「昏睡状態です…。恐らくこのまま…逝かれるでしょう。」
「…そうですか。」
東京中央病院の廊下で、沖野は大城の担当医からそう告げられた。
「ご本人にもお伝えしてたことですが、いつこうなっても不思議ではありませんでした。寧ろ、よくここまで生きられたものだと。…彼の、大城さんの信念が、今日この日まで彼を生き永らえさせたのでしょう。」
「…もう、手の打ちようはないんですか?」
沖野は結果がわかりきっている問いを、雲を掴むような思いで医師に問いかけた。
その答えは当然のもの。医師は俯いて弱く首を横に振った。
「…本来ならば、最期の時、ご家族をお呼びするのですが。彼は…。」
「ええ…独り身ですからね。…俺がそばにいます。」
「お願いします…。」
そういって医師は沖野に背を向けた。
―――――――――――――――――
沖野は病室の戸を閉める。
そして、彼が横たわるベッドの横に面会用の簡易椅子を置いて、そこに座った。
懐から棒のついた飴をとりだして、口にくわえる。
大城はほんの薄くだけ目を開き、呼吸にもならない呼吸を、酸素吸入器の補助を借りて細く浅く繰り返していた。
その病室には、一定の周期で彼がまだ生存していることを知らせる電子音だけが、鳴り続いていた。
「…大城さん。起きてくださいよ。…今日は、遅刻できないんでしょう?この間だって、遅刻して叱られたって言ってたじゃないですか。」
沖野は細くいった。既に日付などとうの前に変わっていた。
しかし、彼は何も答えない。
「これからじゃ…なかったんですか。」
沖野の顔が、次第に渋くなっていく。
「やっとここまで来たんでしょう。…もう少しってところまで。」
沖野は飴を咥えなおす。
「俺は信じてますよ。貴方はこんなところで終わる
夜中に比べて、夜が少しづつ明るみを増していく。
夜明けが近い。
それと同時に…出走の時間も。
カタンと、何かが倒れる音がする。
それは、患者用のデスクに置かれた、割れた写真立て。
大城とマーシャルが揃ってロックサインのポーズを掲げたその写真。それを、倒れた彼は最後まで離さなかった。
血はある程度拭き取られたが、そこには生々しい跡がぽつぽつと残った。
沖野はそれを見て悩んだ。
…この、現状をマーシャルにも報告すべきかと。
連絡をすれば間違いなく彼女は飛んでくるだろう。
…だが、彼女がその現状を知ったうえで、今日の毎日王冠杯へ十分な態勢で臨めるのだろうか。
答えは否だろう。
今日まで積み上げてきたものをすべてを…無に帰すことになる。
だが、言わなくては。…彼の最期に、彼女は会えない。
そこから沖野は30分ほど長考した上で、ようやく自分のスマホを取り出した。
電話帳からマーシャルの連絡先をたどる。
そして、発信と書かれた文字をタップしようとしたところで、彼の手が止まった。
いや、止められた。何者かに。
沖野はふと顔を上げるが、そこには誰もいない。
横たわった大城以外には。
その時、沖野は理解した。
自分を止めたのは、大城だと。彼の何かだと。
『やめてくれ。彼女を走らせてくれ。』
そう聞こえた気がした。
「…」
沖野はスマホの電源を切って、だらんと項垂れた。
「…いいんですね。…本当に。」
少しづつ、病室に日が差し込み始める。
「…わかりました。最後の貴方の無茶ぶり…聞き入れますよ。」
――――――――――――――――
初めて貴方と会った日のことを、まだよく覚えてますよ。
貴方はその時まだ新人だった俺を見るや否や、急に小指を突き立ててきて
『コレ探しに来たんなら諦めとけよ。ホネがいくつあってもたんねーぞ。』
と笑いながら言った。
最初こそは、その見た目と軽薄さに幾何の嫌悪感を覚えることもありましたけど、でも、貴方の信念を初めて知った日に、俺のトレーナー人生は大きく変わりました。
『担当の負けは、トレーナーの負けだ。…いいか。どうにもならなかった。不確定要素が多かった。コンディションが悪かった。適性の差が出た。外枠だった。そんなものは全部言い訳だ。そんなものをまかり通すようならば、トレーナーを名乗る資格なんてない。沖野、忘れるなよ。俺たちは、
担当がレースに負けて、腐ってた俺に、そう言ってくれた。
その言葉があったから…俺は、スペのことも、スズカのことも、テイオーやマックイーンのことだって、支えてやることができたんです。
迷える俺を、貴方は何度も導いてくれた。
『理解される必要なんてねーよ。お前がそれでイケるって思ったんならやってみればいい。ツイスターだろうとトライアスロンだろうと。お前を嘲笑う連中は、お前以上のコトができんのか?…迷えるならやってみろよ。やって後悔が俺のモットーだ。…安心しろ、始末書の書き方なら教えてやるからさ。』
何度も何度も、大事なことを教えてもらった。
『沖野ォ、お前の夢ってなんだ?』
『夢?ですか…?』
『そ、オコトなら夢の一つや二つくらいあんだろ?』
『夢…か。』
『バァカヤロー、んなこたパット答えんだよ。』
『大城さんは…貴方の夢は?』
『俺?…そりゃあお前…ハリウッド女優と寝ることさ。…なんてな。ほんとは、俺も自分の夢がよくわかってねぇんだ。』
『え?』
『ガキの頃から夢はたくさんあった。…でも大人になったら、案外夢ってもんは一つ一つ叶っていっちまうもんでな。いざ叶ってみると、その先にあるものが急に見えなくなっちまう。いままで生きてて、何度かそれを体験した。その時ふと思うんだ。俺の人生の軸になってる夢ってなんだってな。』
『…』
『お前もわからないなら、探し続けろ。夢は男の生きる原動力さ。夢のチカラって…スゲェぞ。』
俺は見つかりました…自分の夢が。自分の担当たちと見続けたい、終わらない夢が。
大城さん…貴方はちゃんと…見つけられましたか?
…本当は、まだ貴方に教わりたいことが沢山あった。
まだまだ、俺にはわからないことが山ほどあるんです。
もう一度だけでいい…貴方と話がしたい…。
もう一度くだらないジョークで俺を笑わせてくださいよ。
もう一度、しがない俺を、叱ってくださいよ。
沖野の頬に温かい雫が伝う。
それはたったの一滴でなく…ボロボロと。
思わず咥えてた飴を外して、それを拭った。