜はポンポンと自分のももを叩く。
「反対側の耳、やったげる」
いや何でだよ。と声に出す前に、由比ヶ浜は雪ノ下から耳かきと綿棒を受け取る。いや、普通父ちゃんが娘に耳かきして貰わないでしょ⋯⋯。
「⋯⋯どういう風の吹き回しだ?」
「えー、いいじゃんたまには。ちっちゃい頃のお返し? みたいな」
ここで抵抗し続けるのも、あまり撮影進行上よろしくもない、か。
俺はももを叩き続ける由比ヶ浜に観念して、ソファを降りるとその太ももを枕にカーペットの上に寝そべる。
しかしこれは⋯⋯。由比ヶ浜の太もも、パジャマ越しでも分かるほどもっちりしてるなぁ⋯⋯。
意外に細いと思っていたその足は枕にしてみると、その柔らかさに驚愕を禁じ得ない。ガハマさんの太もも、略してガハもも至極すぎる⋯⋯。寝具メーカーは枕開発にガハももを研究したらいいんじゃないか? パパが許しませんけどね!
「⋯⋯⋯⋯」
その至上の寝心地に脳を蕩けさせていると、ふとした拍子に一色と目が合う。俺の甘やかされ放題な姿を、一色はカラスに
「はい、おしまい」
「おお、⋯⋯ありがとな」
俺は由比ヶ浜の足の上から身を起こすと、よっこいせと立ち上がる。
ちょっとばかり頭が弛緩しているし頬もだらしない事になりそうだったから、顔を洗うついでに歯磨きもしてしまおう。
「パパ」
一色の前を通りがかった瞬間に、彼女は俺を見上げながらニヤリと不敵に笑った。そしてポンポンと、自らの太ももを軽く叩いている。
「耳掃除の、出来栄えチェック」
「いらねぇ⋯⋯」
「いいから」
いや君さっきまでドン引きしてたよね? あと耳掃除の出来栄えチェックってなんだ。ちょっとは結衣ねぇを信用してあげようね!
「早く」
「はい⋯⋯」
有無を言わさぬ口調に、俺は抵抗を諦めた。ゴロンと一色の太ももを枕にして横たわる。
ほう、これは⋯⋯。スパッツからすらりと伸びる足は細過ぎず太過ぎず、健康的なのにそのくせ
控え目に言って、いろももは最高だ⋯⋯。いや、はすももか? 最高だからもうどっちでもいいや!
「んふふ」
ふと一色の声が至近距離から聞こえて仰ぎ見ると、彼女は俺の顔を覗き込んで小悪魔めいた笑いを浮かべていた。耳掃除の出来栄えチェックは、どこにいったんでしょうか。
「⋯⋯⋯⋯」
そんな一色の視線とは別に、俺の横顔に刺さる視線がもう一つ。視界の端の方で、小町はシラッとした目で俺を見ていた。
もう分かったぞこのパターン。次は小町の太もも、略して町ももかぁ。しょうがないなーでもお約束って大事だし? いざ行かん、町もも。
「小町」
「パパ、さっさと歯でも磨いてきたら?」
「あ、はい」
ってそうなりますよね。
はい、どうもすいませんでした。
耳と頬に残る感覚に名残惜しさを感じながらもリビングを後にして、俺は洗面所の棚を漁っていた。
俺の歯ブラシ、どこやったっけ⋯⋯と昨日どこに置いたかを思い出していると、半開きにしていた扉から由比ヶ浜が入ってくる。
「⋯⋯どうした?」
「うん⋯⋯」
問いかけの答えになっていなかったが、由比ヶ浜は扉をピシャリと閉めるとそう頷いた。
何やら神妙な表情だが、また台本指示だろうか。だとしたらカメラの設置されていないここで話をするというのも、よく分からない。
「明日、彼氏が来るじゃない?」
「⋯⋯おお」
あくまで演技の続きをするらしい由比ヶ浜は、ちらりと下から俺を見上げる。その仕草は一色のそれと同じのはずなのに、あざとさを感じさせないところが何とも由比ヶ浜らしい。
「⋯⋯パパ、寂しい?」
パパ、という言葉にイントネーションを置いた由比ヶ浜は、きっと俺の役柄の上での答えを求めているのだと思う。
由比ヶ浜の視線を真正面に受け止めながら、俺はもう一度父親としての意見を、考えを再構築する。もちろん実際に父親になった事はないわけだから、その思考にリアリティはない。
ステレオタイプの父親像を考えるならば、娘は誰にもやりたくない、だけど幸せになって欲しい。その葛藤こそが、人生ドラマの醍醐味の一つなんだろう。
「寂しい⋯⋯けど、嬉しい。甘塩っぱいみたいな感じだな」
「なにそれ」
肩を揺らして笑う由比ヶ浜に、思わず破顔する。自分じゃ随分とだめだめな役者だと思っていたが、俺も由比ヶ浜もいつのまにやら堂に入ったものではないだろうか。
「パパ」
桜の花びらのような柔らかな笑みを浮かべながら、由比ヶ浜は俺との距離を半歩詰める。
「久しぶりに、ハグしてよ。子どもの時みたいに」
「ほぇ?」
唐突なお願いに、思わず間の抜けた声が出る。
ハグ。抱擁。抱きしめること。抱き合うこと。俺と由比ヶ浜が?
俺が躊躇していると由比ヶ浜は「はい」と両手を広げてくる。いや、はいじゃねぇよ。
「どうしたの?」
「いや、⋯⋯なんでもない」
由比ヶ浜が演技を続けるというのなら、俺もまたそれに続くべきなのだろう。
親子でのハグなど日常茶飯事。果たして大学生になった娘とハグする父親がいるのかどうかは、非常に疑問だが。
とにかくもはや逃げ場があるわけでもなく。だから俺はとにかく自然に、与えられたミッションをこなさなくてはならない。
「⋯⋯まだまだ甘えん坊だな」
「えへへ、そうかも」
俺がぎこちなく腕を広げると、由比ヶ浜は嬉しそうにその中に飛び込んでくる。いやその表情反則でしょ⋯⋯大学生の娘にキュンキュンする父親とかヤバいでしょ⋯⋯。
由比ヶ浜の方から背中に腕を回されると、むぎゅぅと凄まじい肉感が胸板に押し付けられる。少しだけゴワっとしたカップの感触の向こうに、宇宙の果てに誘われるような柔らかさが広がっている。
「ね、頭撫でて」
由比ヶ浜の乳、略してガハ乳⋯⋯とか考え出したところで甘えた声が俺の鼓膜を震わせた。ちょっとガハマさん今日攻め過ぎでは? 本日あなたの周りでしかイベント起きてない気がするんですけど。
「おぉ⋯⋯」
なるべく自然に、自然に⋯⋯と思って髪を撫でようとするのだが、どうしてもロボットみたいな動きになってしまう。
染めているから多少は荒れているのかと思っていたその髪は、意外にもサラサラでツヤツヤだ。その上撫でつける度、いつもの柑橘系の香りの代わりに色濃く残るシャンプーの香りが鼻腔を満たして、クラクラしてくる。
これ、いつまで続けりゃいいんだろ⋯⋯と終わらせるタイミングを見つけ損ねていると、ブブッとポケットの中で携帯が振動した。それを合図に、由比ヶ浜は俺との抱擁を解く。
「⋯⋯ありがと」
さらりと流れた髪の向こう側で。
由比ヶ浜は顔を赤くしてそれだけ言うと、先に脱衣所を出て行った。軽い音と共に扉が閉まると、俺は深く息を吐く。気付けば背中に変な汗が伝っている。
きっかけになった携帯を取り出して画面を見ると、案の定遊戯部からのメッセージだ。
「マジかよ、こいつら⋯⋯」
妙に長い台本指示を読み終えると、俺は思わず天井を仰いだ。
そこにカメラはなくとも、ただ恨みを込めた視線は天井ぐらいしか受け止めてくれそうにない。
* * *
時刻は午後十一時を過ぎた。
俺は雪ノ下より先に寝室に入って布団の上であぐらをかくと、ひたすらにこれからの展開をシミュレーションしていた。
正直、雪ノ下に対して言いたい台詞ではない。台本みたいな事が現実に起きたらと想像するだけで、胃の中にたわしを突っ込まれてジャイアントスイングされたみたいな、酷い気分だ。
「あら、まだ起きていたの」
「あぁ⋯⋯」
しかしこれは、久しぶりの俺への台本指示なのだ。恐らく進行上、重要なポイントになるだろう。
「なあ、ちょっといいか?」
自分で思っていたより深く重い声が出る。溜息を一つつくと、静かに息を吸い込んで雪ノ下の答えを待つ。
「ええ、構わないけど⋯⋯」
「あのな⋯⋯」
俺は声が掠れそうになるのを誤魔化すように咳払いすると、一息に続けた。
「会社の同僚が、お前がホテルに入って行くところを見た、って言うんだ。明らかに俺とは違う、誰かと」
俺がそこまで言うと雪ノ下は目を丸く見開き、次の瞬間にはまつ毛が伏せられる。耐えられそうもない沈黙だけが、二人の間に流れていた。
「雪乃⋯⋯浮気してるのか?」
見つめ返してくる瞳には明らかな悲しみが浮かんでいて、彼女はそのまま透明になって消えてしまいそうな程に儚く見えた。
遊戯部の台本指示によれば、雪ノ下にはこの筋書きは伝わっていない。だからこの反応は、雪ノ下の素直な反応なのだと思う。彼女の表情もその滲んだ愁傷も、すべて。
「してないわ」
沈黙の末に紡ぎ出された言葉は、さっきまでの彼女の印象とは真反対に強い。いつの間にかその瞳には、強固な信念のようなものが燃えている。
「⋯⋯だったら、同僚が見たのは誰だっていうんだ?」
「人違いでしょう。私じゃないわ」
あまりにもシンプルな言い返し方とその気迫に、一瞬たじろぐ。しかし俺には、はぐらかされても詰問するようにと、細かい指示があるのだ。
「⋯⋯けど、確かにお前だったって」
「あなたは私よりその同僚の方を信じるの?」
いつしか彼女の瞳の中には、悲壮よりずっと強い感情が光っていた。
まるでゾーンに入った役者だ。その声帯が空気を震わせるたびに、ビリビリと背中が痺れる。
「⋯⋯そんなわけ、ないだろ」
「なら、私を信じて」
雪ノ下はそこまで言って、ふっと少しだけ表情を柔らかくする。だけどその言葉には、さっきよりも確かな芯があった。
「あなた以外となんて、ありえないわ。私が愛しているのは、あなただけよ」
その目は確かに俺を捉えて、言葉は胸を貫いた。
完敗だ、こんなの。
元より俺に勝ち目なんてなかったのかも知れないが、それにしたって気持ちのいい負けっぷりだ。
「すまん⋯⋯。俺がどうかしていた。お前の事を、信じられないなんて」
深く頭を上げて、ゆっくりと顔を上げる。俺を見つめ続けたままの目は、いつのまにか
「いいのよ。私を信じてくれるなら」
そう言った雪ノ下の表情は慈愛に満ちた微笑み⋯⋯から、愉悦混じりのものに変わっていく。
思わずゾワリと、全身に震えが走った。
雪ノ下の目は、捕食者のそれだ。巧妙に張り巡らせた罠に、獲物が落ちた瞬間を見るような、空恐ろしい表情。
「ところで私の方からも、話があるのだけど」
雪ノ下はそう言って枕元に置いてあったポーチから、数枚の名刺らしき紙を取り出した。
「愛菜さんが、あなたにもっと会いたいそうよ?」
「⋯⋯⋯⋯は?」
ひらひらと雪ノ下が見せてくるのは、やはり名刺だった。⋯⋯明らかにキャバクラとかラウンジとか、そういうものの。
「麗美さんは、あなたに電話して欲しいそうね」
突きつけられたのは十一桁の数字が書かれた名刺で。
「柚愛さんのこれは何かしら⋯⋯。変わった魚拓ね? あなたの身体に付けられてないといいけれど」
その次に現れた名刺には真っ赤なキスマーク。雪ノ下は目を
それを受け止めながら、俺は昨日の撮影が始まる前の事を思い出していた。
それぞれに渡された、役に応じた詳細な人物設定。
その裏設定とも言える文章の中にあった「家族に言えない秘密がある」って、この時の為のものだったのか⋯⋯。
「全部あなたのジャケットに入っていたものだけれど、何か私に言う事は?」
「いや、その⋯⋯付き合いでだな⋯⋯」
もはや完全に形勢逆転。雪ノ下にこんな切り札めいたものがあったなんて、井の中の蛙もいいところではないか。
「本当に?」
「イエス、マム⋯⋯」
浮気を疑って詰問し続けろという台本指示は、この展開の為だったわけだ。遊戯部のやつら、今頃腹を抱えて笑っているに違いない。
雪ノ下は正座で座り直した俺を見て、ふっと吹き出すように顔を綻ばせた。
「いいわ、信じてあげる。私はあなたより疑い深くないし」
すっと息を吸うと、さっきまでの表情が嘘みたいに優しく彼女は言う。
「何より、あなたを信じてるから」
真っ直ぐ見つめる眼差したるや、眩し過ぎて心の奥のほうまで
じっとお互い見つめ合ったまま、どれだけ時間が流れただろう。微笑みを浮かべる彼女に対して、俺は随分と間の抜けた顔をしていたに違いない。
「もう寝ましょうか。今日も色んな事があって、少し疲れたわ」
「そうだな⋯⋯」
緊張とも弛緩とも取れない沈黙が、雪ノ下の一言で霧散する。
雪ノ下は照明のスイッチを引っ張ると、昨晩同様に寝室は豆電球一つになる。それぞれ布団に入ると、薄暗がりの中で雪ノ下とバッチリ目が合った。
「⋯⋯ねえ」
「⋯⋯おぅ」
本当にこの子、暗いところで見ると美人が際立って心臓に悪い。素っ気なく返した俺に、雪ノ下の優しい声音が続く。
「手を出して」
「ん⋯⋯?」
何がしたいんだろう⋯⋯と訝しみながらも、俺は布団の中から左の手を差し出した。雪ノ下はその手を掴むと、自分の布団に引き入れる。指を絡め取られるのと一緒に、心臓まで持って行かれそうだった。
「⋯⋯どうした」
「仲直り」
余りにもあどけない言葉と、月が笑ったみたいな微笑み。そんな風に笑われたら、日本語すら忘れ去って何も言えやしない。
「今日は手を繋いだまま、寝てもいい?」
「あぁ⋯⋯」
是非もない、というか、やぶさかではないというか。いや、理由はいらない、が正しいのだろう。
俺が身じろぎでもするみたいに動かした指を、離すまいとでも言うように雪ノ下の指に少し力が入る。俺から離すことなんて、ないというのに。
「おやすみなさい」
「⋯⋯おやすみ」
そうは言っても、また眠れそうもない。
別にまぁ、それでもいいかと。互いに見つめ合いながら、そう思うことにした。
お読み頂きありがとうございました。
膝枕パラダイスからの八雪回でございました。
早いもので次で最終話です。
次話は少しだけ長くなりますが、最後までお付き合いをよろしくお願いします!