実際に二人は姉妹ではないのですが、「運命的な何か」を感じることでお互いを姉妹のように感じ、親近感を覚えている、という描写を追加しています。
それだけの描写なので、特に読み返す必要はないかと思います。
ウマ娘は永遠に走り続けられるわけではない。
人間より高い身体能力を持つウマ娘といえども、生物であることに変わりはない。生物の肉体とは衰えるようにデザインされている。
永遠にトゥインクルシリーズという最前線で走り続けることはできない。
二月。京都記念。一番人気。六着。
三月。日経賞。一番人気。六着。
年が明けてからのライスシャワーの戦績だった。
日経賞でゴール板前を駆け抜けると、ライスシャワーは膝に手をついて乱れた呼吸を整える。
六着だった。
去年は二着だったのに、六着。有力なウマ娘が少なくて一番人気に推されたのに、六着。
全然だめだった。
骨折の影響は確かにあるのだと思う。やっぱり、以前のようにはもう走れないのかもしれない。トレーニングを積んでも、以前ほどの走行能力にはまだまだ及ばない。
そして、最近は肉体の衰えを感じている。疲労の抜けが前よりも遅くなっている気がする。体の動きが、応答性のようなものが、前よりも鈍くなってしまっている気がする。トレーニングでの身体能力の伸びが前よりも悪くなっている気がする。
自分の肉体は全盛期を通り過ぎてしまったのではないか。そんな気がしている。
でも、それはがんばらない理由にはならない。
まだがんばれる。
完全に走れなくなってしまったわけじゃない。
がんばればいいだけだ。
もっともっとがんばればいいだけだ。
顔を上げる。
少し離れたところにいるステージチャンプと目が合った。
一年ぶりに一緒にレースで走って、ステージチャンプは二着だった。
ステージチャンプはいつも会うたびに抱きついてくる。今日もそうしてくるのかな、と思った。
でも、ステージチャンプは目をそらした。そして、そのまま地下バ道に向かって歩いていった。
あれ、変だな、と思った。
でも、もしかしてレースで走って疲れてるのかな、とそんなに気にしなかった。
「最近、ステージチャンプが顔を見せませんね」
ミホノブルボンが言った。
「うん。そうだね」
それはライスシャワーも気になっていた。
ステージチャンプがトレーニングに混ざりにこなくなった。
予定を組んで一緒にトレーニングを行っていたわけじゃない。トレーニングをしているとステージチャンプがふらりと現れて一緒にトレーニングをする、というのがいつもの流れだった。毎日、とまではいかないけど、ほぼそれに近いくらいだったのに、全く顔を見せなくなった。
「坂路が嫌になったのかな……?」
ミホノブルボンも一セット四本はさすがにやりすぎだと思ったのか、三本に抑えてくれてはいるけど、三本でもやはりきつい。
坂路ダッシュをしている時は、ステージチャンプは見ているだけということも時々ある。
「どうでしょう。坂路以外のトレーニングも行っていますし」
坂路のみでは負荷がかかりすぎるので、低負荷のプールトレーニングも合間に行っている。レースを模擬して練習用トラックを走るトレーニングだって行っている。それらはステージチャンプも喜んで一緒に行う。
「じゃあ、坂路が嫌になって、ってことでもないのかなぁ……。うーん、どうしたんだろうね?」
「もしかすると芹花がついにきっちりとしたトレーニングプランを立て始めたのかもしれませんね」
トレーニングプランをきっちり立てるトレーナーもいるけど、ステージチャンプのトレーナーの上厚真芹花はかなりアバウトらしい、というはステージチャンプを見ていればわかる。あんなに自由に気まぐれのようにトレーニングをしていたらプランも何もあったものではない。
もしかすると、ついに芹花のトレーナー魂に火がついたのかもしれない。
「うん、そうかもね。なんだか芹花さんっぽくないけど」
ミホノブルボンは笑い声は上げなかったけど、笑みを作る。
「そうですね。芹花らしくはないですね」
トレーナールームのデスクでPCを操作していた芹花は二回連続でくしゃみをした。
「うー、誰か噂でもしてるのかな?」
「いい噂かな~?」
ソファに横になってスマートフォンをいじっているステージチャンプが顔を向けてきた。
「どうかな。二回は悪い噂だって言うけど」
「残念~」
ステージチャンプはスマートフォンの操作を再開した。
最近、ステージチャンプはトレーナールームに入り浸っている。
「そういえば、最近ライスちゃんとトレーニングしてないの?」
自分のトレーニング方針は自主性を重んじている、と言えば聞こえはいいけど、かなり自由にやらせている。さすがにレース直前の追切ではしっかりと調整を行う。でも、ライスシャワーと一緒にトレーニングをするようになってからは自由にさせている。その方がやる気を出してくれるからだ。
しかし、最近はトレーナールームに入り浸っているので、自分がトレーニングをさせることが増えた。それはつまり、ライスシャワーとトレーニングをしていない、ということだ。
「うん~」
ステージチャンプはスマートフォンに視線を向けたままで生返事をした。
これは、何かあったのかな。
「なに? ライスちゃんとケンカでもしたのー?」
そんなことはないだろう、と思いつつも軽い口調で質問する。
「ケンカなんてしてないよ~」
予想通りの答えだった。たとえケンカしていたとしても、そうだとは言いづらくて嘘をついている可能性もある。でも、ステージチャンプは嘘をつくのは上手ではなく、その反応でわかりやすいので、おそらく本当にケンカしたわけではないのだろう。
とはいえ、何らかの心境の変化があったのは確かだろう。
どうしたものか。
おせっかいを焼くべきか否か。
それはステージチャンプの対人関係の問題であり、個人的な問題だとも言えるので、余計な口出しをせずに見守るべきなのかもしれない。まだ何にも情報がないこの段階では、なんとも判断しづらい。
でも、ライスシャワーの存在はステージチャンプのやる気にもつながっている。
話を聞くだけ聞いてみよう。
イスから立ち上がり、ソファに横たわるステージチャンプに近づく。
「? 芹花?」
返事をせずに、ステージチャンプに覆いかぶさるようにして、その脇腹をくすぐる。ステージチャンプは笑い声をあげて、身をよじった。
「な、なに~? あはははは」
「ライスちゃんと何かあったんでしょー? 芹花お姉さんに話してごらんー?」
くすぐり続ける。
「あっははは。わかった~。話すから~」
くすぐる手を止めると、ソファの片方に寄ったステージチャンプの隣に座る。
「話すとは言ったけど~、何かあったとかじゃないよ~」
「ライスちゃんに何か言われたとか、ステンが何かしちゃったとかではないの?」
「うん~」
具体的な何かがあったわけではないらしい。
「日経賞で一緒に走って~、それから~なんて言えばいいのかな~、なんかモヤモヤしちゃって~」
日経賞でステージチャンプは二着で、ライスシャワーは六着だった。レース結果か、あるいはレース内容で何か感じたものがあったみたいだ。
「それからライスを見ると~、なんかモヤモヤするようになっちゃって~、だから一緒に走るのやめたの~」
「モヤモヤねー。なんでそう思うのかはわからないの?」
「全然わからない~」
ふわふわしすぎて何もつかめない。
ステージチャンプはかなり鈍感だ。自分の気持ちに対しても鈍感で、その輪郭を把握することが上手くできないのだろう。
いろいろ質問して探ってみよう。
「ライスちゃんより着順よかったよね。それで何か思ったとか?」
「う~ん、たぶん、そうかも~?」
「ライスちゃんが自分より遅くてがっかりしちゃったとか?」
「う〜ん、がっかり~? なんか違う感じもするけどそんな感じかも~?」
なんとなくつかめてきた。
「自分より遅いライスちゃんとはもう走らなくていいやって思ったとか?」
「なんか違うかも~」
違うか。まあ、そんなふうに誰かを見下すような考え方をする子じゃない。
「え~とね~、走らなくていいやじゃなくて~、一緒に走らない方がいいのかな~って思ったの~」
「ライスちゃんのトレーニングを邪魔したらいけないかな、みたいな感じ?」
「あ~、そんな感じ~」
「なるほどね」
だいたいつかめた、と思う。
「ステンはライスちゃんにがんばってほしいと思ってるんだね」
「それ~!」
ステージチャンプが喜色を乗せて、珍しく一段くらい大きな声を上げた。
「なんかすっきりした~」
にへらと笑顔になった。
ものすごいマイペースだったのに他人を思いやる気持ちを抱くようになったのか、と心の成長のようなものを感じて感慨深い気持ちになった。
「ライスちゃんが上手く走れなくなってるのはステンのせいじゃないから心配しなくて大丈夫だよ」
ステージチャンプが一緒でもライスシャワーは自分のトレーニングメニューを崩したりしていないという事は確認している。ステージチャンプと一緒にトレーニングをするせいで悪影響があるということはないはずだ。
「骨折の影響だと思う」
それに、ライスシャワーももうデビューしてから長い。おそらくはそのあたりにも原因がありそうだ。
「そっか~。じゃあ一緒に走ってもいいのかな~?」
「うん。問題ないと思う」
「じゃあ、ライスと走ってくるね~」
さっきまではモヤモヤすると言っていたのに、今ではもう晴れやかな顔をしてステージチャンプは部屋から出ていった。
がんばってほしい、か。
他人を思いやるその気持ちは確かに善いものだと思う。
でも、大丈夫だろうか、とも思ってしまう。
ライスシャワーが出走する春の天皇賞にはステージチャンプも出る。
その気持ちがあだになってしまわないだろうか。
ステージチャンプは器用ではない。その気持ちにきちんと折り合いをつけて、勝ちにいけるのだろうか。
ライスシャワーの存在は去年の日経賞では良い影響になった。でも、今回はもしかすると悪い影響が出てしまうのではないか。
そんな危惧を抱いた。
ナリタブライアンが故障したらしい。
その噂はすぐに学園を駆け巡った。稲妻のように速く、轟音を立てるように。
「ライス、ナリタブライアンの噂は聞きましたか?」
チームルームにやってきたライスシャワーにミホノブルボンは開口一番で言った。
「うん。故障したらしいね……」
ライスシャワーは重い口調で返してきた。
「天皇賞は回避することになるでしょうね」
「そうだね……」
ライスシャワーの表情は暗い。
しかし、自分からしてみれば、これはチャンスだ。
ナリタブライアンが出てきたら話にならない。そう思っていた。
天皇賞は今月だと言うのに、ライスシャワーの走行能力は戻りきっていない。今の状態では十中八九、いや九分九厘負ける。精神力がどうのこうのという問題じゃない。現状ではそれ以上の力量差がある。私情を挟まずに冷静に分析するなら、そう言わざるを得ない。
チャンスだと思った。ライスシャワーに勝つ目が生まれた。
誰かの不幸をそんなふうに思うべきではないのかもしれない。
でも、勝ってほしいのだ。ただただ、ライスシャワーに勝ってほしい。それが自分の一番の願いなのだ。
ナリタブライアンには悪いが、これはライスシャワーにとってはチャンスなのだ。
でも、ライスシャワーはそういうふうには思えないだろう。他人の不幸を我がことのように憂える。そんな心優しい子なのだから。
だから、そういうふうに考えるのは自分だけでいいと思っている。そういうことを考えるのは自分の役割だ。
ライスシャワーには今のままでいてほしい。
「右股関節炎らしいですね。屈腱炎等に比べればそれほど重症ではないはずです。あまり心配することはありませんよ」
「そうだよね……」
「ナリタブライアンが出走しないからといって天皇賞がなくなるわけではありません。今はライス自身のことを考えましょう」
「……うん、そうだね」
「見せつけてあげましょう。ナリタブライアンも納得するような走りを」
「そうだよね。うん。がんばらないと、だね」
天皇賞・春。
四月。京都レース場。
芝三二〇〇。右回り。
曇り。重バ場。
十八人立て。
観客席で、二人の観客が話している。
「なーんか今年の春天は盛り上がりに欠けるなー。主役を張れるようなウマ娘がいねえもんなー。ナリタブライアンは直前で故障。去年勝ったビワハヤヒデもいない。トーカイテイオーもマックイーンも、引退してないってだけで復帰のメドもたってない。最近の強いウマ娘が誰もいないんじゃ物足りないよなー」
「いや、ライスがいるだろ?」
「ライスシャワーかー。パッとしないよな。マックイーンに勝った一昨年の春天から二年間も勝ちなしだろー? 大記録を阻止しといてこんなんならさ、ブルボンとマックイーンに勝たせとけばよかったんじゃねえのって思うよな。今日だってGⅠ勝ったことあるウマ娘はライスシャワー一人だけなのに、四番人気だぜ? もう全然ダメダメなんじゃねえの?」
「おい、そんなこと言うなよ!」
「どうしたんだよ、急に大声出して」
「今まで勝てなかったのは距離適正が合ってなかったからだ。今日のレースなら、三二〇〇メートルなら、ライスは勝てる。今日こそ勝ってくれると俺は信じてる」
「おまえ、もしかしてライスシャワーのファンだったのか?」
「ああ、今まで黙ってたけどそうなんだ。ライスが次に勝ったら言おうって思ってたんだけど、なかなか勝ってくれないから言い出せなかったんだ」
「そうか。ライスシャワーを批判するみたいなこと言って悪かった」
「いや、こっちこそ声を荒げてすまなかった。ライスにはヒールのイメージだってあるし、批判的な声があるのもしょうがないさ」
「今日は俺もライスシャワーを応援するよ」
「ああ、そうしてくれると助かる。ライスもきっと喜んでくれるはずだ」
ミホノブルボンはライスシャワーの控え室に入る。
ライスシャワーは勝負服に着替え終わっていて、イスに座っている。背筋をまっすぐに伸ばして、頭を軽く下に向けている。微動だにしない。ドアが開閉する音は聞こえているはずなのに、こちらに振り向きもしない。
声をかけづらい。そんな雰囲気がある。
おそらく、レースに対して集中しているのだろう。
今回は去年や一昨年の時のように精神力を鍛える特訓はしていない。今のライスシャワーに足りないものはメンタルよりもフィジカルだろうという理由から、普通にトレーニングをして、普通に追切をして調整した。
特訓はしていないのに、でも、深く集中しているように見える。いつもと顔つきが違う。もしかすると、二度の特訓を経ることで特訓を行わなくても精神を集中することができるようになっているのかもしれない。そう思ってしまうほどに、今のライスシャワーからは深い集中力を感じる。
ふいにライスシャワーが顔を動かした。こっちを見る。
「あ、ブルボンさん。いつの間に来てたの?」
さっきまでの気配が和らぎ、いつものライスシャワーになっていた。
「たった今です。準備は万端のようですね。心の準備の方も」
「うん。今日のレースは絶対に勝ちたいから」
GⅠでは最も長い三二〇〇メートルのレース。ステイヤーであるライスシャワーにとって最も適性が高いレース。ここが、ライスシャワーが最も輝くことができる正念場だ。
「二年前は私の気持ちに応えるために走ってくれましたね」
メジロマックイーンに勝った二年前の天皇賞春。強いウマ娘であることを証明してほしいという自分の気持ちに応えるためにライスシャワーは走ってくれた。
たった二年前なのに、はるか昔のように感じる。
「私はもう充分です。充分に、ライスからたくさんのものを受け取ってきました。だから、今日はライス自身のために走って下さい。ライスが歓喜と祝福を得るために走って下さい。それが、今の私の願いです」
「ブルボンさん」
ライスシャワーは感激したような声を上げると、笑顔になる。
「うん、ありがとうブルボンさん。ライス、がんばるね」
「二人でかけ声をしましょう。ライスがよくしているかけ声を」
「うん」
「行きますよ」
声を合わせる。
「「がんばるぞ、おー」」
二人同時に腕を突き上げた。
「レースに出たくない」
控え室で、ステージチャンプが小さな声で芹花に言ってきた。
危惧が現実になった。しかも、一番最悪なやつだ。
「どうしたらいいのかわからない」
ステージチャンプが心情を吐露する。
「私もレースに勝ちたい。ライスに勝ちたい。でも、ライスにがんばってほしい。ライスに勝ってほしい。わからない。頭がグルグルして、どうしたらいいのかわからない」
その声にはいつものふわふわした軽さがない。
危惧を抱いて、どう対処すればいいのか考えてはいたけど、正解はわからなかった。でも、トレーナーとしてステージチャンプをレースに出走させて、そして、勝たせなければならない。
このやり方でうまく行くかはわからない。うまくいかなくてステージチャンプは惨敗することになるかもしれない。それでも、こうすべきだと考えた。
「走りなさい」
熱くも冷たくもない声音で、だけど、きっぱりと言った。
「どうして? 走る意味なんてあるの? 私にはわからないよ」
「意味はあるよ。走ることがステンのためにも、ライスちゃんのためにもなるからだよ」
「わからない。そんなこと言われてもわからないよ」
「走ればわかるはずだよ。だから、走りなさい。ライスちゃんのために何ができるのか。それを考えて、走りなさい」
本当は答えをここで言ってもしまってもいい。でも、それでは足りない。答えを与えられて納得したステージチャンプはレースで走るだろう。しかし、それではそこそこの着順に入るだけではないかと思う。
これは賭けだ。
去年の日経賞の時はレース中に心境の変化を起こして、やる気を出して一着になった。今回もそれを期待したい。
レース中に自分で答えを見つけて、そして、勝ちに行ってほしい。
答えを見つけられなくて、惨敗することになるかもしれない。
これが正解かはわからない。とんでもない間違いかもしれない。
でも、これに賭けたい。
ライスシャワーはステイヤーだ。このレースが最も輝ける舞台だろう。でも、それはステージチャンプも一緒だ。能力的にも気性面においても、ステージチャンプはステイヤーだ。どうしようもなく、逃れようもなく、ステイヤーだ。
トレーナーとして、ライスシャワーではなくステージチャンプに勝ってほしい。この天皇賞春という大舞台で輝いてほしい。
「今まで私が間違ったことを言ったことある?」
「うーん、けっこうあると思うけど」
「えっ!」
芹花はわざとらしく驚いて見せる。
「だって、芹花、いい加減だもん」
「そうかな、あははは」
芹花は笑い声を上げる。
「でも、私を信じて。ね、お願い」
拝むように手を合わせる。
「はぁ~」
ステージチャンプは息を一つ吐いた。
「なんか、気が抜けちゃった〜」
いつものふわふわした感じが少し戻ってきた。
「うん、走ってみる。まだ、どうすればいいのか全然よくわからないけど、芹花を信じるね。芹花は私のトレーナーだから」
「ステン」
まさか、そんなふうに言ってくれるなんて。その言葉にとても嬉しくなってしまった。
「ステンー!」
イスに座っているステージチャンプに抱きつく。頭を抱きしめる形になる。
「な、なに〜? 苦しいよ〜」
「私はステンのトレーナーだからねー!」
「わかってるってば〜」
ステージチャンプは嫌そうな声を出しつつも身じろぎ一つしない。腕が解かれるまで、おとなしく抱かれ続けた。
パドックに出てきたライスシャワーが、肩に羽織っていたジャージをつかんで投げた。
メジロマックイーンは息を呑んだ。
ジャージの投げ方一つでも、色々なことがわかったりするものだ。気合があるかとか、イレ込んでいないかとか、意外と色々な情報を読み取ることができる。
ライスシャワーのジャージを投げる動作には気合を全く感じられなかった。横に払う腕の動きには力みがなく、勢いのないジャージはふわりと舞ってすぐに地面に落ちた。全く気合を感じられない動きだった。
でも。
気合ではない、別のものを感じた。
ジャージを投げる一連の動作は流れるような動きだった。無駄というものが排除された洗練された動きだった。その奥に秘められた何かを感じさせる動きだった。
二年前の天皇賞春。ライスシャワーからは猛獣のような気配を感じた。
漆黒の髪。漆黒のドレス。闇の中に潜む猛獣が獰猛な光を目に宿して、こちらを食い破ろうと狙っている。そんな、強烈で濃密な気配があった。
でも、今日は違う印象を受けた。
闇の中には何もいない。そこにはなんの気配もない。何もいない。
光もない。音もない。何もない。ただ、闇だけがそこにある。
それは、とてもクリアな闇だった。澄み切っていて、清涼で、余計なものがない。
一昨年のように恐怖を感じる闇ではない。その逆で、何もないことが自明であり、それによって不安を一切感じられない、そんな闇だった。
闇、というよりも、無、と言った方がふさわしいのかもしれない。
とても集中した状態を表す言葉に、無我の境地、というものがある。その言葉を連想した。
今のライスシャワーはとても深く集中した状態にあるのだろう。
それを感じて、メジロマックイーンは息を呑んだ。
もしかすると。
今のライスシャワーならば、ナリタブライアンとでも勝負ができるのではないか。
あの怪物とでも勝ちを争えるのではないだろうか。
二枠三番。
ライスシャワーはゲートの中で、残りのウマ娘がゲートに入るのを静かに待つ。
やれることはやった。
完璧な状態とはまるで言えない。
全盛期の能力は取り戻せていない。
自分の他にGⅠウマ娘はいない。しかし、実績はなくても能力のあるウマ娘たちだろう。
ステイヤーが輝ける長距離のレースは少ない。みんな全力で勝ちにくる。ここでこそ、輝くために。
自分と違って、今こそが全盛期だというウマ娘も多いだろう。
肉体的には自分よりも優れているウマ娘もいるだろう。
でも、優劣なんてものは気にしていてもしょうがない。
余計なことは考えない。
これからのレース展開も考えない。
作戦は、ない。
なるがままに。
その場その時の自分に任せる。
その場その時の自分の判断を信じる。
『十八人のゲートインが終わりました。いよいよスタートです』
右脚を前に出して、腰を軽く沈め、左手を持ち上げる。スタートの姿勢をとる。
音を立ててゲートが開いた。
ゲートから飛び出す。
『ご覧のように三二〇〇メートルから十八人が一斉に飛び出しました。内のウマ娘は外へ、そして外のウマ娘はずーっと内の方へ入ってまいります。京都レース場、芝コースは重』
良いスタートだった。でも、前には出て行かない。先行争いには加わらない。まずは様子を見る。
『ずーっと外を通りまして、ようやくクリスタルケイ、おおかたの予想通り十六番のクリスタルケイがゆっくりと飛び出しました。二バ身から三バ身のリード』
二番手から後のウマ娘は一団になっている。主役となるウマ娘の不在で、互いに見合っているせいかもしれない。重バ場でスピードが出しにくいせいもあるだろう。
自分もまだ前には出ず、先行集団の後ろとも中団の前とも言える辺りを走る。
『一周目の、一周目の第四コーナーです。さあ、緑一色になった京都レース場。一周目のホームストレッチ、おそらく大歓声があがるのではないかと思います。クリスタルケイ、クリスタルケイを除いた十七人は固まっています。クリスタルケイが先頭です』
大歓声を左に聞きながら、ホームストレッチを駆けていく。
掛かって前に出るウマ娘がちらほらといる。バ群が固まりすぎていてプレッシャーを感じやすい状況だ。あるいは天皇賞という栄誉あるGⅠレースの大歓声に驚いたのかもしれない。
でも、自分はとても落ち着いている。
なんだか、緊張感がない。かと言って、気が緩んでいるというわけでもない。
周りがよく見える。歓声はうるさいくらいなのに、周囲のウマ娘の走る音がはっきりと聞き取れる。地面を蹴る時に芝の感触を足の裏に感じる。集中力のおかげなのかもしれない。神経が敏感になっていて、意識が澄んでいる。
集中する、と言うと一つの物事に集中してそれ以外が見えなくなる、というふうに捉えがちだけど、でも、それは入口に過ぎないと思う。その先に進むと、周りのものもよく見えるようになる。意識の時間感覚も伸びる。一秒が一秒以上の長さに感じるようになる。そう、意識が研ぎ澄まされる、という言葉がしっくりくる。今の自分は正にそういう状態にあるのだと思う。
観客席の最前列で、ミホノブルボンとメジロマックイーンが並んで立っているのが見えた。二人で一緒に応援してくれているのかもしれない。
『十八人がほとんど一団で、これから第一コーナー右にカーブをとります。クリスタルケイが依然先頭。エアダブリンがおっと二番手にあがろうという勢い。インターライナーが外を通って上がって行きました』
一番人気のエアダブリン、二番人気のインターライナー。二人とも好位につけている。三番人気のハギノリアルキングはまだ後ろの方にいる。アシを溜めているのかもしれない。
『まもなく、まもなく一六〇〇メートル、半分の一六〇〇メートルをはたして何秒で行くんでしょうか。一分四十一秒から四十二秒台。まずまず、このバ場コンディションではまずまずのペースではないかと思います。半分の一六〇〇メートルを一分四十一秒から四十二秒台でいきました』
第二コーナーを曲がって向正面に入る。
前の方に坂が見える。
淀の坂。
ミホノブルボンに勝った時も、メジロマックイーンに勝った時も、あの坂を上った。
二人を追いかけながら、あの坂を上った。
でも、今日は二人ともいない。
追いかけるべき相手はいない。
そう。
今日は追いかけるのではなく、自分の走りをしなければならない。
そう考えた時、脚が前に出ていた。
自分の走り。
去年の日経賞の時のロングスパートを思い出した。
自分らしい走りだと感じた、あの時のロングスパート。
まだまだゴールまでは遠い。一四〇〇メートルもある。日経賞の時よりもはるかに遠い。
淀の坂のセオリーだって無視してしまうことになる。
アシがなくなって、途中で失速するかもしれない。
誰かにかわされてしまうかもしれない。
これが正解かなんてわからない。
もしかしたら、間違いかもしれない。
確実に、今までで最もつらいレースになる。
つらく、長く、過酷な走りになる。
でも、ここから勝負に出た方がいいと思った。
坂を下りきってからの最後の直線で、末脚の切れ味勝負をしても勝ち目は薄い。たぶん、負ける。全盛期ならまだしも、今の自分にはもう、その頃のような切れ味はない。
もう、速い走りはできない。
もう、強い走りはできない。
ライスは弱い。
強くなんかない。
だから、がんばってきた。
がんばることなら誰にも負けない。
速くて、強い走りをして勝つんじゃない。
走ることをがんばって、勝つ。
その意志を脚の動きに乗せる。
超ロングスパートに、挑む。
『場内大歓声。おー行った行った行った。ライスシャワーが行く。内から一番エアダブリン、インターライナー、人気の三人がちょうど先行集団を形成しました。ライスシャワー、ライスシャワーが行く。マックイーンも、ミホノブルボンも、おそらく応援しているのではないかと思います。ライスシャワーが京都の坂の上りで先頭に立つ勢い』
実際に、二人は観客席の最前列でライスシャワーを応援している。
ミホノブルボンはライスシャワーの走りを見て、驚いた。それは隣にいるメジロマックーンも同じようだった。
「あの走りは、決めてあった作戦なのですか?」
そうきいてきた。
「いえ、違います」
あんな作戦は自分には思いつかない。
京都レース場の淀の坂にはセオリーがある。
ゆっくり上って、ゆっくり下る。
坂の上りを勢いよく駆け上がってしまうと、下りをその勢いのままで走ってしまい、スタミナを激しく消耗してしまう。四〇〇メートルもある最後の長い直線でアシがもたなくなってしまう。だから、ゆっくり上って、ゆっくり下る。それが定石だと言われている。
今のライスシャワーはそれをまるっきり無視している。
それに、ライスシャワーはゴールまで一四〇〇メートルもある地点からスパートをかけている。ロングスパートと言うには、あまりにも長すぎる距離だ。
そんな常識外れと言ってもいいような作戦は自分には思いつかない。
「ありえませんわ。あんな走りは無謀すぎます」
もっともで、とても正しい指摘だ。
「でも」
メジロマックイーンは笑みを浮かべた。
「ライスなら、走りきれるかもしれません」
「はい。私もそう思います」
長距離のレースで必要なものはなんだろうか。
スタミナはもちろん必要だ。でも、レースが苛烈になればなるほど、スタミナの消耗は激しくなる。肉体はあっさりと限界を迎えてしまう。
そこで必要になってくるのは精神力だ。限界を超えてもなお走り続けるための精神力だ。最終的にレースの勝敗を左右するのは、精神力だ。
ライスシャワーは精神力のウマ娘だ。
その精神力でもってメジロマックイーンにも勝利した。
そして、今のライスシャワーはとても深く集中していて、精神力も高い。
今のライスシャワーならば、無謀とも言える超ロングスパートをなし遂げるかもしれない。
いや、なし遂げる。
そう信じる。
ステージチャンプは驚いていた。
淀の坂のセオリーは自分も知っている。坂の前からロングスパートをかけて、坂を駆け上がっていくなんて、やばい。
たぶん、他のウマ娘たちも驚いている。
去年の日経賞を思い出す。
あの時のライスシャワーのロングスパートは普通じゃないことを後で知った。いつものライスシャワーはあんな走りはしないのだと。
でも、今日はまた、その走りをした。
嬉しくなった。
あの時の、強いと感じたライスシャワーが戻ってきた。
そう思うと、嬉しくなった。
でも、まだわからない。
自分はどうすればいいのか、まだわからない。答えはまだ出ていない。
周りのウマ娘はライスシャワーの走りに引っ張られるみたいに動き始めている。セオリーを無視して坂を駆け上がるウマ娘までいる。
でも、自分はまだどうすればいいのかわからない。
まだ、動くことができない。
後ろの方で何もできずに走り続けるだけだった。
場内で一際大きな歓声が上がった。
『第三コーナーです。完全にこのあたりでライスシャワーが先頭に立っている! ライスシャワーが先頭に立っている!』
ミホノブルボンの耳に届く実況の声にも驚きが含まれていた。
残り八〇〇メートル。
坂を上りきると第三コーナーから下りに入る。
坂を駆け下りるライスシャワーが先頭で、ウマ娘の集団を引っ張っていく。レース展開を加速させていく。
各ウマ娘の動きが激しくなる。
まだ坂を下り始めたばかりだというのに、スパートをかけるウマ娘も出てきた。
二番人気のインターライナーがスパートをかけて、二番手でライスシャワーにくらいつくように追走する。
一番人気のエアダブリンはまだ動かない。最後の直線でスパートをかけるべく、アシを溜めているのだろう。
後ろの方のウマ娘も前へ前へと差を詰めてくる。
第四コーナーにさしかかる。鳴り止まない歓声がさらに熱を帯びて、大きくなる。
坂を下りきって、コーナーを曲がり、直線に向く。
ライスシャワーがさらにスパートをかけた。まさかの二度目のスパートだった。後続を突き放す。二バ身、三バ身のリードをとった。
『さあライスシャワー先頭だ! いやーやっぱりこのウマ娘は強いのか! ライスシャワー先頭だ! ライスシャワー先頭! ライスシャワー先頭!』
何度もライスシャワーが先頭だと伝える実況の声には熱がこもっている。
こんな実況はありえない。まだゴールしたわけでもない、勝ちが決まったわけでもない、最後の直線の入口で先頭に立っているだけのウマ娘を強いと言ってしまう実況はありえない。実況者すらも、ライスシャワーの走りに興奮を覚えてしまっているのだろう。
残り三〇〇メートル。
歓声は既に最高潮に達しているようだった。あまりにもうるさすぎて、それぞれが何を叫んでいるかなんて聞き取れない。でも、おそらく、いやおそらくなんて言葉は必要ないだろう。ライスシャワーを応援している。会場にいる全員がライスシャワーを応援しているのではないか。そう思えるほどだった。
隣ではメジロマックイーンも叫んでいた。スポーツ観戦が趣味だという彼女は威勢よく声援を送っている。
『そしてインターライナーがくる! 内から! 内からエアダブリンが差をつめてきた! 内からエアダブリンが差をつめる!』
十七人のウマ娘が先頭のライスシャワーを追いかける。
十七人ものウマ娘がライスシャワーただ一人を追いかける。
でも、その差は縮まらない。
インターライナーはおそらく、もういっぱいだ。
エアダブリンもアシが伸びていかない。
しかし、ライスシャワーの脚色はいまだ衰えない。
誰よりも先にスパートしたはずのライスシャワーの勢いは衰えない。
ひたすらに、ただひたすらに先頭を走る。
ステージチャンプは迷っていた。
このまま、ライスを行かせた方がいいのかな。
ライスにがんばってほしいと思うなら、ライスに勝ってほしいと思うなら、このまま行かせた方がいいのかな。
そう迷っていた。
芹花は言っていた。
ライスちゃんのために何ができるのか考えなさい。
そう言っていた。
私はライスのために何ができるんだろう。
今、ライスのためにできること。
走ることしかできないのに。
何ができるんだろう。
ライスの背中を見ながら考える。
去年の日経賞の時と同じ背中だ。
強い意志を感じさせる背中。
小さいのに、大きく見える背中。
ああ。
そうだ。
思い出した。
去年の日経賞で、ライスに言われたことを思い出した。
そうだ。
そうだ。
そうだったんだ。
走ることだけだ。
ライスのためにできることは、走ることだけだ。
ライスは言っていた。
ステンちゃんががんばってくれたから、ライスももっとがんばれたんだよ。
そう言っていた。
だから、走る。
がんばって、走る。
ライバルとして、走る。
ライスに勝つつもりで、走る。
走ることだけだ。
それだけが、ライスのためにできることなんだ。
残り二〇〇メートル。
全力で走る。
ここまでの三〇〇〇メートル、まったく前に出なかった。
三〇〇〇メートルの間、アシをためてきていた。
それを全て使う。
残りの二〇〇メートルで、三〇〇〇メートル分のアシを全て使う。
全力で、走るんだ!
『ライスシャワー完全に先頭だ! ライスシャワー先頭! ライスシャワー先頭! ハギノリアルキングきた! ハギノリアルキングくる!』
残り二〇〇メートル。
三番人気のハギノリアルキングが末脚を炸裂させた。中団から他のウマ娘たちを抜き去りながら、ライスシャワーとの差を詰めていく。
しかし。
『外から! 外からステージチャンプ! 外からステージチャンプ!』
さらに鋭い末脚でステージチャンプが上がってきた。
ハギノリアルキングの後方から大外をついて、さらにすごい脚で上がってきた。
ぐんぐんと、ライスシャワーとの差を縮めていく。
ライスシャワーと同じ黒鹿毛の髪に、小さな体躯。
その姿はまるで、菊花賞の時のライスシャワーのようだと、ミホノブルボンは思った。
菊花賞で負けた後、何度もレース映像を見返した。自分を負かしたライスシャワーに勝つことを目標にして、その走りを確認した。何度も、何度も。
あの時には既に恋にも似た気持ちをライスシャワーに抱いていたのかもしれない。いや、その話は今は関係ない。
今のステージチャンプは菊花賞の時のライスシャワーを思い出させた。
ステイヤーとは思えない末脚でもって、逃げる自分を追い上げて差し切ったライスシャワーを思い出させた。
不安が芽生える。
でも、まだ大丈夫だ。
まだ、差がある。
このまま脚色が衰えずに走り切れれば、ライスシャワーの勝ちだ。
しかし、残り一〇〇メートルで。
残り一〇〇メートル。
ライスシャワーの脚は悲鳴を上げている。
スパートをかけ始めてから、もう一〇〇〇メートルを超えている。
とても熱い。
焼けるような痛みさえある。
でも、動いてくれていた。
ライスの意志に応えてくれるように動いてくれていた。
しかし、それももう言うことを聞かなくなり始める。
体が限界を迎える。
脚の動きが鈍る。
急激に重さを増す。
脚を前に出すために持ち上げる太腿がとても重い。
一歩でさえ、たったの一歩でさえも、とてもつらい。
もう、気持ちだけだ。
体はもう、そのままでは動いてくれない。
がんばれ!
がんばれ!
がんばれ!
そう強く思いながらじゃないと、脚を前に出せない。
もう、気持ちだけだ。
精神力だけが体を動かしている。
でも、走る速度が少しずつ落ちていく。
ゴールはもうすぐだ。
もう、すぐそこだ。
もう、目の前だ。
それなのに、走る速度が落ちていく。
あきらめるな!
がんばることをあきらめるな!
でも、失速は止まらない。
少しずつだけど、確実に、速度が落ちていく。
遠い。
果てしなく、遠い
残り数十メートルの距離が、果てしなく遠い。
ああ。
ああ。
ライスが失速した。
脚色が鈍った。
後続との差が少しずつ縮まっていく。
ミホノブルボンは叫んでいた。
今までライスのレースを何度も見てきた。
でも、声を上げて応援したことはなかった。
それなのに、勝手に、声が出ていた。
たぶん、この声はライスには届かない。
周りの歓声にのみこまれてしまうだろう。
でも。
それでも、声を上げた。
声の限りをつくして、声援を送った。
走って!
ライス!
走って!
残り五〇メートル。
『ステージチャンプ! ステージチャンプが二番手に上がったー!』
ステージチャンプの脚は悲鳴を上げている。
今までにない、全力で走っている。
脚がひきちぎれそうだ。
気を抜けば、バラバラになって飛んでいってしまいそうだ。
でも、それを抑えつけたりはしない。
もっと。
もっと。
もっと、速く。
体が限界を超える。
脚が、自分の脚のように感じなくなる。
どこまでも、脚だけがひとりでに走っていってしまいそうな、そんな気がした。
いい。
それで、いい。
でも、逃がさない。
繋ぎとめる。
意志の力で、その脚を繋ぎとめる。
勝つ。
勝つんだ。
ライスに、勝つんだ!
「ライスに」
喉から声が溢れた。
「ライスに勝ああああああつ!」
意志が、声となって溢れ出した。
ライスシャワーは声を聞いた気がした。
周りには音が溢れている。
観客席から響いてくる大歓声。
時速六〇キロで耳元を通り過ぎる風の音。
あまりにも大きすぎて、聞き分けることもできないくらいの、音の奔流だ。
うるさすぎて、逆に何も聞こえない。そう感じるほどの、音の奔流だ。
でも、声が聞こえた気がした。
音の奔流をかき分けてくるように、誰かの声が耳に届いたように感じた。
何を言っているのかは聞き取れなかった。
でも、声だった。
この声はたぶん、ステンちゃんだ。
そんな気がした。
真横から聞こえてきた。
でも、隣にはなんの気配もない。
誰かが真横を走っているわけじゃない。
たぶん、大外だ。
大外で、並びかけている。
ステンちゃんが大外で並びかけている。
顔を横に動かして確認する余裕なんてない。
でも、たぶんそうだ。
並んできたんだ。
ステンちゃんが並んできたんだ。
がんばっている。
勝つために、がんばっている。
そう感じた。
姿は見えない。
気配も感じない。
でも、その気持ちだけは強く感じた。
負けられない。
負けられない。
負けられない!
ふり絞る。
気力を、ふり絞る。
「うぁああああああああ!」
声を上げる。
吹き飛ばすように、声を上げる
脚の痛みを、脚の重さを吹き飛ばすように、声を上げる。
ふり絞った気力だけで、脚を前に出す。
余計なことは考えるな。
迫ってくる他のウマ娘のことも、
脚の痛みのことも、
考えるな。
走ることだけを考えろ。
走る。
走る。
走るだけだ!
『ステージチャンプ! ライスシャワー! ライスシャワーとステージチャンプー!』
ライスシャワーはゴール板前を駆け抜けた。
ゴール板から少し離れた位置までなんとか走っていって、仰向けで倒れて大の字になる。
もう、体を動かせそうにない。
自分の体じゃないみたいに、全身が重い。
もう、一歩だって歩けそうになかった。
ステージチャンプとどっちが先にゴールしたのかはわからなかった。
掲示板を見ると、写真判定と出ていた。
まだどっちが勝ったのかはわからない。
でも、なんだか晴れやかな気分だった。
全て出し切った。
負けても、悔いはない。
そう思えた。
ステージチャンプがヨロヨロと走ってきた。
「ライス~」
声もヨロヨロとしている。
近づいてきて、そして、倒れこんできた。抱きつくみたいに、仰向けになっているライスシャワーの上に重なる。
頭の真横で、耳元でステージチャンプが声を出す。
「ライス~。私がんばったよ~」
いつものふわふわした声。
「うん。ありがとう、ステンちゃん。がんばってくれて、ありがとう」
なんとか腕を持ち上げて、その頭を撫でる。
「どういたしまして〜」
ステージチャンプは嬉しそうな声を出した。
「写真判定だね〜。勝ったと勘違いして、ガッツポーズしちゃった〜」
「勘違いじゃないかもしれないよ? まだ結果は出てないから」
ふと、ある可能性を思いつく。
「同着だったらいいのに。二人ともがんばったんだもん。同着だったらいいのにね」
とても珍しいことだけど、そういうこともありえる。そうなったら、とても素敵なのに。
そこで、ミホノブルボンとメジロマックイーンが駆け寄ってきた。
「ライス、大丈夫ですか⁈」
ミホノブルボンは珍しく慌てているみたいだった。
「ブルボンさん。ライスは大丈夫だよ」
「ああ。ライス、よかった」
ミホノブルボンは安心したような声を出して、へたりこんだ。
「ライス、おめでとうございます」
メジロマックイーンが微笑んだ。
「でも、結果はまだ出てないよ?」
「いえ、勝ったのはライスです! ワタクシには見えました!」
メジロマックイーンはいつもは上品で落ち着いているのに、興奮しているみたいに声を上げた。
「聞いて下さい! この歓声を!」
観客席からはまだ歓声が上がっていた。
「「「ラ、イ、ス! ラ、イ、ス!」」」
たくさんの観客がライスシャワーの名前を何度も何度も呼んでいる。
「観客のみなさんもライスが勝ったと思っているのです。それほどに、素晴らしい走りだったということですわ。ワタクシも応援にとても熱が入りました」
「ステージチャンプもとても良い走りでした。芹花も泣いて喜んでいますよ」
見ると、観客席で芹花が本当に泣いていた。
「さあ、二人とも立ってください。勝者が倒れたままでは締まりませんわ」
ミホノブルボンがステージチャンプを、メジロマックイーンがライスシャワーを起こして支える。二人とも疲労のせいで、一人では立っていられないくらいだった。
歓声が上がった。
掲示板に表示が出た。
一着ライスシャワー。
ライスシャワーを呼ぶ声がさらに大きくなった。会場にいる全員がライスシャワーの名前を呼んでいるのではないかと思えるほどに。
「改めて、おめでとうございます。ライス」
メジロマックイーンが笑顔で祝福を口にした。
でも、なんだか信じられない。
まったく、実感が湧いてこない。
まるで夢の中の出来事みたいに感じる。
「ワタクシは今でも忘れていません。二年前の天皇賞で、ゴール前にライスが言った言葉を。そうです。ライスはもうヒールではありません。今日こそ、本当のヒーローになったのです。みんなのヒーローに」
「ライス、おめでとうございます。ようやく、ようやく、歓喜と祝福の声を得ることができましたね」
ミホノブルボンの声は震えていた。
「ぐすっ、ライス〜、おめでとう〜、ライス〜」
ステージチャンプは笑顔で泣いていた。
ライスシャワーよりも先にステージチャンプの方が泣いていた。
負けたのに、それ以上の喜びを感じているみたいに。
それにつられるように、ライスシャワーの目から涙がこぼれた。
ようやく、実感が湧いた。
ボロボロと、涙がこぼれ落ちる。
嗚咽が喉から出る。
ありがとう、と言いたいのに、何も言えない。
感情があふれて、止まらない。
歓声に包まれながら、ライスシャワーは泣いた。
歓喜と祝福だけが、そこにあった。