「…はぁ…はぁ」
びゅうびゅうと息が擦れた音が、肺から鳴るようだ。何度も何度も息を吸っては吐いてを激しく繰り返し、少しでも兆しが見えればまた自らの体と肺に鞭を入れて走り出す。
「…っうぷ」
そうしようとした瞬間、彼女は思わず口元を抑えて蹲る。
「う…うっ…っはぁ…はぁ。」
…今日は何とか吐かずに済んだ。
そのまま地面へと倒れて、大の字に。
仰向けになったその視線のずっと向こうには、彼女がすでに喪った光たちが、まるで彼女に見せつけんと輝いていた。
その星々にマーシャルは手を伸ばす。
もちろん掴めるはずもない。
故人のことを星になったと比喩する言葉を聞いたことがある。
ならば、あの人の星は一体どれなんだろう。
彼女はその終わりなきスクリーンを一人で見続けた。
『そんなこと…大城さんは望まない。』
沖野の言葉がふと彼女に蘇る。
…それはそうだろう。こんなバカげたことをやってるだなんて彼が知ったら、すごく叱られるに違いない。
いや…むしろ叱ってほしかった。こんな人気のないところでこんなバカなことをやっていれば、彼がすっ飛んできて叱ってくれるとでも、自分は思っているのだろうか。
「はは…ははは。」
何が面白いのかもわからない笑いを彼女は唄い、そして星空に向かって呟き始める。
「アルタイル…デネブ…ベガ。三つを結べば、夏の大三角。あのジグザグの星が、カシオペア…その近くの明るい星がペルセウス。そしてあれが…北斗七星。」
その時、彼女はあることにふと気が付く。
「あれ…?」
それは、あの日ちゃんと見えていたハズのそれが、今の彼女の瞳に映らなかった。
「…どうしよう。トレーナーさん。…私もアルコル、見えなくなっちゃった。」
――――――――――――――――――
そして、ようやくその日は迎えられた。
…やぁ!やっとだよ!めっちゃ待ったぁ!
…すっげぇ人だかり。はぐれるなよ。
…あ、私売店寄ってくるから席さがしといて!
…ねぇ、屋内観戦上でいいんじゃない?
…ばか!せっかく本場来たなら屋外に決まってんだろ!
…もぉ!人多すぎ!どこか空いてるとこないの?
…お前さ、今日は誰が勝つと思う?
…そりゃスペシャルウイークに決まってんじゃねぇの?
…ええ!俺ちょっとレッドマーシャルに期待してんだけどなぁ。
…ありえねーな。だってあいつ、9番人気だしな。
…マジかよ。
…まぁ、十分な適正でない上に、レース直前でトレーナーが死んだとあっちゃあ、コンディションも最悪だろうしな。順当っちゃ順当なんじゃねぇの?
…俺は頑張ってほしいと思っちまうけどなぁ。
その日の東京競技場。
まるで会場がはちきれんと言うほどの人だかりが。
見渡す限り人で埋め尽くされ、歩く場所を探すだけでも一苦労。
駐車場だって臨時駐車場を何件も手配してやっと2時間待ちだとかいう。
一体どこからこんなに人が湧き出てくるのだろうか。
そんな人込みの中を、一組の成人ウマ娘と男性がまるで敷かれたカーペットの上を歩くかのよう、まっすぐと進んでいた。
「お父さん。ほらこっち。」
「ああ…ねぇお母さん。…本当に、マーシャルに会ってこなくてよかったの?」
「…うん。あの娘だって集中したいはずだしそれに…。」
そういった後にレッドマーシャルの母、レッドクラウンはターフに目を向けた。
「何年振りかしら。東京芝2000。ほら私のゲートはあそこ。」
そういってやや外枠のゲートを指す。
「今でもよく覚えてるよ。僕はあの日、奇跡を目の当たりにしたんだ。」
「あら、20年経った今でもお世辞は下手なのね。」
そうクスッと笑った。
「お世辞じゃないさ。心からそう思ってる。…まるで夢のようだ。君の娘が過去に君が走ったレースを走る。それを僕は目の当たりにしてる。これも奇跡だよ。」
「変わらない人ね、あなたって。」
そういってもう一度ターフに目を向ける。
そこでは着々と大一番の目玉レースの準備が行われていた。
「そんな奇跡がすべて叶ったのも、あの人のおかげ…。」
クラウンはそう呟いた。
「…若すぎるよ、大城さん。」
「あの人とはもう一度どこかで会えるものだって思ってた。…電話越しじゃなくて、直接。そしてまた余計なことを言ったりして、私とマーシャルに叱られて…。」
クラウンはいつの間にか充血した目を、誰にも気づかれないように擦った。
「本っ当に勝手…いつも、いっつも、勝手なんだから…。」
「…大城さんに代わって見届けよう。マーシャルはきっと、頑張ってくれるよ。」
「ええ…。」
マーシャルの父、清水淳は静かに妻の肩を抱き寄せた。
―――――――――――――――――――――
華やかなゲートへ向かうための地下バ道。その遠く先に輝く光の世界へ足を踏み入れる為に、各ウマ娘たちが夫々の思いを抱えて歩いていく。
細く薄暗く、少し肌寒い風がその空間に流れ込む。
ある程度の娘たちが出払ってしまった少し後だろうか。
ようやく彼女は姿を現した。
赤く漲る勝負服に、太陽の光すらも跳ね返すほどに眩く光るピアス。
そして、左肩に携えられた『Ⅶ』の刺繍。
ここを歩くときは、いつもあの人が一緒だった。
気持ちで負けてるときは背中を叩いてくれて、やる気十分な時は冷静なアドバイスをくれて、負けた時はおどけた態度で優しく慰めてくれて、勝ったときは大きく肩を組んで一緒に笑ってくれた。
でももう…いないんだ。
わかってる。私は一人で歩いて行かなきゃ。
私は一人で戦わなきゃ。
あの人との…誓いのためにも。
あの人と、私の夢のためにも。
彼女はそっと左肩の刺繍を右手で摩った。それは彼が勝負服に込めてくれたたった一つのお守り。
マーシャルはそっと振り返る。
そして光の明暗差で奥の見えない地下バ道の奥に向かってそっと言った。
「行ってきます。…トレーナーさん。」
そして光のほうへ向いた時だった。
「…マーシャルちゃん。」
そこにいたのはスペシャルウイークだった。
白を基調としながらも、その撫子色のラインがとても彼女を強く印象付ける。
まさしく、皆のヒーローとしてその名に恥じない存在だった。
「スペちゃん…。」
スペシャルウイークの目に映ったマーシャルは、あまりにもな姿だった。
顔は酷くやつれ、その目には生気がなく、歩いているのすらもやっとといった印象。
これからレースに出るなど、冗談に等しく思えるほどだった。
むしろ、いくつかのレースを終えた後といった表現のほうがしっくりくる。
そんな姿だった。
「…マーシャルちゃん。マーシャルちゃんが辛いのは、私もよくわかるよ。大城先生がいなくなっちゃたこと…私もすごく悲しい。」
スぺは俯いた。
そして、もう一度言葉を吐き出す。
「私もね…ちっちゃい頃にお母ちゃんがいなくなっちゃって。すごく悲しかった。でもね、お母ちゃんはきっと天国から私のことを見守ってくれてる。…会えないだけで、お母ちゃんは私のことをちゃんと見てくれてる。…きっと大城先生だってそうだよ。マーシャルちゃんのことを、天国からずっと応援してくれてるはず。…先生の為にも頑張ろう。」
そういってスぺは手を差し出した。
それは友として、ライバルとしての言葉だった。
「…ありがとう。スぺちゃん。」
マーシャルの顔がいつ振りかに綻んだ。
そして、スペシャルウイークの手を握った。
だが、彼女が手を握った瞬間、スぺはその手を差し出したことを後悔した。
「…えっ?」
彼女の手を取ってようやく見えた。
彼女に纏う、覇気が。
赤黒く染まったおどろおどろしい、粘性の高いようなドロドロとしたオーラだった。
それは闘争心と呼ぶにはあまりにも暴力的で、目を背けたくなるほどに毒々しい。
彼女を体現する燃え盛る赤い炎とは、似ても似つかない。まるで…血の色のようだった。
それが地下バ道をスペシャルウイークごと飲み込んでしまうかの如く、渦巻いていた。
「マーシャル…ちゃん?」
「スぺちゃん…頑張ろうね。」
そういってマーシャルは光を拒む程のベールを纏ったまま、スぺの横をそのまま過ぎていった。