約束の三連休初日、土曜日。
撮影の舞台となるマンスリーマンションのリビングで、疑似家族プロジェクトのメンバー達は一堂に会していた。
「それでは改めて、このプロジェクトの説明をさせて頂きます」
緊張した面持ちで口火を切ったのは、主催であり奉仕部にとって依頼主である映像研究部の
「これから三日間、疑似家族としてここで共同生活を送って貰います。カメラはこのリビングと寝室がふた部屋、それに玄関、廊下です。当然ですが脱衣所やバスルーム、トイレにはカメラはありません」
来た時から気付いていたのだが、それが礼儀とばかりにみんな天井の隅に仕掛けられたビデオカメラを見上げた。これから撮影が終わるまでは、ずっとこのカメラに撮られながら生活する事になる。仕事だからと引き受けたが、その上に演技までするのだ。いざ実物のカメラを向けられると、大分と精神が削られる依頼になりそうな予感がした。
「設定については、配布した資料を参照して下さい」
言われて目線を落としたのは以前渡された企画書のアップデート版だ。企画概要の次に、詳細な人物設定が書かれている。
比企谷八幡 父親役 四十三歳 会社勤めで平日は仕事中心で帰りが遅い。家族の中で男一人だけなので娘達にウザがられがち。
⋯⋯おいやめろ必要以上にリアルな設定。むしろ父親役やってなくても若干ウザがられてますが何か?
雪ノ下雪乃 母親役 四十三歳 良妻賢母タイプで家族全員から慕われている。怒ると怖い。
由比ヶ浜結衣 長女役 十九歳 大学一年 大学デビューを目指すが生来の性格から周りのテンションについていけない。妹たちの面倒見はいいが逆に面倒を見られている時もある。
一色いろは 次女役 十七歳 高校二年 内弁慶で性格キツめ。彼氏がすぐできるけどすぐに別れる。
比企谷小町 三女役 十三歳 中学一年 末っ子気質で甘え上手。要領がよくて明るい。
おい、一色の設定絶対遊戯部の偏見だろ。読みながらメッチャ不機嫌になってんじゃねぇか。
しかしここまで読んで、大筋については納得する。年齢や微妙の設定の差はあれど、それぞれが演じやすいキャラ設定にしてくれているという感じだ。
「続いて次のページを見て下さい」
ページを繰ると、最後に一枚ほとんど何も書いていないページが出てくる。キャラ設定の詳細にしては、余りにも味気ない文章だ。
「そのページは、その役を演じる人にのみ知らせる詳細設定です。その設定を念頭に、演じて貰えたらと思います」
そう言われて改めてみた俺にのみ開示された設定は何度読んでも漠然としていて要領を得ず、どう演技に活かしたらいいのか分からない。活かせそうなのなんて、それぞれの家族に対しての呼び方ぐらいだ。しかしそんな反応は俺だけのようで、みんなそれぞれの深さで頷いている。
「隠し設定として、後から開示する分もあります。詳しくは個別に送る台本指示に従って下さい」
そう言って遊戯部の秦野が自分のスマホを振って見せる。これからの台本は、事前に伝えられていない。全て個別にラインが送られ、その場その場で演技する事になる。いざ本番が近付いてくると本当にアドリブで演技なんか出来るのかと不安になってくるが、別に演技力が求められているわけではないというのだけが救いだ。アドリブで完全に話を作り上げるのなんて、プロの領域だろう。
「説明は以上ですが、何か質問はありますか?」
笹目がそう言うと、誰からともなく顔を見合わせた。後のところは、正直やってみないと分からないと分からない部分が多い。
「もし分からない事があっても、メールかラインで聞けばいいんだろ?」
「ええ、それで大丈夫です。ただあくまで演技を優先して下さい」
「ああ、そこは大丈夫だ」
俺と笹目のやり取りに、それぞれが無言で頷いた。これで舞台も役者も、全て整った。
「ではこちらの準備ができたら一斉通知用のライングループで連絡します。始まるまでは、それぞれの呼び方で慣れておいてもらった方がいいかと」
確かに、と俺は頷きを返した。俺の詳細設定では雪ノ下の事を基本「ママ」と呼ぶが、二人きりの時は「雪乃」と呼ぶなど指定が細かい。それに後のメンバーは呼び捨てだ。いきなりそう呼べと言われて、すんなり言える自信はない。
「それでは、よろしくお願いします」
そう言って映像研究部と遊戯部の四人が出ていくと、小町がはいと手を挙げる。
「では早速、小町からいってみたいと思います!」
「すげぇやる気だな⋯⋯。よし小町、ゴー」
「結衣ねぇ!」
「え? あ、はい!」
急に呼ばれて驚いている由比ヶ浜は、しかしその呼び方自体は嬉しいらしくすぐに元気に返事をする。
「ママ!」
「⋯⋯ええ」
「⋯⋯⋯⋯パパ」
「待って小町ちゃん待って。何で急に嫌そうになったの理由教えて?」
地味に精神攻撃加えるのはやめて欲しい。けど俺をパパと呼ぶより、小町にとってハードル高い人が一人待ってますよ。
「あと⋯⋯いろねぇ」
「うっわ気色悪⋯⋯」
いろはす言い方ー。ゼロ点どころかマイナスまであるぞ。
「じゃあ、次あたしね。えっと⋯⋯小町」
「はい!」
「いろは」
「⋯⋯はい」
「ママ」
「ええ」
「⋯⋯パパ」
「おぅ⋯⋯」
だから何で君たち嫌そうなの? 俺がパパらしくないのなんて、自分で一番分かってるっつーの。
「じゃあ、次はいろは先輩の番ですよ」
「は? いや、別にいいでしょ練習しなくても」
「ダメですー。作品のクオリティ上げるためにも、練習しときましょう」
珍しく小町は一色に対して強気だ。部長として初めての大仕事にやる気いっぱい、というところか。一色は小町の常とは違う押しの強さに渋々それぞれを呼んでいく。
「⋯⋯パパ」
「おう」
「ママ」
「はい」
「お姉ちゃん」
「はーい!」
「バカ小町」
「なんですと!? バカは余計ですよ? 絶対そんな呼び方指定されてないですよねそれ?」
ふっ、と冷たい目で笑う一色も、それはそれで楽しそうだ。
さて、子どもたちの順番が終わったら、今度は俺たち夫婦役の番だ。
「ささ、今度は雪乃さんですよ」
「ええ⋯⋯。小町」
「はい!」
「いろは」
「はーい」
「⋯⋯結衣」
「⋯⋯うん」
うーん、由比ヶ浜さん、嬉しそうですねぇ。素直に普段から呼び捨てで呼んでいいんだよって言ってごらん? 絶対呼ばないから。こいつ。
「あなた」
不意にそう呼ばれて、ぞわりと未知の感覚が背中を走る。何というか、これはクるものがあるな⋯⋯。
「比企谷くん、返事をしなさい」
「あ、わり⋯⋯」
「次はあなたの番よ」
そう言われてバトンを渡されてしまったら、受け取るほかない。
「小町」
「いや、小町はいつも通りだから飛ばしていいでしょ⋯⋯」
「いろは」
「⋯⋯え、あ、はい」
「⋯⋯結衣」
俺がそう呼ぶと、さっき俺が雪ノ下に声をかけられたのと同じく、由比ヶ浜は固まっていた。演技とは言え、下の名前で呼ばれるのは慣れないものがあるだろう。あとそんなに顔を赤くさせなくてもいいと思うよ?
「いや、黙るなよ」
「あ、ごめん⋯⋯」
「じゃあ⋯⋯ママ」
「は、はい⋯⋯」
君も君でいちいち赤くならないこと! 恥ずかしがられるとこっちまで恥ずかしくなってくるでしょうが。
「これで一通り終わりですね」
小町がどこか満足そうにそう言うと、まだほのかに顔を赤くした雪ノ下がううんと頭を振った。
「呼び方はそうだけど、一人忘れているわよ」
「あ⋯⋯」
その言い方で小町は気付いたのか、部屋の隅に置いたままだったキャリーバッグを持ってくる。三日間を過ごす荷物を持ってくるだけでも大概重かったのに、それに加えてコイツだからここに来るだけで中々の重労働だった。
「はい! 我が家のアイドル、カマクラことカーくんです!」
小町が出入り口を開けてやると、おっかなびっくりカマクラはその姿を現した。ここはどこだとキョロキョロ見回して、いつもの我が家ではない事を認めるとキャリーバッグの中に引っ込んでしまう。
「あ⋯⋯」
と、メチャクチャ悲しそうな顔をする人が一人。あなた絶対、楽しみにしてましたもんね⋯⋯。
「あー⋯⋯猫って知らない場所が苦手なんですよね。慣れるまでちょっと時間かかるかも知れません」
「そう⋯⋯」
一瞬絶望の表情を浮かべた雪ノ下は、すぐに気を取り直して自分の荷物をガサゴソと開け出した。真っ先に出てきたのは、定番の猫じゃらし型や猫用のボールなどの定番の猫のおもちゃたちだ。猫ノ下の事だから、こういうグッズ持って猫カフェとか行ってるんだろうなぁ⋯⋯。
「こういうのでも、ダメかしら」
雪ノ下は猫グッズを持ってカマクラの近くに行くと、猫じゃらしをフリフリかざした。しかしカマクラは眼球の動きだけでそれを追うものの、いっかな出てくる気配はない。
「カマクラはあんまりそういうので遊ばないぞ」
「そうなんですよねー。カーくん、性格的にそんなに活発ではないので」
「そうなのね⋯⋯」
雪ノ下は残念そうにするが、まだ諦めるつもりはないらしい。再び鞄の中身を探ると、見覚えのあるパッケージを取り出した。
「ではこれでどう?」
「おい、そりゃ⋯⋯」
いきなり最終兵器じゃねぇか。どんな猫でも魅了し、我を忘れて飛びつく魔法のおやつ、ちゅ〜るである。美味しいよね、あれ。食ったことないけど。
雪ノ下は箱から一本取り出すと、またもフリフリとカマクラの手の届かないギリギリのところでそいつを振った。魔法のおやつには勝てないのか、そろそろとカマクラは出てくる。
ふと、そこまできて俺は少し昔の事を思い出す。由比ヶ浜は、確か猫が苦手だったはずだ。そう思って彼女の方を見ると、ほえーと気の抜けた表情で事の顛末を見守っていた。
「由比ヶ浜、大丈夫か? こいつとも三日間過ごす事になるけど」
「え? あ、うん。全然大丈夫。前も言ったけど、嫌いとかじゃないし。むしろ好きだから⋯⋯」
由比ヶ浜の説明に一色も小町もはてと首を傾げるが、その説明では俺にしか伝わらないだろう。昔団地でこっそり猫を飼っていたら、いつの間にかいなくなるのが悲しかったって、確かそう言っていたのだ。
「ふふっ⋯⋯」
ちなみに猫ノ下さんはこちらの会話などすでに耳に入っていないらしく、恍惚とした表情でカマクラにちゅ〜るを舐めさせていた。チョロ過ぎるだろ、カーくんよ。チョイチョイチョロカーって呼ぶぞ。
そんな弛緩した空気が流れる中で、全員の携帯から「ライーン!」なり「ライン⋯⋯」なり振動音なりが聞こえてくる。一斉通知用のライングループに、メッセージが届いたらしい。
「流石に撮影中に音がなりまくるのもあれだから、マナーモードにしとくか⋯⋯」
みんなコクコクと頷いてスマホを開くと、メッセージが一文届いている。
『五分後から開始します』
一瞬で読み終えると、ふぅと肩の力を抜いた。
いよいよ以ってして、奉仕部、映像研究部、遊戯部の合同企画の撮影が始まろうとしていた。
* * *
宣言された五分が経過し、カチンコが鳴る事もなく撮影はスタートした。
したのだが。
「⋯⋯」
「⋯⋯」
誰も何も喋らない。葬式だってもうちょっと喋るぞってレベルで喋らない。
しかしこれは当然と言えよう。誰かが何かが言い出した時点で、アドリブでストーリーを展開しなくてはならないのだ。設定だけほいと渡されて、いきなり物語を組み立てろというのは無茶振りにも程がある。
かく言う俺もライトブラウンのダイニングテーブルに肘をついて、今日付けの新聞を読んでいるのみである。父親らしい行動を検討した結果、難しい顔をして新聞を読むというステレオタイプな父親像を演じる、という結論に行き着いたのだ。
一色は相変わらずスマホを弄り、由比ヶ浜と小町は自分で持って来ていたのか雑誌をパラパラとめくっていた。俺の隣では早くもカマクラを手懐けた雪ノ下がこれ以上なく穏やかな表情で我が愛猫を撫で⋯⋯不意に近い所で振動音が聞こえる。雪ノ下のスマホが鳴ったのだ。
「そろそろご飯を作らないと」
雪ノ下はメッセージの中身を確認すると、名残惜しそうにカマクラを床へと放して立ち上がる。俺が横目でその姿を眺めていると、今度は俺のスマホがブルっと鳴った。
『雪ノ下先輩の側まで行って、今日のメニューは何か聞いて下さい』
メッセージの送信元は相模からだ。当然と言えばそうかも知れないが、シナリオ監修の遊戯部もどこかで俺たちをモニタリングしているらしい。確か音声だけは聞こえるようにしてあるとか言っていたか。
それじゃ仕事しますかね、と俺が立ち上がると、一瞬みんなの視線が集まる。⋯⋯やり難いな。
キッチンではエプロンを着けた雪ノ下が忙しなく料理の準備をしている。久々のエプロン姿は、おそらくバレンタインの料理イベントぶりだ。
しかし彼女が立っているのは学校やコミュニティセンターの調理台ではなく、ごく一般的なキッチン。長い髪をピンクのシュシュで結いたその出立ちは、若奥さんと言えば通じてしまいそうなぐらいキッチンに溶け込んでいる。
「なぁ、ママ」
「え⋯⋯。な、何?」
うーん折角頑張って声が裏返らないようにしたのに、雪ノ下さんってば違和感バリバリ! まあそこが出来上がるであろう作品の面白さの一つにもなるんだろうけど⋯⋯。
「今日の昼飯、なに?」
「⋯⋯今日は温かいお蕎麦と、稲荷寿司にしようと思うの」
その台詞を聞いて、今度は俺が固まってしまった。ザ・夫婦の会話。急にその実感が襲ってきて、はたまた遠い未来にはこんな光景が日常になったりなんだり想像すると恥ずかしいから止めろ脳みそ止まれ思考!
「⋯⋯そうか」
そして夫婦の会話、了。無理だ。気恥ずかしすぎて次の台詞が浮かんでこねぇ⋯⋯。むず痒くてむず死するわ。
すごすごーと元いた席に戻ると、一色がこちらを見て「へっ」と笑い、由比ヶ浜は口を半開きにして頬を染めている。君たちも同じくらい恥ずかしい思いをすればいいと思います。特に一色。
また新聞を広げて世の中の動きを憂いてますムーブをかましていると、ふと雪ノ下がリビングに向かって声をかける。
「小町、お手伝いお願いしていい?」
「へ⋯⋯。あ、はい。いや、うん!」
おお、練習の甲斐あって小町の事をスムーズに呼べたな。急に言われた小町の方が素になってしまっていたが、まあ小町ならすぐに慣れるだろう。
「何を手伝えばいいの?」
「稲荷寿司を作るから、そっちの準備をお願い」
小町は軽快に「はーい」と答えて、油揚げやらなにやらと準備を始めた。妙にルンルンなのはお手伝いを頼まれた子どもらしくないような気もするが、小町のテンションが上がってしまうのは仕方ないと言える。
設定上は親子だが、実際の見た目は仲睦まじい姉妹のやり取りのようだ。小町は小町で一色の事はさておき雪ノ下と由比ヶ浜の事が好きなのは俺もよく分かっている。一緒に料理する機会なんてそうそう無いから、そりゃウキウキルンルンになってしまうだろう。
「よきかな⋯⋯」
誰にも聞こえないぐらい小さな声で呟いて、俺は新聞の向こうから彼女達を眺めるのだった。
* * *
「あー、美味しかったぁ」
昼食が終わると、由比ヶ浜は幸せそうな表情で両手をお腹に当てる。
「いや本当に、なんでこんなに美味しいんだろ⋯⋯」
一色は蕎麦のつゆを一口飲むと、首を傾げている。二人の意見には俺も同意見だ。ただの乾麺の蕎麦に、市販の麺つゆ⋯⋯だよな? 雪ノ下さん、俺たちを虜にする為に変なモノ入れてないよね?
「ご馳走様でしたー」
「お粗末様でした」
小町の声に、雪ノ下は静々とそう返す。賞賛の声にも面映さのかけらすら見せないのは、もうみんなのママ役に慣れてきた証拠だろうか。
「あ、ママ。洗い物はあたしやるよ」
「そう⋯⋯? じゃあ、お願いね」
雪ノ下が立ち上がるのを見て、由比ヶ浜も立ち上がった。由比ヶ浜をキッチンに立たせるのは妙に不安があるが、片付けだけなら問題ないだろう。直前に携帯が鳴る音も聞こえなかったし、由比ヶ浜のアドリブだろうか。
雪ノ下と由比ヶ浜で食器をシンクまで運ぶと、雪ノ下もテーブルに戻ってくる。由比ヶ浜は鼻歌を歌いながら食器を洗い、残った四人は何をする訳でもなくダイニングテーブルを囲っていた。
「⋯⋯あ」
ふとその時、小町の方から携帯の振動音が聞こえてくる。これは早くも、次の指令が来たのだろうか。小町はスマホの画面を見て、ふむと頷くと、隣合って座っている俺と雪ノ下の方を見る。
「ねぇ、パパ、ママ」
俺たちが返事を返すよりも先に、小町は何の躊躇いもなく次の台詞を口にした。
「子どもってどうやって作るの?」
お読み下さりありがとうございました。
小町ちゃんがぶっこんで終了の第二話、いかがだったでしょうか?
名前呼び、尊いですよね……。
原作でも早く名前呼びしたらいいのにといつも思ってます。
それではまた、第三話をお楽しみに!