『どうだ、そちらの様子は』
「いえ、私以外には誰も」
左耳に装着したインカムから聞こえる生徒会長の声に、マーシャルは襟にクリップ留めされたピンマイクを通じてそう答えた。
彼女の言う通り、水銀灯が眩しく照らす深夜の練習場は、見渡す限り無人。
耳を澄ませば、遠くで虫が鳴く音や、水銀灯が立てる幽かな微音。それだけだった。
日中はあれだけの喧騒を極めるこの場所が、死んだように静まり返る。
不気味。と言ってしまえばそれまでだが、マーシャルは不思議とこの光景に妙な懐かしさを覚えていた。
かつて、敗北という海の底で溺れ続けていた、藻掻き続けていたあの日々。ライバルに勝つどころか、後輩にさえも見下され続けていた、地獄のような毎日。唯一の光を求めて、毎日のように走り込みをしていた。
気が付けば、そう。辺りがこれほど暗くなるまで、最後の一人になるまで、走り続けていたのだ。
すっと、星々が瞬く綺麗な夜空に向かって小さな息を吐く。
絶対に這い上がることのできないと思っていた毎日が、いつの間にか過去のものになった。
ここに至るまでの成長痛は、想像を絶する程の痛みだった。しかし、彼女はその痛みに耐え、這い上がった。
少し前の自分に、今の自分のこの姿を見せたら、何というのだろう。どんな顔をするのだろう。
視線のずっと先で、よれよれと情けない走りをする過去の自分に向かって、くすりと微笑む。
それも全ては、片時さえも忘れたことのない、あの人のお陰。自分の命を賭して、唯一の武器を、彼女に与えてくれた。
……だからこそ。だからこそ。
彼女は今日、戦わなければならないのだ。
『どうだ、軽く走ってみたら』
インカムから今度は、沖野の声が聞こえた。
マーシャルは、観戦席上階の、放送席からコースを俯瞰する二人に向かって頷き、その場から一定の遅いリズムで踵を鳴らし始める。
体力を消耗しない程度の、小走り。周囲をよく眺めながら、緊張なのか、期待なのか分からない胸の高鳴りを抱えて、走る。
ゴールラインから、ゴールラインへ。1400mのウォーミングアップ。
ルドルフからのコール。何もない、誰も居ないとマーシャルのレスポンス。
「なぁ、やっこさんは本当に来るのか?」
痺れを切らすように沖野が言う。
「どうだろうね、釣り針が大きすぎたのかもしれない。だが、私は来ると思っている。彼、遅刻は酷かったけれど、すっぽかすことは一度としてなかった筈だ。……自身の担当が絡むことならば、尚の事」
「たしかにな。……でも、妙にカンの良いヒトだ。こっちから何かを仕掛けようってトコロに、易々と乗って来るかな」
「来るさ。そんなことを分かっててでも来るのが、彼だ」
二人の視線は再び芝のコースへ。マーシャルは軽いインターバルの後、二週目に入っており、丁度一コース目に差し掛かる所。
「マーシャル。あまり積極的に動かなくてもいい、君の消耗にも繋がる」
『はい、でも。なんかその、じっとしてられなくて』
顔は直接見えなくとも、言葉の端から、彼女の表情がはにかんでいることが手に取るようにわかる。
インカムのマイクを切り、いつもの彼女だな、とルドルフは呟いた……とき。
――ズッ、っと一瞬のノイズがインカムから聞こえた。そして次に聞こえたのは、マーシャルの声。
『あの、会長さん? 今何か仰いましたか?』
ルドルフははっと、マイクを握る。
「え? ああ、いや。すまない独り言だ。マイクを切り忘れていたかな」
『あの……会長さん? 私の声、聞こえてますか? あの、沖野さん?』
「マーシャル? 私の声が聞こえるかい? 君の声は明瞭だ。落ち着いて」
放送席からコースを見下ろす。彼女は一コース途中で足を止め、明らかに狼狽している様だった。
「こっちの声が届いてないのか……?」
沖野はインカムの本体をポケットから出す。電波もバッテリーも問題なし。マーシャルの声がはっきりと聞こえること、ルドルフの声も聞こえることから、本体の故障ではなさそうということは予測できた。あるとすれば、マーシャル側のイヤホンの故障か。にしても、あまりに唐突だ。
ルドルフは放送席のマイクの電源を起こし、そこにむかってマーシャルの名を呼ぶ。だが、マイクは彼女の声を増幅しない。
「故障か?」
「いや、点検は先日実施したはずだ」
ルドルフがマイクから手を放し、三歩下がった時。
『……And I …… just why I taste Oh yeah, …… me smile I found …… to find …… whatever, nevermind』
二人は瞳をはっと膨らませ、互いの視線を交わし合う。
聞こえる。"彼女の歌"だ。
"Hello, hello, hello, how low?"
コースを見渡す限りは、マーシャルを除き誰も居ない。だが、彼女は直ぐそこに来ている。このインカムから聞こえるそれが、そのことを証明しているのだ。
ルドルフは少しでも"彼女"への接近を試みようと、放送席の戸に手を掛けた。だが、ノブは回るが、その扉はびくともしない。ルドルフの、ウマ娘としての力を以てしてでもだ。
「くっ、どうなってる!」
沖野もルドルフと共にドアノブを握り、肩で扉を押す。だが、まるで大木を相手にしているかのよう。これほどの剛性と重量が、こんな薄いオフィスドアにあるハズが無い。
「下がってくれ!」
ルドルフは扉から一歩下がり、身を低く構える。そして、ドアにその右足を突き刺そうとした瞬間。
―――――――
突然、二人のインカムのイヤホンから鳴った、強烈なハウリング。まるで鼓膜を突き刺すかのような、身動きを封じ込められるには十分すぎる程の音量だ。
突然の音に、二人は耳を押さえ、うめき声をあげながら、その場に膝を付く。
そして、耳に付けていたインカムのイヤホンを、その場に投げ捨てた。
「ああっ、クソ! なんだってんだ!」
沖野がそう叫んだ。
「……どうやら、余程邪魔をされたくないらしい」
「つまり、あのデカい釣り針に掛かったってコトか?」
「そうらしいな……」
ルドルフはイヤホンを外した右耳をケアしながら、視線の先に佇むマーシャルをそっと見つめ。
「彼と戦えるのは、やはり君だけのようだな……マーシャル」と呟いた。
―――――――――――――――――――――――
"
聞こえる。インカムのイヤホンから、誰かの歌声が。
ルドルフ達の声はとうに聞こえなくなった。だが、代わりにこの歌が聞こえる。
少し古い、
歌う声は、女性の声に聞こえはする。だけど、少し癖のある歌声。
大衆が聞いて直ぐに気付くような癖ではない。ほんの、微小な癖だ。
その癖の持ち主を、マーシャルは知っている。ずっと、その人の近くにいたのだから。
"
イヤホンを装着していない右耳から、それと同じ声が微かに聞こえてくる。
マーシャルはポケットのトランシーバーを握りしめ、声の聞こえる、コースの奥へと歩いていく。
"
段々と、右耳から聞こえる声の輪郭がはっきりとしていく。
マーシャルは胸を上下に、一歩一歩を踏み出していく。
第二コーナー出口からバックストレッチへ向かう、丁度そのあたり。
1400mのレースが行われる際の、スタート地点にあたる所。
そしてそこが、この洋楽の根源。
"A mulatto,"
ダートと芝を区切る埒に、誰かが掛けている。
"an Albino"
綺麗に瞬く星たちに、まるで弓を引くかのように、それは歌い続ける。
"A mosquito,"
高く上った月と、水銀灯の照明に照らされて、ようやく彼女の全体像が見えてくる。
"my libido,"
自然と人工の交じり合った光に照らされて、赤みの強くかかった褐色の鬣が輝く。同じ色をした耳が生え、尻尾を時折揺らしている――ウマ娘だ。
"
彼女は最後、アルタイルに向かってそう叫んだ。
ふと、そのウマ娘はマーシャルの存在に気が付いたかのように、彼女の顔をちらりと見ると。
火の付かない煙草を口に咥えて、シニカルに微笑んだ。