八幡、パパになるってよ。   作:滝 

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雪乃さんが寝かせてくれない。

「ふぁ⋯⋯」

 

 小町のあくびに時計を見上げると、時計の時針はてっぺん近くまでまわっている。

 テレビを観たりして無為に過ごして来たが、もういい時間だ。今日は初日という事もあり、家の中に居ただけだが慣れない事ばかりで妙な疲れもある。

「そろそろ寝ましょうか」

 就寝時間は自由なのに誰も動かなかったのは、そんな一言を待っていたのかも知れない。雪ノ下の言葉にそれぞれが頷いたり返事をすると、テレビは消され久々の静けさがやってくる。

 俺は彼女たちが廊下に出たのを確認して、リビングダイニングの照明を消す。由比ヶ浜と一色、それにカマクラを抱えた小町が入っていくのは手前の寝室だ。

「それじゃ、おやすみー」

「おやすみ」

 口々におやすみと言いながら、何とも不思議な感覚に襲われる。泊まりがけのイベントなんて、修学旅行以来だ。おそらく彼女たちの部屋は、そのイベントさながらにまだ寝る事もなく語らいは続くのだろう。

 では俺たちは? その答えはこの部屋の中にある。

「先に寝ていてちょうだい」

 雪ノ下はそう言うと、俺の返事を待たずに脱衣所兼洗面所に入っていく。ははぁ、寝る前のスキンケアですか。あの肌の透明感の正体、ここに見たり。

 奥の方の寝室に入ると、中の様子を除いた先ほどの状態から何も変化はない。柄も色も違う布団がただ、二つ並んでいるだけだ。

「何をしているの?」

 うーんと腕組みして布団を見ていると、スキンケアを終えたらしい雪ノ下が部屋に入って来る。どっちで寝たらいいのかちょっと悩んでいた、などと正直に話すべきではない。これは演技なのだから。

「何でもない」

「そう。灯りを消すわね」

 俺はそう言って奥側の布団に入ると、雪ノ下は照明の吊り紐を引いて豆電だけにする。雪ノ下も布団に入ると、お互い示し合わせたみたいにため息じみた息を吐く。

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 さあ、後は目を瞑って眠りがやってくるのを待つだけだ。毎日、誰もがやっている簡単な事だ。睡眠を取らない動物はいないから、いわゆる猿でも出来るってレベル。

 そんな簡単な事なのだが。

 普段一人で寝る事に慣れすぎていると、隣に人がいるという状況は非常に気になる。その相手が雪ノ下なら尚のこと。布団とパジャマの衣摺れじみた音や、浅い呼吸に震わされた空気にすら気を取られて眠れやしない。

 こんな時は、羊を数えよう。羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹⋯⋯すげぇ飽きるな。羊が牧歌的過ぎて退屈過ぎる。

 よし、じゃあ戸塚にしよう。戸塚が一人、戸塚が二人、戸塚が三人⋯⋯これ、戸塚パラダイスなのでは? よし、もうちょっと増やしてみちゃうぞ! 戸塚が四人、戸塚が五人⋯⋯。

「あなた?」

 戸塚が百八人になって煩悩数的にカンストしたところで声をかけられる。もはや比企谷牧場にはとつかわいいが溢れかえっていてさながらとつティニィーランドの様相である。

「どうした?」

「⋯⋯起きていたのね。ニヤニヤしていたから、何か幸せな夢でも見ているのかと思って」

 バッチリ見られていましたか。これはだいぶ気持ちの悪いところを見られてしまったが、暗がりの所為で気持ち悪さも半減しただろう。そうだったと思いたい。

「まあ、なんか寝れなくてな⋯⋯」

「私もよ」

 内緒話をするみたいに雪ノ下はそう言って、幼な子に見せるような微笑みを湛える。

 月下美人、という言葉きっと彼女の為に作られたのだと思う。夜目遠目笠の内なんて言葉もあるが、普段でも美人なのに暗がりで見るとぞっとするほどの美しさだ。

「ねえ。眠れないついでに、少しお話をしましょう」

「ああ」

 まあ、とても今すぐに寝付くことなんて出来そうもない。俺は脇の下に枕を敷くようにして、肘をついて雪ノ下の方を見る。

「結衣の話、どう思った?」

 由比ヶ浜の話、というのは確認するまでもなく彼氏ができたという話だろう。それに関しては、正直上手く言葉に表せそうもない。父親としても、比企谷八幡としても、だ。

「⋯⋯正直、実感が湧かないな。その彼氏とやらに会ったら、一気に湧くのかもしれないけど」

 その答えが、今抱く感想に一番近いのだと思う。どこまで行ってもフィクションのはずなのに、実際に言の葉にのせられると妙にリアルに考えてしまっていけない。

「そういうものなんでしょうね。きっと」

 雪ノ下は枕に頭を乗せてまま、じっと俺の目を見て言う。

「あの子、それにしたって幸せそうな顔をしていたわ」

 今度は俺を責めるようなニュアンスも抜きに、心底安心したとその声色は言っていた。その慈愛に満ちた声も表情も、とても演技とは思えない自然さだ。

「あの子の顔を見て、あなたと付き合い始めた時の事を思い出した」

 付き合う、というキーワードに俺は肩口まで震えそうになるのを必死堪える。今の俺たちの関係性を言っている訳ではない事など、わざわざ言うまでもない。俺と雪ノ下は結婚しているという設定上、必然的にその関係性になる必要があるのだから、だから別に他意はないはずだ。

「私もきっと、あの子と同じような気持ちだったと思う。信じられない気持ちで、でも嘘でも夢でもない現実だって分かると、胸がでいっぱいになって」

 きっと彼女の思い浮かべた情景と俺の思い浮かべたものは、同じだったと思う。

 いつかの陸橋の上。眼下にはヘッドライトの白とテールランプの赤が流れ、未だ寒々しい風が何度も頬を撫でていた。

「とても嬉しかったの」

 その顔に浮かぶのは、それこそ夢見る少女のそれだった。まったく、急にこういう表情を見せるから本当に心臓に悪い。

「あなたはどうだった?」

 そう問われて俺は、記憶の中の情景を再生し続ける。彼女の答えを聞いて、俺は何を一番に思ったのだったか。

 嬉しい、という気持ちは確かにあったように思うが、あまりにも色んな感情が混ざり過ぎていてどれが一番強かったのか非常に難しいところだ。

 その逡巡があまりにも長かったせいで、雪ノ下の表情は段々と不安そうになってくる。

「俺は、なんだろうな⋯⋯。安心、っていうのが一番強かったかも知れない」

「安心?」

 雪ノ下は首を傾げる代わりに、枕の上で頭を僅かに転がして俺を仰ぎ見た。続く台詞に、俺はほんの少しだけの覚悟が必要だった。

「ああ。少なくとも俺は⋯⋯。その時には、雪乃の気持ちに気付いてたからな」

 その言葉に少しだけ開かれた雪ノ下の目は、いったい何を見ようとそうなったのだろう。もしも俺の頬が赤くなって来ているのを観察する為なら、今すぐやめて頂きたいところだ。

「そう⋯⋯。じゃあ私の気持ちに気付いた時は、どう思った?」

 再び問われて逡巡するが、その質問が一番難しい。何せなにかのタイミングで急に分かった事でもないし、そうかも知れないが確定に変わった瞬間が曖昧だ。

 しかし、複雑な背景や思いも全部ひっくるめて、こう言うのが俺の答えだ。

「嬉しかったに決まってるだろ」

「そう」

 対する雪ノ下の応えはあまりに短く素っ気ないようでいて、その声には確かな温かみがある。細められた目は、何も俺を非難する時だけにそうなるわけではない。

「あなた」

 なに、と視線だけで応える。

 雪ノ下はその可愛らしい唇の形を五回だけ変えて、直裁な言葉を紡いだ。

「愛してる」

 瞬間、ドクンと脈打つ心臓。心室を突き破るような衝撃が、血管にのって全身を駆け巡る。

 雪ノ下は今までのどんな言葉よりも強い言葉を発したというのに、超然とすら思えるほど照れも逃げもしない。逸らされる事のない視線は、いっそ男前にすら感じる。

 あくまで、演技。そんな隠れ蓑は、彼女を大女優に仕立て上げる。普段ならばとても言えないような台詞でも、平然と言ってのける事ができるのだ。

「あなたは言ってくれないの?」

 その大女優は奇跡の名演から、更に一歩こちら側に踏み込んでくる。まるでフィナーレはこれからだとでも言うように。

 しかし基本的に何にでも才能を発揮する雪ノ下さんとは違って、こちとら凡庸な演技力しか持ち合わせいない。むしろ平均点以下。ならば精々噛まないぐらいには、はっきりと言うしかあるまい。

「俺も、愛してる」

 間違いなく俺の顔は耳まで真っ赤に染まっているだろう。薄暗闇で分からない事を祈るばかりである。

 未だ舞台を下りない雪ノ下は、よく出来ましたとばかりに微笑みを俺に向けてくる。俺と同じように枕を下にして肘をつくと、向かい合わせになる。

「ねえ、今夜はすぐに眠れそうにないから、高校時代の思い出話でもしない?」

「そうだな⋯⋯。確かに全然寝れそうにないわ」

 少しだけ砕けた口調の雪ノ下は、まるで何年も前を思い出しているみたいに楽しそうだ。そんな表情の彼女を、俺はもう少し見たくなってしまった。

 

「それじゃ、どこから話すか」

「もちろん、あなたと初めて会った時からよ」

 

 思い出しながらただ訥々と、時に流暢に。

 さして遠くない過去の出来事は、いつまでも夜半を彩り続ける。

 

 

       *       *       *

 

 

 翌朝。

 雪ノ下に起こされ軽い記憶喪失状態からしゃっきりと目覚めた俺は、急かされるままにダイニングへやってきていた。

 ダイニングテーブルに鎮座するのは目玉焼きと三角にカットされたトースト、それにスープと平凡なメニューだが、その見た目はホテルの朝食メニュー紹介の写真の如く完璧な見た目。きっとその見てくれだけではなく、味も同様なのだろう。

 

「パパ、遅い」

 

 俺が椅子に座ると、早速小町から非難の声があがる。

 

「パパおっそい」

 

 一色さん、君はもうトースト半分食べちゃってますね。文句言う筋合いなくないですか?

 

「パパおそーい」

 

 由比ヶ浜さんは⋯⋯何か文句言いながらも超いい笑顔で楽しそうですね? なんか癒されるなあ⋯⋯。

「はいはいごめんなさいね頂きます」

 遅れてきたくせになんだこいつという視線をスルーしながら手を合わせると、一口トーストを齧る。ふんわりとした生地の中にしっかりとバターが染みて、それだけで美味い。ただの市販の食パンのはずなのに、切れ目の入れ方が絶妙なのか、風味まで違って感じる。

 モグモグもしゃもしゃとそれぞれが食事を続けていると、ふと雪ノ下が子どもたちに向けて聞く。

「あなた達、今日の予定は?」

「特にないかなー」

 即答したのは小町だけで、由比ヶ浜と一色は一瞬考える間を取った後に答える。

「あたしもない」

「わたしも」

 うん、絶対もう何かありますね。朝から仕込み済みとか気が気じゃないなぁ⋯⋯。

「そう」

 そんな娘たちの様子に気になるところもあっただろうに、雪ノ下は素っ気ないぐらいに短く返した。何となく分かって来たが、雪ノ下の方にも何か台本指示があるように思える。表情や声色の微細な変化が、見てとれたのだ。

 やがて全員が朝食を食べ終わると、雪ノ下が皆に向けて言う。

「⋯⋯ちょっと体調が悪いみたい。横になって来てもいいかしら?」

「あ、⋯⋯うん。洗い物ならあたしやっとくから」

 雪ノ下がそう言うと、由比ヶ浜がすぐにそう答える。雪ノ下の顔色は決して悪くないし、本当に悪かったらさしもの俺も最近は気が付く。だからおそらくこれが、彼女への台本指示なのだろう。

 そして雪ノ下は椅子から立ち上がると、さらりと何でもない事のように、恐ろしい事を口にした。

「結衣。お昼もお願いしていい?」

 その瞬間、俺と小町に戦慄が走る。一色はふーんと興味なさげに会話を聞いているが、彼女は知らないだけなのだ。

 最近の由比ヶ浜のお菓子の出来からうっかり忘れてしまいそうになるが、そもそもの由比ヶ浜の料理スキルは壊滅的と言っていい。お菓子作りの方は最近本当に上手くなってきているが、料理については現時点未知数であり何の実績もない。何を作るにも大冒険して大遭難し、いつかのようにハンバーグがキラウェア火山に変貌と遂げる事も考えられる。

「うん、任せて!」

「ありがとう。お願いね」

 鼻息荒くやる気満々の由比ヶ浜の返事を聞くと、雪ノ下はリビングを出ていく。

 俺と小町がどうするよ? と顔を見合わせていると、んなぁと足元からカマクラの鳴き声が聞こえた。小町にカリカリが足りぬとねだっているらしい。

 

「カーくんはいいねぇ⋯⋯」

 

 ほんとそれ。カリカリ食ってりゃ腹は満たせるし、まあまあ美味いのだろう。いつも凄い勢いで食ってるし。

 洗い物をしながら「お料理お料理〜」と小さく歌う由比ヶ浜。その声を聞きながら、俺はどうしたら胃にダメージの少ない料理を作って貰えるのかを考えるのだった。

 

 

 





お読み頂きありがとうございました。
今回は八雪回でした。次回、八幡の胃袋の安否の行方は如何に?

また次話でお会いしましょう。
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