『ここから二コーナーのカーブに向かうところ、先頭から念のため整理しましょう。ツインターボはここにいます。当然、一番前にいます。だいたい六バ身から七バ身の差。向正面で引き離す構えか』
ツインターボを追いかける二人の逃げウマ娘。さらに三バ身離れた先行ウマ娘の一バ身後ろをライスシャワーは走っている。
今日もツインターボは大逃げしている。
ライスシャワーからは十バ身。
大きな差だ。
だけど、ツインターボには『逆噴射』がある。『逆噴射』を起こさない方が珍しい。
そう思っていたら、オールカマーでは逃げ切られてしまった。
だからと言って、追いかけるわけにはいかない。ツインターボの大逃げについていくことは自殺行為だ。アシがなくなって、『逆噴射』に巻きこまれるように、こっちまで失速してしまう恐れがある。
『逆噴射』が起こることを期待するか。
いや、『逆噴射』は期待しない。
ツインターボに勝つ、と言った。
『逆噴射』をしなくても、ツインターボに勝てるような走りをするんだ。
それが、ツインターボに勝つ、ということだ。
だけど、まだ早い。
まだ、アシを溜めるんだ。
ステージチャンプは一バ身後ろをついてきている。ライスシャワーについていく、と言った通りについてきているらしい。
どう動くか全く読めない。
気にしてもしょうがない。
気にせずに走るしかない。
マチカネタンホイザは一人抜いて、最後方から一つ上がる。
ペースが速い。
ツインターボに引っ張られるように、他のウマ娘のペースも速い。
アシがなくならないか心配だけど、あまり引き離されるわけにもいかない。
脚に力が入る。
待って待って、落ち着け、落ち着け。
大きく前に出そうになる脚を落ち着かせる。
いつも脚が前に行きたがってしまう。それでアシがなくなって末脚の鋭さが落ちてしまう。
まだ我慢して、アシを溜めなくちゃ。
『場内がまたどよめく! また場内がどよめく! だいたい八バ身から九バ身、リードを広げて三コーナーカーブ、残り八〇〇メートル! さあ、ツインターボ、ツインターボ先頭だ!』
ここだ。
ライスシャワーはそう思った。
他のウマ娘も動き始めている。じわじわとツインターボとの差を詰め始めている。
じわじわと、だ。
どうせツインターボは『逆噴射』を起こすと考えているのかもしれない。
でも、このままでは遅い。
『逆噴射』が起こらなければ、ツインターボは逃げ切る。
だから、ここからスパートをかけて、追いかける。
そうすれば、ツインターボに追いつける。
ゴールまでまだ八〇〇メートルある。先行した上でスパートをかけるには長い距離だ。
でも、ライスなら、きっとできる。
他のウマ娘には難しいかもしれない。
でも、ライスはステイヤーだ。
ライスなら、きっとできる。
ううん。
ライスなら、できる。
自分の脚を信じる。
信じて、脚に力をこめる。
地面を思いっきり蹴りつける。
そうか。
わかった。
これが、ライスらしさ、なんだ。
ライスだからできる、ライスらしい走りなんだ。
場内で歓声が上がった。
『ライスきた! ライスきた! ライスがあがっていく! ライスがあがっていく! ツインターボと! ライスシャワーと! この二人の争いか! さあ、マチカネはどこらへんで前に食いこんでいくのか! まだ後ろのバ群の真ん中あたりを進んでいる! 後ろから四人目!』
いつもと違う。
マチカネタンホイザはそう思った。
ライスシャワーの走りがいつもと違う。
一人だけでバ群を抜け出してあがっていくライスシャワーを見て、そう思った。
一人であがっていく。そう、誰かについていっているわけではない。一人で駆けて、あがっていく。
それを見て、マチカネタンホイザは閃くように気付いた。
トレーニングの帰り道で、勝ちたい、と言ったライスシャワーの目が以前と違うと思った。それがなぜなのか、なんとなく、わかった。
ライスシャワーはマチカネタンホイザを見ていた。でも、マチカネタンホイザだけを見ているのではなかったのだ。
みんなを見ていたんだ。
みんなをライバルとして、見ていたんだ。
ミホノブルボンとメジロマックイーンを追いかけていた時とは違う。
誰かではなく、みんなに勝とうとしているんだ。
それに気付いて、マチカネタンホイザは思わず笑みを浮かべてしまった。
そっか。
そうなんだ、ライスちゃん。
それじゃあ、私も負けられないよね。
みんなに勝つのは私なんだから!
ステージチャンプはずっとライスシャワーのすぐ後ろを走っていた。
でも、その距離が離れる。
早仕掛けだ。
ステージチャンプはライスシャワーについていこうとした。
でも、まだだ。
まだ早い。
ライスシャワーに勝つなら、まだアシを溜めて、ゴール前で差さないと。
あれ。
勝つ?
ついていくことではなく、勝つことを考えていた。
そんなふうに考えたことが不思議だった。
勝つ。
もう一度、そう考えてみた。
ライスに勝つ。
さらにもう一度。
でも、よくわからない。
自分の気持ちがよくわからない。
ライスシャワーとの距離がさらに広がっていく。
ライスシャワーは強く地面を蹴って、黒い髪を大きくなびかせて、前だけを見て駆けていく。
美しく、力に満ちた走り。
勝ちたい、という意志を強く感じた。とても、強く。
その小さな身体が離れて、小さくなっていく。
そのはずなのに、その背中は大きく見えた。
あの背中に追いつきたい。
そして、追い抜きたい。
ライスに勝ちたい。
その気持ちが、すっと自分の中に収まった気がした。
もっと。
もっと。
もっと。
前に。
もっと、前に。
ツインターボは脚を回す。
ただ、脚を回し続ける。
ひたすらに。ただ、ひたすらに。
前に。
誰よりも前に。
誰よりも先に。
ゴールにたどり着く。
でも。
脚が。
動きが鈍くなる。
アシがきれかけている。
まだだ。
まだ、前に行くんだ。
あきらめない。
まだ、あきらめない。
まだ、あきらめたくないのに。
『あー! ツインターボ失速! 一気に失速! ツインターボ一気に失速!』
誰かが後ろから迫ってくる。
そして、横に並ぶ。
ライスシャワーだ。
勝負だ。
ライスシャワーと勝負だ。
そうしたいのに。
脚が言うことをきかない。
言うことをきけ!
そうしかりつけても、言うことを聞いてくれない。
まだだ。
まだ、走れる。
ライスには負けない!
ライスシャワーの横顔を睨みつける。
でも。
でも、その目は。
その目は。
ああ。
もう、だめだ。
脚が。
動かない。
ライスシャワーが、前に出る。
ツインターボを抜き去っていく。
一度も、ツインターボに目を向けることなく。
負けた。
負けた。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
でも、ライスシャワーの目。
前だけを見ていた。
前だけを。
そう。
ゴールだけを。
ツインターボなんか見ていなかった。
でも。
その目には。
勝ちたい。
真っ直ぐな強い意志があった。
ツインターボの方を見ていなくても、いや、見ていないからこそ、それが、伝わってきた。
悔しいのに。
悔しいはずなのに。
勝て!
ターボを抜いたんだから、一着になれ!
そう思えた。
今回はターボの負けだ。
でも、次はターボが勝つ!
『おどり出たライスシャワー! おどり出たライスシャワー! 思い出して! 栄光への序曲だった去年を思い出して! さあ、復活なるか、ライスシャワー! ライスシャワー先頭にたった!』
ライスシャワーは第四コーナーでツインターボをかわし、直線に向く。
ここからだ。
ここから、みんなが追い上げてくる。
ゆるめるな。
脚をゆるめるな。
まだだ。
まだ、これからだ。
残り三〇〇メートルの直線。
誰よりも先にゴールするんだ!
『後ろからステージチャンプ! さあ、マチカネもやってくる! 一番外をついてマチカネもやってくる!』
行くよ、ライスちゃん。
マチカネタンホイザは脚に力をこめる。
ここまでよく我慢してくれたね。でも、もう我慢しなくていいからね。
全て、ここで解き放つ。
上体を下げる。
脚の回転を上げる。
地面を蹴る脚に力を入れる。
加速する。
ライスシャワーに向かって。
いや、ゴールに向かって。
スパートをかける。
ステージチャンプはタイミングを測っていた。
ライスシャワーまで二バ身。
いつ、差しにいくか。
今まで、深く考えたことがなかった。今まではなんとなく走っていた。こんなに勝つことを真剣に考えたことがなかった。
わからない。
どういうタイミングがいいのか、わからない。
たぶん、わからない。
考えてもわからない。
そんな気がした。
だから、今から行く。
残り二〇〇メートル。
全力で走る。
初めてだ。
全力で走りたいなんて。
脚に力を入れる。
待ってた。
脚がそう言ったような気がした。
『さあ、ライスシャワー先頭だ! ライスシャワー先頭だ! ステージチャンプ! マチカネもきた! 残り一〇〇を通過!』
ライスシャワーとステージチャンプが並びかけている。
その二人にマチカネタンホイザは迫っていく。
もう少し。
もう少しだ。
もう少しで二人を捉えられる。
でも。
末脚が少し鈍い。
前半のペースが速すぎたのかもしれない。
でも、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
今は、そうじゃない。
今は、前に行くことだけを考えるんだ。
前に。
前に。
前に!
私が勝つんだから!
脚が喜んでいる。
ステージチャンプはそう感じた。
ようやく全力を出してくれて嬉しい。
そう言ってくれている気がした。
気持ちに応えるように動いてくれている。
勝ちたい。
その気持ちに応えてくれている。
ライスシャワーに並びかけている。
もうちょっと。
もうちょっとで、並ぶ。
そして、抜かせる。
勝てる。
勝てる。
でも、ゴールが迫っている。
もっと。
もっと、速く。
速く。
速く!
ライスに勝つんだ!
誰かがライスシャワーに迫ってくる。
誰なのかはわからない。
でも。
関係ない。
誰かなんて関係ない。
誰でもいい。
走るだけだ。
走るだけだ。
走るだけだ!
ライスの先頭は誰にも渡さない!
『ライスシャワー! ライスシャワー! ライスシャワー! ステージチャンプ! マチカネ三番手! マチカネ三番手! ライスシャワーかステージチャンプかー! まったく並んでゴールイン! ライスシャワーかステージチャンプかまったく並んでゴール! マチカネはおそらく三番手!』
ゴールを駆け抜けて、ライスシャワーはゆっくりと減速する。
顔を下に向けたまま。
うつむいたまま、立ち止まる。
ゴールはステージチャンプとほぼ同時だった。
前しか見ていなかったから、どちらが先着したかはまるでわからない。
怖い。
着順が表示される掲示板を見るのが怖い。
負けたかもしれない。
結果を知りたくない。
知ることが怖い。
顔を上げられない。
声が聞こえてきた。
「ライスシャワー! いい走りだったぞー!」
「ライスー! よくがんばったー!」
「感動したぞー! ライスシャワー!」
え。
ライスをほめてくれてる……?
顔を上げる。
観客席を見る。
ライスシャワーを見ている。
たくさんの人がライスシャワーを見てくれている。
笑顔で。
たくさんの笑顔が、ライスシャワーを見ている。
もしかして。
掲示板を見る。
写真判定の表示があった。
勝ったわけではなかった。
「なんで……? まだ勝ったかもわからないのに……」
「それはねー、ライスちゃんの走りがよかったからだよー」
マチカネタンホイザが声をかけてきた。
「勝ててないのに……?」
「そうだよー。ほら、あれ見て」
マチカネタンホイザが指差す先を見ると、力尽きたツインターボがターフの上で倒れていた。
笑顔の観客が声をかけている。
「おーい、ターボ! また負けたのかよー!」
「ちゃんと最後まで走ってくれよー!」
「勝つところを見せてくれよー!」
文句のような言葉ばかりなのに、そこには非難の色がない。
倒れたままのツインターボが声を上げる。
「うるさい! うるさーい! 次はターボが勝ぁつ!」
どっと歓声が上がった。
「おー! 勝ってくれよー!」
「ターボエンジンの全開を見せてくれよー!」
ツインターボは負けたのに、負けたはずなのに、それでも、応援されている。
「ターボはね、いっつも全力なんだよ。いっつも一生懸命走ってるんだよ。だから、観客もターボを応援してくれるの」
マチカネタンホイザの声は優しい。
「同じだよ。ライスちゃんも一生懸命走った。だから、観客もライスちゃんを応援してくれるんだよ」
勝たないとだめだと思っていた。
勝たないと誰も認めてくれないと思っていた。
違ったんだ。
そうじゃなかったんだ。
「ライス〜」
ステージチャンプが近づいてきた。
「私、ちゃんとライバルになれた〜?」
笑顔でそんなことをきいてくる。
ライスシャワーと並ぶほどの走りを見せたというのに、もうフワフワした雰囲気に戻っている。
「うん。ありがとう、ステンちゃん。全力で走ってくれて」
「それって感謝されることなの〜?」
「うん。ステンちゃんががんばってくれたから、ライスももっとがんばれたんだよ」
「そうなんだ〜。よかった〜」
ステージチャンプは、にへらと笑った。
「あ」
マチカネタンホイザが声を上げた。それにつられるようにその視線の先を見る。
掲示板に着順が表示されていた。
一着ステージチャンプ。
二着ライスシャワー。
歓声が上がった。観客がステージチャンプの名前を叫んだ。ステージチャンプをほめたたえた。
「勝った? 私が勝ったの〜?」
「そうだよ。おめでとー」
マチカネタンホイザがパチパチと拍手した。
「やった。やった〜」
ステージチャンプは腕を上げて、ガッツポーズでピョンピョンと軽く飛び跳ねる。
その隣でライスシャワーはうつむく。
負けた。
負けたかもしれない。そう思っていた。覚悟もしていたはずだった。
でも、やっぱり、負けたことをはっきりと知ることはつらい。
そして、思う。
がっかりされたんじゃないか。
ライスシャワーを応援してくれていた人たちもがっかりしているんじゃないだろうか。
勝っても負けても関係ない、とマチカネタンホイザには言われた。
でも、やっぱりすぐにはそんなふうに思えない。
怖い。
観客の顔を見るのが。
観客の声を聞くのが。
怖い。
耳をふさいで、目をつぶってしゃがみこみたくなる。
ミホノブルボンに勝った菊花賞、メジロマックイーンに勝った天皇賞春の時の観客のがっかりした顔と声。それを思い出してしまう。あの時と状況は全然違う。でも、あのときの観客たちの様子を思い出してしまう。
怖い。
怖い。
「大丈夫だよ、ライスちゃん」
マチカネタンホイザが優しく声をかけてくれる。
「ほら、見て。大丈夫だから」
ライスシャワーはおそるおそる顔を上げる。
観客席を見る。
「ライスー! 次は勝てるぞー!」
「春天は期待してるぞー!」
「ブルボンとマックイーンの分まで走ってくれよー!」
冷たくない。
痛くない。
暖かい。
優しい。
たくさんの、そんな眼差し。
声援って、こんなに暖かいんだ。
目頭が熱くなる。
頬を熱いものが流れ落ちる。
「ライス〜。泣かないで〜」
ステージチャンプが眉を八の字にして、ライスシャワーを見てきた。
「私が勝っちゃったから、悲しいの〜?」
心配そうな声。
「ううん……違うよ。これは、悲しいからじゃないよ」
ライスシャワーはぎこちない笑顔を作る。涙をこぼしながら、不細工な笑顔になる。
もう、悲しくはない。
もう、つらくはない。
もう、心は痛くない。
「ライス、天皇賞もがんばるから!」
観客席に向かって、声を限りに叫んだ。
歓声がわいた。
応援してくれる声。
この声を変えるんだ。
天皇賞春で優勝して、変えるんだ。
本当の歓喜と祝福の声に、変えるんだ。
天皇賞春の一週間前に、ライスシャワーは右足を骨折した。
天皇賞春の出走は回避することとなった。