…ああ、ここは何度来ても慣れないなぁ。
パドック前。マーシャルは強張る身体を小刻みに震わせながら、一歩前に踏み出した。
パドック壇上、彼女は肩にかかるマントを一気に引きはがす。そして自身に振り当てられたゼッケン8番を観客にさらけ出す…しかし、その様子を期待して見るものは誰もいない。
「ええっと、え?誰この娘?」
「レッド…マーシャル?だってよ。聞いたこともねぇな。」
「あーはいはい。もういいから、さっさと一番人気だせよ。」
…わかっていた。
いつもこれなんだ。私が出てきても、みんな新聞読んで、スマホいじって。私にがんばれと言ってくれるのは、ごく一部の小さい子供くらいなんだ。
でも、今日は、少し違った。
客席から目立つ声援が一つだけ、彼女の元に飛んできた。
「おーい!!そこの8番!!辛気臭ぇツラしてんじゃねぇぞ!!気合入れろ気合!!」
その声の主は、言わずもがな聞きなれた存在だった。
(…トレーナーさん。)
彼の声援に、マーシャルはぐっと歯を食いしばった。
『10番人気はこの娘、レッドマーシャル。』
『担当トレーナーが変わったという情報が入っています。新しい彼女に期待です。』
――――――――
(がんばれ…がんばれ私…。ま...負けちゃダメ!)
本場前の地下道にて、マーシャルは自分に何度も念を唱えた。
そんな気弱な態度を見せるマーシャルに痺れを切らせた、大城は。
スパァン!!!!
とマーシャルの尻をひっぱたいた。
「いったああああ!!!何するんですか!?なんでお尻叩くんですか!?このヘンタイ!!」
「バッカヤロー。お前レース前から気持ちで負けててどうすんだよ。」
「…だって。」
まだ勝負も始まっていないというのに、すでにベソをかきそうな顔をする。
レースの度に苦い思いをさせられた。そしてそれは彼女の意識下に強く根付いている。
「…はぁ。ったくよぉ!いくらカラダ作っても、気持ちが乗らねぇなら意味ねぇんだよ!」
「でも…でも…」
「じゃあコレだ。」
といって大城はマーシャルにあるハンドサインを見せる。
掌の中指と薬指だけを折りたたんだハンドサイン。
所謂ロックサイン。
「え…えっと?」
「えっとじゃねぇだろ?ロックだよ、迷ったらロックに行け。」
「ろ…ロック?」
「はぁ!?お前ロック知らねぇのか!?ツェッペリンにパープル、クイーンにKISS、ユーライア・ヒープにバッドカンパニー!あのロックだよ!!」
「?????」
あまりの情報量にマーシャルの頭はパンク寸前になる。
「…っつっても、もう、時代じゃねぇのか…。俺が若い頃は流行ったもんだったんだがなぁ。」
勝手に落胆する大城をよそ眼に、マーシャルはハンドサインの真似をする。
「…お、いいな。そうだ、ロックだ。いつでも気持ちはロックでいろ。」
「よくわかんないけど…このハンドサイン…昔お母さんがしてた気がする。」
「気持ちが折れそうになった時、いつも俺を助けてくれたのはロックだ。迷ったらこう叫ぶんだよ『Let's Rock!』ってな。」
大城はハンドサインを掲げた。
「レッツ…ロック…!」
「もっと景気よく言うんだよ!」
「レッツ…!ロック…!」
「ま、及第点だな。そんでよ、マーシャル。今日のお前のレースだが。」
ようやく本題に入る。
「お前、今日勝たなくていいぞ。」
「…え?」
この人の唐突が過ぎる言葉には、いつも意表を突かされる。
「今日のお前は、今までとは違う走り方で走ってもらう。」
「…というと?」
「今までのお前は、序盤で一気に前に躍り出る、いわゆる逃げや先行で戦ってきたわけだ。そんでずっと負けてきたわけだ。」
「…」
「でも今のお前は違う。お前には一つの武器が形成されつつある。それをモノにするためのレースだ。」
大城は腕を組む。
「ものにするためのレースって。それじゃあ、これもトレーニングの一つってことですか?」
「早い話がそうだな。だから今日は勝たなくていい。今日の目的はほかにあるからな。ま、わざわざ負けろとは言わんが。」
「でも…どうするんですか?」
「レースにおいてスパートをかけるために必要な要素はなんだ?」
「えっと…体力と、位置取り…ですか。」
「そしてかけるタイミングだ。」
大城は壁に背を預ける。
「今日の課題はどうすれば、最適なスパートをかけられるようになるかをお前が知ることだ。」
「…。」
マーシャルは少しぽかんとする。
「ま、今日は俺が全部指示するがな。」
大城は先に行われているレースを指さす。
「まずはスタート。お前は先に飛び出さず、中団から後方にかけての位置で構えろ。」
「中団位置…。」
「そして、まずはお前の前にいるやつをよく見てみろ。そうすりゃ、どこかにお前と似たようなリズムで走るやつがいるはずだ。」
「うーん?」
マーシャルは何となくなイメージを立てる。
「まずはそいつに引っ張ってもらえ。」
「引っ張ってもらう?」
「ああ、体を動かす時ってのは、自分と似たような動きをする奴に体を合わせると、幾分ラクになるのさ。ま、これは実際にやってみればわかる。」
「は…はぁ?」
「次だ、お前、スリップストリームって知ってるか?」
「ええっと、前の人の背後に回り込んで…空気抵抗を…ってやつですよね?」
「ああ、調子がついてきたら、一番具合がよさそうな奴の背後に回り込め。それでかなりの体力温存につながる。」
「そして、最終コーナーを出た最後の直線。ここでスパートだ。」
そのセリフにマーシャルは息をのむ。
「ま、レースでは走るやつがいる分、スパートのかけ方もそいつらで違う。だけど今日のお前はコーナー出ての直線だ。周りがスパートに入ってもあせらず、ぐっとこらえろ。」
「…はい。」
「そんで、スパートに入っちまったら…。もう後先考えるな。バカになって絞れるだけ絞り出しちまえ。」
マーシャルは言われたことを頭で復唱する。
「ま、お前のスパートが実践でどこまで通用するか、俺もワカランからな。俺にとってのデータ取りの役目もあるわけだ。気負わずに走ってこい!」
「…わかりました!!」
『シュンブンブライト!!今一着でゴールイン!!勝ったのはシュンブンブライト!!』
「お、前のレースは終わったか。次だな。」
「…。」
マーシャルの顔にまた緊張が迸る。
「…なんだ?またケツをぶっ叩かれてぇか?」
「ひっ!!いやです!!」
「んじゃあ、とっとと行ってこい!ロックになってこい!」
大城はハンドサインをマーシャルに向けて、通路の奥へと消えていった。
―――――――――
「…っぐぅ!!…がはぁ!!!…ううぅ…。」
マーシャルと別れた直後の大城は、突如懐を抑えて、体勢を崩した。
「クッソ…。」
大城はなんとか壁に背を預けて顔を上に向ける。
「…あ…あの!…大丈夫ですか?」
その現場を見たひとりのウマ娘が心配そうに声をかけ、駆け寄ろうとする。
しかし、大城は掌を向けて、それを制止した。
「ああ…大丈夫だ…ほら、レース始まんだろ…?早く行けよ…。」
「は…はい。」
そのウマ娘が去ったあと、大城は錠剤を口に運んだ。
「…クソッタレ。」
なんとか自力で立ち上がれるようになれた大城は、懐をさすりながら再び歩き出した。