「...癌...ですか...。」
エチルアルコールや薬品の臭いが立ち込める、診察室。
この臭いはいつまでたっても慣れない。と、いつもは心の中でボやいて、この後の予定を適当に考えながら医者の話を聞き流す筈ではあったのだが、その医者の一言に全ての意識を奪われる。
「ええ....かなり進行も...はっきり言って..末期と呼んでいいかも..しれません。」
「...そう...ですか...。」
しかし、大城のその表情はどこか飄々としている。まるで自分事でないかのように、どこかの興味のない誰かの話を聞いているかのように。
「...手術しても、手遅れってヤツですか?」
「ええ...。」
医者は重い表情で、そう告げた。まさしく死刑宣告にも等しいそれは、医者を長年務めている彼にとっても、慣れるものではない。
死の現実を突きつける..。これで、どれだけ自らを一時的に壊す人々を見てきたことか。
「...なるほど。」
それでも大城は取り乱さなかった。
この次に、すでにそのことを知っていたと言い出すのではないか、と医師が懐疑的になるほど。しかし、やはりその目には幾分かの哀愁が漂う。
「..失礼ですが...あまり驚かれないのですね。」
確かに癌の宣告を受けても、気丈に振る舞う患者もいることはいる。しかし、大城の反応は、そのどれにも属さないものに見えた。
「ま..なんていうか...そんな気はしてましたからね..。」
大城は俯いてそう言う。
「..俺の親父も、爺さんも癌で死んだ。...なら俺もきっと..死ぬときは癌だろうって...思ったより早かったなとは思ってますがね。」
「...左様ですか。」
医師は、重い腕を起こして、カルテにメモを記入する。
「末期癌だからって..直ぐに死ぬわけじゃあないんでしょう?」
「それは..まぁ...。」
「どれくらい?」
医者は口を淀ませながら...か細く言う。
「..大城さんの患っている癌の場合..長くて三年というのが...私の経験則です。」
「..ほう。因みに..余命宣告を受けた患者ってのは..それからどうするモンなんです?」
大城のその質問は半ばヤケクソのようなものにも思えた。
「..二極化しますね。仕事を辞めて..残りの人生を自由に生きられる方。..最後まで..仕事を貫かれる方..。」
「...きっと俺は..前者だ。」
――――――――――――
トレセンの校内..大城のいつものステップはなりを潜める。
踵から歩くその癖が、いつもカツカツと小気味のいい音を立て、彼と親しい生徒ならば、それだけで彼だと解るほど。
しかし、今日の彼の足音も..まるで火が消えたかのよう。
先生!と声をかけてくれる生徒に対しても、軽く手を振って、その場から立ち去ってしまう。
そうして、彼はある部屋の前に立つ。
ノックを三回...。中から許可!という張りのいい声が、ドアを突き破って飛んでくる。
「...失礼...どうも..理事長..。」
「おお!ハクではないか!」
いつ見ても、この初等部生のウマ娘たちと背丈が変わらないような、幼さが残る少女..もとい女性が理事長だとは..。といつもながらに大城は思う。
「大城先生..お疲れ様です!」
その傍らには、駿川たづなの姿も、少し疲れ気味の顔は、きっと理事長の無理難題をまた聞かされていたからなのだろうと、大城は言葉もなく理解する。
「ああ...たづなちゃん..。」
「それで?ハクよ..用件とは?」
大城の視線はそっとたづなに向けられる。
「...悪ぃ、たづなちゃん、ちょっと外してくれるか?」
「...はい。」
彼から何か感じることがあったのだろう、たづなは何かを察して、小走り気味でその場を後にする。
そして、ばたんとドアが閉められ..少しの間をおいて..大城は語りだす。
「...やっぱり..癌でした..。余命のオマケ付きで..。」
「...そうか。」
秋川は両腕を理事長室の机につける。
特別な取り乱しはないものの、やはりいつも明るい表情に..雲がかかる。
大城は先日、校内で倒れた。
救急車で搬送を、とトレセン側は手配しようとしたが、騒ぎになることを嫌った大城は、無理にそれを止めて、自分の足で医療機関へかかった。
その後落ち着きを取り戻した大城だったが、それから妙な発作がみられるようになった。
彼の体を案じた秋川が無理やり大城に検査を受けさせた。その結果が...それということだ。
「もう少し...早ければ...と思っておるか?」
「...いえ、人の死は..この世に生を受ける前から決まっているようなものです。きっとどんな道をたどっても..俺は同じ年で死ぬでしょう。」
「...無理に気丈になろうとするでない...。死の恐怖には..誰も勝てまい..。」
溜息と共に、秋川はそう言った。
見た目こそ幼いものの、その落ち着きと、いざ見せる貫禄は、理事長の名に恥じぬものと..彼女を知るものは皆認めている。
「..質問。これからハクは..どうしたい?」
「...さあて、まぁ、海の見える街で..ひっそりと隠居生活ってのも..悪くはないかもしれませんね。」
「成程...こう言っては失礼にあたると覚悟のうえで申そう。..らしくない発言だな..ハク。」
「..そりゃあまぁ、貴女と初めて会ったときのような若造だったらいざ知らず。..もう大概..いいトシですからね...俺はカラスで居たいんです。..森のなかで、誰にも知られず..ひっそりと逝きたい。」
大城は壁にかかった写真たちに目を向ける。
その中の一つに..かつて若かりし頃の自分が、昔の担当と共に、成果を上げた時の写真が一枚。
「寂しくなるな..かつて名トレーナーとまで言われたハクが..。ハクのことは先代も高くかっておった。」
「..所詮は過去の話です..。知っているでしょう、俺の最後の担当...ロクな所に連れて行ってやれなかった...。年寄りの時代は終わったんです。..今は..沖野や、東条のような..若い連中が..時代を作っていく。」
その写真たちの中には..シンボリルドルフの三冠達成時の写真や..トウカイテイオーの奇跡の復活劇を祝した写真たちも..。
「...理解。ハクがそう決めたことならば..私も認めざるを得ん。...残りの時間..ハクがハクらしく過ごせるよう..こちらも最大限の手助けを致そう。」
「恩に着ます。..理事長には..先代から世話になりました..。」
そういって大城は会釈の要領で秋川に、思いつめた表情で頭を下げる。
「それと..提案。」
「提案..?」
「もし..もう一度..ハクがここへ戻りたいというのならば...そう申してくれ。..いつでも席は用意する。」
「...ふっ。余命宣告を受けたヤツにまで..まだ働かせるつもりですか?」
「私の勘だ。..きっとハクはここへ戻ってくると...そう思っておる。...私はハクから..あの頃の情熱が消えているようには...どうしても思えぬ。」
「..ま...期待するのは自由でしょう..。では..。」
大城は理事長室のドアを開ける。
そのすぐ傍らに..たづながいたことに気が付く。
「聞き耳...立ててたか?」
「....。」
たづなの顔は赤い..目も若干の充血を起こしている。
「大城....先生...」
「ほかの連中には..内緒だ..。」
「でも...!」
「頼む。..理事長の我儘よりは..ラクなもんだろ?」
「...いいえ。」
廊下に風が吹き込む。
それはどこか..夏の匂いを引き連れているような気がした。