その日
すっかり日も落ちて、先ほどの星々たちがより自らの主張を激しく増す。
大城は自らのトレーナー室で、再びその星を目に焼き付けていた。
「…アルキオネってのは、今の季節じゃなかったっけなぁ。」
そういいながら、スラックスのポケットに手を入れる。
いつもそこには、愛車のキーレスが入ってるはずなのだが、今となってはもう何も入っていない。それが少し寂しく感じた。
ふと視線を下にずらす。
そこには、トレセン名物の中庭の洞がひっそりと佇む。
この洞に向かって負の感情を抱えたウマ娘たちは、それを一気に吐き出す。
ここのトレーナー室には、その負の一部がよく飛び込んでくる。
…勿論、彼女の負も一度はここへ飛び込んできた。
大城はあの日の出来事を鮮明に思い返す。
何も太刀打ちができず、ふさぎ込んで泣くことしかできなかったマーシャルが、明日は天皇賞への挑戦を賭けた大一番の舞台で戦う。
「初等部生相手に1800で勝てなかったアイツが、2000mの頂点を賭けたレースか。…まったく、人生ってのはホントにどう転がるかワカランもんだな。」
彼女には何もなかった。
才能もなければ、恵まれものもない。取り柄もなければ、武器もない。
しかし彼女は這い上がってきた。自らの信念と夢と根性だけを頼りに。
「…本当にいいドラマを見させてもらったよ。」
すべてをやり切れた暁には、主演女優賞を贈るべきだろうかと冗談交じりに考える。
大城はドスっと椅子に座って、電源の入っていないモニターに目を向ける。
その脇には、小さな写真立て。冬の商店街で大城がダーツイベント入賞した際の記念撮影写真。
その写真立ての隅には、先日マーシャルと取ったプリクラも。
『〇月◎日 トレーナーさんと♡』と記入されたそれを手に取って、大城はクスっと笑う。
そして、それをまたモニターの横に戻して、ふぅと天井を見上げる。
…彼はふと思った。
もし、あの日あの場所で、彼女と出会わなかったら、今の自分はどこで何をしているのだろう。
宣言通りに海の見える街で隠居生活を営んでいるとしたら。…それはロックのロの字もない。
自分の選択に自分自身を無理やり納得させて、一日一日を自己満足で生きる日々だったのだろう。
そして死に際にこう思うんだ。俺の人生は間違ってなかったと。
何が間違ってなかっただ。大間違いだバカ野郎。本当は未練たらたら残して、やりきれなかったことに目を背けて、自分に都合のいいように過去を清算して。そして悦に浸ってるだけだ。
ああ、いまそのパラレルワールドに生きている自分にこう言ってやりたい。
こっちの俺は、幸せだと。胸を張って大いに言えると。
「本当に幸せだよ。俺は。」
つい口からそう漏れた。
「…」
ふと心地のいい微睡が彼を襲う。
どこか絆されたかのような、温かさが彼を包んだ。
「…ん。ああ、いけね。」
時計に目を向けると、もう21時を過ぎようとしている。
明日は遅刻も許されない。自身も早く帰って休まなければ。
そう立ち上がった時だった。
「…っう。…っぐ!…また…かよ…。」
何度感じても、決して慣れることのない痛みが彼を襲う。
大城は急いで懐の薬に手を伸ばし、それを引っ張りだした。時だった。
「…ゲッホ!!ガホッ!!…うァ…ガハァ!!!」
彼の口から、一気に大量の血液が流れた。
「…え?」
大きく肩で息をしながら、彼は目を丸くした。
確かに今までにも、吐血をすることはあった。
…だが、たった今吐き出した血の量。今までの比にならない。
その血を見た瞬間、彼の体が何かを自覚したかのように、蠢き出す。
「うぅ…クッソ…。」
大城は急いで錠剤を口に放り込むが、また激しい咳き込みが、その錠剤を拒絶する。
ガタっと、彼は机に腕を乗せたまま膝をついた。
びゅうびゅうと風を切るような息を吐きだしながら、なんとか嵐が治まるのを待った。だが、依然痛みは引くどころが、その勢力を増した。
「あ…ああ゛!!…ぐううッツ!!!!」
それはもはや痛みというよりも、体の中で黒い何かが渦巻いているような感じだった。
(これ…マジでマズイ…。)
今までの発作とは根本的に何かが違う。どうにかしなければ…本当に…。
「だ…だれ…かぁ…」
救急車を呼んでくれと言いたい。だけど、声が出ない。
「だれ…か…ゲホッ!!!グアッ!!」
再び口を押えてせき込む。彼の手のひらは、ペンキに手を入れたのかと見紛うほどに赤黒く染められた。
(ふざけるな…こんなとこで終われるか…!約束したんだ…!俺は…!)
大城は最後の力を振り絞って、なんとか机にかけた腕に力を入れ、体を引き起こす。
ただ、体を引き起こした途端に急に視界が泥酔でもしたかのように、ぐにゃぐにゃと歪み始める。
時折視界のピントすらも合わなくなる。
(また…約束を破るのか俺は?最後の約束だろ?何に変えても守るって…誓ったじゃねぇか…)
ふらふらと揺れる体を支えようと、近くにあった物に手をかけるが、不幸にもそれはモニターだった。
机などに十分な固定をされていないそれが、大城の体重を支え切れるはずもなく、彼はモニターとともに床に倒れこんだ。
ガシャン!!とモニターやその周辺のものが落ちて壊れる音が響く。
彼女との思い出の写真立ても一緒に。
完全に地面に伏してしまった大城は、体に力を入れることができず、身動きが取れなくなった。
体の中で蠢いていたそれは、ブラックホールのように肥大化し、彼の体を、残されたわずかな生命を蝕んでいった。
(たの…む…あ…した…だけで…いい…んだ。たのむ…あと一日…生かせてくれ…)
体が凍てつくように熱く、焼け付くように寒い。末端がわずかに痙攣をおこし始める。
呼吸器官がまともに働かなくなってきている。まるで喉に蓋をされたかのよう。息を吸うことも、吐くことも困難になってきている。
大城はそっと手を伸ばす。
掴んだのは、あの写真立てだった。
『〇月◎日 トレーナーさんと♡』
その写真立てには、さっきの衝撃でひびが入り、そして二人のロックサインを掲げた写真は、彼の血で染められていった。
(ごめんな…まー…しゃ…る)
大城の頬に、最後の涙が伝った。
その時、ガラッと彼のトレーナー室の戸が開く。
「大城先生!!」
その声の主は駿川だった。先ほどのモニターが割れる異音を聞きつけて、彼の部屋に駆け付けた。
「せ…先生、そんな!」
彼女は血の海に伏した大城を見て動揺を隠せなかった。
「誰か!!!誰か!!!!」
そう、廊下に向かって大声で助けを呼ぶ。
「たづなさん?…どうしたの?」
それを一番に聞きつけたのは、たまたま学園に残っていた沖野だった。
「沖野さん!大城先生が!先生が!!」
そう取り乱す駿川の背後に、倒れた大城がいることに沖野はすぐ気が付いた。
それを見るや否や、血相を変えて沖野は大城のもとへ駆け寄り、彼を抱えた。
「大城さん!!しっかりしてください!!大城さん!!!」
沖野は大城の血が手や服に付着しようと構わずに大城の名を呼び続けた。
大城は目こそ開けてはいるが、その視線は全く定まっておらず、沖野の問いかけにすら答えられなかった。口を開き、犬のように細く浅い呼吸だけを繰り返していた。
「たづなさん!救急車を!早く!!」
「はい!」
救急車が到着するまでの間、沖野は大城の名を呼び続けた。
だが、大城の耳には彼の声は全く届いてないかった。
大城は微かな意識の中で最期の光景を見た。
目の前の男が、何か自分に語り掛けてくる。何を言っているのかは全くわからない。
というか…この男は誰だったか。見覚えはあるが…。
…?
そういえば…
俺は誰なんだっけ…。
わからない…。何も…。
でも、なぜだろう…。
一つだけ、覚えのある言葉がある。
マーシャルって言葉…。なんでだろうな。
すごく…懐かしい気がする。
そうして彼は、深く明るい闇の中へ、まるで重力に引かれるかのように
堕ちていった。