ラナーはいつものドレス姿ではなく、伸縮性のある太ももを大胆に出したスカートと、南方の【スーツ】に似た上着・ジャケットを羽織り、艶やかな金髪を綺麗に纏め結い伊達メガネをかけていた。
以前【避難訓練】で行った簡素な変装だが、この衣装はナザリックにおいて〝女教師〟を連想させるものらしい。
ナザリックにおける神々【至高の41人】の中で女教師の一面を持っていたという〝やまいこ様〟により創造された、アンデッドでありながら
(う~ん。本当は〝クライムに勉強を教える〟のではなく〝一緒に勉強〟をしたかったのだけれど……。これは露骨すぎて不適切だわ。この衣装の正しい使い道は……クライムが失態を犯した際にとっておきましょう。シャルティア様からまた玩具や衣装を借りられるかしら?)
ラナーは伊達メガネと髪を結っていたリボンを外し、改めて思索に耽る。以前聞いた
……ラナーがここまで逡巡しているのは、魔導王陛下から〝簡単でいいので、クライムにナザリックの言語を教えてやって欲しい〟と頼まれ、クライムもその提案に同意したためだ。つまり【クライムに勉強を教える事】が仕事となってしまい、ラナーからすればいずれ行おうと思っていた<初めて>を奪われた気分であまり愉快ではない。
そのため【仕事】として請け負いつつ〝少しでも楽しく教えられないか〟と考えていた。
クライムが最も手早く確実にナザリックの言語を身に着ける方法は至って簡単だ。自分が意図的にナザリックの言葉以外話さず、文字も王国語を書かないようにすればいい。そうすればあの可愛い子犬は自分の気持ちを汲み取るため死ぬ気で言語を習得するだろう。実際クライムはこの方法で、王国語をラナーに教わりながら無学な孤児とは思えぬ早さで習得した。
ただこの方法では、習得内容に齟齬や知識の偏りが発生してしまい、魔導王陛下の要求する〝簡単〟の水準を誤る可能性が生じる。
魔導国の国民と同程度なのか、それともナザリックのシモベと同程度なのか、ペットなのでその中間か……。陛下は愚者に要らぬ知恵をつける真似を良しとしない。
そもそもナザリックの言語はラナーの頭脳を以ってしても全てを把握しきれないほど複雑怪奇だ。全く同じ文字列でも前後の文章によって意味が180度変わるなど珍しくなく、言語学的規則……主語・動詞・形容詞・目的語等々の順番などあってないようなものだ。
暗号のためあえて難解で不合理に構成されたのではないかと疑うほど、公用言語の利便性からは逸脱している。だからこそ魔導王陛下は一番美しい言語と好んでいるのだろう。
(魔導王陛下の〝簡単〟の水準は、一定の言語学的規則の理解、ひらがなを用いた文字の読み書き、四則演算ができる程度……かしら。)
ラナーは生活の利便性を高められ、それでいて知識が暴走しない程度の言語的理解の範疇を定める。……あとは教え方だ。自分が子供の頃宮廷学者に習ったような、退屈で凡庸で不愉快極まりない講義を愛しのクライムに行う気など微塵もない。
(そうだ!シャルティア様の御部屋にあったあの衣装をお借りできないかしら?)
●
敬愛すべきラナー様から直々にナザリックの言語を教わる光栄を賜ったクライムは、特別に用意されたラナー様と対面できる程度の小さなガラスの円卓に座り勉学に励んでいた。
……何故か礼服にも似た上下黒色に金のボタンのついた詰襟の衣装を着せられ――ラナー様曰く〝勉学をするために必要な衣装〟であるらしい――ラナー様は、大きな襟のついた白い独特の衣装を纏っている。
ラナー様が艶やかな髪をかき上げると、大きく開いた胸元に佩用された赤いリボンが揺れ、慌てて下を見ればガラス越しに太ももをあらわにさせた、下着が見えそうなほど短いスカートが目に留まり、クライムは目のやり場に困ってしまう。
「ここまでが、ナザリック語の基本〝ひらがな〟と〝数字〟よ。解らない事はあるかしら?」
「いいえ!御座いません!」
「なら良かったわ。喉が渇いたでしょう?折角用意したから〝こーら〟を飲みましょう。」
ガラスの円卓には軽食や菓子、飲み物が置かれており、いつでもつまめるようになっているが、クライムは貴重な知識を学んでいる身で手を出す真似は出来ない。しかしラナー様とご一緒しないということも不敬と感じ、グラスから口の中が突き刺さるような刺激を持つ甘味を味わう。
「よくできたクライムにご褒美よ。あ~ん。」
「い、いただきます!」
ラナー様がそういって差し出したのは、芋を細切りにして油で揚げた軽食だった。とはいえクライムの知る芋の味と全く異なり大地の豊穣な風味と塩気を味わえる至極の一品。……ラナー様は自分が緊張で空回りをしないよう心配りをしてくださっていると思うと、その気持ちだけで胸がいっぱいになる。
「じゃあ次はクライムが自分の名前を書けるように勉強しましょう。」
「いえ!わたくしはその前に、ラナー様の御名前をこの手で書けるようになりたいです!」
その瞬間ラナー様の身体が少しビクっと震えた事にクライムは狼狽する。ラナー様の御考えを踏みにじる不敬を働いてしまったのではないかと怯えてしまうが……
「そう。とても嬉しいわ。でもわたしの名前はとても長いわよ?基礎・基本は教えたからここでテストしてみましょう。一度書いてみて。合格点に達しなかったらそうね……」
ラナー様は悪戯を考える子供のように無邪気な笑みを浮かべておられる。
「この円卓にある食事の代金をクライムに払ってもらおうかしら?」
クライムは刃を突き付けられたような緊張感に襲われる。これほどの美味・甘味など、一体どれほどの値がつくか解ったものではない。ナザリックではリ・エスティーゼ王国のように通貨制度ではなく――全ての施設が無料で使えるのでもらっても意味はない――必要なものが欲しい場合、クライムは労働による対価で支払うこととなる。
つまりあの魔導王がこの美味なる菓子につけた値段と同等の働きをしなければならない。下手をするとラナー様の御傍から長く離れないといけなくなる。クライムは取り返しのつかない選択をしてしまったと後悔するが、ラナー様のご指導の成果を信じるほかない。
「では……。ら、な、ー、て、い、え、え、る……」
クライムは筆を止め深呼吸をする。ラナー様がまだ笑っているということは、間違ってはいないはずだ。
「んん。……し、や、る、ど、ろ、ん、ら、い、る」
震える右手を左手で抑え、何度も深呼吸を行う。王族の名前を間違えるなど、リ・エスティーゼ王国の従者だった時分でも打ち首か晒し首は避けられない行為だ。
「う、あ、い、ぜ、る、ふ。……か、書き終えました!ラナー様!」
ラナー様は悲痛な面持ちで、クライムの書いた半分ミミズが這ったような文字を見つめている。心臓が止まってしまいそうなほどの緊迫感で失神してしまいそうだ。しかし、ラナー様は表情を一転させ笑顔となる。
「うん、合格。うふ、クライムったら汗だく。甘いものでも食べて一休みしましょう?」
「はい!畏まりました!」
クライムは命令されるまま、楕円形の菓子を手に取って、勢いよく食べすぎ喉に詰まらせ、そのまま〝こーら〟を口にして口腔内を刺すような刺激に咽こんで混乱してしまう。
……ラナーは何かの書籍で見た〝お勉強デート〟なるシチュエーションを楽しみながら、四苦八苦する子犬の様子を愉快気に眺めていた。