「はい次!位置について…」
そしてピーッ!と笛の甲高い音が冬の風舞い込むターフに響き渡る。
そこを駆けてゆくウマ娘たちの熱気は、その寒気すらも阻害してしまうほど。
「OK!いい調子だよギア!…マイセンはもうちょっとペース配分を意識したほうが…。」
どうやら熱いのはウマ娘だけではないらしい。首に笛を提げるトレーナーもまた、ジャージのみの薄着で彼女らの指導に当たる。
指導者の言葉にウマ娘たちは目の色を変えて、時に頷き時に自らの意見をぶつける。
この瞬間というのが彼女らだけの世界というものなのだろうか。
互いの信頼関係こそが成しえる、誰も邪魔のできない空間。
…その世界は空間は、彼女にもあったはずだ。
「…」
マーシャルは一人、練習場の場外でただただその光景を眺めていた。
その目はその場の空気を羨むものでもなければ、憎むものでもない。
何かのヒントを得ようとしているわけでもなければ、新しいチームを探しているわけでもない。
ただなんとなく、徒然なるままのように、その光景を見ていた。
スプリント、中距離共に名誉ある勝利を手にした彼女であったはずなのだが…今となっては場内と場外を仕切る柵を超える力を失っていた。
最早ターフに立つことができなくなったウマ娘が意味するものとは何なのだろうか。
そして彼女は、ターフに背を向けてその場を後にした。
―――――――――――――――――
そしてトレセンを抜けて帰路に着こうと、校舎横を通って正門に向かおうとした時だった。
彼女は足を止めた。
(…まただ。)
彼女の目の前に広がる光景、それは少し朽ちた洞が堂々と構えるトレセン校舎の中庭だった。
…ここは、マーシャルと大城が初めて出会った場所。
行く先も、光もなくただただ泣き叫ぶことしかできなかった彼女に、彼が手を差し伸べてくれた場所。
マーシャルはここ最近、帰路に着こうとする度に無意識的にここを通っていた。
もっと他に近道や抜け道があるというのに、わざわざ遠回りになる道を選んで、何かに導かれるようにいつもここへ。
それは彼女の心の奥底に眠った心理が、無意識下の中で彼女を誘導しているのだろうか。
そしてその度に、彼女は自己嫌悪に陥る。
…もう一度ここへ来れば、ここで泣いていれば彼が駆けつけてくれるとでも思っているのだろうか。
自分は…どこまであの人に心配をかければ気が済むんだ。と。
大きなため息をついて、彼女は座った。
あの日、あの時と同じ場所に。
嗚呼…何をしているんだろうか。
もうどれだけ泣き叫んだって、落ち込んでたって大好きなあの人は帰ってきてくれないというのに。
「とれーなー…さん。」
冬を知らせる冷たい風が、彼女を包み込む。
揺れる髪をも凍らせるほどの冷気は、彼女に残った最後の小さな炎すらも消し去るほどだった。
『気が済んだか?』
ふっと彼の声がまた頭を過る。
…それと、同じタイミングだった。
「…風邪ひくぞ。そんな所で。」
マーシャルは、はっと顔を上げその声の方に顔を向けた。
「沖野…さん。」
そこにいたのは、大城に比べればまだ若さ際立ち、煙草ではなく飴をいつも口に咥えたチームスピカのトレーナー、沖野だった。
「隣、ちょっと邪魔するぞ。」
と沖野はマーシャルの横に座った。
「どうしたんですか?」
「どうしたって…そりゃあまぁ、お前のことがやっぱり気がかりでな。」
沖野は膝を立てる。
「もうあれ以来、レースに出てないんだってな。チームも未所属で…もう、走らないつもりなのか?」
マーシャルは弱く首をふった。
「いいえ…また走りたいとは思ってます。…ただ、今はもう少し休んでいたいだけ。…疲れちゃったんです、少し。」
「そうか…なぁ、聞いていいか?」
「はい?」
沖野は息を整えた後に続けた。
「本当にそれだけなのか?」
「え?」
「お前…本当は走ることを辞めようとしてるんじゃないのか?」
「…」
マーシャルは何も答えられなかった。
そして、膝に顔を埋めて静かにつぶやくように言った。
「…わからない。」
「…マーシャル。」
沖野もそこそこ歴のある中堅トレーナー。このような事態に陥ったウマ娘が考えること、おおよその見当はついていた。
その見当は外れることもあるが…嫌な見当に限ってはよく当たる。
「わからない…んです。走ろうと思えば…私は走れる…筈なんです、でも…でも。」
その言葉をマーシャルは何度か詰まらせる。
「わからなくなったんです…自分の走り方が…。スパートも…もう上手く出せないんです…。」
沖野は渋い顔をする。
マーシャルは体こそはなんの障害もなくトレセンに復帰できた。
だがしかし、心は壊れたままだった。
仲間の前であれば、気丈に振る舞うことは幾分できるが、一たび踏み込めば、数々のエラーファイルが彼女の心を埋め尽くしていた。
「落ち着いていけばいい…誰だってすぐには無理だ。ゆっくり、一歩づつ。」
沖野は優しくそういった。
「…ごめんなさい沖野さん。私はもう…走れない。」
「マーシャル…。違う、そんなことはない。お前は!」
「もう…ダメなんです!」
彼女の胸にまた大きな何かが蠢きだす。
そしてマーシャルは沖野に背を向けて、小走りで遠く光る夕日の中へ消えていった。
――――――――――――――――
言葉に出してようやく自覚した。
今の自分を。
もう、ターフが怖くて走れない。
大きく息を吸おうとするたびに、彼の面影が大きくフラッシュバックする。
それが、今の彼女の大きな抵抗になっていた。
「はぁ…はぁ…」
白い息を何度か吐きながら、彼女は俯き正門へ向かって歩いた。
コツ…コツ…コツと一人だけの足音を立てて、歩いていく。
少しだけ体が震えるのは、寒さだけのせいなのか。
…しっかりと前を見らずに歩いた彼女、ポヨンと顔が柔らかい何かにぶつかる。
「あ…ごめんなさ。」
そういって顔を上げた時だった。
彼女の目の前には…背の大きな葦毛のウマ娘が、マスクとサングラスをはめて仁王立ちで彼女の前に立ちふさがっていた。
「え…っと?」
どこか見覚えのあるそのウマ娘は、背後にいる数人の部下たちに言う。
「スカーレット!ウオッカ!テイオー!スペ!マックイーン!…やっておしまい!」
「あの…ゴルシさん…ですよね。」
そう言い終わる前に、マーシャルはボロイ麻布を被せられ、その
(…何故わたくしまでこんなことをやらされてますの?)
「おら!マックイーン!ちゃんと掛け声出して運べ!」