「…」
夕暮れのトレーナー室。そこに佇むのは、スピカとの合同練習を終え、自室へと辿り着いた宮崎の姿だった。
彼は、トレーナー室の隅に作った『お供え物』の前で周辺を見渡す。
「煙草が無い…?」
そのお供え物は、彼が尊敬する故人へ手向けた灰皿と煙草。だが今そこに残っていたのは灰皿のみ。肝心の煙草の姿がどこにも見当たらない。
生徒が盗み出したとも考えにくいし、同僚がくすねていったにしても、この銘柄の煙草を好む同僚の顔は思い当たらない。
「一体、誰が…?」
優しく彩る夕闇の微睡。人々は夫々の帰るべき場所へと、安念を求めて帰路へ着く。
そうであるはずの時間帯。しかし学園内のターフはどうも忙しない足音が一つ。
まるで何かを急くようにと、何かを追いかけるようにと、その足を可能な限り回す。
まだだ。まだだ。これでは
回せ、回せ。漕げ、漕げ。肺に鞭を入れろ。全身の筋肉を総動員しろ。神経を余すことなく絞れ、残ったスタミナを潤沢に使え。
気にすることはない。だってこのフィールドは
「――――ったぁ!!」
ノれてる!最高にノれてる!!
滾る燃える満ちる。体の底から泉のように力が湧く。このまま
その脳裏、見えるのはあの娘の姿。
「…次はマジでないよ。
もう一段、ギアを上げる。後先など知ったことない。出せるだけ出し尽くしてしまおう。
今の彼女を止める術など、どこにもないのだから―――
刹那のことだった。
二重に絡む足音。ハリヤーのものと、もう一つ別の音。
それは途端に、ハリヤーの持つ意識に感覚に触れた。
(…後ろに付かれた。いい度胸してるじゃん。今のアタシに吹っ掛けてくるなんてサ。いいよ)
「―――遊んでやらァ!!」
一瞬低く構えて、ローギアへと落とし、そこから一気にキックダウン。
ターフが抉られ、葉と土が舞い踊る。
そしてハリヤーは一気に駆け出す―――!
(悪いね、今は譲ってやったりとか、併走に付き合ってあげたりとか、そういう気分じゃあないんだ…アタシはもう一度、あの娘に…ん?)
最高だ。今の自分のコンディションは。ハイになっている、ピークに達している。
それは間違いない。満を持してそう言える。
なのに。
なぜ。
後ろの娘は離れない…?
どころか―――
-7.000-
「―――なッ!」
一瞬の出来事。コーナー立ち上がりからの、直線勝負。そこでハリヤーが目にしたのは、先ほどまで後ろを走っていた娘の背中。
(冗談…ッ!どこで抜かされた!?というか、この
裾がひらりと舞う、ストライプの入ったワインレッドカラージャケット風の勝負服。
そんな勝負服、中央では見たことも聞いたこともない。彼女は誰だ?
「…まっ…て!」
ハリヤーが思わず声を上げた、その時、その娘はちらりと一瞬彼女へと視線を送り、ひとつ呟くように言った。
"Let's Rock"
と。
その光景を最後に、そのウマ娘はオオシンハリヤーを振り切って闇夜の中へと消えていった。
ゴールラインまで戻ってきたハリヤー。辺りを見回しても、さっきのあの娘の姿はない。
あの娘は誰だ。彼女が生んだ幻覚なのか…?
だが、彼女の耳には残響が鳴り響いていた。あの娘の言葉が。
「…あれが、"赤いウマ娘"…?」
―――――――――――――――
だから見たんだってこの目でさ!
そういえば隣のクラスのあの娘も見たって言ってなかった?
ウソだぁ!アタシ結構走り込みしてっけど、一回も見たことないよ!
そりゃアンタがスプリンターじゃないからでしょ!?
バッカバカしいや。お化けなんているわけない。
だからさ!今度練習場におびき寄せてさ、とっつかまえちゃうの私たちで!
…上手く行くワケぇ?相手は幽霊の上にバカ速いってハナシだよぉ?
やってみないとわかんないんじゃん!私たちで捕まえてさ…いっぱいインタビューされちゃうの!雑誌トップ飾ったりしてさ!学園からも表彰されたりしてさ!
ツチノコ探してんのアンタ?
ハリヤー先輩でも敵わなかったって話らしいぜ…。
うげぇ、あの先輩でもかよ…なぁ、先輩って今もちゃんと生きてるよな?
どういう意味?
いやほら、お化けに負けたら魂持ってかれるとかそんなんって…
そりゃねぇだろ…けど、かなり落ち込んでるみたいだったぞ。
おりません!そんな幽霊など!私サクラバクシンオー!長きに渡り学級委員長としてこの学園内に目を光らせておりましたが、一度もお会いしたことなどありませんとも!!
あのバクシンオー先輩が言うなら、そうなのかな…?先輩正真正銘のスプリンターだし…
ホント、バクシンオー先輩なら狙われてもおかしくなさそうなのにね。
あの…バクシンオー先輩って、夜中に走り込みとかされないんですか?
致しません!寮の門限の厳守は学級委員長として絶対なのですから!!それと、翌日分の課題を終えるために、寮長殿から早めに帰るようにと言いつけを頂いておりますからね!!!はっはっはっはっは!!!
ああ…っそっすか…
―――――――――――――――――
「騒々しいな」
昼下がりのトレセン学園。四方八方に広がる噂のパンデミック。学園内が軽い混乱状態に陥っていることは明白だった。
始めこそは小さな噂の筈だった。それが何時しか尾鰭を、肉をつけ、あることないことの噂として広まりつつある。
それを良しとしない者が一人、腕を組み辺りを見渡す。
彼女はよく知っている。真偽不明の噂が蔓延する厄介さを。
「例の噂のことのようですね…まったく、不確かな噂にこうも躍らされるとは。ここの生徒たちは
生徒会長の傍ら、彼女の補佐を担う副生徒会長のエアグルーヴが、愚痴にも似た呆れを零した。
「どうであれ、蛙鳴蝉噪がこうも蔓延っている状況が好ましくないのは確かだ」
「如何致しましょう。生徒会から正式に声明を出しますか?幽霊などいるはずないと」
「いや、生徒たちの噂を否定するのなら、我々も相応の調査をする必要がある。それに、仮に根拠なき噂であろうとも、学園内で見知らぬウマ娘を見たという証言があるのなら、即ちそれは視点を変えれば…」
「
エアグルーヴとルドルフは、顎を抱えてあらゆる可能性を脳内で張り巡らせる。
「今晩、我々で調査をしよう。その"赤いウマ娘"とやらが、本当に足のない幽霊なのかどうかを」
「承知いたしました。ブライアンも引っ張りだしておきます」
―――――――――――――――――
「オイ、本当に出るのか?その不審ウマ娘ってのは」
「定かではないね。だからこうして調査を進めている次第だ」
日の落ち込みが、鮮やかな夜空を演出する。夏の大三角すらも遠くない初夏の夜。学園内の治安を司る生徒会一行は、何時でも動けるようにとジャージの姿で、闇夜に包まれた練習場の調査を行っていた。
彼女が出てくる条件というのも、まだ明らかではない。なので可能な限り暗闇を演出すべく練習場の明かりは落とし、彼女らの手には懐中電灯のみ。
それでも互いの位置は感覚で補い合っている。誰かに何かがあれば、直ぐに対応できる用意はいつでもあるらしい。
「…っち。幽霊探しだとか、やってられん。アタシは降りる」
「おい待て!ブライアン!」
「なんだ、女帝サマまでお化けを信じようってのか?」
「そうじゃない。学園内での目撃証言がある以上、侵入者の存在が拭えないとは説明しただろう!」
「そんで何か実害が出たのか?…付き合ってられん」
ブライアンは懐中電灯をくるくると回しながら、この調査に対する不満と士気のなさをエアグルーヴに訴えた。
そんな二人のいがみ合いを歯牙にもかけぬと、ルドルフはライトの明かりを一点に集中させてはターフを、埒を、客席を染み一つすらも逃さぬ気概で入念に調べ上げていた。
しかし、それで何か有力な情報がそこで得られたのかと問われれば、首を横に振るしかない。
「…ふん」
ルドルフは、腕を深く組んで上死点に上る月へ、愁いを視線で投げつけた。
「会長よ、もういいだろ。こんなことしても何にもならん。そもそもこんな仕事、警備員の仕事だろ?」
痺れを切らすように、ブライアンはそう言い、私は帰ると言い残し二人に背を向けた―――
"Back in Black"
――――?
その場にいた全員の動きが止まった。
聞こえた。確かに、何かが。
「…会長よ、あんた何か言ったか?」
「いや…私ではない」
その時、ルドルフの足元に向かって何かが投げつけられる。ルドルフは直ぐにそれを拾わずに、エアグルーヴとブライアンへ周囲への警戒を呼び掛けた。
"bl..i....ck....i..sac...."
聞こえる。
噂の証言にあった、歌。古い洋楽。
囁きにも近いが、彼女らの耳はそれを確かに捉えた。
「近くにいるのか!?おい!居るのなら姿を現せ!」
エアグルーヴが暗闇に向かって吠える。だが、その誰かの歌は鳴りやまない。
ルドルフは足元のそれをようやく手に取った。
それは小さな―――煙草の箱
その箱を手にして7秒。ようやくルドルフの中で、何かが氷解した。
そして、警戒態勢を続ける副生徒会長二人に向かって、撤収を呼び掛けた。
「エアグルーヴ、ブライアン。この場は引こう。我々では彼女を捕らえることは不可能だ」
「会長…一体何を!」
「はっ!ユーレイに腰が抜けたか?」
「いいや…我々は役者として不相応ということだ。不審ウマ娘を捕らえるというのなら、こちらも相応の
「それは、噂通りでいくならスプリンターってことか?」
「ああ…そしてそのスプリンターはどうも…
ルドルフは練習場の観客席の
どうやら、歌の震源地もそこらしい。
ルドルフはシルエットに向かい、視線で何かを語った。…根拠のない感覚だが、そのシルエットは少し笑った気がした。
生徒会一行は、撤収の為にターフへ背を向けた。その背後で彼女の歌は続いていた。
"Back in black, I hit the sack
I've been to long, I'm glad to be back
Yes I'm let loose from the noose
That's kept me hangin' abou"
―――――――――――――――――
「お呼び出し…か」
この学園に入学してはや数年は経った。だが、どうしても慣れないこともある。例えば生徒会室への呼び出しとか。
だって、この生徒会室を明るい表情で後にする者たちなど滅多にいないのだもの。
せいぜい、怒られるか注意されるか指導されるか…
自分はなぜ呼び出されたのだろう。怒られる心当りもない…多分。
そう、心で終わりなく不安を呟きながら、マーシャルは弱弱しく生徒会室の扉を開けた。
「し…失礼しまぁす…」
「ああ、わざわざすまないね。座ってくれ」
ルドルフはマーシャルの姿を確認するや否や、生徒会長の席から直ぐに立ちあがり、対面ソファの下座に向かって手を差し出す。そして、マーシャルへ少し砂糖多めの珈琲を差し出した。
「…以前よりも、随分と顔色が良くなったようだな。その後の調子はどうだい」
「あ…はい。まぁ、なんとか上手くやっていけてます。その…
「いいや、謝るべきは、あの時何もできずに居た私たちのほうだ。申し訳なかった」
ルドルフは静かに目を瞑り、耳を折った。
「そんな…会長さんが謝るだなんて…」
マーシャルはその場で立ち上がって、身振り手振りであたふた。あの生徒会長の謝罪など受け入れる準備がないらしい。
「…ふふ。以前の君だな。少し安心したよ」
「そう…ですか?」
僅かに見えたルドルフの笑みに、マーシャルもまた安堵の息を吐き、再びソファへ腰を下ろした。
「ところで、私に何か御用だったんですか…?」
マーシャルはルドルフの顔を覗き込むように言った。
「ああ。マーシャル、君は最近学園内に蔓延っているとある噂を知っているかい?」
「噂…ですか?」
「ああ、生徒たちの話によると、この学園内に、とあるウマ娘が現れるという。彼女はスプリンターばかりを相手取り、その動機も狙いも正体も不明」
「"赤いウマ娘"…」
マーシャルの一言に、ルドルフは頷く。
「マーシャル、君はそいつと遭遇したことは?」
ありません。とマーシャルは首を横に振った。ルドルフはマーシャルの回答に、そうかと一言残し、ソファを立った。
「学園内でもこれだけの混乱を招いている事実は君も知っているだろう。この風紀の乱れ、生徒会としても看過できる事案ではない。私たちは一刻でも早く、この事態の収拾に努めたい。そこで、マーシャル。君にあることを頼みたいんだ」
「私に…ですか?」
生徒会室の窓際、ルドルフは日光を背に、先程とはまた違った鋭い表情で語った。
「マーシャル…君に"赤いウマ娘"の討伐を依頼したい」
「…………へぇ?」
生徒会長の言葉が上手く消化できなかった。
つまり…その
幽霊と戦えと、言っているのか…?
「わ、私が…お化けと…?」
「無理難題を投げかけていることは自覚しよう。だが、この討伐劇の役者は君でないと意味がない」
ルドルフは引き出しからとある物を手に取ると、マーシャルの前に置いた。
それを見た瞬間、マーシャルの目の色が一瞬にして変わった。全身から汗が少し滲んだ。
「これ…トレーナーさんの…」
煙草の箱だった。それも、彼がいつも愛煙していた銘柄。
ずっと彼のそばにいたマーシャルは、幾度となくそれを目にしてきた。
その煙草の箱には、乱暴に残された走り書きの跡。
"Red Sprinter"
「…これって」
「赤いウマ娘が現れた日には、必ず煙草がターフに落ちているらしい。火も着けられていない状態で」
少しずつ、繋がっていく。ルドルフの言わんとすること。そして、今までの噂に感じた既視感。
「じゃあ…赤いウマ娘って…」
「真偽は謎のままだ…だが、相手はどうも君を探しているらしい。…どうしても気が進まないというのなら強制はしない。だが」
「やります…!やらせてください…!」
マーシャルの瞳に、一切の雲は無かった。
―――――――――――――――――
失礼しました。と、マーシャルが生徒会室の扉を閉めた時だった。
扉の影に隠れ見えなかった一人の生徒の姿。
それは、マーシャルにとって永遠とも呼べるライバルの姿。
「あ、オオシンハリヤーさん!」
マーシャルは久方に見る彼女の姿に、顔を綻ばせた。
だが、マーシャルの表情とは相反するように、ハリヤーの表情は曇っていた。
「…マーシャル。ちょっと悪いんだけど、聞き耳立てててさ…。君、あの"赤いウマ娘"と戦うつもり?」
「うん…本当に、私が会えるかもわかんないけど…。ハリヤーさんは」
「ああ、私はそいつに会ったことがあるんだ。その…奇妙なヤツでさ…」
ハリヤーはどこか歯切れが悪い。何か重大なことをマーシャルに打ち明ける準備をしているような、そんな心細さを感じた。
そして、ハリヤーは一度息を吸いなおすと、意を決したようにマーシャルへと告げた。
「マーシャル。アイツと戦うなら気を付けたほうがいい。アイツ…君と同じあの限定スパートが使えるんだ!」
「…え?」
「感じたよ…あのブち抜かされる瞬間。君があのスパートに入り込んだ時と、全く同じ瘴気を…。悪い夢を見ているようだった…とにかく…気を付けて。無理は…しないで」
ハリヤーはマーシャルにそう言い残すと、彼女に背を向けて小走りで廊下の奥へと消えていった。
「限定スパートを…私以外のウマ娘が使える…?」
何かが見えたようなそのシルエットが、再び眩んでいくような感覚をマーシャルは覚えた。
「なぁ、マーシャル。ちょっといいか?」
「あ、エアグルーヴ先輩、どうかされましたか?」
「ああいや、その赤いウマ娘討伐にの件についてだが、私も存在を信用しているわけじゃないが、もしひっ捕らえられたというのなら、先に私の元にそいつを連れてきてもらいたくてな」
「先輩のところに?」
「ああ、いくら火が着いてない状態だろうと、神聖なるターフに煙草を持ち込むなど言語道断!…その根性、根本から叩き直してやらんと気が済まなくてな」
「ああ…わ、わかりました…ぁ」
「頼んだぞ!」