1日の流れというのは、流れてほしくないと思えば思うほど早く流れる。
待ち遠しいことがあるとき、早く明日にならないかと待望するその時間は途方もなく長く感じるというのに。
時間と気持ちというのはどうしてこう反比例するのだろう。
もっと時間が欲しかった。
…でも、どうあがいても毎日王冠杯は明日なのだ。
絶対に落とせないレース。
これを乗り越えなければ…その先はない。
――――――――――――――
「よォし、いい感じだぜお前。」
「はい!」
「次、本気で行ってみろ。」
そういって、大城はマーシャルにドリンクとタオルを投げる。
いよいよ明日に控えた毎日王冠。
精神面にて、少し不安な要素がある彼女だが、この調子でいけば…きっと。
マーシャルは大城のアドバイスを聞くために彼のそばに寄る。
その時ふと気づく。
彼から一切の煙草の臭いが消えていることに。
…あんなに大好きだった煙草も、お酒も、車も止めてまで彼はマーシャルに打ち込んでいる。
彼はそこまでに真剣だった。
マーシャルは自分に問う。彼がここまでして本気になっているというのに、自分はちゃんと真剣になれているのかと。
いつも暗い想像ばかりして、悪いほう悪いほうへと引きずられている。
(…こんなんじゃ、いけない。私もトレーナーさんの期待に応えなくちゃ。)
そう自分を奮い立たせる。
「よぉし、ラスト行こうぜ。」
そういってマーシャルはスタートラインへ立つ。
目の前に広がる広大なターフ。
目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのはレースでのライバルたちや、自分たちを見守ってくれるファンたち。
マーシャルは本番さながらの緊張感を自分に叩き込む。
「OK…いくぞ。」
3
2
1
「GO!」
大城の掛け声とともに、彼はストップウォッチを押す。
彼の掛け声と、ゲートの開く音が頭の中で重なった。
マーシャルは一気に前へ出る。
浮かぶ、目の前にライバルたちがいる。
その中に自分を忍ばせる。自分のポジションを探す。
(…あった、ここだ。)
周りに誰もいないはずなのに、彼女にはライバルたちの動きがはっきりと見えていた。
いままでレースで培ってきた経験が、彼女の中で高度なシミュレーションを生み出していた。
第一コーナー、第二コーナー、体の軸を忘れるな。Rの中心に軸を立てて、見るのはコーナー出口。
バックストレッチ、早い娘ではもうここから動き始める娘もいる。
でも焦るな。自分の勝負所はここじゃない。
スリップストリームをかけられる娘はいないか?自分と似たリズムの娘はいないか?常に周りを意識して。
第三コーナー…三分三厘。ここで、勝負だ!
マーシャルは大きく息を吸う。
そして、思い切りターフを蹴った。
-7.000-
いきなり駆け出すんじゃない。まず体を安定させる。
視線が定まってから、前へ行く。
-6.299-
10m先を走っている娘に追いついた。
でも、自分の存在に気付いた彼女は私の行く道を阻害する。
じゃあ、開けてくれたそっちの道をもらおう。
大丈夫、走行ラインを変えても私が縺れることはない。足の強さなら自身があるんだ。
-4.125-
二人、三人とパスをする。
でも、相手だって重賞ウマ娘。やすやすと抜かされて黙ってるワケなんてない。
みんなが自分を、その先をめがけて迫ってくる。
でも譲れない、譲っちゃいけない。
やっと先頭が見えてきた。
-3.579-
…。
彼女にははっきりと映った。
撫子色に萌える。英雄が。
-2.590-
きっとスぺちゃんは、ラインつぶしみたいな妨害は踏んでこない。
だって、誰よりもまっすぐで、誰よりも自分自身に忠実だから。
マーシャルはスペシャルウイークの横に並ぶ。
たとえ並んだとしても、スペシャルウイークは横を見向きもしない。
いつ、どんな時だって、彼女は自分の走りを貫くから。
-0.000-
さぁ、スパートが終わった。
現状なら、スぺちゃんは私の後ろだ。
ここでバテれば、また二の舞だ。
抜けろ、逃げろ、根性勝負だ!
「…ほんの少し前のお前はドコに行ったんだよ。マジでやべぇ怪物だよお前は。マーシャル。」
大城はその担当の様を恍惚と見入っていた。
「ああ、それでいい。魅せろ。もっと魅せろ。そうだ。ロックに行けよ。マジで天皇賞…獲っちまおうぜ。…う…っぐ!」
大城は急に懐を抑えてよろける。
「こんなときに…。」
あの日同様、スペシャルウイークが背後から迫る。
もうゴールは近い。自分は前とは違う。スパートのかけ方も、全体のペース配分もあれから何度も見直した。調子だっていい。
前もはっきり見える!…このまま逃げ…。
そうして前を見据えたマーシャルの視界に飛び込んできたのは…。倒れた大城だった。
周りのスタッフたちが急いで彼に駆け寄る。
それを見たマーシャルは、激しい動揺を覚えた。
思わず、このターフを抜け出して彼の下へ行くべきかと自分に問う。
彼女の炎は、また鎮火しようとした。
彼女の足が緩む。
だが、大城は地面に伏しながらも、マーシャルのその様を見た。
そして、出せるだけの声を絞り出す。
「止まんじゃねぇ!!!」
その大城の言葉にマーシャルはハッとする。
「終わってねぇんだよ!レースは!!走れ!!!お前は勝つんだろ!?俺の為を思うんなら…走れ!!走ってくれ!!」
その言葉にマーシャルは激しい動揺を殺して、また前を向いた。
スペシャルウイークとのその差1/2バ身くらいだろうか。
ごめんねスぺちゃん…譲らないよ…!
そうしてマーシャルはゴールラインへ飛び込んだ。
大城はストップウォッチを切る。
「…読んでくれ、何秒だ?」
ストップウォッチを受け取ったトレセンスタッフはその数字を読み上げる。
…レッドマーシャル。芝2000m 自己ベスト更新。
「ああ…上出来だ。」
大城は安堵の息をついて、痛み止めの錠剤を含んだ。