「遅いなぁ…」
選手控室で、マーシャルは時計をちらりと見る。
ここ数日、不安定な天気に流される日々が多かった東京でも、今日は幸いなことに天候に恵まれた。晴れた日というのはマーシャルにとっても好コンディションの要因の一つとなる。
だが、そんな彼女に一つ拭いきれないものがあった。
彼女の担当トレーナー大城が、いつまで経っても姿を現さない。
遅刻をしないようにとあれだけ釘を刺したというのに。と彼女は憤りながらも、いつものことかなと気持ちをレースに集中させた。
…はずだったが。
遅刻にしてはあまりにも遅すぎる。
いつもなら、どれだけ遅刻してもレースの30分前に彼はいてくれた。
だけど、もうレースまで残り15分を切った。
なのに、大城は一向に姿を現さなかった。
送ったメッセージにも、まったく既読すらもつかない。
(まさか…そんなわけ。)
ふらっと彼女に悪寒が走る。
そんなハズはない。きっと待っていればいつものように、来てくれるんだ。
売店で買ってきた缶コーヒーを片手に雑誌を脇に挟んで、よォ待ったか?と悪びれもなくそう言ってくるんだ。
…でも、もう時間は10分を切りそう。
今日は、すっごく叱ってあげなくちゃ。
マーシャルは担当トレーナー不在の中、そっと選手控室の扉を開け、廊下に出る。
その時、何やら騒がしい声が。
「はぁ!?アイツまだ来てねぇのか!?」
「はい…メッセージも送ったんですけど、それでも。」
眉間にしわを寄せるゴールドシップに、困り顔でスマホ画面とにらめっこをするスペシャルウイーク。
そしてそれを心配そうに見守るスピカのメンバーたち。
「何考えてんだよ…アイツ、スカーレットのこと放っておくつもりか!?」
「おちついてくださいまし!ゴールドシップさん!」
「まさか…どっかで事故ってたりしてないよね…。」
とテイオーが言う。
「事故?…そんな。」
その言葉にスズカが不安な顔を寄せる。
「ま…まぁ!そうと決まったワケじゃありませんよ!ほら、寝坊しちゃったとか!」
「そんな、スぺちゃんじゃないんだから…。」
とテイオーが言う。
そんな中、一番不安を隠せないでいたのは今日出走予定のダイワスカーレットだった。
「…なにやってんのよ…アイツ。」
「まぁ、こねぇもんは仕方ねぇだろ?今はレースに集中しろよ。」
「…わかってる。」
ウオッカの言葉にスカーレットはか細く返した。
そのスピカたちの動揺を見たマーシャルに、更なる不安が募る。
「お!おい!チビ助!」
そこに呆然と立ち尽くすマーシャルに気づいたゴールドシップが彼女に声をかける。
「あ!マーシャルちゃん!」
「センパイ!ちょうどよかったっス!俺らのトレーナー見てないスか?」
スピカたちはマーシャルを見つけるや囲い尋ねた。
「う…ううん。見てない。」
マーシャルはふるふると首を振る。
「そっか…。」
スピカたちは解りやすく落胆した。
「…沖野さんも来てないんですか?」
「…も?…まさか、小島も来てねぇのか?」
マーシャルのその言葉に引っ掛かりを感じたゴルシがそう返す。
彼女は黙って頷いた。
「まさか…二人そろって二日酔いってオチじゃねぇだろうな?」
「なんかありえそー。」
ゴルシの言葉にテイオーが頷く。
「そ…そんなこと!ありえません!トレーナーさん、もうお酒は止めた筈ですし!」
マーシャルがそういった。その言葉にはどこか焦燥が含まれているようだった。
そんなときに。
「…あ!トレーナーさんですか?」
スペシャルウイークがピンと耳を立てる。
彼女のスマホが、ようやく沖野と繋がったらしい。
「貸せ!」
と言ってゴールドシップはスペシャルウイークのスマホを取り上げる。
「お前!どこで何してんだよ!?今日はスカーレットが走んだぞ!いまスグ…。」
『…スマン、今日は…行けそうにないんだ。』
低音がバッサリと切り落とされたスマホのスピーカーから、沖野の声が弱弱しく出る。
「はぁ!?お前何言って…。」
『スカーレットには頑張ってくれと伝えてくれ…。それと…マーシャルにも。』
「あ、おい!」
そういって沖野は一方的に通話を切った。
―――――――――――――――
「スカーレットには頑張ってくれと伝えてくれ…。それと…マーシャルにも。」
『あ、おい!』
ゴールドシップの声を残したスマホの通話を、沖野は一方的に切った。
そうして、再び簡易椅子に腰を掛ける。
「ははは…やっちまいましたよ。これで俺もクソ野郎です。こんな選択をとっただなんて貴方に知られたら、きっとケツを蹴っ飛ばされるでしょう。」
沖野は無理に口端を吊り上げようとするが、その目は一切笑っていなかった。
「今日の毎日王冠杯…
そう言い切っても、帰ってくるのは擦れた呼吸と、心電図の電子音だけだった。
きっといつもなら、『バカ野郎ネゴト言ってんな、勝つのはマーシャルさ。』とニヤリと歯を見せつけながらそう言ってくるだろう。
…今日も、そう言ってほしかった。
―――――――――――――――
『さぁやって参りました東京芝1800m毎日王冠杯。ウマ娘たち各ゲートに…。』
マーシャルとスカーレットはゲートに入る。
マーシャルは幸いにも、内枠を勝ち取れていた。
それでも、彼女の中で疑念がフラッシュバックする。
『それと…マーシャルにも。』
沖野は確かにそういった。ということは彼は、大城がこの会場に来ていないことを知っているということなのだろうか。
だとしたら…なぜ?
(…いけない、今は集中しなくちゃ!)
マーシャルは観客席をあえて見なかった。
でも、きっとレースが終われば、いつものようにゴールライン近くのギャラリーに彼はいるはずなんだ。
そう自分に言い聞かせる。
とにかく今は、目の前のレースに集中しなくては。
ぐっと目を前に向けた彼女と同じくして、ゲートは開かれた。
―――――――――――――
『さぁゲート解放!各ウマ娘一斉に綺麗なスタートを切りました!今回の注目3番人気ダイワスカーレット、やや中段位置でけん制する狙いか、そのすぐ後方6番人気バイパーウオッシャー、その陰につく4番人気レッドマーシャル、概ね予定通りの展開となりました…』
「始まりましたよ…。」
沖野はスマホの中継画面を映し、大城に見えるように構えた。
「…ほら、見てくださいよ。スカーレットの走り。テイオーの指導のお陰で前よりもしなやかに体を使えるようになってるんですよ。膝のバネも上手くできてる。…マーシャルは、また走りが変わりましたね。より動きにムダが少なくなってる。」
沖野は実況に加えて、レースの展開や様子、そして担当ウマ娘の自慢を大城に話していく。
「バックストレッチ。うちのスカーレットはまだ仕掛けませんよ。マーシャルだってそうでしょ?そのすぐ後ろの娘は勝負に入るつもりみたいですが、まだ早い。逃げの体制をとってる娘も、逃げなれていないようだ。…こりゃきっと、スカーレットとマーシャルの一騎打ちになるんじゃないですかね…。」
沖野がそういったときだった。
ピッピッピッと一定の間隔でなり続いた電子音が早まっている気がした。
沖野はすぐ顔を上げて心電図を見る。
今まで安定していた、大城の鼓動が急に異常な動きを始めた。
それと同じくして、静かだった彼の呼吸もガラガラと擦れる音を鳴らし始めた。
「大城さん!」
沖野は急いでナースコールを押す。
「もう少し!…ほら!見てください!もう、勝負所だ!ほら…貴方の担当が…ここの大一番で戦ってるんですよ!!」
沖野は椅子から立ち上がって、大城にスマホの画面を見せ語りかけ続けた。
『レッドマーシャル!!ここで勝負に入る!それに追走ダイワスカーレット!この二人の一騎打ちの展開となった!!』
そして、その画面いっぱいに映し出される。
彼女の唯一の武器…7秒が。
「大城さん…あなたはとんでもない人だ。全くの無名から、スプリントの重賞の世界に踏み込んできたと思ったら、今度は中距離の世界で俺たちを脅かすとんでもないバケモノを育て上げた。そんなのアリですか?…やっと見えてきたと思った貴方の背中が、また霞んでいく。」
『レッドマーシャル!!後方を引き離しにかかった!だがダイワスカーレット追いすがる!追いすがる!残り100…!決まった!!レッドマーシャル!!見事な走りでした!短距離の世界から中距離をも狙うチャレンジャー!天皇賞への片道切符を今…。』
「大城さん…マーシャルが勝ちましたよ…。ほら。…でも、スカーレットだって負けてませんでした。」
そして、ナースコールを聞きつけた医師と看護師が入ってくる。
看護師が先行して大城の名前を優しく呼び続けた。
その時…彼の瞳がわずかに動いた。
その視線の先には…沖野がいた。
沖野はすぐにそれが分かった。
そしてすぐさま大城に駆け寄り、手を握った。
「大城さん!わかりますか?…あなたの担当が勝ったんです!…天皇賞、叶いましたよ。」
沖野の握った手を、大城はそっと握り返した気がした。
「…!」
その時、沖野にははっきりと聞こえた。
それは気のせいなのかもしれない。だが、彼だけがその言葉を聞き取ることができた。
『マーシャルを…頼む』
そして、断続的な電子音がアラームのように連続した音に、無情にも切り替わった。
医師は彼の眼を開いて、ライトを当てる。
「…15時52分。大城さんの死亡を確認しました。ご臨終です。」
最後の役目を終えた医師は、弱くそう言った。
「ええ…ありがとうございました。」
そして沖野はもう一度、大城の手を握りなおす。
「お疲れ様でした…。大城さん…。」
その時、ガラッと病室の戸が勢いをつけて開く。
そこには、背丈の低い女性があわただしく、焦った様子で。
傍らには、緑の制服に身を包んだ秘書の姿も。
「失敬!たった今海外出張から戻ったところだ!」
「理事長…。」
「沖野トレーナー…ハクは?」
「たった今…逝かれました。」
「遅かったか…。」
「大城…先生…」
秋川は俯いて悔み、駿川はその場で顔を押さえた。
秋川は大城のわきに回り、そっと彼の頬に手を添えた。
「ご苦労だった…ハク。ゆっくり休んでくれ…。」
「大城先生…ありがとう…ございました。」
駿川もそっと大城の手を取った。
そして沖野は自分の荷物を取り、二人に背を向けた。
「沖野…どこへ。」
秋川が問う。
「…大城さんの担当、レッドマーシャルのレースが終わりました。…彼女を迎えに。」
「…わかった。」
そういって、沖野は病室を後にした。