小町と一色が風呂に入ってから、暫しの後。
俺はソファに腰を沈み込ませて、ボヘーっとテレビを観ていた。箱の中の雛壇芸人が何を言っても、俺の頭には入ってこない。
小町のパジャマ姿はいいとして一色の寝巻き姿⋯⋯というかスパッツにティーシャツという姿を見てからというもの、思考がぐるぐる空回りしている。こんな場合は、あんな場合はなどと今更思い付く事があるから、この先の事を考えると胃が痛い。
「お先ー」
小町たちの次に風呂に入っていた由比ヶ浜が、そう言いながらリビングに戻ってくる。さくらんぼ柄のライトピンクのパジャマに身を包んだ由比ヶ浜に、俺は違和感を覚える。
「ママ、お風呂空いたよ」
「ええ、いただくわ」
ソファに座って雪ノ下は膝の上で愛でていたカマクラをカーペットの上に離すと、そのまま脱衣所の方へと歩いていく。カマクラは「んなぁ」と所在なげにひと鳴きすると、由比ヶ浜の方をチラッと見上げてから小町の膝に乗った。
由比ヶ浜のパジャマ姿を見るのが初めてだから、とかそう違和感ではない。もっと彼女を彼女をたらしめる決定的な何かが欠けているのだ。
「あ⋯⋯」
由比ヶ浜の横顔をじっと見ていて、ようやく気付く。いつものお団子がないのだ。風呂に入った後だから、当たり前と言えば当たり前だが。
「ん? なに?」
俺の視線に気付いた由比ヶ浜が、首を傾げて聞いてくる。
「いや、何でもない」
俺がそう返すと、ペタンとカーペットに座り込んだ由比ヶ浜も気にした様子はなく、テレビに視線を戻した。ガハマさん、髪を下ろすと結構長さあるんですねぇ⋯⋯。というか風呂上がりのいい香りがこちらまで届いて何とも落ち着かない。
するとその香りにつられたのかどうかは分からないが、カマクラはふと顔を上げると小町の膝から降りて由比ヶ浜の方に向けて歩いていく。テレビを観ている彼女はその様子に気付いた様子もなく、芸人のガヤに「あはは」と笑っている。しかしヒタ、と前足を太ももにのせられると、流石に由比ヶ浜もカマクラの存在に気がついた。
「あ⋯⋯」
由比ヶ浜はビクと肩を強張らせるが、それも一瞬。覚悟を決めたように揃えた脚の上にのせていた手をどけると、カマクラを迎えいれる準備を整える。
カマクラはフミフミと由比ヶ浜の脚の上の座り心地を確かめると、納得したのか由比ヶ浜の足の上にあがる。由比ヶ浜が猫嫌い⋯⋯いや猫苦手を克服した感動の瞬間である。
「⋯⋯さっきから見過ぎだし」
「え⋯⋯。いや⋯⋯」
由比ヶ浜に指摘されて、俺は少しばかり動揺する。そんなに見ていたのだろうか。
しかし、なんと答えたらいいものだろう。カマクラが由比ヶ浜に懐くのが珍しい、というのはストーリー上無理がある。ならば父親として娘を見ていた、というのはこの場合の正解であろう。
「お前もすっかり大人になったなと思ってな」
しかし由比ヶ浜にとってそれは想定外の答えであったらしく、カマクラが彼女に触れた時よりも明確にピキンと固まってしまう。え、何これ。なんか別の意味で捉えられてない?
違うぞ⋯⋯誤解だ。別に女性らしい身体つきになったとかあんなにペッタンコだったところが今では⋯⋯みたいな事を言っているわけではない。だから父親として、娘の勘違いは正さねばなるまい。
「綺麗になったな、結衣」
俺がそう言うと由比ヶ浜は表情筋を硬直させたまま、カァァっと頬が真っ赤になる。いや、おかしいでしょその反応は。なぜ父親に褒められてそんなに恥ずかしがるんだい? 言っているこっちも相当恥ずかしいけど、めっちゃ我慢してるよ?
事の顛末を横目で窺っていた一色が、うへぇと口を歪めて吐き捨てるように言う。
「うわ⋯⋯気持ち悪⋯⋯。なに娘口説いてんの?」
「いやなんでだよ。別に普通のことしか言ってないだろ?」
「⋯⋯⋯⋯」
同意を求めて由比ヶ浜を見るが、速攻で目を逸らされてしまう。そうですか、父親役の台詞でもアウトですか。一体何が正解だったのかが分かんねぇよ⋯⋯。
何とも居心地の悪くなってしまったリビングでひたすらにテレビを見続ける地蔵と化していると、ふとソファの座面が
「お風呂、お先にいただいたわ」
「おぉ⋯⋯」
タオルで濡れた長い髪を拭く雪ノ下の姿を見ながら俺はそう返すと、ついそのままその手の動きを追ってしまう。いやさっき見続けた事でドツボにハマったところなのだ。俺は無理矢理に視線をテレビに戻すと、再び地蔵モードに突入する。
「お風呂、入らないの?」
「へ⋯⋯。あ、そうだな⋯⋯うん、入る」
雪ノ下は風呂上がりの姿を見られることに何の戸惑いもないのか、事も無げに言ってくる。動揺しているのは俺だけか。
ソファにすっかり沈み込んでしまった腰を上げると、部屋の角に置いたままだった荷物から着替えを取り出す。うっかりこんな所に置いたままにしてしまったが、あまり舞台演出上いい場所ではない。みんなそれぞれの荷物は寝室に運んでいるようだったから、俺もそれに倣う事にする。
荷物を持って二つある寝室の扉の一つを開けると、いつの間に用意されたのか布団が三つ並んでいる。という事はこっちは子ども部屋だ。もう片方の扉を開けると、とりあえず扉の近くに荷物を置いた。
二つ並んだ布団は⋯⋯色々考えちゃうから見なかった事にするよ!
服を脱いでバスルームの扉を開けると、初めて脱衣所に入った時のような軽い衝撃が俺を突き抜けていた。
シャンプーやコンディショナー、ボディーソープが鏡の周りに収まり切らずに床のタイルの上にまで並んでいる。小分けのボトルや使い切りタイプも使っているようだがそれにしても種類が多い。そんでもっていつもの雪ノ下のサボンの香りが僅かに残っていて、これが一緒に暮らすという事かと今日何度目かの実感が湧いてくる。
雑念を洗い流すようにささっと身体と頭を洗うと、湯船の蓋を開ける。白濁したそれは誰かが入浴剤を入れた後らしい。
「⋯⋯」
そろりと湯船に浸かると、色々と考えてしまうのは必然。
小町曰く、俺の入った後の風呂には出汁が出ているという。それすなわち、この湯船には彼女たちの出汁が──。
「少しいい?」
コンコンと小さなノックの後に、扉の向こうから雪ノ下の声が届く。
「な、なんだ?」
「いえ、シャンプーとかボディソープとか、持っていったかしらと思って」
そういう事か、と息を吐く。しかし素っ裸の状態で不意に声をかけられるというのは本当に心臓に悪いな⋯⋯。
「小町のやつ使ったから、大丈夫だ」
「そう。着替えは⋯⋯大丈夫みたいね」
「おお。気を利かせてくれてありがとな」
しかしこの夫婦の会話というのは、やはり慣れないというかいつまで経ってもむず痒いものがある。カタンと脱衣所の扉が閉まる音を聞いて、俺は肩まですっぽりと湯の中に浸かる。
「はぁ⋯⋯」
今日、俺はちゃんと眠れるのだろうか──。
* * *
風呂から上がってリビングに戻ると、さっきまでの光景が続いている。
変わったのはテレビ番組とカマクラの座り位置ぐらいか。君、雪ノ下の膝の上好きですね。
「はぁ⋯⋯」
雪ノ下の隣に腰を下ろすと、思わず溜息のような息が出た。
なに、と首を傾げる雪ノ下に、何でもないと首を振る。実際自分でもよく分からないのだ。
俺がまた何をするでも無くテレビを見ていると、何故が由比ヶ浜が俺たちの方をチラチラと見てくる。手に握られているのは画面が点いたままのスマホ。なるほど、そう言う事ですね。
「あのさ、パパとママにちょっと話があるんだけど⋯⋯」
くるっと身体ごと俺たちの方を向いた由比ヶ浜が、改まった様子でそう告げる。ソファに座ったままと言うのは、若干緊張の色が見える由比ヶ浜の様子から察するに相応しくなさそうだ。
「向こうで聞こうか」
そう言って俺と雪ノ下は頷き合うと立ち上がり、続きになっているダイニングの方に移動する。食事の時にそうするように俺と雪ノ下は隣り合って座り、雪ノ下の目の前に由比ヶ浜が座った。
「えっと⋯⋯」
余程言い難い事なのか、そこで言葉は止まってしまう。
この感じ、嫌な予感しかしないな。俺の妖怪アンテナ(別名:アホ毛)が不穏な空気を感知しているぜ⋯⋯。
「ゆっくりで構わないから、言ってみて」
優しく語り掛ける雪ノ下に、由比ヶ浜はうんと頷く。そしてゆっくり、口を開いた。
「実は彼氏が出来たんだけど⋯⋯」
ほらー、当たったじゃんよこれ。
しかし遊戯部の台本恋愛関係多過ぎだろ。そりゃ設定年齢考えりゃ一番ネタになりそうと言うのは分かるんだが⋯⋯アドリブ考えなきゃいけない方の身にもなれと言う話だ。
でももう八幡パパはこの手の話題に慣れたからな。もはや動揺する事など何もない。
「そぶっ、⋯⋯そうなのか」
「落ち着きなさい」
あ、うん。やっぱ無理だ。由比ヶ浜に彼氏できたとか言葉の意味が強過ぎる。毎度まいど実際に言葉にするというのは例えフィクションでも強烈な現実味をもって襲ってくるのだ。これが言霊の力というものなのだろう。
「それで明後日の休みの時に、彼氏が挨拶に来たいって言ってるんだけど、いいかなって」
付き合い始めただけで両親に挨拶したいとは酔狂なやつめ⋯⋯。しかしこの隠し設定開示により、クローズドな環境で行われているこの撮影に外的な因子⋯⋯つまり役者の追加もありえるという事が分かった。
しかし誰なんだろうか、その追加キャストというのは。由比ヶ浜経由で頼んだとしたら、葉山とかだろうか。イケメンで成績優秀で家柄もよくて性格爽やかとか、反対しにくくて面倒だ。いや、何で交際反対が前提なんだ? 八幡よく分かんなくなってきちゃった⋯⋯。
「特に予定はないから、大丈夫だけれど⋯⋯」
雪ノ下がそう答えると、その続きを促すように俺を見た。そう、今の俺はこの家族の家長なのだ。最終的な判断は、俺が下さねばならない。
「あ、ああ、父さんたちも会ってみたいな⋯⋯」
正直本気で会いたくないどころか全て聞かなかった事にしたいぐらいなんだが。
俺が言うと、興味を引かれたのかトテトテと小町が近付いてきて、由比ヶ浜の隣に座りながら言う。
「えー、彼氏できたんだ。結衣ねぇの彼氏ってどんな人?」
「えっと⋯⋯」
うーん、と少しだけ考え込む由比ヶ浜。その人物像如何によっては、明後日に来るというのが誰か分かるかも知れない。
「⋯⋯あんまり友達は多くなくて、目つきが悪い⋯⋯でもすっごい責任感が強くて頼りになる、みたいな感じ?」
由比ヶ浜は頬を桜色に染めて、どこか夢見るような表情だ。ようやく想い人と一緒になれたかのような、まさに夢見心地。
「⋯⋯⋯⋯」
由比ヶ浜の説明に、俺たちは黙るしかない。その特徴、一色の元カレなのでは⋯⋯。
「そ、そうなんだね」
じゃあ後よろしくーと小町は即行でリビングに戻っていった。一色はテレビの方を向いたまま、肩を揺らして笑いを堪えている。
「そう⋯⋯。やっぱりあなたと似たような人を好きになるのね。血は争えないわ」
そして雪ノ下さん、なぜ僕を責めるような視線を向けてくるんでしょうか。俺は何もやってない。
「⋯⋯嬉しいけど、複雑だなぁ」
あくまで父親の意見、としてだ。実際俺に似た奴が来たら仲良くなれる気はしない。性格的に似ていても娘の彼氏というだけで拒否反応が出るに違いないからだ。我ながら面倒くさいな。
「パパ、変な事言わないでよ」
先ほどの小町に彼氏が出来たと報告された時の事を思い出しているのか、由比ヶ浜の顔には『信用ならぬ』と書いてある。
「それは相手の出方によるな」
それが俺の正直な答えだった。由比ヶ浜はため息を吐いて呆れ気味だが、できない約束はするべきじゃないだろう。
「それじゃ、伝えたからね。予定空けておいて」
俺と雪ノ下が頷くと、由比ヶ浜はリビングへと戻っていく。はぁと力を抜いて椅子の背もたれに身体を預けると、ポケットの中の携帯が久々に振動した。
『今日の台本指示は終了です。就寝時間は各自に任せます』
一斉通知用のライングループに届いたメッセージを、それぞれが確認して時計を見上げる。まだ午後九時をまわったところだから、寝るにはまだ早い。
それにしても、就寝。そう、ただ寝るだけだ。目を瞑れば朝がやってくる。それだけの事が今から、気がかりでならなかった。
お読み頂きありがとうございました。
ガハマさんの台本指示には、何が書いてあったんでしょうねぇ……。
それではまた次話でお会いしましょう。