ライスシャワーが転倒した。
トラックで走っていたライスシャワーが転倒した。
ミホノブルボンはそれにすぐ対応することができなかった。
身動きがとれなかった。
目の前で起こったことが信じられなかった。
ライスシャワー転倒した。
転倒して、立ち上がらない。
故障だ。
おそらく、故障が起きた。
そうとしか考えられない。
でも、その事実をすぐに受け入れることができなかった。
ライスシャワーが故障してしまうだなんて、そんな現実を認めることができなかった。
天皇賞は来週だというのに。
いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
ライスシャワーの心配をしなければならない。
でも、ミホノブルボンは動けなかった。
すぐに駆け出すことができなかった。
本当にライスシャワーが故障している、という事実を知ることが怖かった。
脚が動かない。
悪い魔女に呪いをかけられて木の棒になってしまったみたいに、脚が動かない。
でも、なんとかしないといけない。
ここには二人しかいない。
去年も使った廃校のグラウンドには、ミホノブルボンとライスシャワーの二人しかいない。
他には誰もいない。
自分しか、ライスシャワーを助けられる者はいない。
怖がっている場合じゃない。
今、本当に苦しんでいるのはライスシャワーだ。
故障したというのならば、その痛みに苦しめられているのはライスシャワーだ。
しっかりしろ。
助けろ。
ライスシャワーを助けろ。
ミホノブルボンは拳を太腿に振り下ろす。
脚に活を入れる。
脚を奮い立たせる。
悪い魔女の呪いを振り切るように、脚を前に出す。
一歩目を踏み出す。
ライスシャワーを助けるために駆け出す。
ミホノブルボンはライスシャワーの病室をたずねる。
「ライス……」
小さな声で名前を呼ぶ。
「ブルボンさん……」
ライスシャワーの声も弱々しい。
ベッドのそばに置いてある丸イスに座る。
ライスシャワーの右脚にはギプスがついている。転倒の原因は骨折だった。
なんて声をかけるべきかわからない。
「ブルボンさんは、もう聞いた……?」
何を聞いたかははっきりとは言わなかった。でも、それが何なのかはわかった。今、話題にすべきことは一つしかない。
「はい。聞きました」
「ごめんね、ブルボンさん。ライス、もうブルボンさんのヒーローになれないみたい」
ライスシャワーは顔を背けた。ミホノブルボンではなく、窓の方に顔が向く。どんな表情をしているのか、見えなくなる。
「前のようには走れないかもしれないという話でしたが、もう走れないと決まったわけではないはずです」
「それはそうかもしれないけど……でも……」
「以前まで、奇蹟というものを私は信じていませんでした。でも、トーカイテイオーの奇蹟の復活を見て、考えが変わりました。奇蹟はあるはずです」
「奇蹟なんて……」
ライスシャワーの声は小さい。でも、はっきりと言う。
「奇蹟なんて、信じられないよ。ライスには起こらないよ。不幸なライスには、奇蹟なんて起こらないよ……」
顔を背けているライスシャワーの表情は見えない。でも、その声はとても悲しげな色を帯びている。
「だって、もうすぐだったんだよ? もうすぐ、みんなの声を歓喜と祝福の声に変えられるかもしれなかったのに、それなのに、どうして、こんな……」
「ライス……」
表情が見えなくても、ライスシャワーの気持ちが伝わってくる。痛いほどに。
ミホノブルボンも悔しかった。ライスシャワーに天皇賞春で勝ってほしかった。歓喜と祝福の声に包まれてほしかった。
「ライス、私がサポートしますから。これから先も、全力でサポートしますから。ライスのためなら私はなんだってします」
「…………」
ライスシャワーは返事をしない。
「それに、変わることはありませんから。今までも、これから先も、ライスは私のヒーローであることに変わりはありませんから」
笑顔を作ることはできなかった。でも、なるべく優しい声音になるようにして語りかけた。
ライスシャワーが小さな声で何かを言った。
小さすぎて聞き取れなかった。
「なんて言ったんですか、ライス……?」
ライスシャワーが叫んだ。
とても大きな声で。
「重いの!」
ミホノブルボンの肩が小さく跳ねる。
ライスシャワーは絞り出すような声で言う。
「今のライスには、ブルボンさんの気持ちが重いの……重すぎて、潰れてしまいそうなの……ごめんなさい、ブルボンさん。ごめんなさい……」
何も考えられなくなった。思考が、心が、完全にその機能を停止した。
「ごめんなさい……ブルボンさんのことが好き。一緒にいたいと思う……でも、今はムリなの……重くて、耐えられそうにないの……今は……しばらくは、ライスを一人にして……ごめんなさい、ブルボンさん……ごめんなさい……」
ライスシャワーにかけるべき言葉が浮かんでこない。何一つとして。
出来ることは、何もなかった。
ミホノブルボンが立ち去るまで、ライスシャワーが振り向くことはなかった。最後まで、どんな表情をしているのかを見せてくれることはなかった。