7s Sprinter   作:マシロタケ

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Never mind

 

『どうだ、そちらの様子は』

 

「いえ、私以外には誰も」

 

 左耳に装着したインカムから聞こえる生徒会長の声に、マーシャルは襟にクリップ留めされたピンマイクを通じてそう答えた。

 

 彼女の言う通り、水銀灯が眩しく照らす深夜の練習場は、見渡す限り無人。

 耳を澄ませば、遠くで虫が鳴く音や、水銀灯が立てる幽かな微音。それだけだった。

 

 日中はあれだけの喧騒を極めるこの場所が、死んだように静まり返る。

 不気味。と言ってしまえばそれまでだが、マーシャルは不思議とこの光景に妙な懐かしさを覚えていた。

 

 かつて、敗北という海の底で溺れ続けていた、藻掻き続けていたあの日々。ライバルに勝つどころか、後輩にさえも見下され続けていた、地獄のような毎日。唯一の光を求めて、毎日のように走り込みをしていた。

 

 気が付けば、そう。辺りがこれほど暗くなるまで、最後の一人になるまで、走り続けていたのだ。

 

 すっと、星々が瞬く綺麗な夜空に向かって小さな息を吐く。

 絶対に這い上がることのできないと思っていた毎日が、いつの間にか過去のものになった。

 

 ここに至るまでの成長痛は、想像を絶する程の痛みだった。しかし、彼女はその痛みに耐え、這い上がった。

 

 少し前の自分に、今の自分のこの姿を見せたら、何というのだろう。どんな顔をするのだろう。

 視線のずっと先で、よれよれと情けない走りをする過去の自分に向かって、くすりと微笑む。

 

 それも全ては、片時さえも忘れたことのない、あの人のお陰。自分の命を賭して、唯一の武器を、彼女に与えてくれた。

 

 ……だからこそ。だからこそ。

 

 彼女は今日、戦わなければならないのだ。

 

『どうだ、軽く走ってみたら』

 

 インカムから今度は、沖野の声が聞こえた。

 マーシャルは、観戦席上階の、放送席からコースを俯瞰する二人に向かって頷き、その場から一定の遅いリズムで踵を鳴らし始める。

 

 体力を消耗しない程度の、小走り。周囲をよく眺めながら、緊張なのか、期待なのか分からない胸の高鳴りを抱えて、走る。

 

 ゴールラインから、ゴールラインへ。1400mのウォーミングアップ。

 

 ルドルフからのコール。何もない、誰も居ないとマーシャルのレスポンス。

 

「なぁ、やっこさんは本当に来るのか?」

 痺れを切らすように沖野が言う。

 

「どうだろうね、釣り針が大きすぎたのかもしれない。だが、私は来ると思っている。彼、遅刻は酷かったけれど、すっぽかすことは一度としてなかった筈だ。……自身の担当が絡むことならば、尚の事」

 

「たしかにな。……でも、妙にカンの良いヒトだ。こっちから何かを仕掛けようってトコロに、易々と乗って来るかな」

 

「来るさ。そんなことを分かっててでも来るのが、彼だ」

 

 二人の視線は再び芝のコースへ。マーシャルは軽いインターバルの後、二週目に入っており、丁度一コース目に差し掛かる所。

 

「マーシャル。あまり積極的に動かなくてもいい、君の消耗にも繋がる」

 

『はい、でも。なんかその、じっとしてられなくて』

 

 顔は直接見えなくとも、言葉の端から、彼女の表情がはにかんでいることが手に取るようにわかる。

 

 インカムのマイクを切り、いつもの彼女だな、とルドルフは呟いた……とき。

 

 ――ズッ、っと一瞬のノイズがインカムから聞こえた。そして次に聞こえたのは、マーシャルの声。

 

『あの、会長さん? 今何か仰いましたか?』

 

 ルドルフははっと、マイクを握る。

 

「え? ああ、いや。すまない独り言だ。マイクを切り忘れていたかな」

 

『あの……会長さん? 私の声、聞こえてますか? あの、沖野さん?』

 

「マーシャル? 私の声が聞こえるかい? 君の声は明瞭だ。落ち着いて」

 

 放送席からコースを見下ろす。彼女は一コース途中で足を止め、明らかに狼狽している様だった。

 

「こっちの声が届いてないのか……?」

 

 沖野はインカムの本体をポケットから出す。電波もバッテリーも問題なし。マーシャルの声がはっきりと聞こえること、ルドルフの声も聞こえることから、本体の故障ではなさそうということは予測できた。あるとすれば、マーシャル側のイヤホンの故障か。にしても、あまりに唐突だ。

 

 ルドルフは放送席のマイクの電源を起こし、そこにむかってマーシャルの名を呼ぶ。だが、マイクは彼女の声を増幅しない。

 

「故障か?」

 

「いや、点検は先日実施したはずだ」

 

 ルドルフがマイクから手を放し、三歩下がった時。

 

『……And I …… just why I taste Oh yeah, …… me smile I found …… to find …… whatever, nevermind』

 

 二人は瞳をはっと膨らませ、互いの視線を交わし合う。

 

 聞こえる。"彼女の歌"だ。

 

 "Hello, hello, hello, how low?"

 

 コースを見渡す限りは、マーシャルを除き誰も居ない。だが、彼女は直ぐそこに来ている。このインカムから聞こえるそれが、そのことを証明しているのだ。

 

 ルドルフは少しでも"彼女"への接近を試みようと、放送席の戸に手を掛けた。だが、ノブは回るが、その扉はびくともしない。ルドルフの、ウマ娘としての力を以てしてでもだ。

 

「くっ、どうなってる!」

 

 沖野もルドルフと共にドアノブを握り、肩で扉を押す。だが、まるで大木を相手にしているかのよう。これほどの剛性と重量が、こんな薄いオフィスドアにあるハズが無い。

 

「下がってくれ!」

 

 ルドルフは扉から一歩下がり、身を低く構える。そして、ドアにその右足を突き刺そうとした瞬間。

 

 ―――――――

 

 突然、二人のインカムのイヤホンから鳴った、強烈なハウリング。まるで鼓膜を突き刺すかのような、身動きを封じ込められるには十分すぎる程の音量だ。

 

 突然の音に、二人は耳を押さえ、うめき声をあげながら、その場に膝を付く。

 

 そして、耳に付けていたインカムのイヤホンを、その場に投げ捨てた。

 

「ああっ、クソ! なんだってんだ!」

 

 沖野がそう叫んだ。

 

「……どうやら、余程邪魔をされたくないらしい」

 

「つまり、あのデカい釣り針に掛かったってコトか?」

 

「そうらしいな……」

 

 ルドルフはイヤホンを外した右耳をケアしながら、視線の先に佇むマーシャルをそっと見つめ。

「彼と戦えるのは、やはり君だけのようだな……マーシャル」と呟いた。

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 "And I forget just why I taste(なんでこんなマネしたのか忘れちまったよ)

 

 Oh yeah, I guess it makes me smile(ああそうだ 笑わせてくれるんだ)

 

 it was hard to find Oh well, (やっと見つけたぜ。苦労したよ)

 

 whatever, nevermind(まぁなんでもいいさ、気にすんな)"

 

 

 聞こえる。インカムのイヤホンから、誰かの歌声が。

 ルドルフ達の声はとうに聞こえなくなった。だが、代わりにこの歌が聞こえる。

 

 少し古い、洋楽(グランジ)だ。

 

 歌う声は、女性の声に聞こえはする。だけど、少し癖のある歌声。

 大衆が聞いて直ぐに気付くような癖ではない。ほんの、微小な癖だ。

 

 その癖の持ち主を、マーシャルは知っている。ずっと、その人の近くにいたのだから。

 

 "Hello, hello, hello, how low?(聞こえるか? さぁ、どこまで堕ちていく?)"

 

 イヤホンを装着していない右耳から、それと同じ声が微かに聞こえてくる。

 

 マーシャルはポケットのトランシーバーを握りしめ、声の聞こえる、コースの奥へと歩いていく。

 

 "With the lights out, it’s less dangerous(暗い方が安心するのさ)

 

 Here we are now, entertain us(さぁ、俺を楽しませてくれよ)

 

 I feel stupid and contagious(愚かさが伝染するみたいだ)

 

 Here we are now, entertain us(来てやったぞ、楽しませてみろよ)"

 

 段々と、右耳から聞こえる声の輪郭がはっきりとしていく。

 

 マーシャルは胸を上下に、一歩一歩を踏み出していく。

 

 第二コーナー出口からバックストレッチへ向かう、丁度そのあたり。

 1400mのレースが行われる際の、スタート地点にあたる所。

 

 そしてそこが、この洋楽の根源。

 

 "A mulatto,"

 

 ダートと芝を区切る埒に、誰かが掛けている。

 

  "an Albino"

 

 綺麗に瞬く星たちに、まるで弓を引くかのように、それは歌い続ける。

 

  "A mosquito,"

 

 高く上った月と、水銀灯の照明に照らされて、ようやく彼女の全体像が見えてくる。

 

  "my libido,"

 

 自然と人工の交じり合った光に照らされて、赤みの強くかかった褐色の鬣が輝く。同じ色をした耳が生え、尻尾を時折揺らしている――ウマ娘だ。

 

  "A dinial(クソッタレが)!"

 

 彼女は最後、アルタイルに向かってそう叫んだ。

 

 ふと、そのウマ娘はマーシャルの存在に気が付いたかのように、彼女の顔をちらりと見ると。

 

 火の付かない煙草を口に咥えて、シニカルに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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