「ライスがファン投票一位、ですか……?」
ライスシャワーは駿川たづなにきき返す。
「はい。ライスシャワーさんが宝塚記念のファン投票一位になりました。おめでとうございます」
頭を下げた駿川たづながどんな表情をしているのかわからない。いつもの柔和で、見る人を安心させるような笑顔をしているはずだ。でも、その顔は今は見えない。
チームルームの照明は故障してしまったのか、点灯しなくなっていた。
入り口のドアは開け放たれていて、そこから夕陽が差しこんでいる。背後から夕陽を浴びる駿川たづなの顔は濃い影に覆われている。どんな表情をしているのか、全く見えない。
いつもは見えるはずのものが見えない。それだけで、なんだか不安な気持ちになる。
春と秋のグランプリ、宝塚記念と有馬記念。それらで行われるファン投票で上位となったウマ娘には優先出走権が与えられる。このファン投票で上位になるということは、多くのファンがそのウマ娘が走る姿を見たいと思ってくれている、ということだ。
今まで一位になったことはなかった。それが、はじめて一位になった。
みんなに認められた。今、最も輝いているウマ娘として、みんなに認められた。そういうことだ。
それはとても、嬉しい。
そう感じてはいるのに。
でも。
「ファン投票はあくまでもファンの希望です。レースへの出走を強制するものではありません」
顔が見えない駿川たづなは事務的なことを口にする。その声はとりたてて冷たいものではないのに、なぜだか機械的な印象を受ける。
「ライスシャワーさんは疲労が著しいと伺っています。出走の決定権はライスシャワーさんにありますので、よくお考えになって、どうするか決めて下さいね」
いつもの駿川たづななら、ここで笑顔を見せてくれるはずだ。でも、それは今は見えない。
体が震えた。
なぜかはわからない。寒いわけでもない。それなのに、体が震えた。
その震えは体の芯から来ているような気がした。
いや、体の芯ではなく、もっと深い深い、どこかから来ているような気がした。
駿川たづなは踵を返した。
振り向く途中で動きを止めて、天井を見上げた。
夕陽に照らされて駿川たづなの横顔が見える。いつもの優しい顔が見える。
「照明の修理は、すぐに手配しておきますね」
その声も、いつもの優しい声音に感じた。
でも、不安は消えなかった。
わだかまるように胸の中に残った。
ウマ娘。
彼女たちは走るために生まれてきた。
時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ、別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。
それが彼女たちの運命。
この世界に生きるウマ娘の未来のレース結果は、まだ誰にもわからない。
「私は反対です」
ミホノブルボンはライスシャワーにきっぱりと言った。
チームルームは照明がつかないので、学園の中庭のベンチに二人で並んで腰かけている。
「ライスはまだ、天皇賞の疲労が抜けていません」
天皇賞春の激走の反動のせいなのだろう。ライスシャワーの疲労は尋常ではなく、トレーニングすらまともにこなせないほどだった。
「それに、宝塚記念は二二〇〇メートルと距離が短いです。今のライスが出走しても勝ちがあるとは思えません。出走する意味は、はっきり言ってありません。今はライスの体を大事にするべきです」
言い方が少しきついかもしれない。でも、出走を思いとどまって欲しかった。こんなに疲弊しているライスシャワーははじめて見た。とても心配だった。
「心配してくれてありがとう、ブルボンさん。でも、ライスは出走したい。ファンのみんながライスに走ってほしいと望むなら、ライスはそれに応えたいから。意味がないなんてことはないと思うんだ」
「それはそうですが……」
勝てるかどうかはおそらく問題にされていないのだろう。距離適性は明らかに合っていないのに、それでもファン投票一位になった。それはつまり、勝ち負けよりもただ走る姿が見たい、ということなのだろう。それほどに今のライスシャワーの人気はすさまじいということなのだろう。
本来ならば、喜ぶべきことだ。真に、歓喜と祝福の声を手に入れることができたということなのだから。
そう、本来ならば。
でも、今のライスシャワーには酷なレースだろう。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。負けたからって死んじゃうとか、そういうわけじゃないんだから大丈夫だよ。ね?」
「……そうですね。ライスがそう言うのであれば止めはしません」
それに、レース当日までに疲労が回復するかもしれない。
なにより、ライスシャワーの意思を尊重したい。
「ありがとう、ブルボンさん」
「でも、絶対にムリだけはしないで下さい」
「うん、わかった」
ライスシャワーが微笑んだ。
微笑むライスシャワーは一方で、こうも感じていた。
出走したい、と思う気持ちは本当だ。
ファン投票で一位になれたことは本当に嬉しい。だから、走ってほしいというファンの期待に応えたい。
その気持ちは本心で、嘘偽りはない。
でも、その一方で、不安を感じてもいた。
宝塚記念に出走することを考えると、なぜか不安な気持ちが湧いてくる。
その気持ちの理由はよくわからない。その気持ちが何に由来しているのかよくわからない。
駿川たづなからファン投票一位の知らせを受けたときのように、自分の深いところの何かから湧いてきているような気もする。
でも、その気持ちの理由はわからないのだ。不安という感情を揺り動かすだけなのだ。あまりにも曖昧すぎるのだ。
はっきりした理由がわかれば、それについてもっとしっかりと考えることもできるのに。
今までにないファン投票一位という喜びと、ファンのみんなの期待に応えたいというポジティブな感情の方が勝った。理由のよくわからないネガティブな感情よりも、そっちの方が強かった。
そうして、宝塚記念への出走を決めた。
宝塚記念。
六月。京都レース場。
芝二二〇〇。右回り。
曇り。稍重バ場。
十七人立て。
宝塚記念は本来なら、阪神レース場で行われる。でも、今年は阪神レース場で改修工事が行われているため、京都レース場で開催される運びとなった。
ライスシャワーにとって、馴染みの深い京都レース場。
勝ったGⅠレースはすべて京都レース場だった。
淀の坂を何度も駆け上り、何度も駆け下りて、勝利した。
ライスシャワーの勝利のかたわらにはいつも淀の坂があった。
縁が深い、と言ってもいいのかもしれない。
もしかすると、今日も淀の坂が良い結果をもたらしてくれるかもしれない。
ミホノブルボンはそんな、淡い期待を抱いた。
ライスシャワーが控え室で着替えを終えると、廊下から誰かが走っているような気配が伝わってきた。それは段々と近づいてくる。
勢いよく控え室のドアが開かれ、誰かが飛びこんできた。
「ひゃっ!」
「ライスー!」
その人物は大声で名前を呼んできた。
それは、去年の六月に療養所で出会った鹿毛で青い瞳のウマ娘、ダンツシアトルだった。
「久しぶりー! 会いたかったよー! ライスー!」
走ってきた勢いのまま、抱きついてきた。
ギューっと思いっきりハグされる。
「わっ、わっ。く、苦しいよ、シアさん」
「あ、ごめんごめん。久しぶりに会えたから嬉しくて嬉しくて!」
ダンツシアトルが通うトレセン学園の分校は府中ではなく地方にあるので、会うことが難しい。
ダンツシアトルはハグをやめると、ライスシャワーの両手をとって上下にぶんぶんと振った。
今日のダンツシアトルはものすごくテンションが高いみたいだった。
「天皇賞一着おめでとう! すごいすごい! あたしめちゃくちゃ泣いちゃったよ! 熱くて、感動して、泣いちゃった! あ、言ってるだけで、また泣いちゃいそう」
ダンツシアトルの目は本当に潤んでいる。
ライスシャワーは笑顔になる。
「シアさんのおかげだよ。シアさんが立ち直るきっかけをくれたから、ライスはがんばることができたから。シアさんに会えてよかった」
「あたしもライスに会えてよかった! ライスと会えたから、またがんばる気になったから! ライスのおかげだよ! だって、あたしが宝塚記念だよ、宝塚記念!」
ダンツシアトルは三月にレースに復帰してから、四戦して一着三回、三着一回。うち一着一回が宝塚記念のステップレースのGⅢレース京阪杯だったので、宝塚記念に出走することになった。
一回の三着も、前を走るウマ娘の転倒に巻きこまれそうになるという致命的な不利をもらっての三着だったので、不利がなければ一着だったと言われている。逆に、ただ一着をとるよりも、その実力の高さを示していた。
その快勝ぶりから、中距離界の超新星と呼ぶ声もあるくらいだった。
「ううん、それはシアさんがすごいんだよ。やっぱり、シアさんは実力を発揮しきれてなかっただけなんだね」
屈腱炎で療養する前は、オープン戦での勝ちは何度かあったけど、一回だけ出走した重賞では八着だったらしい。長期療養をしたにも関わらず、今では快勝しているのだから、もともと実力はあったのだと思う。
「でも、やる気をくれたのはライスだから、やっぱりライスのおかげだよ!」
ダンツシアトルは明るい笑顔を見せた。
「ライスと一緒に走れるなんて嬉しい! もうね、楽しみすぎて、昨日ぜんぜん寝れなかったんだから! ベタな話だけど、本当に全然寝れなかったんだよ?! あー、もう、嬉しすぎてやばい! 今日はがんばろうね!」
「あ、うん……」
疲労は天皇賞の直後に比べればだいぶマシにはなっているけど、まだ抜けきっていない。身体能力の限界が前よりも低くなっている感じだった。力を出し切れない。そんな状態だ。たぶん、これはしっかりと休息をとらないと治らない。
疲労回復を優先するために、トレーニングもほとんどできていない。
今日のレースで勝つのはかなり厳しそうだ。
今の状態をダンツシアトルに伝える。
「そうなんだ……」
ダンツシアトルは眉を八の字にした。
「天皇賞の走りはすごかったもんね。そんなになっちゃうのもしょうがないよね……」
「楽しみにしてくれてたのに、ごめんね……」
「あ、ううん。あたしのことは気にしないで! それに、まだこれからもライスと走るチャンスはあるはずだから。ライスが出るくらいの重賞にもっと出られるように、今日もがんばっちゃうぞー!」
そうだ。
このレースを最後に引退するというわけでもない。しっかり休んで、また走ればいいだけだ。ダンツシアトルと走るチャンスはまだこれからだってある。
「ライスもできるだけがんばるね」
「うん、二人ともがんばろうね! えいえい、おー!」
「おー!」
二人で拳を振り上げた。
ゲート入りしたところで、ライスシャワーは違和感に気づいた。
左の足首になんだか、違和感がある。
爪先を立てて地面をトントンと叩く。
特に痛いというわけでもない。
でも、なんだか違和感がある。
違和感としか言い表せない何かがある。
なんなのかはよくわからない。
でも、なにかの兆しみたいに感じた。
たぶん良いものではない、と感じた。
レース前から感じている不安が大きくなった。
それについて深く考える間もなく、他のウマ娘のゲート入りが終わっていた。
『ゲート入りが完了です』
慌てて体勢を整える。
ゲートが開いたので、飛び出す。
『スタートしました。十七人がこれから第一コーナーに向かいます』
スタートは悪くなかった。でも、良くもない。
中団の真ん中あたりで第一コーナーを回る。
第二コーナーに向かうカーブでどんどん後ろに下がっていってしまう。後ろのウマ娘が上がってきてるわけじゃない。ペースについていけなくて、下がっていってしまっている。
脚が前に出ていかない。
疲労が抜けきっていないせいかもしれない。
それか、左足首の違和感のせいなのかもしれない。
理由はよくわからない。
とにかく、脚が前に出ていかない。
第二コーナーを回って向正面に入ったあたりで、後続集団まで下がっていた。
淀の坂が見える。
何度も上り下りをした、淀の坂。
馴染みの深い、淀の坂。
勝利のそばにいてくれた、淀の坂。
ただの坂だけど、特別な坂のように感じていた。
もちろん、良い意味で。
でも、今日は、
今は、
そんなふうには感じられなかった。
不安が膨れ上がる。
気持ちがザワつく。
脚が重さを増した気がした。
前に出ていきたくない。
脚がそう言っているように感じた。
淀の坂が近づくにつれて、不安と脚の重さが増していっているような気がする。
でも、走らないわけにはいかない。
不安になったから、なんていう理由でレースをやめることはできない。
ゴールまで走り続けるしかない。
もっとはっきりとわかればいいのに。
不安という感情だけは大きくなるくせに、その理由は曖昧なままだ。
理由がはっきりとわかれば、止まることもできるのに。
止まるという決断が下せない。
坂を上りつめると、第三コーナーを回って、下りに入る。
不安がますます大きくなる。
いや、もう不安という言葉では収まりきらないような大きな感情になっている。
走るのが嫌だ。
そう感じるほどになっている。
本当に、止まるべきなのかもしれない。
そう考えた時だった。
左脚に、何かを踏んで滑ってしまったみたいな感覚があって、
そして、
音と、
痛みが、
体の中心を通って、
『おっと! ライスシャワーどうした! ライスシャワーどうした! 転倒している! 故障発生! ライスシャワー故障発生!』
観客席で大きな悲鳴が上がった。
最前列にいるミホノブルボンは声を出すこともできなかった。
まさか、
まさか、こんなことになるなんて。
やっぱり、出走させるべきではなかったのだ。
強く止めておけばよかったと後悔した。
いや、それよりも、今はライスシャワーの元に駆けていきたい。
レース場のスタッフはもう動き始めている。自分が行っても、できることはたぶん、ない。
でも、そばにいたい。
そばにいてあげたい。
すぐにでも走りだしたかったけど、レースはまだ続いている。
今ターフに飛び出すと、レース妨害となってしまう。
早く、早く終わってほしい。
結果なんてどうでもいい。
とにかく、早く走り切ってほしい。
たった三十秒くらいの時間なのに、とても長く感じる。
ダンツシアトルが先頭でゴール板前を駆け抜け、他のウマ娘も次々とゴールしていく。
最後の一人が駆け抜けた瞬間に、ミホノブルボンはターフに飛び出していた。
遅い。
脚が遅い。
長い間トレーニングもしていない。
レースでターフを駆けていたあの頃のようには、もう走れない。
それでも、脚を大きく前に出す。
一刻でも早くライスシャワーの元に着きたい。
コーナーの先の方に、ようやく見える。
ライスシャワーが倒れている。
近づくにつれて、その姿がよく見えるようになる。
その足が、よく見えるようになる。
その、左足首が。
ああ。
ああ。
走る脚の力が抜けそうになる。
無理だ。
たぶん、もう無理だ。
ライスはもう、走れないだろう。
ウマ娘としてはもう、走れないだろう。
あんな状態では、治療してももう、走れないだろう。
走る脚の力が抜けそうになる。
一歩を踏み出すごとに、足が泥の中に沈んでいっているような、そんな感覚に襲われる。
脚に力をこめる。
今、つらいのはライスだ。
自分じゃない。
ライスだ。
脚に力をこめて、走る。
ライスシャワーが地面に手をついて、体を起こそうとしている。
「ライス! だめです!」
制止の声を上げるが、ライスシャワーは四つん這いになった。
そのそばにようやくたどりつき、横で膝をつく。その背中に手を当てる。
「だめです、ライス。横になってください」
しかし、ライスシャワーはその姿勢のまま動かない。
四つん這いで、顔を地面に向けている。
小さく、声を出す。
「ライスは、走りたいだけなのに……」
うわごとのように言う。
「みんなのために、走りたいだけなのに……みんなに、走っているところを見せたいだけなのに……」
転倒の衝撃のせいで意識が混濁しているのかもしれない。
右脚を前に出して屈めて、立ち上がろうとする。
「ライス! だめ!」
その首に腕を回して、しがみつくようにして、動きを止める。
「まだ、ライスはゴールしてないんだよ……? だから、ゴールしないと……」
「いいんです! ライス! もう走らなくていいんです!」
「だめだよ……走らないと、だめなんだよ……みんなの期待に、応えないと……」
「もう誰も望んでいません! 走ってほしいなんて望んでいません! 見て! 顔を上げて!」
ライスシャワーがゆっくりと顔を上げる。
観客席に目を向ける。
観客のみんながライスシャワーを見ている。
心配そうな顔をして、ライスシャワーを見ている。
観客席にいる、おそらく全員が、ライスシャワーを心配している。
「みんな、ライスのことを心配しています。ライスの身を案じています。だから、もう走らないで」
「みんな、ライスを、心配しているの……?」
少しだけ、ライスシャワーの声に張りが戻ってきた。
「ええ。ここにいるみんなが、ライスのことを心配していますよ。だって、ライスはみんなのヒーローなんですから」
ライスシャワーは完全に動きを止めた。
そして、小さな声で言った。
「こん……、ち…う」
それはとても小さな声で、うまく聞き取れなかった。
「え?」
ライスシャワーはしっかりとした声で言う。
「ブルボンさん、お願い。マイクを持ってきて。みんなに、言いたいことがあるの」
「それよりも、今はライスの体の方が」
「だめ! 今じゃないと、だめなの!」
切迫した、切実な声を上げた。
そこで駆けよってきたスタッフに、ミホノブルボンは声を上げる。
「誰か! マイクを! ライスのために、お願いします!」
ミホノブルボンがターフに飛び出す前、ダンツシアトルはゴール板前を先頭で駆け抜けた。
接戦ではあったけど、クビ差は残っていたはずだ。
一着だ。
そう確信して、立ち止まって掲示板を見る。でも、そこには審議のランプがついていた。
故障か違反行為があった。
そこでようやく、おかしな雰囲気に気づいた。
歓声が上がっていない。
観客席はどよめきに包まれている。
そして、誰もこっちを見ていない。
一着の自分がいる第一コーナーの方ではなく、第三コーナーの方をみんな見ている。
たぶん、第三コーナーで誰かが転倒した。
前の方を走っていると、後ろで誰かが転倒しても気づかない。場内実況の声も、風の音と観客の声にかき消されて聞こえない。
周囲を見回す。周りにいるウマ娘たちを見る。
すぐに、誰がいないのか気づいた。
気づいたけど、それを認めたくなかった。
嘘だ。
そんな。
嘘だ。
場内実況の声が耳に届く。
『第三コーナーでアクシデント。ライスシャワーが、第三コーナーで転倒』
その声を聞き終わる前に、ダンツシアトルは走り出していた。
第三コーナーに向かって、ホームストレッチを逆走するように走る。
ライス!
ライス!
ライス!
それしか考えられなかった。
ライスシャワーのことしか考えられなかった。
第三コーナーにたどりつく。
ライスシャワーは地面に置かれた担架に仰向けで横たわっていた。
そのすぐそばにはミホノブルボンが膝をついている。
ライスシャワーの左足首が目に入る。
ひどい。
ひどすぎる。
こんなの、ひどすぎる。
ライスシャワーのすぐ横で、崩れ落ちる。
四つん這いになる。
「こんなの、ひどすぎるよ!」
そう叫んでいた。
涙が目からあふれる。こぼれて、芝の上にボロボロと落ちていく。
呪った。
運命を、呪った。
どうして、こんな仕打ちを与えるの?
ライスはがんばって、がんばって、ようやく歓喜と祝福を手に入れたばかりなのに、どうして、こんな仕打ちを与えるの?
ひどすぎる。
ひどすぎるよ!
「泣かないで、シアさん」
ライスシャワーのその声は落ち着いていた。つらさとか、悲しさとか、そういった感情のない、優しい声だった。
「だって! だって、ライスが!」
「ライスは大丈夫だよ。あ、大丈夫じゃないけど、大丈夫だよ」
その声は普段と変わりない声だった。
顔を上げて、ライスシャワーの顔を見る。
目の下には衰弱を表すようにクマができている。
でも、微笑んでいた。
優しく、微笑んでいた。
優しいのに、その内にある強い意志を感じる微笑みだった。
「だから、泣かないで」
涙が止まった。
一番つらいはずのライスシャワーが微笑んでいる。
それを見て、涙が止まっていた。
「マイクもってきました!」
レース場のスタッフがミホノブルボンにマイクを手渡した。
ライスシャワーがダンツシアトルの目をまっすぐ見ながら言う。
「これからライスが言うことをシアさんにも聞いていてほしいの。お願い」
「うん。うん、しっかり聞くよ」
ライスシャワーのお願いを断るわけがない。
四つん這いから、正座になる。
ミホノブルボンがライスシャワーの口元にマイクを持っていく。
ライスシャワーです。
今日は、ファン投票で一位に選んでくれて、ありがとうございます。
でも、残念ながら、最後まで走り切ることはできませんでした。
ごめんなさい。
ライスはまた、たくさんの夢を壊してしまったみたいです。
ブルボンさんに勝った菊花賞の時も、マックイーンさんに勝った天皇賞の時も、たくさんの夢を壊してしまいました。
ライスは、夢を壊してばかりですね。
ごめんなさい。
でも、ライスはもう夢を壊したくありません。
ここにはまだ、夢があります。
シアさんは、ダンツシアトルさんは、今日、夢を叶えました。
屈腱炎を乗り越えて、ダンツシアトルさんはがんばって、がんばって、今日、GⅠレースに勝利するという夢を叶えました。
でも、今、ライスのせいで、ライスの不幸のせいで、ダンツシアトルさんは祝福されていません。
夢を叶えたはずなのに、誰からも祝福されていません。
勝っても、誰からも祝福されないのは、つらいことなんです、
とっても、つらいことなんです。
ライスは、それを知っています。
だから。
ライスは、ライスの不幸のせいで、シアさんの祝福を奪いたくない。
ライスは不幸になってもいい。
ライスだけは、不幸になってもいい。
でも、シアさんには、不幸になってほしくない。
祝福したい。
ライスは、シアさんを祝福したい。
だって、ライスは、
ライスシャワーは、祝福の名前だから。
どうか、お願いです。
ライスのために泣かないでください。
シアさんを、祝福してあげてください。
ライスからの……最初で、最後の……お願いです……
ライスシャワーは気を失った。
スタッフが担架を持ち上げて、ターフの内側に止まっている救急車に運んでいく。ミホノブルボンもその車に乗りこむ。
ダンツシアトルは一人、その場に取り残された。
涙が、止まらなかった。
さっきとは違う、暖かい涙だった。
あとからあとからあふれてきて、止まらなかった。
何かを叩くような音が聞こえてきた。
はじめは小さかったその音は、どんどん増えて、大きくなっていった。
それは、拍手の音だった。
観客席から拍手が響いてくる。
振り向くと、観客のみんなが拍手をしている。
歓声は上がっていない。
泣いている人もいる。
誰も声を上げない。
ただ静かに、拍手をしている。
それは、地面を激しく叩く雨の音のようだった。
他の音をかき消して吸い取る、雨のような音だった。
その音以外は何も聞こえない。
その音はとても大きい。
でも、なんだか、とても静かだった。
とても静かな祝福だった。
歓喜はない。
ただ、祝福だけがある。
純粋な祝福だけがある。
雨だ。
祝福の、雨だ。
そんなふうに感じた。
ダンツシアトルは立ち上がる。
観客席に向かって、お辞儀をする。
手を振ったりはしない。
声も上げない。
ただ一つ、静かに、深く、お辞儀をした。
宝塚記念には、あるジンクスがある。
ある実況者は毎年、推しのウマ娘を『私の夢』として発表する。
しかし、『私の夢』に指名されると、そのウマ娘は、なぜか勝てない。
どれだけ強いウマ娘で、どれだけ人気があっても、なぜか勝てない。
いつしか、『私の夢』にされたウマ娘は勝てない、というジンクスができていた。
今回の『私の夢』はダンツシアトルだった。
でも、ダンツシアトルは勝った。
ジンクスを打ち破って、勝った。
『私の夢』がはじめて、勝った。
『私の夢』がはじめて『みんなの夢』になった。
有馬記念。
十二月。中山レース場。
ターフでゲート入りを待つウマ娘たちを、実況者が紹介している。
『さあ、いよいよ注目の一番人気です。秋の天皇賞、ジャパンカップを制し、ファン投票一位で有馬記念に出走です。秋の三冠、さらには、春秋グランプリ制覇までかかっているぞ。祝福された夢、ダンツシアトルです!』
ダンツシアトルは観客席に向かって、お辞儀をする。
大歓声が上がった。
『私の夢』から、宝塚記念が終わってすぐに『祝福された夢』と呼ばれるようになっていた。
なんかすごくでかい二つ名だけど、祝福、という言葉が入っているのがいい。ライスシャワーと一緒に走れているみたいで、嬉しい。
ダンツシアトルはゲートに入る。
なんだか、不思議な気持ちだ。
まさか、こんなにも勝ちを上げて、ファン投票一位でここに立っているなんて、夢みたいだ。
本当は、ありえないことなんじゃないか、という気がしている。
たぶん、これはライスシャワーの祝福のおかげだ。
自分の、深い深いところにある何かがそう感じているような気がした。
今日もがんばるよ、ライス。
ライスのために、ゴールまで夢を届けるよ。
『ゲートイン完了です』
スタートの体勢をとる。
音を立てて、ゲートが開いた。
夢のゲートが、開いた。
「ねえ、チームの希望、どこにするか決めた?」
「もうとっくに決めてるよ! ミホノブルボンさんのところ!」
「えー、あそこってトレーニングすごい大変だって噂だよー? ミホノブルボンさんって、トレーニングの鬼だって話だし」
「でも、距離限界を超えることもできるって話もあるでしょ? 私ね、ステイヤーになりたいの!」
「なんか、さっきから文句ばっかりみたいになっちゃうけどさ、ステイヤーになんかなりたいの? 出れるレースだって少ないよ?」
「それでもいいの! 五年前の春天見てから、ずっとステイヤーになりたかったんだー。あの、超ロングスパート。私もあんなふうに感動を与えられるウマ娘になりたくて!」
「あー、なるほど。私もあのレースは感動したなー」
「だよね! だよね!」
「ミホノブルボンさんのチームのサブトレーナーやってるんでしょ? えっと、あー、なんだっけ、すごいド忘れしちゃった。おめでたい感じの名前の」
「もー! なんでド忘れなんかするの! それに、おめでたい、じゃないよ! 祝福だよ! 祝福の名前の――」
お読みいただき、ありがとうございました。