浅くて遠い、まどろみの中。
朝特有の鋭い陽射しが、カーテン越しにまぶたを灼いている。
「あなた、起きて」
僅かばかりの硬質さを含ませた声にゆっくりと目を開くと、その声の主を視界に捉える。
寝室全体に広がる柔らかな光が彼女の長い髪を透かして、まるで天女の羽衣のようだ。
「⋯⋯おはよ」
ああ、何かこれ既視感があるな⋯⋯。次の台詞はなんだっけ。確か、随分と寝坊助だとかなんとか⋯⋯。
「⋯⋯話があるの」
思い詰めたような表情を浮かべる我が妻。想像していたのと違う台詞に、違和感を覚える。
「ねえ、ちゃんと起きている?」
もちろん、ちゃんと頭は覚醒している。
雪乃は俺の妻で、結衣といろはと小町という三人娘がいる。そして今日は三連休の最終日だ。
「起きてる。愛してる」
「⋯⋯⋯⋯」
雪乃はパチクリをその大きな目を瞬くと、スッと目を細めて俺の頬を両手でつねった。
「いはいいはいいはい⋯⋯」
「目を覚ましなさい」
⋯⋯いや、これでちゃんと起きた。というか思い出しましたよ、ええ。寝ぼけてとんでもない事を言い出したのはまあ、置いておくとして。
それにしても雪ノ下さん、こっちからの不意打ちだとちょっと顔赤くするんですね。
「話って、なんだ?」
「ええ⋯⋯」
自分から切り出した割りに歯切れ悪く答えると、雪ノ下はポーチからスティック状の何かを取り出す。
躊躇いがちに差し出されたそれを受け取る。見るのは初めてだけど、それが何かは知っている。
「これ⋯⋯」
「⋯⋯えぇ」
ドラマでも漫画でも、大活躍のマクガフィン。
俺の受け取ったそれは、その小さな窓には何も浮かんでいない妊娠検査薬だ。これって線か何かが浮かんでくるんじゃなかったっけ? いや、浮かんでいたら怖いんだけど⋯⋯。
「妊娠、したみたいなの⋯⋯」
掠れてしまいそうな、いつもよりも低い声。こちらの答えをおっかなびっくりと待つように、上目遣いで雪ノ下は俺の表情を窺っている。
妊娠検査薬の結果は当然出ていないし、身に覚えもなければ周知の通りこれは演技。こちとら全く実感を得られないというのに、雪ノ下の演技力たるや賞賛に値するレベルだ。
「そ、そうか⋯⋯」
雪ノ下の演技に対して、俺の答えはなんと味気ない事か。しかしこれ程リアクションの困る展開もない。
夫婦ならば、それが望んだものであれば手放しで喜ぶのが普通だろう。しかし何故、雪ノ下がそんな表情をするのか。そんな声色なのかを考えなくてはならない。
「それだけ?」
「いや、⋯⋯嬉しいんだけど」
喜ぶだけではない何か。その理由を読み取らないと、この場の正解には辿り着けないだろう。
見た目が変わらないが故に忘れてしまいそうになるが、雪ノ下の役の設定年齢は四十三歳。高齢出産と言っていい年齢だ。流産や難産になり易い事は、この辺りの情報に疎い俺だって知っている話だ。
「ただ喜んでばっかりじゃいられないよな⋯⋯」
「そうね⋯⋯」
雪ノ下の頷く動作の中に、僅かな安心のようなものが見て取れる。正解⋯⋯か、それに近い回答にはなったらしい。
「あの子たちには、妊娠の事をちゃんと話そうと思うの」
その言葉に、俺は思わずじっと雪ノ下の瞳の奥を覗き込んだ。
雪ノ下だって、そのリスクについては承知のはずだ。高齢出産と言われる年齢になってから子を望んだ夫婦は、まず妊娠しても低いとは言えない流産の可能性に
「それは、どうなんだろうな⋯⋯。俺は賛成できない」
それはおそらくこの撮影を始めてから、初めて夫婦の意見が分かれた瞬間だった。
「もっとこう⋯⋯大丈夫って分かってからじゃ駄目か?」
何と伝えるのが一番正しいのか分からずに、随分と頼りない口調になってしまう。早いうちから子どもたちに伝えるという事は、もし流産になった場合、その悲しみも背負わせる事になる。それが正しい事だとは、俺にはどうしても思えなかった。
「あなたならそう言うと思っていたわ」
俺が言いたい事は分かっている、とでも言うように、雪ノ下は優しく微笑んで俺の答えを受け止める。しかし、受け入れはしなかった。
「これはきっと私のエゴなんだと思う。でもあの子たちは、あなたが思っているより大人よ」
その表情と声色に、意識を吸い込まれていくようだ。雪ノ下の揺れる瞳から、視線を外すことができない。
「嬉しさも悲しさも共有できるのが、家族だと思うから。私はちゃんと話したい」
その静かな気迫に、思わず演技である事を忘れてしまいそうになる。
そんな風に覚悟を見せられたら、こっちからはもう何も言えなくなるではないか。
「⋯⋯分かった。雪乃の意思を尊重する」
「ありがとう⋯⋯。あの子たちに話すタイミングは、私に任せてもらっていい?」
「ああ」
俺がそう言って頷くと、雪ノ下はほっとしたように胸を撫で下ろした。
ふと空気が緩んだその瞬間に、枕元に置いていた携帯が振動する。俺と雪ノ下は目を合わせると、それぞれの携帯を手に取った。
『予定通り、本日午後三時頃に撮影を終了します。終了の合図はこちらからこのグループラインで送ります』
その短い文章を読み終えると、再び俺と雪ノ下は顔を見合わせた。
いよいよ撮影最終日である、三日目が始まる。
* * *
撮影最終日の最大のイベントは、既に周知されている。由比ヶ浜の擬似彼氏の来訪だ。
午前中を何事もなく過ごした俺たちは、昼食を食べ終えてめいめいが好きなように麗かな午後を過ごしている。
由比ヶ浜は時折何も操作しないまま携帯の画面を見詰め、一色は携帯を弄るのも流石に飽きてきたのか小町が持ってきていたらしい雑誌を眺めている。隣からあれこれと雑誌の記事について口を出す小町に一色が頷きを返す姿は、まるで本当の姉妹のようだった。
──ピンポーン、と。
その緩やかな時間の間隙を縫うように、来客を告げるチャイムが鳴り響く。
真っ先に由比ヶ浜が立ち上がると、インターホンに向かって「ちょっと待って」と一方的に話して玄関に向かう。
「私たちも行きましょうか」
「ああ⋯⋯」
今日来ることを伝えられていたこちらとしては、出迎えるのが礼儀というものだろう。例え娘の彼氏でも。いや、彼氏だからこそだろうか。
由比ヶ浜に続いて俺たちも玄関に着くと、由比ヶ浜は半身で振り返る。準備はいいかと目で問われ、俺たちは頷く。由比ヶ浜はそれを認めると、ガチャリと扉を開けた。
「チョりーっす! 結衣の彼氏の戸部で」
「帰れ」
ノータイムで俺は扉を閉めた。
「あなた⋯⋯」
「ちょっとパパ、何してんの?」
右から雪ノ下に手の甲をつねられ、左から由比ヶ浜に二の腕を揺すられる。いやだって⋯⋯ねぇ?
「いやいやいや⋯⋯結衣ちゃん? 話聞いてたタイプと全然違うんだけど?」
「それは⋯⋯感性の違い?」
「そんなレベルで済ませられるのかよあれは⋯⋯」
まあ、葉山に頼んでいたわけじゃなかっただけマシか。あとは戸塚に協力をお願いするという選択肢もあったはずだが、そうなると俺が辛い。まあ、妥当な選択肢という所なのだろうが。
「とりあえず、ちゃんとお出迎えしましょう」
雪ノ下が仕切り直すと、再び由比ヶ浜が扉を開く。
「あ⋯⋯ちょ、酷くないっすか。おとーさん、いくら娘に彼氏ができ」
「お前にお義父さん呼ばわりされる筋合いはない」
再び俺は扉を閉めた。もう無理、しんどい。
「あなた⋯⋯」
「パパ⋯⋯」
右手の甲と、ついでに左の二の腕が痛い。
⋯⋯とーちゃんは辛いよ、本当に。
* * *
ようやく戸部をリビングに通すと、何とも微妙な空気が流れていた。
俺と雪ノ下はいつものように隣り合って座り、俺の目の前には戸部、その隣に由比ヶ浜が座っている。
「えー、改めて、は、初めまして? 結衣の彼氏の戸部です」
うん、こういう時は「結衣さんとお付き合いさせて頂いている」って言って欲しかったなぁ父親の心情的には。まあ、戸部にそれを求めるのは無理だろう。
俺はうむと鷹揚に頷くと、雪ノ下の淹れてくれた紅茶を一口飲んだ。まずは相手の出方を伺おうじゃないか。
「⋯⋯⋯⋯」
と思って待っているのだが、戸部は居心地悪そうに視線を俺と雪ノ下に送ってくるだけである。⋯⋯こいつ、台本忘れたのか? それとも状況設定だけであとはアドリブなのか⋯⋯どちらにせよ待っていても埒があかない。
「⋯⋯要件を伺おうか」
「あ⋯⋯。うん、ほら、戸部っち」
「え、あ、あー⋯⋯。その、結衣とお付き合い? してるんでー、まずはご両親に挨拶的な? っべーめっちゃ緊張してきたわー⋯⋯」
俺たちの視線がプレッシャーになってきたのか、戸部は心臓を押さえる真似をする。撮影も終盤だと言うのにグダグダ感を垂れ流してくるとは、流石の戸部クオリティである。
まあとりあえず、多少は演技に慣れてきた先達として、助け船を出してやろうではないか。
「ひとつ聞いてもいいか?」
「あ、はい」
俺が重々しい声でそう言うと、戸部はその雰囲気に背筋を伸ばした。っべーこれちゃんとしなきゃいけないやつだ、と顔に書いてある。っべー。
「君は結衣との将来の事とか、どう考えてるのかな」
お前の方はどうなんだとかツッコミが来そうなのは置いておくとして。
俺の質問に、戸部は「これ知ってるヤツだ!」とでも言うような顔で即答する。
「もち、結婚したいと思ってます!」
彼女の両親に向かって「もち」とか使うんじゃねぇよ⋯⋯。餅結婚とか新しい婚姻スタイルができたのかと思ったわ。
引き攣りそうになる口の端をどうにか落ち着かせながら、俺たちは問答を続ける。
「では将来どんな仕事に就くつもりなのかな? 大学での専攻はどうするつもりか、聞かせてくれないか?」
「え? あ、そ、そーっすね。将来は⋯⋯有名なサッカー選手になって、結衣に不自由はさせません! って感じで⋯⋯」
いや言い切った後に不安そうに言うなよ⋯⋯。こっちまで不安になるだろうが。
「ではどこかのユースに入っているのかな? どこの所属?」
「いえ、サッカーは部活だけっすけど⋯⋯」
「⋯⋯あなた」
「ちょっとパパ⋯⋯」
前からは由比ヶ浜に目を細められ、隣に座った雪ノ下からは太ももをつねられて思わず背中が仰け反る。いや、こっちとしては展開に詰まってしまったから助け舟出したつもりなんですが。どちらかと言えば溺れさせてましたかそうですか。
雪ノ下は「んんっ」と咳払いをすると、会話の主導権を俺から引き継ぐ。
「戸部くんは、結衣のどんなところに惹かれたのかしら?」
「へ? あ、そ、そーっすね⋯⋯」
雪ノ下は比較的答え易い質問をしたのかも知れないが、こと詳細な台本のないこの場では中々に難しい問いかけだ。こういう直裁な質問って、本当の恋人同士であっても一言で言い表せられない物があって、即答できるほうが珍しい。
「⋯⋯顔、ですかね」
戸部は少しの沈黙の後、妙にいい顔と声を作って言う。が、不正解もいいところである。これには俺だけじゃなく、由比ヶ浜まで苦笑いを浮かべていた。
こう言う時は性格面の事を言うんだよ。由比ヶ浜が可愛いのは誰がどっから見たって分かる事だろバカか。
「そう⋯⋯けれど女性の顔は、いえ、男性もそうだけれど、変わっていくものよ。あなたは年老いてしまってからも、結衣を好きでい続ける自信があるの?」
さっきまで俺を非難していたはずの雪ノ下の方が、よっぽど戸部に対して辛辣だった。戸部の方だって、こんなに詰問されると思っていなかったのだろう、雪ノ下の発言にたじたじの様子だ。
「え、いや、それは⋯⋯大丈夫っす。変わっていっても、その時の顔を好きになるんで!」
⋯⋯その台詞も最初に狼狽えなければまだ格好がついただろうに。話の中心である由比ヶ浜も、沈黙を守りながら再び苦笑するしかない。
「⋯⋯あの」
短い沈黙の後に、戸部は自ら話を切り出した。
「おとーさんはおかーさんの、どこを好きになったんですか?」
いや、待てよ。彼女の両親に向かってそんな事聞くヤツがいるか?
戸部の素なのか、それとも台本指示か。その言葉がスラスラ出て来た事を考えると、恐らく後者なのだろう。
「ど、どうしてそう言う話になるのかな?」
「いや、参考に? どんな所を好きになれば長続きするのか、気になるじゃないっすか」
自然に沈黙と視線が、俺に集まる。その質問は話の流れからすれば意趣返しと思われても仕方のない内容だか、こちらばかり質問責めにして問いかけに答えないと言うのも筋が通らない。
改めて、雪ノ下の事を考えてみる。最初その容姿に惹かれた事は、認める他ない。今まで何度も見惚れて固まっている事があったし、今でも時々ある。けれどそれは、きっかけに過ぎない。
俺が雪ノ下に惹かれた理由⋯⋯。考えれば考えるほど迷宮入りだ。多過ぎて何を言うのが一番正しいのか、判断がつかない。
「そうだな⋯⋯」
だから俺は、お互いが一番しっくりくる正解を彼女の反応から探る事にした。
「意外と奥ゆかしいところとか」
そんな風に思っていたの? とでも言うように、雪ノ下は意外そうに目を開いた。
「嘘をつかないところとか」
何を当たり前の事を、と小さく首を傾げる。
「口では色々言うけど、いじらしいところもあるとか」
は? とでも言うように、唇は象り。
「料理上手なところとか」
抜けるように白い頬が、段々紅潮してくる。
「たまに砕けた感じになるところとか」
雪ノ下の視線が、俺の横顔に刺さる。
「何でもできるようでいて、ポンコツなところとかかな⋯⋯」
この言い方だと流石に不機嫌になるか? と思って雪ノ下の方を見ると、顔を真っ赤にさせて口をパクパク動かしていた。なんだよ、結局正解はどれだったんだよ?
ふと流れ出した沈黙に由比ヶ浜の方を見ると何故か彼女まで少し頬を赤らめている。リビングではいつからこっちを見ていたのか、一色も小町もポカーンと口を開けていた。
「⋯⋯⋯⋯」
そして長い沈黙が訪れる。え、何これ。何か言ってくれないと辛いんですけど。このままだと俺、勝手に萌え語りしてる痛いオタク状態なんですが?
「⋯⋯あの」
最初に硬直が解けたのは戸部で、何やらいい事を言うみたいにキメ顔で口を開く。
「ラブラブっすね」
「黙れ」
本当にもう、戸部も俺も喋らない方がいい。
覚えておけよ⋯⋯相模、秦野⋯⋯。
* * *
戸部が帰ってしばし。
映像研究部が終了時間として指定した午後三時まで、あと少しの時間しかない。それが理由かどうかは定かではないが、何となくみんなダイニングテーブルに集まって雪ノ下が入れてくれた紅茶を飲んでいた。
「⋯⋯あなた達に、話があるの」
雪ノ下は紅茶を半分ぐらい飲んだところで、重々しくも口を開く。
あの話をするなら、このタイミングしかないだろう。その台本の中身を知らされているはずもない彼女たちは、僅かに身構える。
「⋯⋯なに、話って」
由比ヶ浜が続きを促すと、また少しの沈黙が訪れる。
続く言葉が遅れれば遅れるほど、まだ明らかにされていない内容が漏れ出ていくみたいだった。
やがて雪ノ下はテーブルの真ん中あたりを見ながら、ゆっくりと口を開く。
「⋯⋯ママね、妊娠したみたいなの」
雪ノ下がそれを言葉にした瞬間、驚愕と絶句が目の前を走り抜けて行った。
無理もない反応だ。いくらお芝居とは言えこうも巧妙な演技で言われると、そのインパクトは絶大。実際に声に出して届けられる情報は、脳が事実と思い込んでしまうのには十分過ぎる。
「そ、そうなんだ⋯⋯」
こううい時に真っ先に沈黙を埋めようとするのは、長女の結衣だった。その言葉に促されて、雪ノ下は話を続ける。
「もちろん産みたいと思っているのだけど⋯⋯。まずあなた達に話しておこうと思って」
そこで雪ノ下が言葉を切ると、また重苦しい沈黙が流れる。今度は由比ヶ浜も会話を転がそうとはしない。
「私の年齢と体力を考えると、危険な選択になるかも知れない。でも産まないなんて選択肢は取れないの」
「それは分かるんだけど⋯⋯」
小町はそういうと「うーん」と腕組みをして、考え込んだまま次の言葉は出てこない。
「⋯⋯やだ」
しばしの沈黙の後、余りにも
「危険って、それって死んじゃう可能性もあるかも知れない、って事でしょ?」
一色の声色も台詞も常になく厳しく、詰め寄ってくるような勢いがある。『死』というキーワードの持つ意味の強さに、俺たちは固く口を閉ざした。
一色の言葉で、俺はようやく思い至る。何せ雪ノ下は体力がないし、それに加えて高齢出産という条件。それが現実に起きれば、最悪そういうケースだってあり得るのだろう。
「それだけは、いや」
しかし後に続く言葉は風前の灯火が如く頼りなく、今にも消えそうだった。ともすれば泣き出しそうなほど一色は沈痛に染まっていて、初めてみる表情に思わず息をするのも忘れてしまう。
「なに、それ⋯⋯」
また忍び寄ってきた沈黙を振り払ったのは、小町だった。
小町は隣に座った一色を何の遠慮もなく睨みつけ、その顔は本気で怒っている時のそれだった。
「だから、堕ろせって事?」
「そんなこと、言いたいんじゃない」
責めるような鋭い言葉とともに向けられた強い視線と、強く抵抗する視線がぶつかり合う。気付けば嫌な音を立てながら、心臓は早鐘を打っている。
「ちょっと待ってよ⋯⋯」
余りにも低い声に、思わずその声の主を探してしまった。テーブルを見詰めたままの由比ヶ浜は、震える声を絞り出す。
「違うじゃん、そんなの」
仲のいいはずの三姉妹が、お互いの意見を否定し合う。
⋯⋯そうだ。こんなのは、まちがっている。
最後の最後に姉妹喧嘩なんて、していいはずがない。俺たちのフィナーレは、俺たちらしくあるべきだ。
「まずは、おめでとうじゃん。⋯⋯違う?」
由比ヶ浜の問いかけに、小町も一色もその激しさを一瞬で引っ込める。胸を押しつぶしてしまいそうな沈黙が、いつまでもさっきまでのやり取りを責めていた。
「うん⋯⋯そうだよね。ママ、おめでとう。小町もできる限りの事はするから」
「わたしも⋯⋯。ママを助けられることなら、なんでもする」
「ありがとう⋯⋯」
一色と小町に見詰められながら、雪ノ下はお腹の底から出したような、それでいて小さな声で彼女たちに応える。
「心配させてごめんなさい。でもきっと大丈夫よ。だってあなたたち三人を産んだのだから」
自信満々に言う雪ノ下は、誇らしげなほどの笑顔を浮かべている。
「絶対に、大丈夫だから。私はちゃんと、この子を産むわ」
言い切る雪ノ下に、演技だというのに胸が詰まる。
スンと鼻を啜る音がして、その出所を目で追うと一色が目に溢れ落ちそうなほど涙を溜めていた。一般的に女性は共感能力が高いというが、演技であるという事を差し置いても泣きそうになっているとは⋯⋯さては一色、実はいい奴だな?
「いろは。そんな顔をしないで」
雪ノ下はひたすらに優しい声でそう言うと、テーブルの上で一色の手を握る。その手の震えを止めるように、しっかりと。
「あなたは優しい子ね」
一色は雪ノ下の一言に目を瞬かせると、その真珠のような涙を零した。それを皮切りに、両隣の由比ヶ浜も小町も瞳に涙を溜め始める。
美しきかな、家族愛。
⋯⋯でもちょいと、皆さん役にのめり込み過ぎじゃないですかね。
嗚咽混じりの沈黙の最中で、何故か段々と俺に視線が集まってくる。お前は泣かないのかよ、とその目は言っていた。
「⋯⋯⋯⋯」
え、何この雰囲気。俺も一緒に泣かないと終われない空気になってない? いや、何か言うのを待っているのかしら⋯⋯。
「⋯⋯パパ」
由比ヶ浜に促されて、俺は小さく咳払いをする。
演技で涙を流すなんて高等テクニックは、残念ながら持ち合わせていない。それにこの場で父ちゃんまで泣き出したら、あまりにもわざとらしいお涙頂戴展開ではないか。
「⋯⋯ありがとうな。みんなでママの事、支えていこう」
だからそんな歯の浮くような台詞を言うのが、俺の精一杯。ふと緩んだ頬たちが、恐らくこの場に置いての正解だったと言ってくれているような気がした。
しばらくの沈黙の後、一斉に携帯が振動する音が聞こえる。俺たちはもう一度視線を巡り合わせると、それぞれの携帯を確認する。
『お疲れ様でした。これで撮影を終了します』
その短い文章の意味を理解した瞬間から、一気に緊張の糸は解ける。深く息を吐くと、一気に疲労感が押し寄せてきた。
「終わったー⋯⋯」
由比ヶ浜は目に溜まった涙を隠すみたいに、テーブルに突っ伏した。小町も一色も天井を仰いで、気の抜けた息を吐いている。
「はぁ〜⋯⋯終わってしまった⋯⋯。ところでいろは先輩。さっき泣いてたの素ですか?」
「は? そんなわけないでしょ」
終わった瞬間からわーわーと騒ぎ出す娘役達三人を、雪ノ下は終了前と変わらずに優しい目つきで眺めている。ふとそれを見ていた俺と目が合うと、思わずどきりとしてしまう。
「お疲れさま」
「おぉ⋯⋯お疲れ」
お互い何か言いたい事もあるはずなのに、撮影が終わったという開放感で全て飛んでいってしまった。
とにもかくにも、これで終わり。
新生奉仕部初の大仕事は、無事かどうかはさておき終幕を迎えた。
あっという間の三日間が終わった事にいくらかの寂寞を覚えた事は、誰にも言わずに墓場まで持っていこう。
* * *
クランクアップ インタビュー
三女役 比企谷小町さん
──撮影お疲れ様でした。
「お疲れ様でしたー!」
──撮影の感想を教えて下さい。
「いや楽しかったですよ? 基本ヒマでしたけど、イベント起きるとワーってなる感じがいいですね。あといろは先輩に堂々とタメ口で喋れるのが良かったです」
──撮影で苦労した点は?
「いえ、特にないんですよね⋯⋯。カーくんを雪乃さんに取られてしまったのが飼い主としてショックでした」
──最後に視聴者の皆さんに一言お願いします。
「何か好き放題やった気がしますけど、好き放題に楽しんで貰えたらいいんじゃないかと思います! ありがとうございました!」
* * *
クランクアップ インタビュー
次女役 一色いろはさん
──撮影お疲れ様でした。
「お疲れさまでした」
──撮影の感想を教えて下さい。
「はぁ⋯⋯まずあの設定なんなんですかね? みんな大体自分のキャラに合った設定なのに、わたしだけおかしくないですか? なんかめっちゃ尻軽女みたいだし。あとわたしメインの出来事少な過ぎません?」
──いえ、あの、感想は⋯⋯。
「めっちゃ大変でした。以上」
──さ、撮影で苦労した点は?
「いやだから大変でしたって。あ、お米ちゃんとのお風呂が一番大変でした。あいつ絶対に許さない」
──では最後に視聴者の皆さんに一言お願いします。
「んんっ⋯⋯最後までご覧頂きありがとうございました。わたしの本来のキャラとは全然、本当に全然違うんですけど、楽しんで貰えたら嬉しいです」
* * *
クランクアップ インタビュー
長女役 由比ヶ浜結衣さん
──撮影お疲れ様でした。
「お疲れさまでしたー」
──撮影の感想を教えて下さい。
「えっと⋯⋯あたし結構頑張ったと思う、かな⋯⋯。あたし一人っ子だから、姉妹がいたらこんな感じだったかなぁって、ちょっと楽しかったです」
──撮影で苦労した点は?
「撮影の前に調整するのが、結構大変だったかも。撮影中は、結構楽しんでたから、苦労したとかはないかな」
──この作品の見所はどこだと思いますか?
「うーん⋯⋯本気でぶつかり合って、でもちゃんと最後は仲良くできるところ、かな。そういうの、凄く家族っぽいと思います」
──最後に視聴者の皆さんに一言お願いします。
「え、っと⋯⋯最後まで観てくれてありがとうございました。ちょっと恥ずかしいけど、楽しんで貰えたなら嬉しいです」
* * *
クランクアップ インタビュー
母親役 雪ノ下雪乃さん
──撮影お疲れ様でした。
「お疲れ様でした」
──撮影の感想を教えて下さい。
「少し強引な展開が多い台本だったから、うまくリカバリーできたか、作品の仕上がりを見てみてみたい、という思いが強いです」
──撮影で苦労した点は?
「⋯⋯由比ヶ浜さんの手料理を食べた後は、胃がずっと重たかったわ⋯⋯」
──父親役の比企谷八幡さんとの夫婦のやりとりをしてみて、どうでしたか?
「どう、って⋯⋯。その、思っていたよりは様になっていたんじゃないかしら。演じてみての感想だから、ハッキリと言い切れないけれど」
──最後に視聴者の皆さんに一言お願いします。
「ご覧頂き誠にありがとうございました。拙い演技だったかも知れませんが、私たちなりの精一杯を楽しんで頂けたら幸いです」
* * *
クランクアップ インタビュー
父親役 比企谷八幡さん
──撮影お疲れ様でした。
「⋯⋯お疲れ様でした」
──撮影の感想を教えて下さい。
「いや、色々と無理があるなぁと。大丈夫かこれ? 色々破綻してない?」
──いえあの、感想を⋯⋯。
「ああ、すまん⋯⋯。父親ってなった事がないからよく分からなかったけど、台詞を考えている上で擬似的に体験できた、かな。そういう点は、新鮮だったと思う」
──撮影で苦労した点は?
「苦労しかしてないんだが⋯⋯。基本受け身のアドリブが多かったから、めちゃくちゃ頭は使ったな」
──母親役の雪ノ下雪乃さんと夫婦を演じてみて、どうでしたか?
「どうって、ざっくりしてるな⋯⋯。まあ、そんな変な感じにはなってないと思う。なってないといいなぁ⋯⋯」
──この経験が、将来に活かせそうですか?
「そりゃまあ、それなりに⋯⋯。っておい、それどういう意味で言ってるんだ?」
──最後に視聴者の皆さんに一言お願いします。
「えー⋯⋯。ご覧頂きありがとうございました。楽しんで貰えたら幸いです。はい」
* * *
「終わった⋯⋯」
全ての編集作業を終えると
映像研究部の部室はパソコンを始めとした編集機材の放熱で異常なまで暑さで、俺も秦野も額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「やっと終わったな⋯⋯」
「ああ⋯⋯。相模、なんかちょっと痩せたんじゃないか?」
「そりゃな⋯⋯。すげぇ疲れたし」
そう言いながら、俺は秦野と「お疲れ」と拳を突き合わせた。
撮影時間、約三日間。それをコンテストの尺に収める作業は、想像以上に過酷だった。
「なあこれ、どう思う?」
「どうって?」
「いや、これ観た人がどんな感想持つだろうなって」
秦野の問いに、俺は未だに流れ続けるプレビュー画面を見た。
モニターの中で比企谷先輩は、とんでもない美少女たちに変わるがわる膝枕をしてもらっている。
「まあ、みんなこう思うだろうな」
俺は秦野と目を合わせると、うむと頷いた。
そして口を合わせ、声を張り上げる。
「「リア充爆発しろ!!」」
Fin.
あとがき
最後までお読み頂きありがとうございました。
『八幡、パパになるってよ。』はお楽しみ頂けましたでしょうか?
書き手としてはワンシチュエーションドラマの脚本を書いているようで、中々新鮮な体験でした。あとR-15シーン書くのがメチャクチャ楽しかったです。いいぞ小町もっとやれ。
次回作はまだ決まっていませんが、相変わらず俺ガイルで書いていきますので、また何か投稿したら読んで貰えると嬉しいです。
それではまたいつか、お会いしましょう。