トレース…スリップストリーム…これらを駆使して、マーシャルは中段位置で静かにその時を待った。
大丈夫…ついていけてる。
足も、息も、前よりも残せている自覚がある。
きっといける…イメージも十分…仕掛けるポイントは…あの時と同じ!最終コーナー出口!
だけど、どうしてもぬぐい切れない懸念がある。
『大逃げ!!大逃げ!!独走状態だオオシンハリヤー!!このまま逃げ切れるのか!?』
先頭集団からでさえ、抜き出て独走を決め込むウマ娘。
マーシャルとのその差は、いったい何バ身程あるのだろうか。
ターフに立つものの主観から見れば、それは途方のないもののようにすら見える。
(…大丈夫…大逃げは…最後に…落ちてくる…はず…。)
そうポジティブな考えを自分に埋め込もうとするが、心の奥底では,,,どうしても消しきれない不安が静かに囁く。
(…本当に届くの…?こんなに…離れてるのに?)
だけど、自分に残された道はない。
…やるしかない!
今日こそは…今日こそは…1位をとるんだ!!
「…焦るなよ。」
大城は難しい顔でつぶやく。
大逃げの相手には、大逃げする相手なりの戦い方がある。
だが、マーシャルはそれをまだ知らない。
きっと今は焦燥しているに違いはない…だけど。
「お前で見つけてみろ…突破口を。」
そしてマーシャルは
(…集中…7秒!!)
ターフをける。
『レッドマーシャル!!ここで仕掛ける!!前回のレースでの追い込み!ここでもみられるか!!』
スパートに入ったその時は、少しだけ周りの音が聞こえにくくなる。
そしてほんの気持ちだけ、周りの時間がゆっくりになるような気がする。
そして、一人…また一人…とオーバーテイクを決めていく。
「むうりいい!!!」
マーシャルに抜かれたウマ娘がそう叫ぶ。
無理だなんて…私も…なのに!!
『レッドマーシャル追い上げていきます!!オオシンハリヤー!!捉えられるか?』
『彼女の走り、洗練されているように見えますね。』
『だがこれは厳しいか?この差は詰められないか?』
(…5…6)
その時マーシャルは悟った。
7秒フルに使い切っても、彼女を捉えられないことに。
不安が現実になる。
(…い…いやだ…せっかくここまで…これた…のに)
その不安は、彼女をより焦らせた。
(もう少し…もう少しなの…に)
「…ま、無理だわな。…今回はあきらめろ。」
大城も息をついた。
そして...時間を迎えた。
(…7)
もう背中は見えているのに…あと…ほんの少し…な…の…に。
マーシャルは目を見開いた。
そして…禁忌を冒した。
7秒を経過しても…彼女はスパートをやめなかった。
マーシャルがタイムオーバーで走ったことに、大城はすぐに気が付いた。
「バ鹿野郎!!やめろ!!」
大城の叫びもむなしく、それがマーシャルに届くことはなかった。
見えた…いける…少し…オーバーしちゃったけど…このま…!!!!!!!!
『レッドマーシャル!!ついに先頭を捉え…どうした?レッドマーシャル?急に
フラフラと…故障か!?』
『非常に危険なように見えます!』
やっと先頭の背中が見えた…やっと…初めての1位が見えた…そう思ったのは…一瞬の束の間だった。
マーシャルの呼吸が止まった。
必死に息を吸おうとしても、それを体に取り込んでくれない。体が…肺が…いうことを聞かない。
彼女は…一切の酸素供給を行えなくなった。
(あっ……が……ああ…。)
『このスパート…やりようによっては…お前を喰うぞ?』
『7秒だ…それ以上は駄目だ…お前の…肺が負けるだろう…。』
大城のその言葉を思い出す。
だが…時は既に遅かった。
マーシャルは…ターフで溺れた。
―――――――――
「……あ……ああ」
あれからのことは何も覚えてない。
もしかしたら、私は死んでしまったのかもしれない。
じゃあここは天国なんだろうか。
「よぉ、起きたか。随分早かったな…あと3時間は起きねえと思ったが。」
あの人の声がずいぶんと懐かしく聞こえる。
「…あれ?…天…国…?」
「お前が天国に行くには…まだちっと修業が足らんな」
そして、マーシャルは少しづつ意識を取り戻していく。
自分が病床に伏していると気が付いたのは、5分後のことだった。
「あ…私…」
大城の顔がはっきりと見えたころに、自分が何をしでかしたのかを...ゆっくりと思い出した。
「ま、死ななくてよかったじゃねぇか。親よりも先に逝っちまう程の親不孝だなんて、他にねぇからな。」
「…」
「ま、今回の相手...強かったな。いい脚してたよなぁ?大逃げだってんのに..最後まで足色は衰えなかった。…かぁ!スプリントってのは怖えなぁ!!それとよぉ今日の本場…ゲスト誰が来てたと思う…?これまたくっだらねぇ芸人でヨォ!…」
青ざめるマーシャルをよそに、大城はいつもの陽気な態度で振舞った。
もしかしたら、彼なりのマーシャルを励ますためのおどけなのかもしれない。
だが一向に、マーシャルは大城と目を合わせようとしなかった。
ふぅ、と大城は息をつくと、静かに口を開いた。
「…7秒だ。…7秒は守れ。…全体を走りきるためでもあるし、なにより…お前自身を守るためだ。…いいな?約束しろ。」
「…なさい」
「あ?」
「ごめん…なさい…。」
マーシャルの瞳からは、大きな涙が、雨のように降りしきった。
「私…私…トレーナーさんが…折角…うっ…ううええ!!!!」
顔を押さえて、グズグズになるまでマーシャルは泣いた。
自分のバカな行動のせいで、トレーナーが立ててくれた作戦を台無しにした。
あんなに自分に付きっ切りで指導した彼を....自分は裏切った。
その罪悪感に苛まれた。
そんなマーシャルの頭を大城は優しくなでた。
「俺に謝ったってしょうがねぇだろ?…一番苦しいのは…お前だろ?」
「…でも…でも!」
「一回失敗したなら、もう繰り返さなきゃいい。単純なことだ。」
「…」
顔を赤くして、ショボショボになってしまった目から、マーシャルはゆっくりと手を下した。
「俺も今までの人生、掃いて捨てるほど失敗してきた。一時期バカみたいな借金負って、女房にも逃げられてな。それにくらべりゃあ、ちょっと息が切れてぶっ倒れたくらい、ナンてことねぇだろ?」
大城は派手なジェスチャーを加える。
「でもよ、失敗したその度に死ぬほど落ち込んで…そして少しづつ立ち直って…ほんと少しづつ。強くなっていった。…失敗しない奴なんていねぇ。大事なことは、そっからどう強くなれるかさ。」
「…トレーナーさん…トレーナーさんでも、落ち込むこと…あるんですか?」
「んだと!俺をナンだと思ってやがる!当然だろ!!昔競輪で20万スったときゃあ、こらもう血の気が引いてな!フラフラ歩いて帰ってたら3回も職質されてサ。今までの人生アレを超えるモンはなかなかねぇぞ?」
「…ふふふ、なんですか、それ。」
マーシャルに少し暖かい表情が戻った。
「…ちったぁ調子が出てきたか?」
「…はい。…トレーナーさん。…私…強くなります…。」
そう誓うマーシャルの目に、曇りはなかった。
「おう、その意気だ。ロックに行けよ?」
大城はハンドサインを見せた。
そしてマーシャルもそれを返した。
――――――――――
『えー、会場にお越しの皆様へご連絡です。第4レースを出走いたしました3番レッドマーシャル選手ですが、搬送先の病院にて意識が回復したとの情報が入りました。皆様のご心配ならびに…』
会場からは安堵の声が流れる。
「よ…かったぁ…あーマジでビビった。せっかくいい感じになってきたように見えたのに..なんかあったらどうしようって。」
「田原..お前すっかりマーシャルの虜だな。」
「うっせぇ!ファンだよファン!!」
男性二人組が会話をしている脇を、やたらに怪しい老人がすり抜けていった。
「…マーシャル…ナラン…オマエハ…マダウチュウデハナイ…」