ライン際で審判が掲げた電光板に書かれた数字は15と5、この試合前半から最終ラインでの守備に攻撃時の組み立てと幅広いタスクでブルーロックを支えていた雷市が交代を告げられていた。間違いなくブルーロックの屋台骨だった選手の交代に少なくない動揺の声が聞こえてくる。腰に手を当てた雷市は「まだいける!! 」と叫びたい気持ちと、それを叫ぶこともできないふがいない自分の体力に悔しさをかみしめた。慣れない仕事、自分の後ろにはもう何もないという恐怖、常に受け続けたプレス。その蓄積が僅か50分程度で雷市の全てを削りきった。
はっきり言って想像以上の早さでこの時間が来ていた。後半になってからの代表組の変化は異常とも言える。顔の前で両手を強く握りしめた絵心の頭の中では、凄まじい早さでこの試合のシュミレーションを行なっていた。雷市を変えてしまうことにより出てくるリスクと、このまま雷市を使うことで王馬に可変システムを攻略されるリスクを考えたとき、確実に後者の方がリスキーだった。
前半戦、U20日本代表を圧倒したブルーロック側の戦術は雷市と烏が氷織をサポートすることで、その非凡なゲームメイク能力を生かすことがポイントだった。そのために両ウイングバックは高く、広い位置をとり、時に雷市はボールの出口としてポジションを外れることもあった。その空けたスペースを間違いなくつける中盤の糸師冴と、その僅かな隙から組織を破壊できる王馬のコンビの前に今のシステムは危険すぎた。
「後、頼むわ。点とって来いよ」
「言われなくても点はとってくるよ。精々悔しがってみてなよ」
「ほざけ、天才」
ピッチに向かって走りだした凪とは対照的に、サイドラインを超えてベンチに歩いて行く雷市の足取りは重かった。ラインを超えた瞬間に脚は震えだし、緊張の糸は完全に切れてしまっていた。もうあのひりつくような戦場には戻れないという実感とともに、タオルを頭にかぶせて戦況を見守った。
凪誠士郎は真っ直ぐに前線に走って行くと、誰よりも前のCFの位置に立った。U20日本代表ベンチで控え選手達が戦術ボードを引っ張り出してにらめっこを始める。ほかの選手達もポジションを変えていることは一目瞭然で、その変化はベンチよりも観客席から見ていた人間のほうが速く気づいた。京都ユースの指導者黒峰もいち早くその変化に気づいた。
(4-3-3、ずいぶんとベーシックな形だね。後ろはそのまま4バックに、中盤を烏のワンボランチと氷織と潔君がインサイドとはなかなか無理のある構成だ。それにさっきと比べるとずいぶんと幅がない。次の交代カードまで既に用意されているとみるべきかな)
彼の考察は的を得ており、この中盤では普通にやれば日本代表のプレッシャーに太刀打ちできないはずだった。反則じみたトラップのマジシャンがいなければ。知識のある者ほど、彼のファーストプレーに驚きの声を上げた。
苦し紛れに蹴り出されたかのように見えたボール、それを完璧なワンタッチで収めるだけでなく守備を剥がして魅せた。何が起こったのか理解できない観客を置き去りにしてブルーロックはいきなりのチャンスを迎えた。前を向いた凪、ワントラップで仁王を交わしてここまでは完全に計算通り。ただそこにはしっかりと愛空がカバーに来ていた。
「こいよ、そこから先がお前にはないだろ」
凪はトラップの瞬間は間違いなく世代屈指のアタッカーだが、そこから先は愛空からすれば並の選手でしかない。トラップさせた後で潰してしまえば良い。身動きが取れなくなった凪、だがその一瞬の時間を作ることがブルーロック側の狙い。潔と氷織が走りだしているし、内側に入ってきている両ウイングと凪からのパスを要求している。
そんな彼らの姿が凪の目には映っていなかった。いや映っていたのだが、そんなところに意識を持っていく余裕がない。
ハイレベルな試合であればあるほど、途中出場は難しい。だから強豪チームでは途中出場で結果を安定して出せる選手がスーパーサブとして重宝される。凪の選手キャリアで途中出場は初めて、愛空ほどの守備者も初めて、初めて尽くしの環境でいっぱいいっぱいの凪の視界と思考力。それでもブルーロックの経験が彼を救った。
「凪!!」
「見えてたよ、ストライカー」
どん底から這い上がった二人だから、反応できた。凪からのパスを一発で叩く。ワンタッチプレーでボールを戻す。
バックパスを受けるのはボランチの烏、凪へのロングパスから一連の流れで彼は完全にフリー、その視界は完全に開けていた。
「視界良好、完璧や潔。ほんで、決めてこいや氷織!!」
美しい軌道を描くロブパスが、烏の右足からディフェンスとキーパーの間に弧を作った。
オフサイドラインギリギリ、全速力でディフェンスラインを突破する姿。完璧なタイミングの抜け出しを決めた氷織、彼にシュートを打たせないようにとキーパーも走り出している。ボールが来る前に視界からゴールが消えていく緊張感、その中でも冷静に練習通りに氷織は左足を振り抜いた。
ボールはゴールキーパーの前で地面に叩きつけられると、高くバウンドしゴールキーパーの頭上を超えた。必死に体を伸ばしたキーパーの指先がかすめたが、未だ枠内。
単純なループシュートよりもずっと難しいそれは、ふかしてしまわない事からドイツのファンタジスタ、O'sの魔法使いと呼ばれた男に愛用されてきたテクニックだった。
緩やかなシュートがゴールラインを超える前に、必死に走っていた仁王がクリアした。ひたむきで我武者羅なプレーは愛空には無いもの、抜かれた瞬間からオフサイドを主張することもなく走り出した仁王だからこそのクリア。代表守備陣の意地のクリア、ダイアモンド世代の堅守速攻は愛空だけで造られたものではない。それを証明したクリアを拾ったのは糸師冴だった。
サッカーに限らず、ゴール制の競技には決めるべきタイミング、流れや潮目と呼ばれる物がある。特に野球やサッカー、一点に重みがある競技では一度手放した流れは勢いそのままに、寄せては返す波のように返ってくる。
ピッチ上で流れの変化を感じ取った選手が動き出す。完全に前掛かりになって居たブルーロック側で守備に残っているのは蟻生と伊右衛門の二人、CBとしての経験が薄い彼らでも分かる。今自分たちの目の前まで危険が迫っていることは肌で感じられた。
「さぁ、同点だ」
糸師冴の視線が冷たくピッチを見渡す。守備陣はよく粘った、彼らの仕事を見事に果たしたといえる。次は
「3秒や、3秒稼げ!!」
烏の檄に固まってしまっていた伊右衛門と蟻生は動き出した。彼らの目には一斉に動き出したU20日本代表の攻撃がまるで津波のように襲いかかって見えたが、3秒という具体的な指示に見るべきポイントを絞り込み、取捨選択を可能にさせた。サイドを駆け上がってくる狐里と超をプレスバックで戻ってきている千切と雪宮に任せ、ボールを戻させる、もしくはファールでも良い。とにかくここで止める、時間を稼ぐ。目の前の
ボールを運ぶ糸師冴に待ったをかけるように烏が手をかける。
「そない急ぐなや、天才ぃ」
「邪魔だ」
強引にでも、相手のバランスを崩させてでも止めようと力を込めるが、全く意にも介さないように進んでいく。糸師冴が左手で烏を押し返すと左足を一振り、役者の元にボールを届けた。無駄なプロセスなんていらない。ある意味糸師冴は王馬を誰よりも信じている。ヨーロッパの中でもトップクラスの才能だけが集まっている場所の中で、自分の才能と努力で地位を作り上げた糸師冴にとって自分の才能は絶対だ。そしてそんな自分が、自分の才能が見つけた才能を信じている。もしこの男がこの状況で輝けないのならば、自分も王馬もそれまでだったという事。
無責任な絶対の信頼を寄せられた王馬だが、本人はそんなことは一切気にしていない。むしろ今この瞬間を誰よりも楽しんでいた。本人の性格もあっただろうが、王馬は常に試合全体を考え続けていた。そしてその試合への姿勢がゲームメイク、パス、トラップ、ドリブル、シュート、それら全ての能力を世代トップへと導いた。そんな彼は始めて自分よりも優れた中盤に出会った。それは解放だった。曖昧さからの、迷いからの、10番からの、今彼は
戻ってくる中盤、整いつつある守備陣形。ここで戻すような時間は無い、何よりもそんなものは必要ない。王馬翔二度目の
蟻生十兵衛にとって初めての経験だった。一体どうやって抜かれたのか? 一体何が起こったのか? 次元なのか、格なのか、そう言った物がいくつか違う。果たして同じ舞台に立っているのか、あの男の目に自分は写っているのかとすら感じさせられた。尻餅をついて振り返った先で目に見えた王馬の姿を彼は忘れないだろう。
「美しい」
十兵衛が抜き去られるシーンを伊右衛門は後ろから見ていた。シザースからのエラシコ、いつかテレビだがYOUTUBEでみたような抜き方。一連の流れがスムーズすぎて、どうやって止めるのか、イメージは一瞬で崩れ去った。動けば間違いなくやられるだろう。勿論動かなければ話にならないだろう。更にスピードを上げてくる王馬の姿に思考能力が奪われていく。体を当ててでも止める。そのためにも足を出さないといけない。とっさに行なった守備にしては非常に上手く、まるで教科書通りの動きと言えた。教科書通りの守備から、教科書通りにフェイントに引っかかり、一瞬で置いて行かれた。
ルーレット、日本ではマルセイユルーレットという名称が広がっている。マラドーナやラウルドップ、ジダンが使用し、今なお多くのドリブラー達が使うこのテクニックは細かいタッチに、リズム感が必要とされる。上手いだけでも駄目、相手の呼吸に合わせて軸を作り回る。
完璧なタイミングで行なわれるルーレットはボールと選手をディフェンダーの視界から消し去る。
伊右衛門の視界から完全に消え去った王馬はゴール前、ペナルティエリアの外45度。日本人選手では乾貴士、ブラジル人選手ではコウチーニョ。世界最高の選手リオネルメッシもこの場所を得意とする。ただし元祖そのエリアの絶対的な支配者はその場所に自らの名前を刻み込んだ。イタリア代表、ユベントスのエース、ガラスのファンタジスタから10番を受け継いだ男の名がついたその場所はデルピエロ・ゾーン。そう呼ばれる。
弧を描きながらゴールファーサイドのサイドネットにボールが突き刺さった。
テクニックで勝負する選手達が最終的にたどり着くエリアに、王馬は今日たどり着いた。パワー・スピード・テクニックそれら全てを兼ね備えていても世界では通用しないことが往々にしてある。彼らは自分の才能のままにプレーする。それで世界の舞台までたどり着けてしまったから。王馬は今その殻を破った。彼はほかの多くの名選手と同じ領域に上り詰めた。
彼を指導した者、彼と同じピッチに立った者は鳥肌を浮かべその絶対の才能の目覚めを祝福した。U20日本代表の選手達に潰された王馬を見て、メラメラと燃える闘争心を隠さない選手もいた。ブルーロックの選手達だ。少し悔しげで、だが満足げな表情の絵心に何人かの選手が詰め寄った。
試合は同点、勢いは完全にU20日本代表側に傾いた。それでも試合はまだ終わっていない。あの青い牢獄で育まれた反骨心はこの状況でもくじけることを許さない。彼らの熱意が絵心のこれまでの人生の証明なのだ。ならば途中で放り出すことなどできるはずもない。切られた二枚のカード、一枚は目覚めた天才を押さえ込むために、彼の理解者と日本最強の守備者を真似できる万能の選手を。もう一枚は燦然と輝くピッチの主役達の影で決定的な活躍ができる選手を。
舞台はフィナーレへと移り変わる。