ざばっと水しぶきが上がる音が、孤独な男の部屋に響き渡る。
その虚空にあふれた空間。独り身の彼には、あまりにも広すぎる。
男は濡れた顔を、拭かずにそのまま鏡に向ける。
彼の老いが隠し切れなくなった顔に、ふたをせんばかりと、だらんと暖簾のように濡れた髪が彼の視界を覆い隠そうとする。
彼はそれをそっと両手でかき上げる。
髪が濡れきっているその瞬間だけは、整髪料をつけずとも、いつものオールバックスタイルを作ることができる。
そして、洗面台の脇に、両手を置き、もう一度鏡と向き合う。
「....もう一息...いけるだろ..?」
彼は懐をさすりながら、いつ破裂してもおかしくない、それを宥める。
そうして、例の錠剤..もとい薬を乱暴に口へと運ぶ。
「...Let's....Rock!」
それをかみつぶして...小さくそう叫んだ。
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「き...来ちゃった....。」
「来ちゃった..ってよぉ、いつもの中山だろうが。」
右...左...前...後ろ...。
360度どこを見渡しても人..人..人...。
まるでお祭り状態。
昔ならば..彼女も..そちら側のギャラリーだったはず...でも。
「私...本当に...走るんですよね..?」
「は!..棄権するか?」
「い...いえ!」
その重厚な圧を感じる会場に..マーシャルはまだ入場すらもしていないというのに..カチカチになりつつあった。
そこに、少し心休まる声が彼女の下へ。
「おーい!マーシャル!!」
彼女たちが振り向くと、そこには..親友たちの姿が。
「ギアちゃん!モモちゃん!!来てくれたの!?」
マーシャルの緊張に包まれた顔は、瞬く間にぱぁっと明るくなる。
「えへへ!もちろん!頑張ってね!マーシャルちゃん!」
「ったくよぉ!!お前がGⅠランナーにほんとになっちまうなんて...。ちょっとまだ信じらんねぇ。...先越されちまったな。」
トップギアの目には、仲間の健闘を祈りつつも、少し滾るものがあるようにも感じられた。
「うん...ありがとう!..私、きっと勝って見せるから!」
「ああ!...負けたら承知しねぇからな!!」
「ふふ!..そういえば、マーシャルちゃんの勝負服..楽しみだな!なんたってGⅠなんだもん!」
モモミルクがそう言ったとき、マーシャルははっとする。
「勝負服...?..そういえば..まだ私...もらってないかも..?」
「「え?」」
二人が並んで驚愕する。
マーシャルはそっと横を見る。
「...トレーナーさん?」
大城はそっぽを向いて..指で頬を書く。
「...車に置いてきちまった。..先行ってろ。」
そういって大城はとぼとぼと..近くはない駐車場へと歩いて行った。
「..苦労してんだな。お前も..。」
「...うん。」
―――――――――――――――
「大丈夫...私は...レッドマーシャル...。スプリントなら..勝負できる..。」
選手控室。マーシャルは鏡に向かって何度も何度もそうつぶやく。
鏡に映る自分が、どこか頼りない。
...気持ちで負けてはいけない...わかっているのに。
そこに、ノックもそこそこに、扉が開かれる。
「よぉ!待たせたな!」
「遅いですよ!!もうパドック始まっちゃう!!」
「そう焦んな。ほらよ。」
そういって大城は大きな紙袋を渡す。
「.....。」
紙袋の中にある、綺麗に畳まれたそれを、マーシャルは少し震える手で抱え上げる。
「早く着替えろよ。」
「...なら...出てってくださいよ...。」
少し顔を赤らめながらそう言った。
―――――――――――――――
「開けるぞ?」
「...はい!」
..それは、赤を主軸としたブレザーチックな勝負服。
赤のチェックがスカートと、ネクタイを始めとした服のいたるところにちりばめられ、彼女らしい赤を演出する。
その赤を目立たせるための白地のシャツなども憎い。
そしてブレザーの前裾のボタンを、飾緒にも似た金色に光る紐で、互いに括り。その勝負服は完全なものとなる。
...その赤に漲る様は、..彼女の母、レッドクラウンをも彷彿とさせる。
それにアクセントを加えるように、左耳のピアスがキラリ。
「ほぅ...ちったぁ、見栄えが良くなるもんだな。」
「これが...私....?」
勝負服一つで、ここまで自分の印象が変わる。
その印象が...自分の気持ちまで変えてくるよう。
その時マーシャルはふと気づく。
彼女の勝負服の左肩には...『Ⅶ』の刺繍が。
「...これ。」
「お守り代わりさ。..わざわざURAに乗り込んで入れさせたんだ。..アラビア数字はゼッケンの都合とか言って渋られたが..ソレならってよ。...イカすだろ?」
マーシャルはその刺繍を手で触りながら。顔を綻ばせた。
「...最高です!」
―――――――――――――――
『さぁ、次のウマ娘です!..今レース、サクラバクシンオーに肩を並べるほどの注目度を誇ります!3番人気レッドマーシャル!!』
『さぁ!果たして異色のスプリンターは..このスプリント界の頂点に輝くことができるのか!?要注目です!!』
壇上でマーシャルは一気にマントを引きはがす。
その瞬間、観客たちの圧が彼女を飲み込む勢いで、流れ込んでくる。
マーシャルはその圧に一瞬たじろぎそうになるが..ぐっと足をこらえた。
そして、しっかりと目を開いて..観客たちへ自分の姿をしっかりと見せつける。
「がんばれよ!!マーシャル!!!」
「こっち向いて!!手ふってぇ!!」
「まーしゃーおねーちゃん!!がんばれー!!」
人混みを嫌った大城は観客たちの隅に逃れて、マーシャルのその様を見る。
あの時の自分の自身のなさに打ちひしがれていた彼女の姿とは..まるで見違えるようだった。
勝負服のおかげなのか...それとも彼女の積み重ねが、後ろ盾となっているのか。
「..マジでかっこいいぜ..お前..。」
誰にも届かない呟きが、中山レース場に消えていった。
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「緊張してるか?」
「...それなりに。」
「..そうか。」
地下バ道。
出口に差し込む光が、今日は一段と強く光って見える。
「..だからってオシリ叩かないでくださいね。」
「今日は無理だな。」
「無理?」
「..俺も緊張してるからさ。」
彼の、らしくもない発言に思わずマーシャルは顔を覗き込む。
「トレーナーさんが..緊張?」
「あのなぁ..俺だって人間だ。..アガるときはアガるもんさ。..7年ぶりのGⅠだ。..何も感じねぇわけがねぇ。..なんなら二人でケツを叩き合ってみるか?」
「..真面目なんだか..不真面目なんだか..。」
その様にマーシャルはクスッと笑う。
「ま、ここでクヨクヨしたって仕方ねぇ。..勝った時のことでも考えてみるか?」
「勝った時のこと?」
「そ..お前はブッチぎりで余裕の勝利をかます。」
「..そんな無茶苦茶な。」
「それでだ..勝ったお前の下に..俺が颯爽と現れる。..そんでハイタッチだ。」
大城は手をひらひらとさせる。
「ハイタッチ..。」
「お前がこの間無視したソレだ。」
「いや..それは...ちょっと嬉しくなりすぎちゃって..。」
マーシャルはそっぽを向く。
「そんでそのハイタッチのサマをメディアがバカみてぇに取り上げる。そんで..あしたの朝刊は俺らの最高にイカした瞬間が..三面記事さ。」
ふっふっふと大城は燻るように笑う。
「もぉ...トレーナーさんて、どこかちょっと子供じみてるんですから。」
「いいじゃねぇか。童心を忘れないってヤツさ。..そんじゃ..勝ってこい..。」
そういって大城はマーシャルの肩をぽんと叩いた。
「..行ってきます!!」
そういってマーシャルは強く一歩を踏み出し..その光が差す場所へと向かった。
そんな彼女の後姿を見て..大城はぽつんとつぶやく。
「...頼んだぜ。...マーシャル..。」